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第9話 店名のない店

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 銀次の店には店名も看板もなかった。
 銀次らしい店だと思った。
 
 「おい、帰りに「焼鳥屋」で一杯やらねえか?」
 「いいねえ、じゃあ中新湊の「焼鳥屋」で飲むか? 明日は休みだし」

 
 銀次の店で働くようになって、1か月が過ぎようとしていた。
 銀次は生ビールサーバーと食洗器を購入した。
 何度も調整を重ね、ようやく銀次の目指す生ビールが完成した。

 「純が来てくれたおかげで、念願だった生ビールを出すことにしたんだ。
 ウマい生ビールを出すにはな、サーバーをこまめに洗浄しなければならねえ。
 ビールは栄養が多く、雑菌が繁殖し易いからな。
 そしてグラスだ。手洗いでは中々汚れが落ちねえ。機械洗いじゃねえとグラスはきれいにならねえんだ。
 だから最初、手洗いで口紅とかを落としてから洗浄機に入れる。
 そして冷蔵ショーケースから出した時に薄っすらとグラスが曇っている。
 ずっと旨い生ビールを出したかったんだが、俺一人では無理だった。手間がかかるからだ。
 俺の焼鳥にはこの生ビールを合わせたかった。
 純、飲んでみるか?」
 「はい」
 
 銀次は慎重に、ビールサーバーで生ビールを冷やしたジョッキに注いでくれた。
 クリーミーな泡とコクのある喉越し、驚くほど旨かった。

 同じ銘柄の生ビールは東京で何度も飲んだが、銀次の注ぐ生ビールは格別だった。
 それは雲が割れて覗く、夏空のように鮮烈なビールだった。

 「どうだ? うめえだろう?」
 「今までこんな旨い生ビールは飲んだことがありません!」
 「ビールは一口目が肝心だ、後は慣れちまう。
 女みてえなもんだからな? 生ビールは。
 口に入れる物を提供するとは思い遣りが大切だ。
 どうしたらお客に喜んでもらえるか? 感動してもらえるか?
 それが今の俺の生甲斐なんだ。 
 だがもう俺も歳だ。もし、純にその気があれば、このままこの店を継いでくれ。
 この店はあんたにやるよ、裁判では世話になったからな?」

 生ビールを飲みながら、そう言って銀次は笑った。
 私はこのまま、銀次とこの店で働きたいと思った。



 覚えることはたくさんあった。
 私は大学ノートに『あすなろ帳』と名付け、そこに毎日の出来事や、わからなかったこと、失敗したことや覚えた事。よく出来たことや常連さんたちの名前や癖、会話、注文した品や金額、そして今日の仕事の自己採点を書き入れた。
 「明日はなろう」それが私の『あすなろ帳』だった。
 今日は38点とか、68点とか。
 自己採点は次第に100点に近づいていった。

 私はここで、「焼鳥屋のオヤジ」として生きて行くことを決めた。
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