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4. 懐かしいお客が現れる庭で
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高良清十郎は、みつ子から出された麦茶を恐縮しながら飲み干した。
「私までお邪魔してしまって申し訳ございません。今日は、非番でして」
みつ子と清十郎が話している傍らでは、佳月が魚の細部をスケッチしていた。魚の全体図というよりは、抉り取られた部分に興味があるようだった。
「佳月とは、小さい頃からの幼馴染なんです」
チラッと佳月を見て、清十郎は言った。そのまなざしには、兄のような父親のような慈しみの気持ちが見て取れた。
「私は佳月の家のすぐ近くに住んでいて、小さい頃から何かと世話を焼いていました。こいつは、その……身内のような私が言うのも何なんですがある種天才的なところがあって、何か興味があると飛び出していって、平気で行方不明になってしまうんです」
「まあ……」
みつ子は軽い気持ちで佳月を招き入れたことを申し訳なく感じた。
「その度に私は、佳月のお母さんと二人で探し回りました。佳月のお父さん……は、早くに亡くなってしまったので、自分が何というか兄のような気持ちで見守っていたんです」
清十郎は初対面のみつ子に、不審に思われないように気遣ったのか、尋ねてもいないことまで自分から話してくれた。
「さすがおまわりさんですね。頼りになるわ」
いや、と清十郎は照れた。
「今はスマホがあるからいいんですが、昔からの癖でGPSのキーホルダーまで持たせていて、暇があると気になって見ちゃうんです……」
ジーピーエス?と聞き返したみつ子に、清十郎は「持ち主の居場所がわかるようになる機械……みたいなもんです」と説明した。
──それがあれば、あの人も助かったのかしら。
みつ子は一瞬暗い気持ちになったが、すぐにそれを打ち消した。
「これを機に、お二人ともまた遊びにいらしてね。庭いじりをするぐらいしか趣味はないし、おうちも近いから」
みつ子が微笑むと、清十郎も笑顔を返し、
「また図々しくお邪魔します」と答えたのだった。みつ子はふと思い立って、「梅干しは好き?」と聞いてみた。すると清十郎は大きく頷く。
「はいっ。おにぎりの具の中で一番好きです!」
そう、ハキハキと答え、みつ子の心の中に温かいものが広がった。
みつ子は仏壇に手を合わせながら、遺影の成明と目を合わせる。
「この年で、一人暮らしになってうんと若い子たちと話す機会ができるなんてね」
わざと声に出してみつ子は言った。それから立ち上がると、あの子たちがまた来てもいいように、何かお菓子でも買い置きしておこうと考えていた。
成明が亡くなってから、初めてみつ子は明日になるのが待ち遠しいような気持ちになった。
翌日から、みつ子は十時三十分に合わせて毎日庭に出るようにした。だいたいは時間ぴったりに佳月が現われた。
「おはようございます」
みつ子は何だかホッとして、「おはよう」と挨拶を返した。
仲良くなったと思ったのは自分だけで、佳月のほうはみつ子を疎ましく思っているのかもしれない、などとくよくよ考えていたのだった。
──また私ったら悪い癖だわ。
お菓子まで買っているし、自分のほうがうんと年上なのだから、どっしり構えていればいいのだ。
佳月はぺこりと頭を下げた。
「行ってらっしゃい」
みつ子が声をかけると、佳月はハッとした顔で言った。
「行ってきます」
佳月は再び会釈をし、通り過ぎて行った。
それからみつ子は昼少し前まで庭仕事をした。水やりをし、雑草を抜き、玄関前を掃除した。
──花が咲くと綺麗なもんだな。
成明があるとき、庭仕事をしていたしゃがんだ姿勢のままのみつ子の背後に立っていたことがあった。
「俺にはできないが」
ぼそっと成明はつぶやいた。そのときは嫌味を言われたように感じた。
「私にはこのぐらいしか趣味がないから」
みつ子はそう答えた。何というか、尖った響きになってしまった。そのつもりはないのに、みつ子が口にするとどことなく怒ったようになってしまう。
みつ子は娘を育てていた時も、常にどこかでイライラしていて、幸せな瞬間はその時々でたくさんあったはずなのに、嬉しいことよりも心配事や不安などが勝っていつも一つ手前の不幸みたいなものに怯えていた。
──あなたは呑気でいいわね。
たぶん、みつ子は心のどこかでそう思っていたのだった。いつも。
花が綺麗。
要約してみればそういうことだった。私には、言葉をそのまま受け取る力が不足している。
昼、十三時半を回ったところでみつ子は家に入り、簡単な昼食をとった。
しばらくテレビのワイドショーを眺めた後、眠くなって畳の上に寝ころぶとうとうとと昼寝を始めた。
開け放った窓から、すうっと風が入って来る。
──ほんの少しだけ……。
みつ子はいつの間にか淡い眠りの中を漂い始めた。
みつ子。みつ子──。
誰かがみつ子の名前を呼んでいた。
重たくて開きにくいまぶたをこじ開けると、庭に成明が立っていた。シルエットだけでわかる。
少し猫背で、痩せた体形の成明──。
「あなた……?」
成明は、珍しく笑顔を見せた。いつも何を考えているかわからない、ムッとした表情をしているのに。
「やっと花が咲いたぞ」
成明はそう言って、庭の一角を指さした。そこは光り輝いて見えた。
「え……?」
みつ子は吸い寄せられるように、庭へ視線を向けた。立ち上がり庭に向かって歩きかけたみつ子は、成明の姿がどんどん薄くなっていることに気付く。
「え、ねぇ……!」
みつ子は手を思わず手を伸ばしたが、成明は残念そうに首を横に振った。
「それ以上こっちに来たら危ない。今いる場所から見るといい」
成明はみつ子のほうへ向けて、指さした。
「そこに柵があるだろう。それを越えたらいけない」
そう言って、成明は穏やかに微笑んだが、みつ子はわけがわからなかった。
「……待って!!」
喉から絞り出した声は掠れていた。
──そんな。もっと大きな声が出るはず……。
みつ子はもどかしい思いで手を伸ばした。だが力尽きてそのまま床に突っ伏した。
「みつ子さん……みつ子さん」
誰かが再びみつ子を呼ぶ声がした。
「はいっ?」
今度はみつ子は起き上がることができた。先程まではあんなに重たかった体がどうにか持ち上がった。
開け放した窓越しに、葉山佳月が立っていた。
「みつ子さん、起こしてしまってすみません」
佳月は見慣れた無表情でそう言って、ぺこりと頭を下げる。
「いいのよ……私ったら寝すぎちゃったみたい。変な夢をね……」
すると、佳月は強い決意を滲ませたような声で言った。
「みつ子さん、わかったことがあります」
「私までお邪魔してしまって申し訳ございません。今日は、非番でして」
みつ子と清十郎が話している傍らでは、佳月が魚の細部をスケッチしていた。魚の全体図というよりは、抉り取られた部分に興味があるようだった。
「佳月とは、小さい頃からの幼馴染なんです」
チラッと佳月を見て、清十郎は言った。そのまなざしには、兄のような父親のような慈しみの気持ちが見て取れた。
「私は佳月の家のすぐ近くに住んでいて、小さい頃から何かと世話を焼いていました。こいつは、その……身内のような私が言うのも何なんですがある種天才的なところがあって、何か興味があると飛び出していって、平気で行方不明になってしまうんです」
「まあ……」
みつ子は軽い気持ちで佳月を招き入れたことを申し訳なく感じた。
「その度に私は、佳月のお母さんと二人で探し回りました。佳月のお父さん……は、早くに亡くなってしまったので、自分が何というか兄のような気持ちで見守っていたんです」
清十郎は初対面のみつ子に、不審に思われないように気遣ったのか、尋ねてもいないことまで自分から話してくれた。
「さすがおまわりさんですね。頼りになるわ」
いや、と清十郎は照れた。
「今はスマホがあるからいいんですが、昔からの癖でGPSのキーホルダーまで持たせていて、暇があると気になって見ちゃうんです……」
ジーピーエス?と聞き返したみつ子に、清十郎は「持ち主の居場所がわかるようになる機械……みたいなもんです」と説明した。
──それがあれば、あの人も助かったのかしら。
みつ子は一瞬暗い気持ちになったが、すぐにそれを打ち消した。
「これを機に、お二人ともまた遊びにいらしてね。庭いじりをするぐらいしか趣味はないし、おうちも近いから」
みつ子が微笑むと、清十郎も笑顔を返し、
「また図々しくお邪魔します」と答えたのだった。みつ子はふと思い立って、「梅干しは好き?」と聞いてみた。すると清十郎は大きく頷く。
「はいっ。おにぎりの具の中で一番好きです!」
そう、ハキハキと答え、みつ子の心の中に温かいものが広がった。
みつ子は仏壇に手を合わせながら、遺影の成明と目を合わせる。
「この年で、一人暮らしになってうんと若い子たちと話す機会ができるなんてね」
わざと声に出してみつ子は言った。それから立ち上がると、あの子たちがまた来てもいいように、何かお菓子でも買い置きしておこうと考えていた。
成明が亡くなってから、初めてみつ子は明日になるのが待ち遠しいような気持ちになった。
翌日から、みつ子は十時三十分に合わせて毎日庭に出るようにした。だいたいは時間ぴったりに佳月が現われた。
「おはようございます」
みつ子は何だかホッとして、「おはよう」と挨拶を返した。
仲良くなったと思ったのは自分だけで、佳月のほうはみつ子を疎ましく思っているのかもしれない、などとくよくよ考えていたのだった。
──また私ったら悪い癖だわ。
お菓子まで買っているし、自分のほうがうんと年上なのだから、どっしり構えていればいいのだ。
佳月はぺこりと頭を下げた。
「行ってらっしゃい」
みつ子が声をかけると、佳月はハッとした顔で言った。
「行ってきます」
佳月は再び会釈をし、通り過ぎて行った。
それからみつ子は昼少し前まで庭仕事をした。水やりをし、雑草を抜き、玄関前を掃除した。
──花が咲くと綺麗なもんだな。
成明があるとき、庭仕事をしていたしゃがんだ姿勢のままのみつ子の背後に立っていたことがあった。
「俺にはできないが」
ぼそっと成明はつぶやいた。そのときは嫌味を言われたように感じた。
「私にはこのぐらいしか趣味がないから」
みつ子はそう答えた。何というか、尖った響きになってしまった。そのつもりはないのに、みつ子が口にするとどことなく怒ったようになってしまう。
みつ子は娘を育てていた時も、常にどこかでイライラしていて、幸せな瞬間はその時々でたくさんあったはずなのに、嬉しいことよりも心配事や不安などが勝っていつも一つ手前の不幸みたいなものに怯えていた。
──あなたは呑気でいいわね。
たぶん、みつ子は心のどこかでそう思っていたのだった。いつも。
花が綺麗。
要約してみればそういうことだった。私には、言葉をそのまま受け取る力が不足している。
昼、十三時半を回ったところでみつ子は家に入り、簡単な昼食をとった。
しばらくテレビのワイドショーを眺めた後、眠くなって畳の上に寝ころぶとうとうとと昼寝を始めた。
開け放った窓から、すうっと風が入って来る。
──ほんの少しだけ……。
みつ子はいつの間にか淡い眠りの中を漂い始めた。
みつ子。みつ子──。
誰かがみつ子の名前を呼んでいた。
重たくて開きにくいまぶたをこじ開けると、庭に成明が立っていた。シルエットだけでわかる。
少し猫背で、痩せた体形の成明──。
「あなた……?」
成明は、珍しく笑顔を見せた。いつも何を考えているかわからない、ムッとした表情をしているのに。
「やっと花が咲いたぞ」
成明はそう言って、庭の一角を指さした。そこは光り輝いて見えた。
「え……?」
みつ子は吸い寄せられるように、庭へ視線を向けた。立ち上がり庭に向かって歩きかけたみつ子は、成明の姿がどんどん薄くなっていることに気付く。
「え、ねぇ……!」
みつ子は手を思わず手を伸ばしたが、成明は残念そうに首を横に振った。
「それ以上こっちに来たら危ない。今いる場所から見るといい」
成明はみつ子のほうへ向けて、指さした。
「そこに柵があるだろう。それを越えたらいけない」
そう言って、成明は穏やかに微笑んだが、みつ子はわけがわからなかった。
「……待って!!」
喉から絞り出した声は掠れていた。
──そんな。もっと大きな声が出るはず……。
みつ子はもどかしい思いで手を伸ばした。だが力尽きてそのまま床に突っ伏した。
「みつ子さん……みつ子さん」
誰かが再びみつ子を呼ぶ声がした。
「はいっ?」
今度はみつ子は起き上がることができた。先程まではあんなに重たかった体がどうにか持ち上がった。
開け放した窓越しに、葉山佳月が立っていた。
「みつ子さん、起こしてしまってすみません」
佳月は見慣れた無表情でそう言って、ぺこりと頭を下げる。
「いいのよ……私ったら寝すぎちゃったみたい。変な夢をね……」
すると、佳月は強い決意を滲ませたような声で言った。
「みつ子さん、わかったことがあります」
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