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第3話

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 待ち焦がれていた金曜日がやって来た。
 仕事をしていても、早く退社時間にならないかと気が気ではなかった。


 ようやく退社時間となり、私はあらかじめ用意して来たブラとお揃いのショーツにトイレで着替え、入念に化粧をし、髪を整えた。
 それを見ていた後輩の綾子に声を掛けられた。
 
 「あれれ谷口先輩、もしかしてデートですか?」
 「そんなんじゃないわよ、ただの食事よ」
 「普通、それをデートって言うんですよ。イタリアンですか? それともお寿司?」
 「焼肉」
 「えーっ、ということはもう長いんですね? 先輩と彼氏さん?」

 私はお気に入りのルージュを引きながら言った。

 「ううん、今日が初めて」
 「初めてのデートが焼肉デートですか? お口はニンニク臭くなって、煙に燻されて?」
 「そうだけど、ヘンかなあ? 初デートが焼肉デートって?」
 「初デートならナイフとフォークじゃないですか? それからお洒落なBARに移動して、そのまま気分が乗ればホテルでお泊りってパターンでしょー?」
 「そうかしら? そんな気取ったデートじゃ疲れるだけじゃない?
 お酒も飲めるしお肉も食べて、その方が気を遣わなくて済むと思うけどなあ。
 それに・・・」
 「それに?」
 「その方が相手の本心もよく見えるしね?」
 「流石は谷口先輩、郵便局の『美魔女』ですね? 恐れ入りました。
 でも私はイタリアンの方がいいなあ、だって、ひとりでは行けないじゃないですかー」
 「私みたいなオバサンになると全然平気よ。ラーメン屋さんだって牛丼屋さんだってひとりで行けるわよ」
 「おひとり様ってやつですね? 先輩、頑張って来て下さいね、月曜日にそのデートの話、聞かせて下さいね」
 「何を頑張るのよ?」
 「色々ですよ。あはははは じゃあ、お先でーす」

 綾子は去年、同じ郵便局に勤める井上と結婚した新婚の28才、いつも楽しそうだった。
 夫の方は別な郵便局へと配置転換になり、そろそろ子作りをして、来年からは産休に入りたいという。

 私は今、41才。今の医学では産めない年齢でもないが、問題は産んだ後だ。
 中年になってかなり体力が落ちた私に、果たして子育てが出来るだろうか?
 しかも仕事をしながら・・・。

 (あれ? 私、何を考えているんだろう?)

 鏡に映る自分を見て、そんなことを考えている自分がおかしかった。




 私は定刻よりも10分早く、駅の西口に到着した。

 (ちょっと早かったかしら?)

 すると結城さんもすでに待ち合わせ場所に到着していて私を見つけると大きく手を振り、駆け寄って来た。
 私も小さく手を振り返した。ちょっと恥ずかしかった。


 「今日、あなたに会えるかと思うと、昨日からよく眠れませんでしたよ。
 うれしすぎて30分も早く着いちゃいました。
 やっとフライデー・ナイトですね?」
 「そうですね?」
 「いい店があるんですよ、僕のお得意さんのお店なんですけどね、凄く旨いんです」
 「なんだかワクワクしちゃいます!」
 「じゃあ、タクシーで行きましょう。
 歩けない距離ではないのですが、あなたは今日、折角のお洒落なヒールなので」 

 さりげない気遣い、若い男には出来ない事だった。
 久しくこんなお姫様的な扱いを受けていなかった。



 タクシーに乗って店に向かう途中、カーブを曲がる時に結城さんとカラダが触れ、ドキッとした。
 男の人のカラダに触れることなど、もう10年以上もなかった。
 ふと彼を見ると、何も気にしてはいない様子だった。

 (やっぱり女の人に慣れているのかしら?)



 お店に着いた。
 入り口は凛として、内水と盛り塩がされ、きれいな暖簾が掛けてあった。

 玄関の壁の一輪挿しには紫のフリージアの花が活けてある。
 そのさりげない心遣いに店主の料理に対する想いが伝わる。
 

 結城さんにエスコートされて店に入ると、私は息を呑んだ。

 「どこからこんなに? お客さんでいっぱい」
 「すごいでしょう? 中々入れないんですよ、このお店。
 中はこんなに広くて綺麗なんです。
 こんばんは女将さーん、今日は美人をお連れしましたよー」
 「いらっしゃい、結城さん。
 珍しいわね? こんな素敵な女の人と一緒だなんて。
 いつもオジサンばかりなのに? 今日はデートね?
 奥のラブラブ席、取って置いたわよ」
 「あざーす! じゃあよろしくお願いします」

 女将さんの「いつもはオジサンばかりなのに」という言葉に私は少し安心した。
  
 60前後と言ったところだろうか? 女将さんは品のある和服美人だった。
 結城さんとはまるで姉と弟とのように親しげだった。


 テーブルに着くと、彼は私に椅子を引いてくれた。
 
 (えっ? こんなことまでしてくれる人なんて、今時いるの? しかも自然に)
 
 「飲み物は何がいいですか?」
 「じゃあ、とりあえずビールで」
 「いいなあ、取り敢えずビールって言う人。
 うちの課の連中と飲みに行くと、アイツらね? やれカシオレだの、カルピスサワーだのって、そんなソフトドリンクみたいなのばっかり注文するんですよ。
 やっぱり最初はビールですよね?」
 「ごめんなさい、私にはそんなカワイイお酒は似合わないので。うふっ」
 「何だか今日はとても楽しい飲み会になりそうですね?
 嫌いな物はありますか?」
 「ありません。結城さんにお任せします。
 人には好き嫌いがありますけど、食べ物はみんな好きです」
 「ますます気に入りました。ここの焼肉は最高ですよ。
 私も好き嫌いはありません! なんでも食べます!
 すみませーん! 注文いいですかあー!」

 私はこの時、結城さんにすっかり魅了されてしまった。

 「そう言えばまだ、お名前を伺っていませんでしたよね?」
 「谷口です、谷口沙恵です」
 「いいお名前ですね? 沙恵さんって呼んでもいいですか?」
 「はい・・・」

 男性から下の名前で呼ばれる。
 私はちょっぴり恥ずかしかった。でも、うれしい。

 (結城沙恵。悪くはない、きゃーっ!) 

 楽しい酒宴が始まろうとしていた。
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