【完結】寒椿(作品240421)

菊池昭仁

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第1話

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             一生を終えるその瞬間まで
             人生の結末を知ることはない


 停滞している温帯低気圧の影響で、だらだらと長雨が続いていた。
 月曜日の飲み屋街は人も疎らで、ヘッドライトに照らされた雨が、キラキラと輝いていた。
 雨に濡れた、スナックのくたびれた電飾看板が、夜の地方都市の哀愁を滲ませていた。

 19時半。
 仕事を定時で切り上げた私は、月曜日のルーティーンを始めた。

 女房の由紀子とは7年前に死別して、ふたりの娘はそれぞれ結婚して家を出て行った。
 ハウスメーカーの支店長になって23年、すでに欲はなく、会社から与えられたノルマだけを無難にこなし、それ以上の成果を求めることはしなかった。
 仕事、仕事に明け暮れた人生。私は妻の由紀子を看取ってやることさえ出来なかった。


 病院に駆けつけると、私は娘たちから激しく罵倒された。

 「こんな時にも仕事なの! お父さんのバカ! ママは、ママはね、もう死んじゃったんだよ!」
 「ママがかわいそうだよ。何でもっと早く来てくれなかったの?」

 そう言って、娘の彩子と遥は私を責めた。
 私はまだ温かい由紀子の頬に触れ、号泣した。


 
 27才で結婚し、私は狂ったように働いた。
 30歳の最年少で支店長になった。
 異例の昇進ということもあり、周囲からは嫉妬まれ、また同時に尊敬もされた。
 1年間で休んだのはたったの二日だけだった。
 
 子供の日と娘たちの誕生日。
 盆もクリスマスも正月もなく、私は働いた。
 家に帰るのはいつも日付が変わってからだった。
 帰宅して風呂に入り、寝るだけの毎日。
 会社からは表彰され、収入も増えたが、私は籠の中に入れられたハムスターのように、毎日必死に鉄輪を回し続けていた。

 女房たちの念願だったマイホームも建て、生活は豊かにはなったが、その家には夫の私も、父親の私も不在だった。  
 その家は「母子家庭」になってしまっていた。


 だが今では「働き方改革」とかで、22時になるとオフィスは自動的に消灯になり、本社とのパソコンのオンラインは遮断された。
 完全週休二日制が鉄則で、余った有給休暇は必ず消化せよと、人事労務から勧告までされる。
 ラクな時代になった。
 そして仕事に面白味もなくなってしまった。

 住宅の営業マンの報酬はいいが、それなりにノルマはキツイ。
 数千万円の住宅は、そう簡単に売れるものではない。
 3カ月で1棟の契約もなければ、会社から退職勧告が申し渡されてしまう。
 年4件の契約は必達だった。
 営業本部から課されたノルマで身体や精神を患う者もいた。
 同僚の支店長は展示場で首を吊った。
 
 住宅営業マンの離婚率は高く、不倫に走る者も少なくはない。
 自分に保険まで掛けて組む、数千万円という住宅ローンの重圧。
 顧客からすれば、家づくりは自分の人生を賭けた真剣勝負だ。
 その顧客の多岐に渡る要望に応えようとすれば、時間などいくらあっても足りはしない。
 そんな営業マンの労苦もお構いなしに、自分本位に浴びせられるクレームやトラブルの数々。
 言った言わないの虚しい遣り取りもある。

 それでも家が完成して、「やっぱり大森さんに頼んで本当に良かったわ」と言われると、すべての苦労が吹き飛んでしまい、またこの仕事を続けてしまうのだ。
 その繰り返しだった。
 岩槻の自宅は長女の彩子が自分の家族と一緒に暮らすことになり、私は福島の小名浜に単身赴任をしていた。


 行きつけの『葵寿司』は雨の月曜日ということもあり、お客は私の他に中年のスーツ姿の男がひとり、カウンターの隅で酒を飲み、大将と話していた。
 大将と女将はいつものように私を温かく迎えてくれた。

 「いらっしゃい大森さん! よく降るねー、いつものでいいかい?」
 「それでお願いします」
 「ハイきた!」

 私は女将の出してくれた生ビールを、喉を鳴らして一気に飲み干した。

 「大森さんはいつも美味しそうに飲むわねえ」
 「女将、お替り」

 私は空になったジョッキを女将に向けて見せた。

 「一杯目のビールは堪えらんねえよなあ?」
 「この一杯のために働いているようなもんですからね?」
 「その旨いビールには地元「目光り」の唐揚げと、ヒラメのお造りだよな?」
 「あとドブ漬けもお願いします」
 「あいよ」


 鮨をいくつか摘まんで腹を満たした私は、傘を差して鈴子ママのスナックに、水溜まりを避けながら夜の街を歩いてた。


 スナック『潮騒』はボックス席が4つあり、スナックとしては少しゆったりとした店だった。
 店の内装は昭和の匂いが色濃く残る、壁には海老茶色のビロードが貼られ、常連客は漁師や港湾労働者が多く、カラオケも演歌歌謡が中心の店だった。

 
 「こんばんは。これ少しだけどおみやげ」
 「あらいらっしゃい大森ちゃん! いつもありがとう!
 また『葵寿司』で食べて来たのね?
 茜ちゃーん、大森さんからお寿司の差し入れよー。
 一緒にいただきましょう」
 「大森さん、こんばんは~。私、お寿司大好き!」

 茜は次女の遥と同じ、23才だった。
 週末はいつも鈴子ママを入れて4人で店を回していたが、平日は茜と鈴子ママのふたりだけだった。

 茜が作ってくれた水割りを一口飲んだ時、店のドアのカウベルが鳴った。


 「おはようございます。椿という流しの演歌歌手です。一曲いかがですか?」
 「ごめんねー、今日はお客さん一人だけなのー、また金曜日にでも来てみたら?」

 鈴子ママは私に気を遣い、その演歌歌手をやんわりと断わってくれた。

 「1曲でいいんです! 1曲1,000円で歌わせて下さい! お願いします!」

 大きな花柄のワンピースが、傘の雫で濡れていた。
 ストッキングには泥ハネもあるようだった。


 「じゃあ1曲やってもらおうか?」
 「あら、やさしいお客さんで良かったじゃない?」
 「ありがとうございます! 何を歌いましょう? どうぞリクエストして下さい!」
 「北島三郎の『兄弟仁義』はどうだ? 歌えるか?」
 「はい! ぜひ歌わせて下さい!」

 (女でこの歌を歌いこなせるのは藤圭子しかいない。
 果たしてカネを払うだけの価値のある歌手なのか?)

 私は然程、期待はしていなかった。
 雨の中、場末のスナックを回り続けるこの流しの女に、若い頃の自分を重ねてしまい、同情しただけだった。
 この歌は歌い手の技量を測る、リトマス試験紙のような物だった。


 イントロが流れ始めた。
 すると驚いたことに、この女は藤圭子の歌う前セリフをしっかりと語り始めたのだ。
 セリフの間合いといい、それを語る演技はある意味、歌よりも難しい。
 彼女はそれをさりげなくあっさりとこなした。


     花は七色 人間十色
     顔は違えど 心はひとつ


 そして椿は歌い始めた。


     親の血を引く 兄弟よりも
     堅い契りの義兄弟・・・

           (作詞:星野哲郎)
           


 鳥肌が立った。
 酒とタバコ、歌いすぎてのハスキーボイス。
 それだけではない、彼女の歌には女の切ない情念が込められていた。

 好きな女を捨て、義理のある親分のために見知らぬ人を切る、男の苦悩と切なさ。
 歌詞の情景が目に浮かび上がって来る。

 この曲は作詞家の星野哲郎がレコード会社を移籍することになり、北島三郎に挨拶に訪れた際、

 「俺たちは義兄弟じゃねえか」

 と言って、北島三郎も一緒に移籍をしたというエピソードに着想された歌詞だと言う。
 まさに『兄弟仁義』なのだ。
 損得で義理を欠かない北島の侠気があった。


 私たちはすっかり椿の歌声に魅了されてしまった。
 それが流しの演歌歌手、椿との出会いだった。 

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