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第七章
8.
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荷物を床に取り落とし、大声で泣き続けていたら声が枯れてしまった。顔も涙や鼻水でとても人に見せられる状態ではない。
わざわざ鏡を見に行ったら、やはりひどい状態で美里は笑ってしまった。
「勝手に来るし、勝手なタイミングでいなくなっちゃうし……」
泣いた後に少し笑って、その後怒りだすという忙しい美里だった。
──でも、二人のおかげで楽しかった。
美里は顔を洗いながら、旅行の行程を一つ一つ思い出す。非常識なこともたくさんあったし、酷い目にもあった。
それでもやはり、二人と旅をしたことは、かけがえのない思い出になった。
母もハツミ叔母さんがいちばん弱っていた時に寄り添ってあげていたと思うと、自分の母親ながら誇らしく思えてくる。
今はまだその力はないけれど、いつか自分もそんなふうに誰かを助けられる人になりたい。
美里の考えは、前向きなものに変わりつつあった。
荷物を入れていたバッグから洗濯物を取り出し、洗濯機に放り込んでスイッチを押した。窓を開けて部屋の中に風を入れ、洗濯が終わるまでの間、美里はベッドに倒れ込んだ。
「あ。夏が終わる」
窓辺につるされていた風鈴も消えていたが、風の匂いがどこか秋を思わせた。
夏休みが終わり、新学期が始まる少し前。
美里は、考えた末に睦子叔母さんの家に住まわせてもらうことに決めたのだった。このままアパートに一人住まいをするにはお金がかかりすぎるし、生活が荒れて体を壊すのは目に見えていた。
睦子叔母さんに電話をしてその旨をお願いすると、とても喜んでくれた。
「ハツミも影くんも、また旅に出ちゃったのね」
しんみりした声で睦子叔母さんがつぶやくのを、電話越しの美里も無言で頷いていた。
こうして美里は睦子叔母さんの家に移り住んだ。学校へは自転車でそう遠くない距離だった。睦子叔母さんや叔父さん、時々帰ってくる大学生の亜実ちゃんと看護学校生の瑞樹ちゃんと会話をしながら生活するのは想像していたよりもずっと楽しかった。
母は時々現れた。美里が思ってもいないタイミングで現れ、畳の敷かれた仏間に寝そべっていたりした。大抵は心の準備ができていないのでほとんど会話もできず、母はうっすらと認識できる微笑みを浮かべて消えていくのだった。
それと関連しているが。
美里はハツミ叔母さんと影との旅をきっかけに、今まで見えなかったものが「視える」ようになってきてしまった。
ハツミ叔母さんの真似をして自転車を漕ぎながら、美里は往来でたびたび人でも動物でもないような存在に出会った。
──私自身があやかしになるのか、それともお母さんのような中間の能力を持つ人になるのか。
待っているしかないのだろうか。じっと、そのときを。
美里は一礼しながら、ありもしないもののそばを通過する。彼らは美里に危害を加えようとはせず、じっと気配を伺っている。
そして、最近気付いたことがもう一つあった。
「ストーカーなんじゃない?」
睦子叔母さんは眉をひそめる。最近、後を付けられているような気がするのだと美里は夕食を食べながら報告した。
「またそういう目に遭ったら、一応警察に連絡しようか」
真剣に心配してくれる睦子叔母さんをよそに、美里は「そういうのとも少し違うような」と首を捻っていた。
──うまく説明できなくてもどかしいけど……。
そう思いながら、美里はいったん忘れることにした。
睦子叔母さんの家から高校に通う日々に慣れ、美里は無事に進級した。母の死後、どことなく疎遠になっていた友達ともまた話すようになった。
生活拠点は変わったが、日々は修復されていった。こんなに柔軟に新しい生活に馴染んでしまった自分が不思議でもある。
──時間が経つのが早いな。
もうすぐまた夏がやってくる、とふと思い浮かぶと切ない気持ちになった。
美里が今の生活で一つ迷っていることと言えば、進路だった。クラスの友達は当然のように進学する話題をする。
美里の場合──進学するとなると、睦子叔母さんたちに負担をかけるわけにはいけなかった。奨学金を借りて、アルバイトをしながらの生活になる。
そこまでして勉強したいことがあるのか、と考えると疑問が残る。
お金を貯めたい、という思いは強くあったがそれは自立するためであり、余裕ができたら旅に出てみたい──そんな気持ちがあった。
間違いなく、ハツミ叔母さんと影の影響だった。美里も二人のようにいろいろな土地を回り、偶然の出会いを重ねてみたかった。
「いろいろ意見はあるかと思うけど、働く方向で決めようかな……」
美里は友達とも別れ、一人で歩いている帰り道、何気なく自分の足元を見下ろした。そして、ほんの微かだが違和感を覚えた。
「影……」
美里は思わずつぶやいてしまう。こんなに自分の影は濃かっただろうか──。
そう思った途端に、美里の足元からずるずると影が大きくなり、あっという間に美里そのものを飲み込んでしまった。
わざわざ鏡を見に行ったら、やはりひどい状態で美里は笑ってしまった。
「勝手に来るし、勝手なタイミングでいなくなっちゃうし……」
泣いた後に少し笑って、その後怒りだすという忙しい美里だった。
──でも、二人のおかげで楽しかった。
美里は顔を洗いながら、旅行の行程を一つ一つ思い出す。非常識なこともたくさんあったし、酷い目にもあった。
それでもやはり、二人と旅をしたことは、かけがえのない思い出になった。
母もハツミ叔母さんがいちばん弱っていた時に寄り添ってあげていたと思うと、自分の母親ながら誇らしく思えてくる。
今はまだその力はないけれど、いつか自分もそんなふうに誰かを助けられる人になりたい。
美里の考えは、前向きなものに変わりつつあった。
荷物を入れていたバッグから洗濯物を取り出し、洗濯機に放り込んでスイッチを押した。窓を開けて部屋の中に風を入れ、洗濯が終わるまでの間、美里はベッドに倒れ込んだ。
「あ。夏が終わる」
窓辺につるされていた風鈴も消えていたが、風の匂いがどこか秋を思わせた。
夏休みが終わり、新学期が始まる少し前。
美里は、考えた末に睦子叔母さんの家に住まわせてもらうことに決めたのだった。このままアパートに一人住まいをするにはお金がかかりすぎるし、生活が荒れて体を壊すのは目に見えていた。
睦子叔母さんに電話をしてその旨をお願いすると、とても喜んでくれた。
「ハツミも影くんも、また旅に出ちゃったのね」
しんみりした声で睦子叔母さんがつぶやくのを、電話越しの美里も無言で頷いていた。
こうして美里は睦子叔母さんの家に移り住んだ。学校へは自転車でそう遠くない距離だった。睦子叔母さんや叔父さん、時々帰ってくる大学生の亜実ちゃんと看護学校生の瑞樹ちゃんと会話をしながら生活するのは想像していたよりもずっと楽しかった。
母は時々現れた。美里が思ってもいないタイミングで現れ、畳の敷かれた仏間に寝そべっていたりした。大抵は心の準備ができていないのでほとんど会話もできず、母はうっすらと認識できる微笑みを浮かべて消えていくのだった。
それと関連しているが。
美里はハツミ叔母さんと影との旅をきっかけに、今まで見えなかったものが「視える」ようになってきてしまった。
ハツミ叔母さんの真似をして自転車を漕ぎながら、美里は往来でたびたび人でも動物でもないような存在に出会った。
──私自身があやかしになるのか、それともお母さんのような中間の能力を持つ人になるのか。
待っているしかないのだろうか。じっと、そのときを。
美里は一礼しながら、ありもしないもののそばを通過する。彼らは美里に危害を加えようとはせず、じっと気配を伺っている。
そして、最近気付いたことがもう一つあった。
「ストーカーなんじゃない?」
睦子叔母さんは眉をひそめる。最近、後を付けられているような気がするのだと美里は夕食を食べながら報告した。
「またそういう目に遭ったら、一応警察に連絡しようか」
真剣に心配してくれる睦子叔母さんをよそに、美里は「そういうのとも少し違うような」と首を捻っていた。
──うまく説明できなくてもどかしいけど……。
そう思いながら、美里はいったん忘れることにした。
睦子叔母さんの家から高校に通う日々に慣れ、美里は無事に進級した。母の死後、どことなく疎遠になっていた友達ともまた話すようになった。
生活拠点は変わったが、日々は修復されていった。こんなに柔軟に新しい生活に馴染んでしまった自分が不思議でもある。
──時間が経つのが早いな。
もうすぐまた夏がやってくる、とふと思い浮かぶと切ない気持ちになった。
美里が今の生活で一つ迷っていることと言えば、進路だった。クラスの友達は当然のように進学する話題をする。
美里の場合──進学するとなると、睦子叔母さんたちに負担をかけるわけにはいけなかった。奨学金を借りて、アルバイトをしながらの生活になる。
そこまでして勉強したいことがあるのか、と考えると疑問が残る。
お金を貯めたい、という思いは強くあったがそれは自立するためであり、余裕ができたら旅に出てみたい──そんな気持ちがあった。
間違いなく、ハツミ叔母さんと影の影響だった。美里も二人のようにいろいろな土地を回り、偶然の出会いを重ねてみたかった。
「いろいろ意見はあるかと思うけど、働く方向で決めようかな……」
美里は友達とも別れ、一人で歩いている帰り道、何気なく自分の足元を見下ろした。そして、ほんの微かだが違和感を覚えた。
「影……」
美里は思わずつぶやいてしまう。こんなに自分の影は濃かっただろうか──。
そう思った途端に、美里の足元からずるずると影が大きくなり、あっという間に美里そのものを飲み込んでしまった。
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