恋人たちの旅路

菊池昭仁

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エリーゼのために

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 「遼もピアノ、弾けるんだね?」
 「これしか弾けないけどな?」

 私は美佳子の家のピアノで、『エリーゼのために』を弾いてみせた。

  
 「本当はベートーヴェンの楽譜には「テレーゼのために」と書かれていたらしい。ベートーヴェンの酷い癖字のおかげで「T」が「E」になって見えたらしい。
 テレーゼ・マルファッティはベートーヴェンと付き合っていたようで、彼女の書類の中から発見されたその楽譜は、彼女のために作曲された物だと思われていたが、最近になってドイツのある音楽研究者がこの曲はテレーゼのためではなく、オペラ歌手のエリザベート・レッケルのために書かれた物だと主張した。
 つまり『エリーゼのために』で誤りではなかったという話だ。
 エリザベートのドイツ語圏での短縮形は「エリーゼ」だからね?」
 「へえー、知らなかった。
 私、この曲好きよ。
 単純な主題でもいろんな技巧が試される曲でもあるわよね?」
 「ベートーヴェンは凄いよな? 彼のエリザベートに対する切なくて複雑な想いが込められている。
 ピアノの詩人がショパンなら、ベートーヴェンはピアノの恋愛小説家だ」
 「どうして?」
 「彼女は既に作曲家と結婚していた。ベートーヴェンのエリザベートへの果たせぬ深い想いがこの曲には込められていたはずだ」
 「ねえ、アンコールしてもいい?」
 「イヤだよ、ミカの方が上手いくせに。お前が弾けよ」
 「しょうがないなあ、じゃあ弾くね? 遼のために・・・」


 美佳子はピアノの前に座り、彼女の美しい白い手が鍵盤に踊った。
 レースのカーテンから差し込む午後の気怠い光に包まれて、美佳子は『エリーゼのために』を弾いた。

 美佳子が弾く『エリーゼのために』は、私の心を抉った。

 そう、私もまたエリザベートと同様、私にも伴侶が存在していたからだ。
 美佳子は何度も『エリーゼのために』を弾いた。

 彼女は泣いていた。

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