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第1話

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 貨物船の二等航海士、大場俊輔おおばしゅんすけはまるで養蜂家にでもなったかのように、積荷の粗糖に群がる大量のミツバチに辟易していた。

 中南米のコロンビアにあるバランキラ港から粗糖を積み、ここモロッコのカサブランカでハッチを開けた途端、この有様である。
 一体どこからこれだけのミツバチがやって来たのだろう。
 尤も、花の蜜を集めるよりも遥かに効率はいい。何しろ砂糖その物なのだから。
 彼らにとって蜂蜜は、冬場の保存食だと言う。春から秋に掛けて群れの中にだだ一匹だけ存在する女王蜂は、一日で2,000もの卵を産み、秋口には50万もの帝国になるという。
 そしてその集団のミツバチにはそれぞれ役割があり、花粉を集める者や蜂の巣を守る者。花の蜜を集める者や巣の掃除、子育てなどが分業されているらしい。
 あの六角形のハニカムコアの巣は、自らが分泌するロウで作るそうだ。
 


 荷役監督のゴンザレスは笑って言った。

 「セカンドメイト(二等航海士)、安心しろ。何もしなければコイツらは刺したりはしねえ、かわいいヤツらさ」
 「俺はクマのプーさんじゃねえよ、ハチミツなんていらねえからコイツらを何とかしてくれ」

 私たちはそう笑ってタバコに火を点けた。




 荷役当直を終え、私はカサブランカの街をぶらついていた。
 三週間ぶりの陸地である。今回の大西洋横断は長かった。

 カサブランカは学生の時に観た映画、『カサブランカ』の街だ。
 カサブランカとはスペイン語で「白い家」という意味だが、昔はここも漆喰の白い建物が多かったのだろう。

 
     as time goes by. 
    (時の過ぎ行くままに) 


 長い間、フランスの占領下にあったカサブランカ。
 フランス外人部隊の拠点でもあったこの港町は、ベルべル人のイスラム都市でありながら、フランスのパリに似たエレガントな街並みと美しく調和していた。

 私は小さな酒場へ入り、ケバブをつまみにラム酒を飲んでいた。
 長い航海を終え、酒場で飲む酒の旨さは格別だ。それは海に暮らす者にしかわからない。
 私は独り、至福の中にいた。


 「Chinese?」

 女が話し掛けて来た。

 「Business?」
 「ねえ? 私としない?」

 長い航海の後だ、女が欲しくないと言えば嘘になる。
 哀しげな黒い瞳をした美しいアラブ人だった。
 
 私は娼婦とはしない主義だった。
 もちろん病気を貰うのも嫌だが、カネで女を買うことに抵抗があるからだ。
 あまり知られていないことだが、日本の船員には国から法定薬備品としてコンドームが支給される。
 ナマでは危険だし、そして外地のそれはまるでその物だからだ。
 ここでも「made in japan」は健在だ。


 「さっきして来たばかりなんだ」

 私は嘘を吐いた。

 「クソ野郎!」

 女は捨てセリフを吐いて去って行った。
 今日私は、レストランのウエイトレスを口説くつもりだった。
 外地では中国人や朝鮮人の船員は嫌われるが、日本人船員は意外とモテる。
 気前がいいのと、ジェントルマンだからだ。
 ディスコに行くとドイツ人や中国人、朝鮮人は断られることもあるが、日本人は「名誉白人」として扱ってくれる。



 店を出るとサマータイムということもあり、まだ街には太陽の光が燦々と当たっていた。
 灼熱の太陽とラピスラズリ色の空。
 街には花屋の屋台が溢れていた。
 私はそんな花屋の屋台で、殺風景な自分のキャビンに飾る花を物色していた。
 辺り一面に漂う甘い薔薇の香り。


 「あのー、日本の方ですか?」

 私が振り向くと、そこにはジーンズ姿の若い女が立っていた。
 その日本人の女は美しい瞳、小さな顔立ちの八頭身美人だった。

 「フィリピン人に見えるか? よく間違えられるんだ」

 私は女から目線を外し、再び花を選んだ。

 「あ~良かったあ~!
 ごめんなさい、あまりにも現地の雰囲気に馴染んでいらっしゃったので。
 こちらでお仕事を?」
 「観光客には見えねえか? エロ観光客に?」
 「あはははは、なんだか旅慣れているというか・・・」
 「俺はただのペテン師だよ」
 「もー、からかわないで下さいよー。
 ペテン師さんはお花なんか買いませんよ」
 「花が好きなペテン師だっているかもしれねえぞ?
 気をつけな、ここは日本じゃねえ。
 日本人は戦争に負けてアメリカに占領されてから、白人はみんないい奴ばかりだと教えられて来た。
 特に英語すらロクに喋れない女ほど無防備だ。すぐに騙される。
 ディズニーもハリウッドも「強くて偉大な国 アメリカ」の宣伝媒体に過ぎない。
 日本みたいに安全で清潔な国は世界中どこにもないと思え。
 レイプされて殺されるか、アラブの王様に売り飛ばされるのがオチだ」
 「随分怖いことを平気で言うのね? もしかして本当にペテン師さんだったりして? あはは」
 「アンタは本当に日本人なんだろうな? 間抜けなポメラニアンみたいなカンジだけど?」
 「失礼ね! ポメちゃんはかわいいから許すけど、間抜けは余計よ!
 私は田中美奈子。よろしくね? 今朝、リスボンから船でカサブランカに着いたばかりなの」
 「そうか? でもよくもまあ日本からわざわざこんな所まで来たな? リスボンで十分じゃねえか? いい街だぜ、リスボンは」
 「この街に来ることが子供の頃からの夢だったの。
 映画『カサブランカ』って知ってる?」
 「ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンのアレか?」
 「あの悲しい物語の舞台、カサブランカに来て見たかったの。ずっと夢だったの、カサブランカに来ることが」

 美奈子はうっとりした表情でそう言った。
 可愛い女だと思った。
 
 「夢が叶って良かったな?」
 「もう最高の気分よ! そうしたらあなたを偶然見つけて。何だかうれしくなっちゃってつい声をかけちゃったの。
 だってまさかこんなところに日本の男性がいるなんて思わないじゃない? すごくホッとした。
 心細かったから」
 「海外なんて女が一人旅を楽しむところじゃねえよ。俺はボギーじゃねえ。悪役みたいな顔してるだろう? 俺は? あはははは」
 「悪い人は自分を悪い人だなんて言いませんよ! いい人か悪い人かくらい、私でもわかります!」

 するとそこへドラッドヘアの黒人が近づいて来た。

 「中国人ですか?」
 「ほら来た、相手にするなよ」

 その男はオーバージェスチャアで話し始めた。

 「私はジャマイカ人です。タバコを1本下さい」
 「俺はブルース・リーだ。失せろ!」

 私が空手の構えをして見せると、そいつは中指を立てるあのサインをして戻って行った。

 「なっ? カサブランカはいい所だろう?」
 「空手が出来るの?」
 「キスも出来るぜ、女を口説くことも」
 「口説かれてもいいけど、私のガイドになってくれない?」
 「俺のガイド報酬は?」
 「私じゃダメかしら?」
 「遠慮しておくよ、後が怖いからな?
 じゃあその間の食事を奢ってくれ、それならいいぜ」
 「お安い御用だわ。じゃあ決まりね?
 私、英検4級だから困っていたのよ~」
 「それでよく一人でここまで来たな? 尊敬するぜ。
 でもここではあまり英語は通じねえ。スペイン語、ポルトガル語、そしてフランス語の方が通じる。
 その代わり俺にもやらなきゃならねえ仕事があるから、その合間でもいいなら引き受けてやってもいい」
 「お仕事って何? 商社マンさんとか、国家公務員さんとかなの?」
 「殺し屋だ」
 「ペテン師の次は殺し屋? もう、からかわないでよ~」
 「とりあえず、花を買って行くから一緒に付き合え。
 アンタを一人でここに置いていったら危険だからな?」
 「わかったわ、あなたを信じる」
 「俺のことは信じなくてもいいから自分を信じろ。
 俺がヤリチンではないと信じた自分をな?」
 「ヤリチンだと思ってた。あははは」


 私はバケツごと深紅の薔薇を買った。
 
 「これだけ薔薇を買ってもたったの5ドルなの?」
 「米ドルだからな? 現地通貨のレートは低い」

 私はタクシーを拾い、美奈子というその女と本船へ向かった。

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