上 下
12 / 15

第12話

しおりを挟む
 私たちはお寿司屋さんで会うことになった。

 「さあ沢山食べてね? ここは兄の驕りですから」

 私は黙っていた。

 「兄から沙恵さんはキライな物はないと聞いてますけど、大丈夫ですか?」
 「はい・・・、大丈夫です」
 「ウチの家族はみんな好き嫌いがないんですよ。
 別に親から強制されたわけでもないんですけどね?
 大将、それじゃあ「おまかせ」でお願いします」
 「かしこまりました」
 「あと姉に生ひとつ、お願いします。
 本当は私も飲みたいんだけど、今授乳中だしね?
 ああ、私も早く飲みたいなあ」

 花音さんに「姉」と言われた時、嬉しかった。
 私は妹か弟が欲しかったからだ。

 「私ね、お姉ちゃんが欲しかったんです。
 だから沙恵さんがお兄ちゃんと結婚してくれたらすごくうれしい。
 イヤですか? 私のお姉ちゃんになるのって?」
 「とんでもない! 私も花音さんみたいな妹が出来ると喜んでいたわ。でもね・・・」
 「わかります、沙恵さんの気持ち。私も女だから。
 でも私、兄と沙恵さんにはしあわせになって欲しいんです。ふたりとも、大好きだから。
 初めて沙恵さんに会った時、息が止まりそうになるくらい驚きました。あまりにも美佐子さんにそっくりだったから。
 美佐子さんと兄は銀行の同期入社で、とても素敵な人でした。
 美佐子さんを亡くした兄は、見ていられないくらい、落ち込んでいました。
 それから兄は誰ともお付き合いすることもなく、あの歳になるまで独りでした。
 そんな兄が沙恵さんと出会って、変わったんです。
 とっても明るくなりました。
 「俺はこの人なら結婚したいという人に初めて出会えた」って、本当に喜んでいたんです。
 もし、お兄ちゃんが沙恵さんを美佐子さんの代わりとして好きになったとすれば、結婚したいなんて思わないと思うんですよ。
 だって沙恵さんは美佐子さんじゃないから。
 沙恵さんのことが本当に好きだからこそ、沙恵さんと結婚したいと思ったんだと思います。
 沙恵さんの大切な人生を、自分のために犠牲にするような兄ではありません。絶対に。
 兄の中ではまだ美佐子さんは死んではいなかったんだと思います。
 美佐子さんの死を受け入れることができなかったんです。
 沙恵さんに出会うまでは。
 沙恵さんと出会って、兄はようやく美佐子さんの死を受け止めることが出来たのだと思います」

 そう言って花音さんはヒラメを摘まみ、私は生ビールを飲んだ。

 「沙恵さん、私が口を挟むことではないことは分かっています。それは兄と沙恵さんが決めることだから。
 でも、たとえお兄ちゃんと沙恵さんが別れても、私は沙恵さんの妹でいたいと思っています。駄目ですか?」
 「ううん、花音ちゃんありがとう。凄くうれしいわ。
 頼りないお姉ちゃんだけど、これからもよろしくね?」
 「じゃあもう一度、考えてくれるんですね? 兄の事?」

 私は微笑んで頷いた。
 私はようやく自分の気持ちに整理がついた。

 「ああ、良かったあー。別れるなんて言われたらどうしようかと思っちゃった。
 さあどんどん食べましょう! 沙恵

 私には夫よりも先に、かわいい妹が出来た。
 

 満からLINEが届いた。


    もう一度 僕に
    チャンスをくれ


 私はすぐにそれに返信をした。


           一度だけよ

    ありがとう 今
    電話してもいい
    ?

           今 花音さんと
           お食事している
           から 後で電話
           する

    了解



 「お兄ちゃんからですか?」
 「うん」
 「兄のこと、よろしくお願いします」
 「こちらこそ」

 私たちは本当の姉妹のようだった。





 そして木曜日の夜、彼とホテルの展望レストランで食事をすることになった。
 私はきちんとメイクをして美容室にも行って、彼の好みの白の下着をつけて出掛けた。


 久しぶりに会った彼は、すっかりやつれていた。
 その哀愁に満ちた表情が、大人の魅力をより一層湛えていた。


 「ごめん、彼女のこと黙っていて。
 僕は怖かったんだ、沙恵を失うことが」

 私は平静を装い、ブルーベリーソースの掛けられた牛テールにナイフをいれ、口に運んだ。

 (まだ駄目、すぐに許しちゃダメよ。落ち着くのよ沙恵)

 「もう一度、やり直せないか? 俺たち?」
 「何を?」

 私は彼を上目遣いに睨み、わざと冷たく言った。
 
 「恋愛を最初から、君と出会う前からやり直したいんだ」
 「無理」
 「どうしてもか?」
 「たとえば私に死んじゃった恋人がいて、その人があなたに似ていたら、あなたはどう思うかしら?」
 「ごめん・・・、沙恵の気持ちも考えずに、俺は酷いことをした。
 でも僕は、沙恵を愛しているからと言って、美佐子のことを忘れたくはないんだ。
 君と出会って、彼女がようやくいい思い出になったからだ。
 僕は沙恵を必ずしあわせにする。沙恵という素敵なひとりの女性としてだ。
 それが彼女への供養であり、美佐子も君となら祝福してくれると思う。
 僕も君も、いつかは美佐子と同じように死ぬわけだからね?」

 私はそれには答えず、ワインを飲んだ。

 「じゃあ僕と賭けをしないか?」
 「賭け?」
 「来年のホノルルマラソンに俺はエントリーする。
 そこで俺が100位以内に入れたら、僕と結婚してくれ。
 もし駄目だったら君のことは諦めるよ。
 僕は必ず100位以内に入って見せる。
 それが僕の君への愛の証だ」

 (ホノルルマラソン? そんなことをして、もし100位以内に入れなかったらどうするつもりなのよ。バカ)

 「わかったわ、じゃあ必ず100位以内に入ってみせて」
 「必ず100位以内に入ってみせるよ。
 そして結婚しよう。僕のお嫁さんになって欲しい」
 「ちゃんと私をあなたのお嫁さんにしてね? 100位以内に必ず入って」

 私たちはそのまま、下のホテルで久しぶりの逢瀬を楽しんだ。
 


 「ホノルルマラソンってどのくらいの人たちが参加するの?」
 「3万人くらいかなあ?」
 「3万人!」
 「そうだよ、だから100位以内には入りたいと思うんだ」

 私はベッドから跳ね起きた。

 「そんなの無理でしょう!」
 「やってみたいんだ。簡単じゃないからこそ挑戦したい。それが僕の沙恵に対するケジメだ。
 僕は沙恵と結婚したいんだ。そんなことも出来なくて君をしあわせには出来ないからね?」
 「でも・・・」
 「もちろん簡単じゃないよ、これから毎日トレーニングをする。100位以内に入るためにね?
 沙恵としあわせになるために。
 大丈夫、これでもインターハイの時、フルマラソンで5位だったから」
 「それは高校生の時の話でしょう?」
 「まあ、そうだけど」

 彼は私を抱き締めて言った。

 「必ず100位以内に入ってみせる。どれだけ僕が沙恵を愛しているか、証明してみせる。
 沙恵と結婚するために」
 
 (嬉しかった。でも100位以内に入ることが出来なければ結婚は出来ないの? そんなの絶対にイヤ!)
 
 彼の決意は揺るぎない物だった。
しおりを挟む

処理中です...