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渡辺津
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「わかったろ。あいつ、ああいう奴なんだよ」
「ああ、うん……でも、たぶん悪気は」
「なかったら許されるっつぅのかよ」
潮風が心地良い。白くまるい月明かりが、景高の輪郭をあやすように撫でていた。波の音が言葉の端々にある棘を拾いあげていく。
景高の言葉から推測だが、田代冠者は景時の命で義経に近づいていたのだろう。景高はすぐに察したようだったが、景季はあの性格である。気がつかなくて、ぼろを出した。
しかし、それは最初から景時が子供たちに伝えておけばよかっただけなのではないか。通信は思っていたが口には出さなかった。
どうも景高は父親の思考を察することができて、はじめて一人前だと思っている節がある。それが信頼の証だと言いたげであった。
「腹立つんだよ。ああやって、嫡男であることが当たりまえみたいな顔しやがって」
「……」
「ああ。お前も嫡男だろうけど」
自分がすでに当主であることは黙っておこう――通信は肝に銘じた。
「おれの母親は、ああいう遊女だよ。橋本で謳いや舞なんかもする」
ぽつねんと、景高がこぼす。
「別に珍しい話じゃねぇよ。ただ、あの馬鹿が親父の後継者なのは納得いかねぇ」
「まあ、そうなんでしょうねぇ」
「あいつなんにも考えてないじゃんね」
強く同意を求められ、通信は思わず視線をそらした。
「いっつも、ああなんだよ。なんでおれは」
「よし。平次、帰ろう。帰って飲みなおそう」
通信は力強く景高の肩を抱いた。
「お前、結構いい奴だよなぁ」
景高が、しみじみと言う。
いい奴でもなんでもない――と通信は思った。景高の気持ちを、自分がわかってやることは、できないだろう。理解するつもりもない。ただ、盲目的に父親を慕う気持ちは共感できるものがある。愚痴くらいは聞いてやろうという気分になっただけだ。
宿に近づくと香ばしい匂いが漂ってきた。日が落ちてからだいぶ経っているというのに、前庭のあたりから白い煙があがっている。
「え、浮夏ちゃん、ほんと? これ、ほんとに栄螺なの?」
「栄螺ですよ」
「だって棘ないじゃん」
「棘ないけど
」
風にのって景時と浮夏の声が聞こえてくる。門をくぐり土間のほうをみると、橙色に揺らぐ光が見えた。
「棘ないのなんて栄螺じゃないよ。似てるだけで毒あったりするんじゃないの」
「梶原殿、怖がり?」
土間をのぞき見る景高と通信の姿に気づいて、浮夏がにんまりと笑った。浮夏のかたわらでは景時が焚火で両手を炙っている。彼らの足もとには空になった瓶子が数本転がっていた。
「丁度いい。おい、河野四郎。お前ちょっと毒味しろ」
「毒味」
「旨いんだけどなぁ」
浮夏が栄螺を通信に手渡した。
通信は栄螺の蓋を取った。湯気とともに立ちのぼる磯の香りが、額の裏側をくすぐる。これは絶対旨いやつだ――通信は唾を飲みこむ。遊女たちのもとで酒はそれなりに飲んだが、食べ物にはほとんどありつけていなかった。
貝殻の縁に唇を押しつけて、まず汁を吸う。海水の塩味と胆のほろ苦さが、身から出た旨味と混じりあって、ただ焼いただけなのに驚くべき幸福感をもたらす。
海はやはり偉大である。一人で感じ入っていると、浮夏が楊枝をさしだしてきた。
「どこ行ってたの」
「加賀屋」
「にしては帰ってくるの早いじゃない」
「九郎判官もいた」
「相変わらず好きねぇ、彼も」
浮夏には目もくれずに、景高は景時の隣にしゃがみこんで同じように手を炙る。
通信は二人を横目で見ながら、栄螺の身をほじくり返した。貝殻を左手でくるりと廻しながら、慎重にほじくりだして、まるごと頬張った。
「親父、兄貴がやらかした」
「なにを?」
「田代、あれ潜りこませてたんだろ」
「はぁん、想像はつく。まあ、しゃあないわな」
「親父は兄貴に甘ぇんだよ」
「いや、おれお前にも甘いと思うぞ」
栄螺の身の顎にくる歯ごたえはたまらない。通信はよくよく咀嚼した。砂抜きがしっかりされていて、ざりっとした不快な歯触りがない。浮夏は丁寧な仕事をしている。通信は浮夏を見なおした。
「四郎、行くぞ」
「あ、まって平次」
「早くこいよ。飲みなおすぞ」
ぶっきらぼうに言って、景高は室内に入ってしまった。景時がなにを思っているのか、通信にはわからない。
「毒、ないですよ」
通信が言うと、景時が鼻を鳴らした。浮夏の手から栄螺を受けとる。
「ちょ、ちょ、河野殿」
「はい」
景高を追って室内に入ろうとしたとき、浮夏に呼びとめられた。
「これ、持ってきな。美味しいから」
皿を突きつけられる。見ると焼いた貝と魚が盛りつけられていた。
「ありがとうございます」
通信は浮夏と景時に、小さく頭をさげた。
「ああ、うん……でも、たぶん悪気は」
「なかったら許されるっつぅのかよ」
潮風が心地良い。白くまるい月明かりが、景高の輪郭をあやすように撫でていた。波の音が言葉の端々にある棘を拾いあげていく。
景高の言葉から推測だが、田代冠者は景時の命で義経に近づいていたのだろう。景高はすぐに察したようだったが、景季はあの性格である。気がつかなくて、ぼろを出した。
しかし、それは最初から景時が子供たちに伝えておけばよかっただけなのではないか。通信は思っていたが口には出さなかった。
どうも景高は父親の思考を察することができて、はじめて一人前だと思っている節がある。それが信頼の証だと言いたげであった。
「腹立つんだよ。ああやって、嫡男であることが当たりまえみたいな顔しやがって」
「……」
「ああ。お前も嫡男だろうけど」
自分がすでに当主であることは黙っておこう――通信は肝に銘じた。
「おれの母親は、ああいう遊女だよ。橋本で謳いや舞なんかもする」
ぽつねんと、景高がこぼす。
「別に珍しい話じゃねぇよ。ただ、あの馬鹿が親父の後継者なのは納得いかねぇ」
「まあ、そうなんでしょうねぇ」
「あいつなんにも考えてないじゃんね」
強く同意を求められ、通信は思わず視線をそらした。
「いっつも、ああなんだよ。なんでおれは」
「よし。平次、帰ろう。帰って飲みなおそう」
通信は力強く景高の肩を抱いた。
「お前、結構いい奴だよなぁ」
景高が、しみじみと言う。
いい奴でもなんでもない――と通信は思った。景高の気持ちを、自分がわかってやることは、できないだろう。理解するつもりもない。ただ、盲目的に父親を慕う気持ちは共感できるものがある。愚痴くらいは聞いてやろうという気分になっただけだ。
宿に近づくと香ばしい匂いが漂ってきた。日が落ちてからだいぶ経っているというのに、前庭のあたりから白い煙があがっている。
「え、浮夏ちゃん、ほんと? これ、ほんとに栄螺なの?」
「栄螺ですよ」
「だって棘ないじゃん」
「棘ないけど
」
風にのって景時と浮夏の声が聞こえてくる。門をくぐり土間のほうをみると、橙色に揺らぐ光が見えた。
「棘ないのなんて栄螺じゃないよ。似てるだけで毒あったりするんじゃないの」
「梶原殿、怖がり?」
土間をのぞき見る景高と通信の姿に気づいて、浮夏がにんまりと笑った。浮夏のかたわらでは景時が焚火で両手を炙っている。彼らの足もとには空になった瓶子が数本転がっていた。
「丁度いい。おい、河野四郎。お前ちょっと毒味しろ」
「毒味」
「旨いんだけどなぁ」
浮夏が栄螺を通信に手渡した。
通信は栄螺の蓋を取った。湯気とともに立ちのぼる磯の香りが、額の裏側をくすぐる。これは絶対旨いやつだ――通信は唾を飲みこむ。遊女たちのもとで酒はそれなりに飲んだが、食べ物にはほとんどありつけていなかった。
貝殻の縁に唇を押しつけて、まず汁を吸う。海水の塩味と胆のほろ苦さが、身から出た旨味と混じりあって、ただ焼いただけなのに驚くべき幸福感をもたらす。
海はやはり偉大である。一人で感じ入っていると、浮夏が楊枝をさしだしてきた。
「どこ行ってたの」
「加賀屋」
「にしては帰ってくるの早いじゃない」
「九郎判官もいた」
「相変わらず好きねぇ、彼も」
浮夏には目もくれずに、景高は景時の隣にしゃがみこんで同じように手を炙る。
通信は二人を横目で見ながら、栄螺の身をほじくり返した。貝殻を左手でくるりと廻しながら、慎重にほじくりだして、まるごと頬張った。
「親父、兄貴がやらかした」
「なにを?」
「田代、あれ潜りこませてたんだろ」
「はぁん、想像はつく。まあ、しゃあないわな」
「親父は兄貴に甘ぇんだよ」
「いや、おれお前にも甘いと思うぞ」
栄螺の身の顎にくる歯ごたえはたまらない。通信はよくよく咀嚼した。砂抜きがしっかりされていて、ざりっとした不快な歯触りがない。浮夏は丁寧な仕事をしている。通信は浮夏を見なおした。
「四郎、行くぞ」
「あ、まって平次」
「早くこいよ。飲みなおすぞ」
ぶっきらぼうに言って、景高は室内に入ってしまった。景時がなにを思っているのか、通信にはわからない。
「毒、ないですよ」
通信が言うと、景時が鼻を鳴らした。浮夏の手から栄螺を受けとる。
「ちょ、ちょ、河野殿」
「はい」
景高を追って室内に入ろうとしたとき、浮夏に呼びとめられた。
「これ、持ってきな。美味しいから」
皿を突きつけられる。見ると焼いた貝と魚が盛りつけられていた。
「ありがとうございます」
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