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五条坊門
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顔を向けた先、五条坊門のほうから歩いてきた侍が声をあげる。しまった――と思ったが遅かった。男は人混みをすり抜けると、腰をかがめて義経の顔をのぞきこんできた。
「やっぱり、判官殿ではありませんか」
「たしろかじゃ田代冠者か」
名を呼ぶと、田代冠者のぶつな信綱が人懐っこい笑みを浮かべた。
「こんなところでなにをされているんです」
「いや、まあ、ちょっと」
田代冠者は伊豆国の武士である。兄、頼朝の旗揚げのときから麾下にいたということだが、歳は二十半ばと若かった。
「あまり他のものに知られたくないので、少し声を落としていただけますか」
「あ、そうですよね。失礼しました」
継信の言葉に、田代冠者は肩を落とす。体を起こすと義経よりも頭一つ以上は背丈があった。大柄な男で、いかにも坂東のものといった風体である。
大男が困ったように身を小さくする姿には面白みがあった。まるで飼い慣らされた犬のようだと思って見ていると、田代冠者が、なにかひらめいたように手を打った。
「女ですか」
「妻にはくれぐれも伝えてくれるなよ。それから静にもだ」
「ははは。もてるって、いいですねぇ」
面倒くさくなって、義経は田代冠者の言葉を否定しなかった。事実、これといって理由もない。それに自分が時々こうして、ろくに供も連れずに街を歩きまわっていることを、大勢に知られたくはなかった。
「もう最近、暇でしょう。いっそ西海のほうに行ったほうが良かったかなぁとか、どうしても思っちゃいますよね」
田代冠者は言って、はっと口元を手で覆った。
「いえ、もちろん、判官殿がお忙しくされているのは、はい。理解しております」
急にかしこまった田代冠者の様子に、こらえきれず義経は笑った。そういう義経を見て、田代冠者もにかっと笑う。日焼けした浅黒い肌に白い歯が映える。八重歯だった。
「そんなに退屈か?」
「退屈、というか」
田代冠者が顎に手をあてた。
「藤戸の話、聞きましたよ。佐々木殿が馬で海を渡ったと。それを聞いたらやっぱり羨ましくて。おれは御所の警護で鈴鹿山にも行けなかったんですよ。だから」
田代冠者は若く素直であり、嫌味のない人柄だ。しかも、頼朝がはじめて旗揚げをした石橋山の合戦のころからつき従っていた源氏方であれば、坂東のものたちからの信頼も厚い。
使えるかもしれない――義経は思った。
屋島を攻めるにしたって兵はいる。しかし義経がみずから動けば、院にも、また鎌倉からの目付役であるものたちにも気取られるであろう。義経麾下のものたちとて同じことだった。
坂東の主だったものたちから、自分たちが異質なものとして捉えられていることを、義経はしみじみ知っていた。
しかし田代冠者はどうだろうか。田代冠者のことなど、鎌倉も院も、だれも警戒すらしていないだろう。ではひとつ、抱きこんでみようか。
「ここだけの話、年明け早々、わたしは西海に行くつもりだ」
「ええ!」
田代冠者の目が輝くのを、義経は見逃さなかった。
「そこで頼みがある」
「はい、なんでしょう」
「お前のように功名を立てたがっている輩に、このことを伝えて欲しい。内密にな」
「と、申されますと」
「あんまり騒がしくすると貴人たちがうるさいだろう」
「ああ、ええ。確かに」
貴族を理由にすると、田代冠者は曖昧な笑みを浮かべた。坂東武者の魂には、貴族に対する濁った感情があることを、義経はよく心得ていた。ようするに貴族が嫌いなのだ。そのあたりが西国の武者とはちがう。
「もうあまり日がないからな。内密に支度を調えておいてほしいのさ。できるだけ、若くて爽やかなのがいい」
「若くて爽やか?」
「わたしのいうこと、聞いてくれるでしょ」
「そりゃあ、おれたちにとって、九郎判官は英雄ですから」
「そうか」
「あなたのように勇敢に戦いたいんです」
義経は少し顎をひき、上目づかいで田代冠者の顔を見つめた。
「そう言われると、こそばゆいな。わたしはお前を信じるよ」
義経が口角をあげると、田代冠者の頬が赤く染まった。
「鎌倉へは」
やりとりを聞いていた継信が言う。
「もちろん使いをやるさ。鎌倉にも、九州にもね」
「さようですか。では、おれは失礼します。判官殿、この田代信綱にお任せください!」
田代冠者は嬉しそうに笑うと一礼し、東市のほうに姿を消した。
「九郎殿、鎌倉へはどのように」
田代冠者と別れ館に戻ると、それまで押し黙っていた継信が声を発した。
「鎌倉へ、なにを」
「ですから、年明け早々に屋島を攻めると」
「言わなくていいからね」
「は?」
継信が目を見開いた。
「鎌倉の兄上がそんなこと許すと思う?」
「思えません」
「鎌倉と京都は距離があるんだから、手出し口出しされる前に振りきれば良いってことさ」
「またそういうことを」
継信が眉をひそめる。
「院には。せめて院からのお許しをいただかなければ」
「院にもまだ伏せろ」
「九郎殿。あなたは判官なのですよ。そして鎌倉殿の弟君であり、在京する軍勢の大将です」
「継信」
義経は、継信の口を手で塞いだ。
「いいか。院の近臣どもには議論をさせちゃだめなのさ。先例だなんだと、おのれの責任逃れの口実ばかりを探す肝の小さい役人どもに、馬鹿正直に話をして、はいそうですかってなると思うか?」
「では」
「こういうのは、どさくさに紛れて押しとおすのが最上の手段だ。僧兵なんかがやるみたいにね」
叱られたと思ったのだろう。肩を落としている継信に、義経は片目をつむってみせた。
「お前はまっすぐだな。三郎」
継信が空を見あげている。坪庭からは寒空に冴える月がよく見えた。
「やっぱり、判官殿ではありませんか」
「たしろかじゃ田代冠者か」
名を呼ぶと、田代冠者のぶつな信綱が人懐っこい笑みを浮かべた。
「こんなところでなにをされているんです」
「いや、まあ、ちょっと」
田代冠者は伊豆国の武士である。兄、頼朝の旗揚げのときから麾下にいたということだが、歳は二十半ばと若かった。
「あまり他のものに知られたくないので、少し声を落としていただけますか」
「あ、そうですよね。失礼しました」
継信の言葉に、田代冠者は肩を落とす。体を起こすと義経よりも頭一つ以上は背丈があった。大柄な男で、いかにも坂東のものといった風体である。
大男が困ったように身を小さくする姿には面白みがあった。まるで飼い慣らされた犬のようだと思って見ていると、田代冠者が、なにかひらめいたように手を打った。
「女ですか」
「妻にはくれぐれも伝えてくれるなよ。それから静にもだ」
「ははは。もてるって、いいですねぇ」
面倒くさくなって、義経は田代冠者の言葉を否定しなかった。事実、これといって理由もない。それに自分が時々こうして、ろくに供も連れずに街を歩きまわっていることを、大勢に知られたくはなかった。
「もう最近、暇でしょう。いっそ西海のほうに行ったほうが良かったかなぁとか、どうしても思っちゃいますよね」
田代冠者は言って、はっと口元を手で覆った。
「いえ、もちろん、判官殿がお忙しくされているのは、はい。理解しております」
急にかしこまった田代冠者の様子に、こらえきれず義経は笑った。そういう義経を見て、田代冠者もにかっと笑う。日焼けした浅黒い肌に白い歯が映える。八重歯だった。
「そんなに退屈か?」
「退屈、というか」
田代冠者が顎に手をあてた。
「藤戸の話、聞きましたよ。佐々木殿が馬で海を渡ったと。それを聞いたらやっぱり羨ましくて。おれは御所の警護で鈴鹿山にも行けなかったんですよ。だから」
田代冠者は若く素直であり、嫌味のない人柄だ。しかも、頼朝がはじめて旗揚げをした石橋山の合戦のころからつき従っていた源氏方であれば、坂東のものたちからの信頼も厚い。
使えるかもしれない――義経は思った。
屋島を攻めるにしたって兵はいる。しかし義経がみずから動けば、院にも、また鎌倉からの目付役であるものたちにも気取られるであろう。義経麾下のものたちとて同じことだった。
坂東の主だったものたちから、自分たちが異質なものとして捉えられていることを、義経はしみじみ知っていた。
しかし田代冠者はどうだろうか。田代冠者のことなど、鎌倉も院も、だれも警戒すらしていないだろう。ではひとつ、抱きこんでみようか。
「ここだけの話、年明け早々、わたしは西海に行くつもりだ」
「ええ!」
田代冠者の目が輝くのを、義経は見逃さなかった。
「そこで頼みがある」
「はい、なんでしょう」
「お前のように功名を立てたがっている輩に、このことを伝えて欲しい。内密にな」
「と、申されますと」
「あんまり騒がしくすると貴人たちがうるさいだろう」
「ああ、ええ。確かに」
貴族を理由にすると、田代冠者は曖昧な笑みを浮かべた。坂東武者の魂には、貴族に対する濁った感情があることを、義経はよく心得ていた。ようするに貴族が嫌いなのだ。そのあたりが西国の武者とはちがう。
「もうあまり日がないからな。内密に支度を調えておいてほしいのさ。できるだけ、若くて爽やかなのがいい」
「若くて爽やか?」
「わたしのいうこと、聞いてくれるでしょ」
「そりゃあ、おれたちにとって、九郎判官は英雄ですから」
「そうか」
「あなたのように勇敢に戦いたいんです」
義経は少し顎をひき、上目づかいで田代冠者の顔を見つめた。
「そう言われると、こそばゆいな。わたしはお前を信じるよ」
義経が口角をあげると、田代冠者の頬が赤く染まった。
「鎌倉へは」
やりとりを聞いていた継信が言う。
「もちろん使いをやるさ。鎌倉にも、九州にもね」
「さようですか。では、おれは失礼します。判官殿、この田代信綱にお任せください!」
田代冠者は嬉しそうに笑うと一礼し、東市のほうに姿を消した。
「九郎殿、鎌倉へはどのように」
田代冠者と別れ館に戻ると、それまで押し黙っていた継信が声を発した。
「鎌倉へ、なにを」
「ですから、年明け早々に屋島を攻めると」
「言わなくていいからね」
「は?」
継信が目を見開いた。
「鎌倉の兄上がそんなこと許すと思う?」
「思えません」
「鎌倉と京都は距離があるんだから、手出し口出しされる前に振りきれば良いってことさ」
「またそういうことを」
継信が眉をひそめる。
「院には。せめて院からのお許しをいただかなければ」
「院にもまだ伏せろ」
「九郎殿。あなたは判官なのですよ。そして鎌倉殿の弟君であり、在京する軍勢の大将です」
「継信」
義経は、継信の口を手で塞いだ。
「いいか。院の近臣どもには議論をさせちゃだめなのさ。先例だなんだと、おのれの責任逃れの口実ばかりを探す肝の小さい役人どもに、馬鹿正直に話をして、はいそうですかってなると思うか?」
「では」
「こういうのは、どさくさに紛れて押しとおすのが最上の手段だ。僧兵なんかがやるみたいにね」
叱られたと思ったのだろう。肩を落としている継信に、義経は片目をつむってみせた。
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