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第2話

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 「ただいまー」

 女房と娘はテレビを見て笑い転げていた。

 「あはははは、ねえ乃亜、見て見てこの吉本の『びびでばびデブ』ってチョー笑えるんだけど!」
 「ママ、このお笑い芸人、今、ヤバいんだよ」
 「そうなの? ヤバいの? バカみたい! お尻なんか出して! あはははは!」

 
 小川係長は戸棚から、電子レンジでも袋ごと大丈夫なレトルトのボンカレーを取出しチンした。
 炊飯ジャーからご飯をよそり、ボンカレーをかける係長。

 「ボンカレーはカレーの王様だな? 実にウマい!」

 美味しそうにボンカレーを食べる小川係長。

 
 食事を終えると係長は食べ終えた食器を自分で洗い、風呂に浸かった。

 「ああ、今日もいい一日だった。極楽極楽」

 すると女房たちの入った後の、炭酸の抜けたバブのお湯の中からまたメフィストが現れた。

 ブクブクブクブク サッブーン

 「なななな、なんだお前は! 
 お前は引田天功なのか!」

 係長は思わず湯舟に沈んでしまいそうになるほど驚いた。

 「先ほどは大変失礼いたしました。
 どうしてもあなた様の魂が欲しくて、このようなストーカーまがいのようなことをしてしまい、どうかお許し下さい」
 「だから言ったでしょ? 魂は売らないって!
 出て行って下さい、このお風呂から早く!
 だいたい何ですか? シルクハットに黒マント、おまけに爪先の丸まった靴まで履いて、そして内田裕也さんのステッキまで持って!」
 「申し訳ございません、そのままあの居酒屋からテレポーテーションして参りましたもので」
 「いいから魂は売りません! 絶対にです!」
 「そうおっしゃらずに」
 「警察を呼びますよ!」
 「わたくしは絶対に諦めませんからね? 
 ネバーギブアップ!」

 そう言ってメフィストはまた、湯舟の中に沈んで行った。



 風呂から上がり、係長は2階の寝室へと入って行った。
 この家は妻の静枝にせがまれ、35才の時に買った2LDK、28坪の建売住宅だった。
 売れ残りの最悪物件だった。
 それをイケメン住宅営業マンにメロメロだった静枝が決めた家だったのだ。

 「これ、下さい。うっとり」

 家は一生のお買い物、それを八百屋さんで大根でも買うかのように決めちゃった静枝。
 嵐やV6、関ジャニ∞のようなイケメンだった。
 その建売住宅は係長の都内の職場からは電車で1時間半もかかり、35年の住宅ローンは70才まで延々と続く家だった。
 定年になって職を失っても、その後10年もローンを支払わらなければならない。
 住宅ローンは恐ろしい悪魔の呪いだ。
 支払回数420回、自分に生命保険までかけて支払いを続けるのだ。

 でも係長自身は持ち家には拘ってはいなかった。
 係長には欲が無かった。
 大きな家が欲しい、ベンツが欲しい、毎日キャバクラに住みたいなんてことは思わない人だった。
 当然見栄も張らない。
 家は風呂とトイレ、キッチンと台所、それに茶の間があって、そこに家族が雑魚寝でも十分に良かったのだ。

 豪華なダイニングキッチンは高級フレンチの店に行けばいいし、ホームシアターなどは映画館に行けばバケツでポップコーンを食べながら、大きなカップでコーラを飲みながらドルビーシステムのデッカイスクリーンで観ることが出来るし、大きな風呂は源泉掛け流しの日帰り温泉に行けばいい。普段はシャワーで十分なのだ。
 畳一畳もあればそこで何でも事足りると、小川係長は思っていた。


 妻の静枝が寝室にやって来た。

 「おやすみなさい」

 係長は久しぶりにムラムラとし、静枝に声を掛けた。

 「なあ、いいだろう?」
 「したいの? まだ乃亜が下で起きてるから早くしてよね? ハイ、1万円。前金になります」

 それが静枝とのエッチの時の決まりだった。
 家庭内デリヘルシステム。
 したい時は前金で1万円を女房の静枝に渡さなければやらせてはもらえなかった。
 そして各オプションはそれぞれ1,000円を支払わなければならない。
 係長は三カ月掛かってようやく貯めた1万円を静枝に渡した。
 すると静枝はパジャマの下とおばさんパンツを脱いで、

 「さっさと出してよね? 明日、パートで早いから」
 「わかっているよ」

 係長がキスをしようとすると、
 
 「そんなのいいからさっさと出しなさいよ!」
 「う、うん」
 「それとも手でする?」


 早漏気味の小川係長はすぐにイキそうになり、

 「で、出るうっ!」
 
 と、あっけない幕切れとなってしまった。
 勿体ない。
 静枝はそれを事務的にティッシュで拭き取り、ゴミ箱へ捨てるとパンツを履き、パジャマの下を履いた。

 「ありがとな?」
 「どういたしまして。おやすみなさい」
 「おやすみ」

 3か月に1度の性欲処理が虚しく終わった。


 
 翌朝、係長はいつものように6時に起床し、駅まで静枝にクルマで送ってもらい電車に乗った。
 満員電車に揉みくちゃにされても、痴漢に間違えられないようにと、係長はいつも両手はバンザイ状態にしていた。
 90分のバンザイ状態、それは拷問にも等しい。
 高校の野球部の虐めじゃあるまいに。
 そしてヘトヘトになりながら、やっと職場へ到着する毎日だった。
 でも係長は愚痴は言わないし、それを辛いとも思わない。


 「小川係長、困りますよこの稟議書じゃ。これでは上にあげられませんよ。
 もう一度書き直して下さい」

 課長の飯島は新卒で入社して来た係長の部下だった男だ。
 飯島は37才。最年少のエリート課長である。
 仕事のイロハを教えたのは係長の小川だったが飯島はセンスがあり、どんどん顧客を拡大して昇進していった。
 小川係長をあっさりと追い抜いて、今や彼が小川係長の上司である。
 飯島はそんな係長を気遣っていた。
 内心では小川係長を尊敬していたからだ。
 飯島課長は40才には間違いなく部長になっているはずだった。


 係長のお昼は立ち食いそば屋の『じじそば』で大盛りかけ蕎麦350円にネギと天カスをどっさりと乗せて食べるか? 『吉田屋』の牛丼、並、ツユだくだくの牛丼か? あるいは『日低屋』のラーメン、280円のヘビーローテーションだった。
 今日のランチは『じじそば』の日だったのでかけ蕎麦を啜っていると、そこへまたメフィストがやって来た。

 「こんにちは小川係長さん。夕べはどうも」
 「またアンタか? だから俺は浮気なんかしないし、出来ないの!
 一日500円玉一枚渡されて、このおつりの150円を必死でブタの貯金箱に貯めているんだ!
 昨日は女房に1万円も取られちゃったし。
 浮気なんて絶対に無理!
 わかったらとっとと帰ってくれ!」
 「私は興信所の者ではありません。私は悪魔です。
 あのー、すみません、海老天ぷら、そばでお願いします。
 昨夜もお願いしましたが、是非とも小川さんの魂を私に譲って欲しいのです。
 どうです? 王宮での夢のような暮らしが待っているのですよ?
 昨夜の奥様との味気ない、オナニーのようなエッチではありません、あんなことやこんなこと、そしてそんなことやあんなことまでしてくれる、パリコレのスーパーモデルやグラドル、そしてあの有名な『だん兵衛』のCMの女狐のような女優さんのそっくりさんとも・・・」
 「そんなのどうでもいいことです。私は魂は売りません!」

 天ぷらそばが出来上がった。

 「はい、島原産車エビの天ぷらそば、おまちどうさまでした!」
 「あ、ありがとうございます」

 お蕎麦を食べ終えた係長の後ろ姿を目で追いながら、メフィストは天ぷらそばを啜っていた。
 
 「ああ、あの魂が食べたい!」

 メフィストは海老の尻尾まできれいに食べる悪魔だった。
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