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20XX/07/06(水)

a.m.10:00「儀式への参加要請」

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 鬼石堂安を信じたわけではない。

 月島一風は、龍がどうのなんてフィクションの世界観を持ち出されて『ああ、そうなんですね!』と受け入れるような性格ではなかった。目に見えないものは信じないという、極めて常識的な感性の持ち主だ。

 鬼石堂安を信じたわけではない。

 けれど今朝の母――月島彩乃はこれまで数か月そうだったように、六時ピッタリに目覚め――なかった。母が目を覚ましたのは六時十五分、再び眠りについたのは六時四十五分。昨日までの半分の時間だ。

 一匹消えて、残った龍は一匹。

 これまでの半分――

「電話、なんだって?」

 背後から声を掛けられて、一風の肩が大きく跳ねた。母の部屋の前の縁側に腰を下ろしていた彼女が振り返れば、麦茶のグラスをふたつ、盆に乗せて立つ神々廻慈郎がいる。彼が隣に座った。長い足が縁側から外へ投げ出される。差し出されたグラスを受け取ると、氷がたっぷり入っており、表面に水滴が浮かんでいた。

 時間は午前十時。一風が電話の応対をしている間に着替えてきたのだろう。先ほどまでTシャツ姿だった神々廻が、今日もまた高そうなスリーピーススーツに身を包んでいた。スッキリしたシルエットの黒いスーツで、ジャケットとベストに縦に薄っすらと濃灰の線が入っている。中に着ているシャツも黒で、全体的にシックな印象を与える格好だ。

「今日も高そうなスーツですね」

 問いかけられた質問には答えず、彼女はそんな感想を伝える。神々廻は小さく笑いながら「生き甲斐みたいなものだからねえ」と言い、投げ出していた足を軽く上げてみせた。光沢があるのか、そういう素材を使っているのか、太陽の光を受けたスーツはきらきらと日差しを反射させていた。

「家庭があったり、家族でもいれば違ったんだろうけど、僕は独り身だ。稼いだ分は全部自分のために使える。若い頃は食や投資、遊びに費やしていた時期もあるけど、今はすっかりスーツに落ち着いたかな」
「どうしてスーツだったんですか?」
「格好いいから」

 饒舌でお喋りな男にしては珍しく、返ってきたのは短い言葉だ。喋りまくられても怪しいが、逆に言葉が少なくても信用できず、一風は眉を寄せた。

「それだけ?」
「格好いい服を着れば、働こうって意欲が湧くんだよ。男なんて単純な生き物だからねえ。マドンナの応援や、格好いい戦闘スーツがあれば、それだけで万能感を得るってものさ。多かれ少なかれ、男なら誰しもが抱いている……あるいは抱いたことのある、ヒーロー願望が刺激されてね」
「ヒーロー願望……神々廻さんには、まだあるんですか?」
「なかったら探偵なんてやってないよ。まあ、僕だけに限った話じゃないけどさ。この業界にいる知り合いのほとんどは、子供の頃から探偵に憧れていたやつばかりだしねえ。なんとなく流されてやるような職種じゃないだろう?」
「……そうですね」

 少なくとも一風はなりたいとは思わない。

 神々廻は以前、有名国立大学を卒業したと言っていた。その言葉が本当なら、彼は仕事なんて選び放題だったはずだ。探偵という職業を軽く見ているわけではないが、社会的な地位のある、安定した仕事だとは思えない。わざわざその職業を選ぶには、それなりの理由があって当然だろう。

(聞いて、答えてくれるとは思わないけど)

 一風はグラスの麦茶に口をつけた。自覚はなかったが、喉が渇いていたようだ。ひと口飲めば、もうひと口、もうひと口と、結局全て飲み干してしまった。氷だけが残ったグラスを盆に戻す。

 こんなに喉が渇いていたなんて思わなかった。もしかすると、電話のせいで張り詰めていた気持ちが、神々廻と話している内に解けてきたからかもしれない。

「さっきの電話、大寿さんからでした」

 蝉が鳴き喚いている。神々廻の隣に座る彼女は、彼と同じように投げ出した足を揺らしながら、唐突に切り出した。

 午前九時半を少し過ぎた頃、月島家の電話が鳴った。かけてきたのは――一昨日、診療所で別れたきりの男、夏目大寿だ。その夜は彼の前から逃げるように、明らかに不振な素振りで立ち去ったため、電話越しとはいえ、話すのは気まずかった。

「子供が三人……いえ、未成年が四人、青池に沈んだでしょう? それは神の祟りだから大寿さんが祈祷をするって話、覚えてます? 明日、それを行うそうです」
「明日ねえ……八雲くんが犯人だって言っていた人たちも、神の祟りだって着地点で落ち着いたのかな?」
「……さあ、どうでしょうね。島を挙げての祈祷や儀式には、よほどのことがない限り老若男女問わずに島民全員が参加です。夏目家の人間が『神の怒りを鎮めて祟られないように祈りましょう』と言えば、内心でどう考えていてもその名目で足を運ぶと思います」
「全員参加……一風ちゃんも参加してたってこと?」

 神々廻の問いに一風は顔を顰める。

「祈祷や儀式は、基本的に午前と午後に行われるんです。午前は、雰囲気としては地域の地鎮祭に近くて、楽器を奏でて舞台で舞を披露するような……祭りのようなものだと思ってくれれば。そこには参加していました」
「お父さんと隅っこで?」
「……正解です。隅のほうで蟻の巣を崩したり、シロツメクサを編んだりしていました。午後の部は……まあ、午後って言っても夜なんですけど、そこへはあまり女子供は行きません。うちの母みたいに、家の代表だとか、そういう女性は別ですが」
「ふーん、そういうこと……さっきの電話で一風ちゃんが夏目大寿になんて言われたのか、分かったよ。機嫌が悪そうだったのはそのせいか。あいつにロマンの欠片もないお誘いを受けたんでしょ?」

 疑問の形を取ってはいたが、神々廻は確信を持っているようだ。弧を描く、歪んだ口元に浮かぶ嘲笑は夏目大寿に向けてのものだろう。一風がそれに気付きながら咎めなかったのは、彼の言葉が正解だからだ。

「八雲が参加できなくなった以上、月島家の人間として出て欲しいと頼まれました。夏目家を支える四家――火河、水海、木守、月島の参加は絶対だ、と。電話で断れば家にまでやって来るでしょう。だから――」
「しぶしぶ引き受けたわけだ。君はけっこう分かりやすい子だからねえ。不機嫌だった原因のひとつはそれだろう? 行きたくないけど、行くことになってしまった……ああ、なんて憂鬱なんだろう、そんなことをしている場合じゃないのに……ってところかな?」
「まあ、正解と言えば正解ですね」
「んー? 気になる言い方するなあ。どこか間違えてた?」
「間違えてはいませんよ。ただ……足りていないだけです」

 機嫌の悪さを隠しきれなかったのは、彼の言うように、行きたくもない場所へ足を運ぶことになってしまったのが一因だ。明日は一日中、理解できない儀式に付き合わなければいけないだなんて、考えるだけで気が重い。

 だがそれよりも大きな要因がある。

 一風は神々廻をジッと見た。

 鬼石堂安の話を聞いて、考えてしまったのだ。あんな男の言葉に翻弄されたくはないが、もしかすると神々廻慈郎という人間は――

「なーに、そんなに見つめて?」

 神々廻はどことなく挑発するかのように、首を傾けてにやりと笑った。おそらく幼少期から顔立ちが調っていたのだろう。どの角度で笑みを浮かべれば、自分の造形の良さを遺憾なく発揮できるか分かっているらしい。

「人の気も知らないで、と思っただけです」
「じゃあ、教えてよ。正直あんまり想像つかないんだよねえ。一風ちゃんが機嫌を損ねる儀式や祈祷がどんなものなのか」
「どんなって……一から十まで口で説明しろ、と?」
「それでもいいけど、説明が面倒なら……行ってみようか」
「……は?」

 神々廻が「よいしょ」と言いながら立ち上がる。縁側から足を投げ出したまま見上げていれば、彼はスーツの皺を伸ばすように叩き、それから彼女のほうへ手の平を差し出した。骨張った大きな手だ。一風はその手と神々廻の顔を交互に見る。

「どこへ行くんです?」
「明日が本番ってことは、もう準備はできてると思うんだ。八雲くんも、ここのところ足繁く通って準備の手伝いをしていたみたいだし……一度、下見をしに行こう。相手のホームグラウンドに乗り込むようなものだよ。明日は一風ちゃんにとって居心地の悪い場所になるだろうし、知っておいたほうがいいと思わない?」

 心なしか、楽しげな表情だ。

「わたしがどうのっていうより、ただ神々廻さんが行きたいだけですよね?」

 一風の問いに神々廻は「まさか、一風ちゃんのためだよ」と答えた。

 彼とは短い付き合いだ。喫茶店『黒小鷺の巣』で、客と店員として顔を合わせていた期間を含めても一か月と少ししか経っていない。その頃は私的な会話はなかったため、実質的には一週間未満だ。七月一日から今日まで、わずか六日。

 たったそれだけの付き合いで分かることは少ないが、ゼロではない。楽しげな表情を浮かべる彼の言葉が、嘘だというのは分かった。一風のためではなく、神々廻は何か目的を持って動こうとしているのだろう。さすがにそれが何かは分からないが、彼女は溜め息をこぼしながら、彼が差し出した手を取った。






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