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第三章

3.

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「うわ、何で泣いてんだよ!美里」
 気が付くと、美里の前では影がおろおろしていた。美里は水族館のサメの水槽の前にいた。
 それなのに、突然母との思い出の中にすっぽりと埋もれていたのだ。
「とは言え……だった、口癖……」
 何がスイッチなのか我ながらわからない。美里は自分でも涙が止められず、しゃがみこんで号泣していた。
「何だよ……わけがわかんねえ。高度な不条理ギャグか?」
「あー、何してんの影!美里ちゃんをこんなに号泣させて」
 ハツミ叔母さんがソフトクリームを手に戻ってきた。有言実行な人だ。
「違う、断じて俺じゃない!」
「何を話してたのよ。その中に地雷があったんじゃないの?」
 影は中空を見つめ、記憶を辿る表情になった。
「この中のサメ、フカヒレが食えるやつかな……って話してただけだよ」
「サメが可哀想になったんじゃないの?」
「号泣レベルで?」
 ハツミ叔母さんは飲み込むようなスピードでソフトクリームを食べてしまった。美里はのろのろと立ち上がり、影を擁護することにした。
「違うんです……急にお母さんのこと思い出しちゃって、それで」
 顔が腫れ上がるほど泣いていた。少し目の周りが痛い、と美里は思う。
「えっ、ひょっとして水族館そのものが地雷だったとか?──姉さんとの思い出の地」
 ハツミ叔母さんはうろたえる。
「違います。全然関係ないこと」
「ほらー、俺のせいじゃなかっただろ?」
 ハツミ叔母さんは「ふーん」と唸って腕を組む。それから心配そうに私の全身に視線を走らせる。
「もし、あたしたちに話して楽になることなら何でも言って。気が向いたときでいいから」
 ありがとうございます、と小さく美里は請け合う。
 ハツミ叔母さんの気遣いがありがたかった。今は心の整理がつかないけれど、何かの拍子に吐き出せるかもしれない。
 どうしてあんなに号泣してしまったのか、自分でもわからないのだ。
 母の口癖を思い出したこと。それで、いろいろなことを忘れてしまっているのかもしれないと思い至った。
「なーんてね」にも「うっそー」にも真実が含まれていたかもしれない、ということ。

「やっぱ旅先と言えば、ちょっと鄙びた水族館か、何かに特化した動物園だよね。館長のコレクションを集めた私設博物館なんかもいいよね」

 ハツミ叔母さんの一言で、美里たちは水族館にやってきた。敷地はコンパクトながら、遊具もある立派な水族館だ。
 クラゲやイワシの水槽を歓声を上げながら見て回り、サメの水槽の前で突然の号泣──影がうろたえるのも無理はない。
「これは、あれだね」
 ハツミ叔母さんは、美里と影の顔を交互に見た。
「どこに行っても何を見ても、何かを思い出して悲しくなってしまうかもしれないね」
 美里はハッとして叔母さんの顔を見る。
「でもそうやって、一つずつ消化して、また一つ新しい思い出を上書きしていけばいいと思うよ」
「泣きたいときがあったら泣いていいし」
「心配かけてすみません……」
 美里が頭を下げると、ハツミ叔母さんは笑った。そして何故か影の背中をどついた。影はよろけながら叔母さんを睨む。
「何でだよ、何で……俺?」
「影、あんたも。泣きたいときがあったら遠慮しないでいいよ」
「強いて言うなら、今だよ」
 美里は影とハツミ叔母さんのやり取りに思わず笑ってしまった。笑ったら顔の筋肉が引き攣ってまた痛んだ。腫れが引くまでしばらくかかりそうだ。
 美里が笑ったことで、二人の空気が少し和らぐ。
「さあ、宿のビュッフェ楽しみだなー」
 ハツミ叔母さんが大きく伸びをすると、その大きな体がさらにどこまでも大きくなるように見えた。
「まだ食べるのかよ……」
 うんざりした顔で影がつぶやく。悲しみでいっぱいだった胸の内に反して、美里は少し空腹を感じていた。
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