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第9話 屋上でタバコを吸う女

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 採血室にはたくさんの病人たちで溢れていた。
 5つある採血ブースはすべて埋まっている。

 ようやく私の順番が回って来た。
 私は担当の検査技師に整理券を渡した。
 その検査技師は30才前後の美しい女で、ひときわ目立っていた。
 髪をアップにして止め、少し憂いを秘めた聡明な表情をした女だった。

 「生年月日とお名前をお願いします」
 「昭和37年8月10日。室井洋一郎です」
 「ありがとうございます。では親指を強く握って下さい。
 本日は三本採血させていただきます。少しチクッとしますね」
 
  いつ針を刺したのかさえ気付かないほど、彼女は私の静脈を正確に捉えた。
 ドス黒い血が試験管の中に溜まっていく。

 「私の血は真っ黒ですね?」
 「みんな同じですよ、静脈の血液はこれが普通です」

 その技師は初めて笑ってみせた。眩しいほどの笑顔だった。
 まるで雲間から突然現れた、雨上がりの太陽のように。

 ネームプレートには「今野路子」と記されていた。

 「技師さんに流れている血は、おそらくロゼワインのような血液なんでしょうね?」
 「ふふっ、室井さんよりもっと黒いですよ」

 3本の採血が終了した。

 「5分ほど、押えていて下さい」

 絆創膏を貼ってくれたその手はとても冷たかった。

 「ありがとうございました」
 「お大事に」

 混雑していたので、私はすぐにその場を離れた。



 昼食を終え、気晴らしに屋上へ出ると路子がタバコを吸っていた。
 邪魔されたくはないだろうと思い、私は話し掛けずに階段を下りて行こうとした。
 すると彼女の方から呼び止められた。

 「ごめんなさいね、気を遣わせちゃって。
 禁煙を勧める技師のくせに、自分からタバコなんか吸って」
 「いえ、外の空気が吸いたかっただけですから、どこでもいいんです。暇潰しですから」
 「そうね、今日はとてもいいお天気だから」

 路子は缶コーヒーに吸いかけのタバコを落とした。

 「すいません、せっかくの休憩時間を邪魔してしまって」
 「ううん、全然」
 「さっきはありがとうございました。
 採血、全然痛くありませんでした。注射や点滴の時もあなたにしてもらいたいくらいですよ」
 「うふっ、それはどうも。でも臨床検査技師は注射は出来ない決まりなの、残念ながら採血だけ」
 「学校を出てからずっとこの病院なんですか?」
 「いいえ、半年前からよ」
 「そうだったんですか?」
 「私、前の病院から追い出されちゃったの」

 路子の顔が曇った。

 「・・・」
 「私の父が殺されたの。その病院の医療ミスで」

 私は戸惑った。聞いてはいけないことを聞いた気がしたからだ。

 「医療過誤ですか?」
 「ええ」

 採血をしただけの患者の私に、路子は衝撃的な事実を打ち明けてくれた。

 「まだ初期の大腸がんだったので、内視鏡でガンを切除したんだけど、術後、すごく痛がってね。
 その時の大腸の縫合が悪く、腹腔内に便が漏れてしまっていたらしく、すぐに開腹手術したんだけどそれっきり。父は病院に殺されたのよ」
 「医療知識と病院内部をよく知っているから大変でしたね?
 そして病院を告発して裁判に?」
 「私と母は院長と事務長に呼ばれて多少の「口止め料」を渡されてそれで終わり。そしてこの病院を紹介されたという訳」
 「テレビドラマみたいな話ですね?」
 「それ以上よ。その時事務長から言われたわ、「まさか医療裁判なんて考えていないよね? そうなると君を雇う病院はどこにもなくなるということはわかっているよね?」とも脅された」
 「最低だな? その病院」
 「そんな話、ざらにあるわよ」

 すると彼女はタバコを取り出し、再び火を点けた。

 「ごめんなさいね、ヘンな話をして」

 彼女は私に煙がいかないように顔を背けて煙を吐いた。

 「私にもタバコを1本、貰えませんか?」
 
 路子は私にタバコを差し出し、火を点けてくれた。

 「タバコはこの病院に来てから吸うようになったの。不安と悲しみと憎しみを抑えるために」

 路子の目から涙が溢れて落ちた。
 そして彼女は声を上げて泣いた。
 私はこれほど悲しい女の泪を見たことがなかった。
 彼女は左手でネットフェンスをギュッと掴んだ。

 「ごめんなさいね、こんな話を聞かせてしまって。う、ううっ・・・」
 「大変だったんですね? 今野さんも」
 「不思議なの、知り合いでもないあなたに、どうしてこんなに素直になれるのかが。でも何故かあなたには聞いて欲しかった」
 「今野さん、またここにタバコを吸いに来てもいいですか?」

 路子はコクリと頷き、タバコを消して階段を下りていった。
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