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第1話
しおりを挟む一生を終えるその瞬間まで
人生の結末を知ることはない
停滞している温帯低気圧の影響で、だらだらと長雨が続いていた。
月曜日の飲み屋街は人も疎らで、ヘッドライトに照らされた雨が、キラキラと輝いていた。
雨に濡れた、スナックのくたびれた電飾看板が、夜の地方都市の哀愁を滲ませていた。
19時半。
仕事を定時で切り上げた私は、月曜日のルーティーンを始めた。
女房の由紀子とは7年前に死別して、ふたりの娘はそれぞれ結婚して家を出て行った。
ハウスメーカーの支店長になって23年、すでに欲はなく、会社から与えられたノルマだけを無難にこなし、それ以上の成果を求めることはしなかった。
仕事、仕事に明け暮れた人生。私は妻の由紀子を看取ってやることさえ出来なかった。
病院に駆けつけると、私は娘たちから激しく罵倒された。
「こんな時にも仕事なの! お父さんのバカ! ママは、ママはね、もう死んじゃったんだよ!」
「ママがかわいそうだよ。何でもっと早く来てくれなかったの?」
そう言って、娘の彩子と遥は私を責めた。
私はまだ温かい由紀子の頬に触れ、号泣した。
27才で結婚し、私は狂ったように働いた。
30歳の最年少で支店長になった。
異例の昇進ということもあり、周囲からは嫉妬まれ、また同時に尊敬もされた。
1年間で休んだのはたったの二日だけだった。
子供の日と娘たちの誕生日。
盆もクリスマスも正月もなく、私は働いた。
家に帰るのはいつも日付が変わってからだった。
帰宅して風呂に入り、寝るだけの毎日。
会社からは表彰され、収入も増えたが、私は籠の中に入れられたハムスターのように、毎日必死に鉄輪を回し続けていた。
女房たちの念願だったマイホームも建て、生活は豊かにはなったが、その家には夫の私も、父親の私も不在だった。
その家は「母子家庭」になってしまっていた。
だが今では「働き方改革」とかで、22時になるとオフィスは自動的に消灯になり、本社とのパソコンのオンラインは遮断された。
完全週休二日制が鉄則で、余った有給休暇は必ず消化せよと、人事労務から勧告までされる。
ラクな時代になった。
そして仕事に面白味もなくなってしまった。
住宅の営業マンの報酬はいいが、それなりにノルマはキツイ。
数千万円の住宅は、そう簡単に売れるものではない。
3カ月で1棟の契約もなければ、会社から退職勧告が申し渡されてしまう。
年4件の契約は必達だった。
営業本部から課されたノルマで身体や精神を患う者もいた。
同僚の支店長は展示場で首を吊った。
住宅営業マンの離婚率は高く、不倫に走る者も少なくはない。
自分に保険まで掛けて組む、数千万円という住宅ローンの重圧。
顧客からすれば、家づくりは自分の人生を賭けた真剣勝負だ。
その顧客の多岐に渡る要望に応えようとすれば、時間などいくらあっても足りはしない。
そんな営業マンの労苦もお構いなしに、自分本位に浴びせられるクレームやトラブルの数々。
言った言わないの虚しい遣り取りもある。
それでも家が完成して、「やっぱり大森さんに頼んで本当に良かったわ」と言われると、すべての苦労が吹き飛んでしまい、またこの仕事を続けてしまうのだ。
その繰り返しだった。
岩槻の自宅は長女の彩子が自分の家族と一緒に暮らすことになり、私は福島の小名浜に単身赴任をしていた。
行きつけの『葵寿司』は雨の月曜日ということもあり、お客は私の他に中年のスーツ姿の男がひとり、カウンターの隅で酒を飲み、大将と話していた。
大将と女将はいつものように私を温かく迎えてくれた。
「いらっしゃい大森さん! よく降るねー、いつものでいいかい?」
「それでお願いします」
「ハイきた!」
私は女将の出してくれた生ビールを、喉を鳴らして一気に飲み干した。
「大森さんはいつも美味しそうに飲むわねえ」
「女将、お替り」
私は空になったジョッキを女将に向けて見せた。
「一杯目のビールは堪えらんねえよなあ?」
「この一杯のために働いているようなもんですからね?」
「その旨いビールには地元「目光り」の唐揚げと、ヒラメのお造りだよな?」
「あとドブ漬けもお願いします」
「あいよ」
鮨をいくつか摘まんで腹を満たした私は、傘を差して鈴子ママのスナックに、水溜まりを避けながら夜の街を歩いてた。
スナック『潮騒』はボックス席が4つあり、スナックとしては少しゆったりとした店だった。
店の内装は昭和の匂いが色濃く残る、壁には海老茶色のビロードが貼られ、常連客は漁師や港湾労働者が多く、カラオケも演歌歌謡が中心の店だった。
「こんばんは。これ少しだけどおみやげ」
「あらいらっしゃい大森ちゃん! いつもありがとう!
また『葵寿司』で食べて来たのね?
茜ちゃーん、大森さんからお寿司の差し入れよー。
一緒にいただきましょう」
「大森さん、こんばんは~。私、お寿司大好き!」
茜は次女の遥と同じ、23才だった。
週末はいつも鈴子ママを入れて4人で店を回していたが、平日は茜と鈴子ママのふたりだけだった。
茜が作ってくれた水割りを一口飲んだ時、店のドアのカウベルが鳴った。
「おはようございます。椿という流しの演歌歌手です。一曲いかがですか?」
「ごめんねー、今日はお客さん一人だけなのー、また金曜日にでも来てみたら?」
鈴子ママは私に気を遣い、その演歌歌手をやんわりと断わってくれた。
「1曲でいいんです! 1曲1,000円で歌わせて下さい! お願いします!」
大きな花柄のワンピースが、傘の雫で濡れていた。
ストッキングには泥ハネもあるようだった。
「じゃあ1曲やってもらおうか?」
「あら、やさしいお客さんで良かったじゃない?」
「ありがとうございます! 何を歌いましょう? どうぞリクエストして下さい!」
「北島三郎の『兄弟仁義』はどうだ? 歌えるか?」
「はい! ぜひ歌わせて下さい!」
(女でこの歌を歌いこなせるのは藤圭子しかいない。
果たしてカネを払うだけの価値のある歌手なのか?)
私は然程、期待はしていなかった。
雨の中、場末のスナックを回り続けるこの流しの女に、若い頃の自分を重ねてしまい、同情しただけだった。
この歌は歌い手の技量を測る、リトマス試験紙のような物だった。
イントロが流れ始めた。
すると驚いたことに、この女は藤圭子の歌う前セリフをしっかりと語り始めたのだ。
セリフの間合いといい、それを語る演技はある意味、歌よりも難しい。
彼女はそれをさりげなくあっさりとこなした。
花は七色 人間十色
顔は違えど 心はひとつ
そして椿は歌い始めた。
親の血を引く 兄弟よりも
堅い契りの義兄弟・・・
(作詞:星野哲郎)
鳥肌が立った。
酒とタバコ、歌いすぎてのハスキーボイス。
それだけではない、彼女の歌には女の切ない情念が込められていた。
好きな女を捨て、義理のある親分のために見知らぬ人を切る、男の苦悩と切なさ。
歌詞の情景が目に浮かび上がって来る。
この曲は作詞家の星野哲郎がレコード会社を移籍することになり、北島三郎に挨拶に訪れた際、
「俺たちは義兄弟じゃねえか」
と言って、北島三郎も一緒に移籍をしたというエピソードに着想された歌詞だと言う。
まさに『兄弟仁義』なのだ。
損得で義理を欠かない北島の侠気があった。
私たちはすっかり椿の歌声に魅了されてしまった。
それが流しの演歌歌手、椿との出会いだった。
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