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第1話 白昼夢

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 病院の中庭のベンチで、私は噴水が作る虹を見ていた。
 時折吹き抜けていくそよ風に、その虹はオーロラのように揺れた。

 昨日受けた緊急手術で右脇腹がズキズキと痛んだ。まだカラダに力が入らない。
 私は点滴スタンドを引き摺りながら、少し怠け気味の太陽に自分を晒すためにここへやって来たのだった。

 元来、ペシミスティックな私には身寄りもなく、ひとりで暮らしていた。
 入院を知らせる者も、そして見舞いに訪れる者もいない。
 今まではそれで良かったが、こんな時は心細くなるものだ。
 このまま病院で死ねば私は無縁仏となり、集合墓地に葬られることになるだろう。
 こうして午後の光に包まれていると、魂が自分の肉体から離脱し、死神に迎えられてもいいとさえ思う。
 体に痛みはあるが、気持ちはとても穏やかだった。


 「おじさん、病気なの?」
 

 いつの間にか私のベンチの隣には、私の子供の頃に流行っていた仮面ライダーのパジャマを着た、小学一年生くらいのサラサラの髪をした男の子が座っていた。
 
 「ああ、そうだよ、おじさんは病気なんだ」
 「じゃあボクと同じだね? ボクも病気なんだ」
 「いつからこの病院にいるんだ?」
 「ずっと前からだよ」
 「そうか? この病院、メシは旨いよな?」
 「うん、ボクは朝ごはんの時に出る、ヤクルトジョアのマスカット味が好きだよ」
 「オジサンは鯖の味噌煮が好きだ」


 私は15年前に別れた、息子の孝明のことを思い出していた。
 孝明もこの子のように静かで大人しい子供だった。
 おもちゃを強請ねだることもなく、いつも静かに本を読んでいる子供だった。
 おそらくそれは、女房の陽子の影響だろう。陽子は読書が好きな女だった。

 陽子は物静かな女だった。
 いつも淡々として、感情を表に出すような女ではなかった。
 だがそんな彼女が感情を剥き出しにして、泣き叫びながら何度も私を叩いた。
 それは私の不倫を知った時だった。
 その時付き合っていた女が、陽子に私との離婚を迫ったのだ。

 「旦那さんと別れて下さい!」と。

 人間は良心というものを持って生まれて来る。
 それゆえ、罪を犯した者はその罪を隠蔽しようとする気持ちと、同時にその罪を告白したいという衝動に駆られるものだ。
 私は罰を受けることを選択し、女とも別れ、そして家族からも捨てられることになった。


 「おじさんはよくがんばったよ」
 「おじさんは全然がんばってなんかいないよ、家族も好きな人もみんな不幸にした。
 そしてどっちも失くしたんだ、おじさんは」
 「そうだね? でもしょうがないよ、それがおじさんの定めだから」
 
 振り向くと、もうそこに子供の姿はなかった。
 どうやら私は夢を見ていたようだった。
 まだ麻酔から完全に醒めていないのか、あるいは夢と現実とが混濁していたのかもしれい。
 
 どこから飛んで来たのか、気の早いモンシロチョウがひらひらと目の前を横切り、青空に溶けて消えた。
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