屋島に咲く

モトコ

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能登守

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 その夜、義経は屋島に戻りたくないと言い、通信らの舟で一夜を明かした。

 波が穏やかに凪いでいる。あの春の嵐が嘘のように、雲を照らす月が優しく滲む、おぼろ月夜だった。黒々とした海は、すべてを飲み込んでしまいそうで恐ろしげではあるが、そのぶん空に瞬く星々が見るもののこころを慰めてくれる。

 通信たちは潮騒に包まれていた。

 夜どおし馬で駆け続けたあげく、苦手な舟に乗るはめになった景平は、さすがに疲れたのだろう。日が沈む頃には糸の切れた人形のようにぐったりとして、そのまま夕餉もとらずに寝てしまっていた。

 少しばかりの酒と糒と味噌を腹におさめる。火照った頬を海風に撫でられると、うっとりとして目蓋が落ちてしまいそうになった。

 あれからずっと義経は表情をなくしていた。一人波を見つめ、膝を抱えて座りこんでいる。なんと言葉をかけて良いものか、通信には見当もつかなかった。

 義経のことも、教経のことも、通信はよく知らない。そういう自分が紡ぐ言葉は、きっと薄っぺらいものでしかない。

「忠快は、兄を慕っていたんでしょうか」

 ぽつり、と義経がこぼした。通信は、忠快という僧がなにものなのかも知らなかった。義経の言いかたから察するに、仏門に入っていた教経の弟なのだろう。

「忠快というひとが、なにを思っているのか、おれにはわかりませんね」
「剃髪してそれなりの地位を得ていた僧がなぜ」
「仏門のことは」

 夢うつつの通信は、義経の独り言のような問いに、うわごとのように相槌をうつ。少し間の抜けた通信の返答を、義経は否定しなかった。どこかに胸のうちをこぼしておきたいだけなのだろう。

「それもそうでしたね。わたしは稚児までで剃髪はしておりませんが、わたしの兄である全成は還俗して鎌倉に来ましたから、それと似ているのかとも思ったのですけれど」
「ふぅん」
「まあ、教経と名乗ることの意味はわかります。猛将教経の名を恐れるものは多いですから。しかし」
「雰囲気がそっくりでしたからね」

 通信は仰向けに寝転がった。目蓋を閉じたまま耳を澄ませる。舟に寄せくる鈍い波の音が、徐々に意識を浚っていく。

「わからないんですよね。もしかしたら、わたしが教経だと思って戦ってきた男は――一ノ谷で獄門に処した男は、本当は」
「考えすぎですよ」

 通信は、あくびをかみ殺した。

「そうですね。あの教経が忠快と決まったわけではないですしね」
「とっつかまえて、問いただすのが早い」
「まあ、ね」

 義経の返事は、いつになく歯切れが悪かった。あるいは、通信にはそう聞こえただけなのかもしれない。そのあと、義経がなにか言葉を重ねていたとしても、もう通信には聞こえていなかったからだ。


 梶原景時の率いる百四十艘の大舟団が到着したのは、翌朝のことだった。

 舟の上で夜を明かした義経が、舳先に立って、じっと舟団の近づく様子を眺めていた。通信には、義経がなにを思っているのか想像がつかなかった。

 ややあって、一艘の舟が近づいてきた。なんともいえない苦い表情を浮かべた景時が、腕組みをして立っている。景時を見つけた義経が舳先に駆け寄った。

「このっ、遅刻魔! 役立たず! 六日の菖蒲! 枯れ枝じじい!」

 華奢な体のどこからそんな声が出るのだろう、というような大音声だった。義経は顔を真っ赤にしながら、よくわからない罵声を浴びせ続けた。罵倒され続けている景時のほうが、どうしていいものやらと目を剥いて固まっている。

 やがて気がすんだのか、義経は肩で息をすると、今度はぼろぼろと泣きだした。恥ずかしげもなく大声で、まるで子供が癇癪を起こしたときのような泣きかただった。その背をさする者はいない。通信も、景平も、そうすべきではないと思っていた。

 それは、こころのうちに溜まっていた泥を、すべて出しきっているようにも見えた。そういう義経を、困ったような呆れたような顔で眺めていた景時が、途中からどうでもよくなったのだろう。手を叩いて笑いだした。

 つられたのか、はたまた自分でも面白おかしくしくなったのか。義経もまた、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたままで笑いだした。

 屋島の海で男二人が笑っている光景は異様でしかない。

 しかしだれも、それを咎めるものはいなかった。

「しょうがない、しきりなおしだわ。判官殿」
「ひどい仕打ちです。梶原殿。あまりにもひどい」

 義経が鼻をすすった。

「恨むべきはあなたではありません。わかってます。けれど気がおさまらないので。以降はわたしにつきっきりで従ってもらいますからね!」
「善処しますよ。はいはい、善処しますってば」

 景時も、半ばやけくそになっているのだろう。前のめりで叫んでいる。

 はたして、これは徒労だったのだろうか。通信は頭を振った。そうではない。自分にとっては、この結果でこそ良かったのだと思いを改める。

 義経も、景時も、河野水軍の名を胸に刻んだことだろう。これはきっと大きな前進に違いない。たとえ取り逃がしたとしてもだ。

 逃げていった平家の舟団は、おそらく西海の島々を点々とするはずだ――そう通信は思っていた。そのときこそが腕の見せどころだ。

 決戦の場はどこになるだろうか。周防のあたりだろうか。それとも彦島のあたりだろうか。なんでも構わない。とにかく食らいついていくしかない

 帆が風をはらんで膨らんでいる。白波が舟の橫腹にあたっては、砕けて散った。

 西海の大海原が、この場に集ったものたちの、すべてを包みこんでいる。銀の鱗のようなさざなみが、そこかしこで輝いていた。

〈了〉
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