屋島に咲く

モトコ

文字の大きさ
48 / 48
能登守

4

しおりを挟む
 その夜、義経は屋島に戻りたくないと言い、通信らの舟で一夜を明かした。

 波が穏やかに凪いでいる。あの春の嵐が嘘のように、雲を照らす月が優しく滲む、おぼろ月夜だった。黒々とした海は、すべてを飲み込んでしまいそうで恐ろしげではあるが、そのぶん空に瞬く星々が見るもののこころを慰めてくれる。

 通信たちは潮騒に包まれていた。

 夜どおし馬で駆け続けたあげく、苦手な舟に乗るはめになった景平は、さすがに疲れたのだろう。日が沈む頃には糸の切れた人形のようにぐったりとして、そのまま夕餉もとらずに寝てしまっていた。

 少しばかりの酒と糒と味噌を腹におさめる。火照った頬を海風に撫でられると、うっとりとして目蓋が落ちてしまいそうになった。

 あれからずっと義経は表情をなくしていた。一人波を見つめ、膝を抱えて座りこんでいる。なんと言葉をかけて良いものか、通信には見当もつかなかった。

 義経のことも、教経のことも、通信はよく知らない。そういう自分が紡ぐ言葉は、きっと薄っぺらいものでしかない。

「忠快は、兄を慕っていたんでしょうか」

 ぽつり、と義経がこぼした。通信は、忠快という僧がなにものなのかも知らなかった。義経の言いかたから察するに、仏門に入っていた教経の弟なのだろう。

「忠快というひとが、なにを思っているのか、おれにはわかりませんね」
「剃髪してそれなりの地位を得ていた僧がなぜ」
「仏門のことは」

 夢うつつの通信は、義経の独り言のような問いに、うわごとのように相槌をうつ。少し間の抜けた通信の返答を、義経は否定しなかった。どこかに胸のうちをこぼしておきたいだけなのだろう。

「それもそうでしたね。わたしは稚児までで剃髪はしておりませんが、わたしの兄である全成は還俗して鎌倉に来ましたから、それと似ているのかとも思ったのですけれど」
「ふぅん」
「まあ、教経と名乗ることの意味はわかります。猛将教経の名を恐れるものは多いですから。しかし」
「雰囲気がそっくりでしたからね」

 通信は仰向けに寝転がった。目蓋を閉じたまま耳を澄ませる。舟に寄せくる鈍い波の音が、徐々に意識を浚っていく。

「わからないんですよね。もしかしたら、わたしが教経だと思って戦ってきた男は――一ノ谷で獄門に処した男は、本当は」
「考えすぎですよ」

 通信は、あくびをかみ殺した。

「そうですね。あの教経が忠快と決まったわけではないですしね」
「とっつかまえて、問いただすのが早い」
「まあ、ね」

 義経の返事は、いつになく歯切れが悪かった。あるいは、通信にはそう聞こえただけなのかもしれない。そのあと、義経がなにか言葉を重ねていたとしても、もう通信には聞こえていなかったからだ。


 梶原景時の率いる百四十艘の大舟団が到着したのは、翌朝のことだった。

 舟の上で夜を明かした義経が、舳先に立って、じっと舟団の近づく様子を眺めていた。通信には、義経がなにを思っているのか想像がつかなかった。

 ややあって、一艘の舟が近づいてきた。なんともいえない苦い表情を浮かべた景時が、腕組みをして立っている。景時を見つけた義経が舳先に駆け寄った。

「このっ、遅刻魔! 役立たず! 六日の菖蒲! 枯れ枝じじい!」

 華奢な体のどこからそんな声が出るのだろう、というような大音声だった。義経は顔を真っ赤にしながら、よくわからない罵声を浴びせ続けた。罵倒され続けている景時のほうが、どうしていいものやらと目を剥いて固まっている。

 やがて気がすんだのか、義経は肩で息をすると、今度はぼろぼろと泣きだした。恥ずかしげもなく大声で、まるで子供が癇癪を起こしたときのような泣きかただった。その背をさする者はいない。通信も、景平も、そうすべきではないと思っていた。

 それは、こころのうちに溜まっていた泥を、すべて出しきっているようにも見えた。そういう義経を、困ったような呆れたような顔で眺めていた景時が、途中からどうでもよくなったのだろう。手を叩いて笑いだした。

 つられたのか、はたまた自分でも面白おかしくしくなったのか。義経もまた、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたままで笑いだした。

 屋島の海で男二人が笑っている光景は異様でしかない。

 しかしだれも、それを咎めるものはいなかった。

「しょうがない、しきりなおしだわ。判官殿」
「ひどい仕打ちです。梶原殿。あまりにもひどい」

 義経が鼻をすすった。

「恨むべきはあなたではありません。わかってます。けれど気がおさまらないので。以降はわたしにつきっきりで従ってもらいますからね!」
「善処しますよ。はいはい、善処しますってば」

 景時も、半ばやけくそになっているのだろう。前のめりで叫んでいる。

 はたして、これは徒労だったのだろうか。通信は頭を振った。そうではない。自分にとっては、この結果でこそ良かったのだと思いを改める。

 義経も、景時も、河野水軍の名を胸に刻んだことだろう。これはきっと大きな前進に違いない。たとえ取り逃がしたとしてもだ。

 逃げていった平家の舟団は、おそらく西海の島々を点々とするはずだ――そう通信は思っていた。そのときこそが腕の見せどころだ。

 決戦の場はどこになるだろうか。周防のあたりだろうか。それとも彦島のあたりだろうか。なんでも構わない。とにかく食らいついていくしかない

 帆が風をはらんで膨らんでいる。白波が舟の橫腹にあたっては、砕けて散った。

 西海の大海原が、この場に集ったものたちの、すべてを包みこんでいる。銀の鱗のようなさざなみが、そこかしこで輝いていた。

〈了〉
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

ソラノカケラ    ⦅Shattered Skies⦆

みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始 台湾側は地の利を生かし善戦するも 人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される 背に腹を変えられなくなった台湾政府は 傭兵を雇うことを決定 世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった これは、その中の1人 台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと 舞時景都と 台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと 佐世野榛名のコンビによる 台湾開放戦を描いた物語である ※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

処理中です...