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能登守
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「かかれや、ものども!」
通信は、思い切り太刀を振りあげる。通信の舟と二艘の小型舟をのぞき、他の舟が一斉に回転して帆をおろした。
北西の風を受けた舟は潮の流れに背き、凄まじい早さで通信らの舟を追い抜いていく。それらは平家の大型舟の舷に取りつくと、すぐさま矢で水夫を射殺した。
漕ぎ手を失った大型舟は、どうしようもなく、ただ波に漂っている。そこに勢いを殺せず後続の舟が追突した。味方同士で切り揉みしているところに、雄叫びをあげながら、信家や七郎の率いる兵が乗りこんでいく。
教経に続いていた舟団は、急に突進してきた河野の兵に驚き逃げ惑った。矢を射るものや、太刀を振るうものはいいが、愚かにも甲冑姿のまま海に飛びこむものまでいた。兵の取り乱しかたに嫌気がさしたのか、あるいは容赦なく射貫かれることを嫌ったか。徐々に平家方の舟を漕ぐ水夫たちが、海中に櫂を捨てはじめた。
あれよというまに、後続の舟と教経の舟との間に距離ができる。
義経は、平家水軍の士気が低いというところまで読んでいたのかもしれない。とくに水夫らは、命じられて櫂を握っている漁夫などが多い。仲間の水夫が武士たちに狙われて、射殺されるところを見てしまっては、それ以上舟を漕ごうという気は起きないだろう。それも加味したうえで、能登守の自分への執着をも利用した。
おれはまだ、ここまで物事を弁えていない――通信は己を恥じた。しかし同時にみずからを鼓舞する。まだなにも終わってはいない。本当の敵は通信たちの真後ろにいるのだ。
「お前たち、気張れ。ここが正念場と思え!」
通信は声を張りあげた。飛びくる矢も恐れずに、水夫たちを励ます。教経を振りきるように前進しながら風上へまわった。
そこで一気に舟を回転させた。舳先を向けて教経と対峙する。
後方の舟が乱戦状態になっていることには気がついているようだ。しかし教経はまったく動揺を見せなかった。味方のことなど気にもかけず、義経を狙い、矢を放ち続けている。
通信と景平は、兵に掻盾を二重三重に背負わせ、その後ろに立ち、弓の弦を引き絞った。続けざまに射る。しかし、景平の矢は舟に届かない。通信の矢は舟に届くものの、ことごとく教経に当たらなかった。通信は歯噛みする。いまほど弓の修練を怠ってきたことを悔いたことはない。
「四郎! お前の弓をおれに寄こせ!」
景平が苛立ち叫び、通信の手から弓を奪いとった。被っていた兜をうち捨てると、ぎりぎりと弦をひく。景平の弓手が筋張っていた。口元に寄せた矢羽が呼気で震えている。
ひゅっと息を吐いた景平が、弓を少し上に向けた。ほんの一瞬、わずかばかりの時。覚悟とともに動きが止まる。その瞬間の景平は、惚れ惚れするような姿だった。
つっ――と放たれた矢が風を切る。
うねる波を越え、潮風を割き、教経の兜の吹返しに当たった。
教経の兜が後方に吹き飛ばされる。
景平が腕をさすっていた。隙を晒した教経に、続けざまに矢を射かけるのは難しそうだ。
「お前、これ三人張りとか嘘だろ。痛ってぇ」
「あははは」
笑う通信のすぐ横で、義経がわなないていた。眉間に皺を寄せ、唇を噛み、こわばった形相で教経を睨めつけている。
「お前はだれだ?」
舟の上に立つ教経は、僧侶のように頭を丸めていた。矢の勢いにのけぞって、たたらを踏む。兜を落とされたことに気がついて、そのつるりとした頭を一度撫でまわした。
「能登守教経」
「嘘を言うな!」
義経が歯を剥いた。
「お前が能登守教経であるはずがない。あるはずがないだろう!」
「いいや」
教経がゆっくりと首を横に振る。
「還俗して教経の二文字を名乗っている。ゆえにおれは教経よ。九郎判官」
「認めるか、そんな」
通信は教経の素顔を見たことがない。能登守教経を名乗っていた人物が、恐ろしいということしか知らない。ゆえに目の前の人物の存在感は、教経そのものでしかなかった。本人であろうがなかろうが、関係がないのではないだろうか。この教経が言うように。
「おれは、なんのために。継信は、なんのために」
義経の唇から、はらはらと海に言葉が舞い落ちる。
目の前の男が死んだ家臣の仇敵であることは事実だ。ただそれが思い描いていた男ではなかったというだけのことではないのか。このあと義経が源氏の兵たちに向かって、あれは能登守教経ではないと、本物の教経は一ノ谷合戦で死んでいると、そう宣言することには意味がある。徒労だったとは思わない。
教経が、さっと手を振って合図を送る。平家方の水夫たちが櫂を漕ぎだした。
「待て、逃げるのか」
「ああ。時は稼がせてもらった」
さきほどまで近くに布陣していたはずの平家の舟団本隊が、はるか沖のほうに漂っているのが見える。
「どうせ水軍はお前たちだけではないのだろう」
ああそうか。教経は教経で、義経を追っているように見せかけて、逆に義経に自らを追わせていたのか――義経と教経の間で交わされた戦略の読みあいに、通信は唸った。
自分は果たしてどこまで考えることができるだろうか。睨みあう敵味方の男二人が、とても大きな存在に見える。
「因果応報。まこと仏のことわりとは、我々には理解のおよばぬところにあるようだ。嵐は確かにお前に味方したのだろう九郎義経。しかし御仏は等しくすべてのものに平等なのだ。お前を助けた神の嵐は、我々をも救った。ただそれだけのことだ」
教経が頭巾をかぶった。
「我らは御所を失った。我らは多くのものを失った。きっとこれからも失い続けるのだろう。業はいつか必ずおのが身にかえる」
「お前、もしや忠快か」
義経の問いには答えず、悠々と袖を風に翻した教経は、笑っているようにも見えた。
「退け!」
号令とともに平家の舟団が沖へと移動をはじめた。それを追う気力も兵力も通信たちは持ちあわせておらず、ただ見送ることしかできない。義経が遠くのほうを眺めながら、呆然と立ちつくしていた。
通信は、思い切り太刀を振りあげる。通信の舟と二艘の小型舟をのぞき、他の舟が一斉に回転して帆をおろした。
北西の風を受けた舟は潮の流れに背き、凄まじい早さで通信らの舟を追い抜いていく。それらは平家の大型舟の舷に取りつくと、すぐさま矢で水夫を射殺した。
漕ぎ手を失った大型舟は、どうしようもなく、ただ波に漂っている。そこに勢いを殺せず後続の舟が追突した。味方同士で切り揉みしているところに、雄叫びをあげながら、信家や七郎の率いる兵が乗りこんでいく。
教経に続いていた舟団は、急に突進してきた河野の兵に驚き逃げ惑った。矢を射るものや、太刀を振るうものはいいが、愚かにも甲冑姿のまま海に飛びこむものまでいた。兵の取り乱しかたに嫌気がさしたのか、あるいは容赦なく射貫かれることを嫌ったか。徐々に平家方の舟を漕ぐ水夫たちが、海中に櫂を捨てはじめた。
あれよというまに、後続の舟と教経の舟との間に距離ができる。
義経は、平家水軍の士気が低いというところまで読んでいたのかもしれない。とくに水夫らは、命じられて櫂を握っている漁夫などが多い。仲間の水夫が武士たちに狙われて、射殺されるところを見てしまっては、それ以上舟を漕ごうという気は起きないだろう。それも加味したうえで、能登守の自分への執着をも利用した。
おれはまだ、ここまで物事を弁えていない――通信は己を恥じた。しかし同時にみずからを鼓舞する。まだなにも終わってはいない。本当の敵は通信たちの真後ろにいるのだ。
「お前たち、気張れ。ここが正念場と思え!」
通信は声を張りあげた。飛びくる矢も恐れずに、水夫たちを励ます。教経を振りきるように前進しながら風上へまわった。
そこで一気に舟を回転させた。舳先を向けて教経と対峙する。
後方の舟が乱戦状態になっていることには気がついているようだ。しかし教経はまったく動揺を見せなかった。味方のことなど気にもかけず、義経を狙い、矢を放ち続けている。
通信と景平は、兵に掻盾を二重三重に背負わせ、その後ろに立ち、弓の弦を引き絞った。続けざまに射る。しかし、景平の矢は舟に届かない。通信の矢は舟に届くものの、ことごとく教経に当たらなかった。通信は歯噛みする。いまほど弓の修練を怠ってきたことを悔いたことはない。
「四郎! お前の弓をおれに寄こせ!」
景平が苛立ち叫び、通信の手から弓を奪いとった。被っていた兜をうち捨てると、ぎりぎりと弦をひく。景平の弓手が筋張っていた。口元に寄せた矢羽が呼気で震えている。
ひゅっと息を吐いた景平が、弓を少し上に向けた。ほんの一瞬、わずかばかりの時。覚悟とともに動きが止まる。その瞬間の景平は、惚れ惚れするような姿だった。
つっ――と放たれた矢が風を切る。
うねる波を越え、潮風を割き、教経の兜の吹返しに当たった。
教経の兜が後方に吹き飛ばされる。
景平が腕をさすっていた。隙を晒した教経に、続けざまに矢を射かけるのは難しそうだ。
「お前、これ三人張りとか嘘だろ。痛ってぇ」
「あははは」
笑う通信のすぐ横で、義経がわなないていた。眉間に皺を寄せ、唇を噛み、こわばった形相で教経を睨めつけている。
「お前はだれだ?」
舟の上に立つ教経は、僧侶のように頭を丸めていた。矢の勢いにのけぞって、たたらを踏む。兜を落とされたことに気がついて、そのつるりとした頭を一度撫でまわした。
「能登守教経」
「嘘を言うな!」
義経が歯を剥いた。
「お前が能登守教経であるはずがない。あるはずがないだろう!」
「いいや」
教経がゆっくりと首を横に振る。
「還俗して教経の二文字を名乗っている。ゆえにおれは教経よ。九郎判官」
「認めるか、そんな」
通信は教経の素顔を見たことがない。能登守教経を名乗っていた人物が、恐ろしいということしか知らない。ゆえに目の前の人物の存在感は、教経そのものでしかなかった。本人であろうがなかろうが、関係がないのではないだろうか。この教経が言うように。
「おれは、なんのために。継信は、なんのために」
義経の唇から、はらはらと海に言葉が舞い落ちる。
目の前の男が死んだ家臣の仇敵であることは事実だ。ただそれが思い描いていた男ではなかったというだけのことではないのか。このあと義経が源氏の兵たちに向かって、あれは能登守教経ではないと、本物の教経は一ノ谷合戦で死んでいると、そう宣言することには意味がある。徒労だったとは思わない。
教経が、さっと手を振って合図を送る。平家方の水夫たちが櫂を漕ぎだした。
「待て、逃げるのか」
「ああ。時は稼がせてもらった」
さきほどまで近くに布陣していたはずの平家の舟団本隊が、はるか沖のほうに漂っているのが見える。
「どうせ水軍はお前たちだけではないのだろう」
ああそうか。教経は教経で、義経を追っているように見せかけて、逆に義経に自らを追わせていたのか――義経と教経の間で交わされた戦略の読みあいに、通信は唸った。
自分は果たしてどこまで考えることができるだろうか。睨みあう敵味方の男二人が、とても大きな存在に見える。
「因果応報。まこと仏のことわりとは、我々には理解のおよばぬところにあるようだ。嵐は確かにお前に味方したのだろう九郎義経。しかし御仏は等しくすべてのものに平等なのだ。お前を助けた神の嵐は、我々をも救った。ただそれだけのことだ」
教経が頭巾をかぶった。
「我らは御所を失った。我らは多くのものを失った。きっとこれからも失い続けるのだろう。業はいつか必ずおのが身にかえる」
「お前、もしや忠快か」
義経の問いには答えず、悠々と袖を風に翻した教経は、笑っているようにも見えた。
「退け!」
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