上 下
5 / 7

5. 夏休みが始まる季節の庭で

しおりを挟む
 みつ子は本格的に起き上がると、もう夕方と呼ばれる時間になっていることに気付いた。きっと佳月は学校の帰りなのだろう。
 ちょっと遊びに寄ったのではなく、わざわざ何かを話に来てくれたのだろうと推察してみつ子は佳月を縁側へ通した。
 みつ子が持ってきた麦茶を、一息に飲み干すと、佳月は庭を眺めた。
「何か私に話があって来てくれたのよね……」
 佳月は訊ねたみつ子の目を一瞬じっと見つめた。そこでみつ子は改めて気付いた。
 ──この子と目を合わせたのは初めてかもしれない。
 みつ子は目を見つめられて、何故かとても動揺した。
「ずっと誰だったかと考えていたんですが……急に思い出しました。僕、みつ子さんの旦那さんを知っています」
「え……?」
 みつ子は思ってもみない言葉に、体が震えるような衝撃を感じていた。
「知ってるって、うちの人を……?」
 こっくりと佳月は頷いた。
「僕が通っていた小学校の、校務員さんと話しているのを見たことがあるんです」
「校務員、さん……?」
「小学校での草木や花壇の手入れや、校舎内のあらゆるメンテナンスをしてくれている男性です。みつ子さんの旦那さんと同じぐらいの年齢の方に見えました」
 佳月は初めての情報に頭を巡らせているみつ子の傍らで、話を続けた。
「僕が二人を見たのは、五月十五日の夕方五時三十二分。旦那さんは校務員さんに何か説明しているように見えました。それを思い出して気になったので、清十郎くんに協力してもらって、校務員さんに会いに行ってきました」
「会いに行ったんですか……わざわざ?」
 みつ子は呆けたような声が出た。目の前にいる佳月がこれから何を言い出すのか見当もつかない。
「旦那さんは、川を気にしていたみたいです」
「川、って……」
 みつ子は咄嗟に家の付近の川を思い浮かべようとしていた。だが近くには川らしきものは思い浮かばない。
「あるんです。小学校の近くに」
 みつ子は思い出す。成明は小学校にほど近い路上で倒れていた。転倒して後頭部を打って、見たこともない青白い顔をしていて……。
 頭を振って、みつ子は恐ろしい想像を振り払う。
「あの、夫は川の増水でも気にしていたのかしら……」
 みつ子はこのところ頻繁に降るようになった大雨のことを考えていた。
「それもあるかもしれませんが、気になっていたのは柵のようです」
「柵……?」
──夢と同じ……。
みつ子は不思議な気持ちになりながら、聞いていた。
「あの川沿いは、小学校の子どもたちの通学路です。子どもたちの通学時間は朝早い子たちの集団登校班で七時十分台から登校が始まります。下校時間は一番帰りの早い一年生で、四時間授業だと午後二時二十分頃から始まり、上級生たちがそれに続き、学校でサッカー等をしている子だと夕方五時を過ぎます。川を通過する子どもたちの数は多く、学年が小さい子ほど川に石を投げたり、寄り道をする子の姿が多く見られたようです。それで、川と道を隔てている柵が劣化してボロボロになっていて、川に落ちかけた子もいたということです」
 つらつらと、佳月は語り続ける。
 短期間で、これだけのことを調べたのだろうか。幼馴染の警察官が手伝ってくれたとは言っていたけれど……。
「旦那さんはその噂を聞いて、校務員さんに確認しに行ったそうです。川沿いの柵を直すことは出来ないかと聞きに行ったんです。校務員さんは、自分だけでは確認できないと学校の先生に相談しました。その上で、市に確認を取ってくれたそうなのですが、あの川と道にかけてある柵は私有地のものなんだそうです。だから市もどうすることもできないと」
 みつ子は気が付くと、身を乗り出して聞いていた。
「それで旦那さんは、自分の力で何とか修理できないかと現場を調べに行ったんです。下校時間の前が望ましいけれど、朝に何かあっても困る、そう思って旦那さんは早朝に家を出たんだと思います」
 みつ子は驚きの余り声が出なかった。成明がそんなに子供たちのことを考えていたなんて──。
 佳月は話し終えると、静かに顔を上げてみつ子を見た。そして、ゆっくりと視線を仏壇に動かす。
 たっぷり仏壇を見つめた後、腕時計に目を落とした佳月は微妙に声のトーンを変えた。
「あ、そろそろ」
 佳月がつぶやいたとき、「ごめんください!!」と玄関で大きな声がした。
 みつ子と佳月が揃って玄関に行くと、そこには清十郎と小学生の男の子二人がいた。
「夕方のお忙しい時間に失礼致します! ほら、君たちも」
 清十郎が頭を下げると、男の子二人も深々とお辞儀をした。
「せーの、はじめまして!!」
 みつ子はわけがわからず、清十郎と男の子たちを見た。
「一年一組、竹中海斗です!!」
「港小学校一年三組、川名晴馬です!!」
 男の子二人は割れんばかりの声量で挨拶すると、「カイくん声でかすぎ」「はるやんこそ」と肘でつつき合っている。
 佳月は大きな音が苦手なのか一瞬耳に手を当てたが、「元気だねぇ、一年生は」とのんびり相槌を打った。
「あの……で、あなたたちは?」
 みつ子が戸惑いながら訊ねると、海斗と晴馬はすうと息を吸い込み、また大きな声で言った。
「僕たち、おじさんに助けてもらいました!」
「はるやんが足がすべって川にズズズってなって」
「雨降った後だからツルツルで~」
 海斗と晴馬は同時に話し、みつ子は聞き取るのに苦心した。
「あぶなかったよなー」
「なー」
 頷き合っている海斗と晴馬の傍らで、佳月が説明を加えた。
「旦那さんが、夕方散歩しているときに川に落ちそうになっていた男の子を助けたんです」
 そうそう、と海斗と晴馬は首がもげるほど大きく頷き、隣に立っていた清十郎は目を眇めた。
「でも……おじさん亡くなったって聞いて」
 海斗が俯くと、晴馬も俯き足元をじっと見つめた。
「そんな話は初耳だわ……」
 みつ子は、図らずも声が裏返ってしまった。
 成明が男の子たちを助けて、彼らを守るために学校にまで行っていた──。
「海斗くんも晴馬くんもお母さんがお礼を言おうと、たくさん探し回ったみたいです。でも、二人の証言だけでは見つけることができなかった」
 佳月が静かな声で言う。
 佳月から出てくる情報は、みつ子の知らない成明を浮き立たせるばかりだ。
「旦那さんに名前を聞いたそうなんですが、『大したことはしてないよ』と言って名前を聞くことができなかった」
 だから、二人は旦那さんをずっと旦那さんを探していたんです。
 佳月はそこでわずかに微笑んだ。
しおりを挟む

処理中です...