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第1話

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 郵便局での仕事を終えた私は、傘に落ちる雨音を聴きながら、少し離れた月極駐車場に向かって歩いていた。
 雨に滲む夕暮れのクルマのヘッドライトと赤いテールランプが、まるで真珠とルビーの首飾りのように連なっていた。
 私は時々、クルマの水しぶきを避けるため、傘を足元へと移動させながら溜息を吐いた。

 (レインブーツにすれば良かった)

 週末に買ったばかりのお気に入りのスウェード靴が台無しだったからだ。
 でも私はそんな梅雨が嫌いではなかった。

 谷口沙恵、射手座生まれの41才、独身。

 親戚の叔父の強力なコネもあり、私はお嬢様大学を出ると地元の大きな郵便局に就職した。
 職場ではいろんな男性から声を掛けられたが、個人的にお付き合いをしたいと思える人はなく、グループ交際に留めていた。

 私は東京での学生時代、北村毅という社会人と2年間、親には内緒で同棲をしていた。
 だがそれは母にはバレていた。

 「沙恵、赤ちゃんだけは駄目よ」

 毅とは結婚するつもりだった。
 でも、彼は同僚の女の子とヨロシクやっていて、

 「ごめん沙恵、子供が出来た。別れてくれ」

 それがあまりに彼らしく、志村けんのコントを観ているようで笑えた。
 彼とはそれっきりだった。
 私は彼を本気で愛してはいなかったのかもしれない。
 そして気がつけばいつの間にか、婚期を逃してしまっていた。
 いくつかお見合いも勧められたが、どれも体を許せるような相手ではなかった。
 そうしているうちに41。
 時が経つのは早いものだ。

 「無理して合わない人と結婚して苦労するなら、このまま自由な独身でもいいかもしれない」

 私は恋愛から自然と距離を置くようになっていた。
 母はよく口癖のように言っていた。

 「私のことは心配しなくてもいいのよ、沙恵ちゃんの人生なんだからね?」

 そんな母も最近では私の結婚を諦めたようで、何も言わなくなった。
 年老いてゆく母。
 5年前に父を亡くし、母はすっかり衰えてしまっていた。
 見た目にはまだ50才にしか見えない母と歩いていると、よく姉妹に間違えられた。
 それが母にはとてもうれしそうだった。

 「姉妹ですかだって うふっ」




 「夕食はすき焼きにしましょう」と母からLINEが届いていたので、私はクルマでいつものスーパーに向かって雨の中を走っていた。
 ワルツを指揮するコンダクターのように、ワイパーがフロントガラスの雨をスウィープしていた。


 
 スーパーで買物カートを押しながら、牛肉、しらたき、春菊に焼き豆腐、そしてシイタケを買った。
 もちろんビールと赤ワインも。
 恋人のいない私の週末の楽しみは、お酒を飲んで大好きな韓流ドラマを見て泣くのがルーティンだったのだ。


 レジに並んでいた時、ネギを買うのを忘れたことに気付いた私は、野菜売場に戻りネギを取ろうとした時、誤ってネギを床に落としてしまった。
 そのネギを私が拾い上げようとすると、横からスーツ姿の男性がそれを拾ってくれた。
 するとその男性は落ちたネギを自分の籠の中に入れると、陳列された新しいネギを品定めして、私の籠にそれを入れた。

 「このネギなら良さそうだ。床に落ちたネギは私が使いましょう。
 私ならウイルスも平気ですから。あはははは
 ここのネギは甘味があって美味しいですよ。
 いいなあ、お嬢さんは今夜はすき焼きですか? 実に羨ましい、アハハハハ」

 私の籠を覗いて、その男は笑いながら立ち去って行った。
 ほんのりと、シャネルの『ガブリエル』の香りを残して。
 とても涼しげな瞳をした、私と同じくらいの年令の男性だった。




 家に帰り、すき焼きを食べながらその話を母にすると、

 「映画やドラマならさあ、オレンジだけどね? ネギじゃね?」

 私と母は笑った。

 「本当よね? ネギだもんね? あはははは」



 それから2週間が過ぎた頃、その男性が再び私の前に現れた。
 郵便カウンターにやって来たその男性は、

 「すみません、これを速達で送りたいのですが」
 「はい、お預かりいたします」
 「あれ、ネギのお嬢さん?」
 「あっ、あの時のネギオジ・・・、ネギの人ですか?」

 私は思わず「ネギオジサン」と言いかけてしまい、慌てた。

 「郵便局の人だったんですね?」

 紺色のダークスーツにペイズリーのタイを締め、その男性は大人の色気の漂うダンディーおじさんだった。


 
 帰りに寄ったスーパーで、また彼と会った。
 今度は私から声を掛けた。

 「今、お帰りですか?」
 「ええ、独身だと外食が増えてしまい、栄養が偏ってしまって。
 ジムに行ってもなんにもなりませんよね? アハハハ
 見て下さい、今日は冷し中華に挑戦です!」
 「あら、美味しそう。
 私は母とふたりきりなので、今日は手抜きです。
 今日は簡単にお刺身にしようかなー」
 「今度、いっしょにランチしませんか?」
 「えっ?」
 「ナンパですよナンパ。
 あなたがとても素敵だったから、つい・・・。
 私は東日本銀行の結城満といいます」

 その男性は名刺入れから名刺を出すと、私に差し出した。

 「無理にとは言いません。気が向いたらで結構ですので、ぜひ電話して下さい。
 それ、私の携帯番号ですから。それじゃあまた」

 それが結城満との馴れ初めだった。
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