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6. 子供たちが集まる庭で

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「そうだよ、僕たちずっとおじさんを探してました」
海斗がみつ子を見つめる。その目には熱がこもっていた。
「おじさんと会うのは初めてじゃなかったし」
海斗は話し出した。
「僕は……歩くのがあんまり速くないから、みんなと一緒に学校を出ても、いつの間にか一人になっちゃうことが多くて。先生は一人は危ないから誰か友達か上級生と帰りなさい、って言うんだけど、大体いつも一人になっちゃって」
佳月は「うん」と頷いた。言葉としてはそれだけだったが、深い共感が込められているようにみつ子には感じられた。
「そんなとき、毎日川の近くで会うおじさんが話しかけてくれたんだ。いつも一人だけど大丈夫か?って」
海斗はそこで迷ったように、最初は申し訳ないけれど悪い人だったらどうしようと思って警戒した、という意味のことを語った。
「……でも毎日話すだけだから、おじさんが悪い人じゃないってわかって。いつもおかえり、とか気をつけてな、とか早く帰れよとか、言ってくれて」
みつ子は一生懸命想像しようとしていた。無口な印象の成明が目の前の男の子と話をしているところを。
「それでね、おじさん、魚が好きだって教えてくれたんだ」
嬉しそうに海斗は言った。ぱっと顔が明るくなる。
「おじさん釣りが好きだって。僕も好きだよって言ったらおじさん、嬉しそうだった。僕、いとこが魚屋さんなんだ、あ、はるやん……今隣にいる晴馬くんが」
そこでペコッと晴馬が頭を下げる。
「あ、ウチ、魚屋なんです。いしまる水産」
みつ子はその名前に聞き覚えがあった。
「いしまる水産って、港町の?」
「そうそう!」
晴馬は首がもげるほど頷く。
「でね、おじさんに紹介するって言ったんだ。いとこのはるやん、時々遊びに来るから。きっとおじさんと気が合うよって」
「そんで本当に、会ったんだよなー」
「なー」
海斗と晴馬は顔を見合わせて笑ったが、今いる場所を思い出したのかまた笑顔を引っ込めた。
「……で、はるやんがうちに遊びに来る日に、おじさんと待ち合わせて途中の川で話しました。おじさんとはるやんはやっぱりめっちゃ気が合って」
「……え?」
 みつ子が聞き返すと、海斗たちは頷いて「魚の話で盛り上がりました」「おじさん、一番好きな魚はサバだって」と、きゃいきゃい言い合った。
「それから僕たち、たまにおじさんと話すようになって。でも、おじさんは『おじさんがいなくても待たなくていいから』って言ってました。おじさんははるやんが川に落ちそうになったのを助けてくれてから、すごく僕たちのことを心配してくれてて」
 嬉しそうに話していた海斗と晴馬は、神妙な顔つきになると
「おじさんとは友達だったから」
 と、ぽつりと言った。みつ子は「友達」という言葉に胸が抉られそうになった。
「それで、おじさんが亡くなったって聞いて、僕たちやっとおじさんの家がわかって。ずっと迷って、おじさんが好きなサバを持ってきたんです」
 みつ子は顔を上げた。
 晴馬はバツの悪そうな顔をした。
「本当はピンポンして、説明して……おじさんに渡したかったんだけど、店から黙って持ち出して学校が始まる前にバスに乗って来たから……カイくんと慌てて玄関の前に置いただけになっちゃって、ごめんなさい!!」
 ぽかん、とみつ子は口を開けていたと思う。
 それまでずっと話を傾聴していた佳月がやっと話し出した。
「つまり、海斗くんと晴馬くんは、みつ子さんの旦那さんにあげるつもりでマサバを持ってきた。だけど玄関のインターホンを押すことができずにそっと家の前に置いて帰った。そこからみつ子さんが気付くまでに猫が嚙みついたのか、魚は一部破損した」
「えー!」と晴馬が不服そうに声を上げる。
 佳月は「どこかに持ち去られなかっただけでも奇跡」と短く答えた。
 それから静かな口調になると、みつ子の目をじっと見つめた。
「みつ子さん、ここから先は僕の推測です」
 佳月は穏やかな声で話し始めた。
「成明さんが亡くなった日は、海斗くんと晴馬くんが川にやってくる日だったのではないでしょうか。晴馬くんがいとこの海斗くんの家に遊びに行くのは月に二度ほど、授業の早い火曜日がほとんどでした。前の日は雨が降って地面がぬかるんでいた」
 みつ子は思い出す。確かに成明が亡くなったのは火曜日。前日はまとまった雨が降っていた。
「成明さんは以前、晴馬くんが川のそばで足を滑らせて落ちそうになったのを助けて以来、ずっと心配だったんだと思います。その日もきっと海斗くんたちが来るだろう。成明さんは二人と話すことが楽しみな反面、また同じような事故がくり返されたらと恐れていたのではないでしょうか。だからその日の早朝、川を確かめに行った。水量に異常がないか、そして柵の破損をどうにかできないか──」
 みつ子の頭の中で、懸命に川の周りを確かめている成明の姿が思い浮かんだ。
「しかし、前日の雨でぬかるんでいた道に足を取られて──」
 そこから先の言葉を佳月は言わなかった。みつ子の目に涙が溢れた。
 成明は見たこともないほど青白い顔をしていた。
 だけど、どこか満足そうな微笑みを浮かべていたのだ──。
──ひょっとしたらあの人は、死ぬ間際の最期の最期、穏やかな景色を見たのではないか。
 俺は小さな友達のために、やれることをやった。やろうとした。
 年老いた体で、うまく目標を達成することはできなかったけれど、誰かを喜ばせようとして、最期を迎えたんだ。
 成明の声が頭の中で聞こえたような気がしてみつ子は涙が止まらなかった。
「大丈夫ですか」
 寄り添うように清十郎が声をかけてくれる。みつ子は「大丈夫です」と途切れ途切れに答えた。
 みつ子は、胸がいっぱいだった。自分はやはり成明のことを何一つ知らなかった。成明が何を考えていて、何を大切にしていたかも知ろうとはしていなかった。
 だが、後悔の後にはみつ子の心の中にもほんの少しの満足感が残った。

 海斗、晴馬は仏壇に向かって手を合わせ、成明に線香を上げた。みつ子は二人が小さな手を合わせてくれるのを、穏やかな気持ちで見つめていた。
 傍らで二人を見ていた佳月がふいに訊ねた。
「みつ子さん、一つ聞いてもいいですか」
「なぁに?」
 佳月の目に、一瞬だけ逡巡の色が浮かぶ。
「みつ子さんの娘さんは、今どこにいるんですか?」
「それは──」
 突然、みつ子は目の前が暗くなった。
 ──あの子はもうずいぶん前に家を出て……。
 佳月はそれ以上訊ねなかったが、その視線は仏壇の、成明の遺影に重ねられるように「後ろ向きに」並べられた遺影に釘付けだった。
 みつ子が見えないようにしていた答えはそこにあった。
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