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第一楽章

第8話 切ない横顔

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 店を出ると、ウイスキーグラスに入れたボール・アイスのような月が夜空に飾られていた。

 朋華は私と腕を絡ませ、甘えてみせた。

 「夜のヨコハマの海が見たい」
 「横浜の海?」
 「そう、横浜の海が見たいの。ねえ、連れて行って」
 「電車でもいい? ここからタクシーは勿体ないから」
 「タクシーじゃなくて、電車がいい」

 私たちはJR湘南・新宿ラインに乗った。
 

 眠らないメタルシティ、東京。
 私たちを乗せた電車は、都会の光の森の中を駆け抜けてゆく。
 朋華は終始無言で、私と手を恋人繋ぎをして寄り添っている。
 鮨屋では香水を着けていなかった朋華だが、今はやさしいフローラルの香りを纏っていた。

 (ブルガリ?)

 おそらく電車に乗る前に寄った化粧室で着けたのだろう。
 食事での香水は料理の味と香りを損ない、料理人はもちろん、周りのお客への非礼になってしまう。
 このじゃじゃ馬も、それくらいの気配りは心得ているようだ。



 横浜駅からシーバスに乗船し、潮風が心地良いデッキに出ると、朋華は私の腕をしっかりと掴んで頬を寄せた。
 
 海面に揺れる横浜の夜景がまるでクリスマス・イルミネーションのように煌めいていた。
 たくさんの船舶が停泊している。
 大桟橋にも外国の巨大豪華客船が接岸されていた。

 「夜の横浜港って好き・・・」

 朋華は誰に言うでもなく、そう呟いた。


 終点の山下公園桟橋で降りた私たちは、公園のベンチに並んで座った。
 
 「君はどうしてお父さんの跡を継いで医者にならなかったの?」
 「幼い頃からずっと天才外科医と言われた父を見て来たからよ」
 「大変だと思った?」
 「その逆。やがて人間の医者は必要なくなると思ったから。
 特に外科医はね?」
 「僕もそう思うよ。いずれ人は死ななくなるのかもしれない」
 「外科医のくせに面白いことを言うのね?」
 「昔、男の寿命は50年だった。そして1世紀も過ぎないうちに100歳を超えてもなお人は生きている。
 ちょっと前までは60才で定年を迎えると、そこから10年そこそこで年金も殆ど受け取ることもなく、痴呆になる前に死んでいった。
 機械のカラダと人工知能。
 そう遠くない未来に、そんなことが御伽噺ではなくなる日が来るかもしれない。まだ肉体があった頃の人間の記憶だけを残して」
 「だから私は日本を飛び出してアメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)で量子力学を学ぶことにしたの。
 あなたは医者だから、多少の知識はあるかもしれないわね?」
 「量子力学と量子物理学って違うんだろう?」
 「物理学と経済学くらいの違いがあるわ」
 「高校の時、物理の教師が『シュレンガー方程式』についてレクチャーしてくれたのは覚えているよ。
 原子の世界ではニュートンの運動方程式、F=ma  が成立しないことと、光は粒子と波動で出来ているという話をしていた気がする。
 アインシュタインの「時間の流れとは相対的である」という特殊相対性理論は大学で学んだ。
 X、Y、Zの三次元に時間という概念を加えた四次元理論を」
 「この宇宙に存在するすべての物質は陽子、電子、中性子で出来ているということよ。
 壮大な真理だと思わない? 量子力学って?
 そして私は高校生の時に『Dirac方程式』と出会い、その美しい数式に魅了されてしまったの」
 「それなのにどうして研究環境の整ったアメリカを離れ、日本へ戻って来たの?」
 「あなたと出会って結婚するためよ。そして赤ちゃんをたくさん産んで育てるの。私の王国を作るためにね?」

 彼女はそう、お道化て見せた。
 私はそれ以上追及するのを止めた。
 彼女がなぜ日本に帰って来たのかなど、私にはどうでもいい話だったからだ。

 「悪いが僕には婚約者がいるんだ」
 「だから何? 例えあなたが結婚していて子供までいようとも私には何の障害にもならないわ。別れちゃえばいい話なんだから。その恋人や家族と。この世は殆どの事はお金で解決出来ちゃうでしょ? でも私の価値はお金では計れないわよ。必ずあなたを私の虜にしてみせる」
 「君は随分と自信家なんだね?」
 「あなたもペンシルバニアで学んだはずよ。自信を持って自分の考えをぶつけないと、彼ら白人はその考えがどんなに優れていようとも、けっしてそれを認めようとはしないということを」

 彼女の言う通りだった。
 日本人は自分の本心を隠すことが美徳だとされて来た。
 だかそれは国際社会では通用しない。
 ディベートではすぐに敗北してしまう。

 朋華に突然キスをされた。
 私は拒否することもせずに、それを受け入れてしまった。
 
 「強く抱き締めて。そして愛してるって言って」
 
 私は彼女を少し強く抱き締めたが、何も言わなかった。
 
 「もっと強く、骨が折れてもいいから。
 不安なの、すごく。
 愛されたいの、あなたに・・・。
 だから今は嘘でもいい、愛してるって言って欲しいの、お願い」

 そう懇願する朋華はまるで別人のようだった。
 伝わる。彼女の深い寂しさと、言い知れようのない哀しみが。
 おそらく彼女には恋人も友人もいないはずだ。
 それは出来ないのではなく、敢えて作らないのだろう。
 面倒だから? 私にはそれを失いたくないからではないかと思えた。

 「好きだよ、君が。
 でも愛してるとは言えない。僕には婚約者がいて、そしてまだ君のことを知らないし、君も僕のことをよく知らないからだ」
 「じゃあ、わかり合いましょうよ、あそこで」
 
 彼女はホテル『NEW GRAND』に目を向けた。
 その横顔がとても切なかった。守ってやりたいと思った。

 私たちはそこへ向かって静かに歩き始めた。
 私は確かめてみたかったのだ。黒沢朋華という、演技ではないこの女の真の姿を。
 そしてどれが本当の私の進むべき道なのかを。



 その頃、琴子は何度も輝信にLINEをしたが既読にはならなかった。
 彼の携帯にかけてみても留守電になってしまう。

 (忙しいのかしら? 緊急のオペとか?)

 輝信とは毎日、電話やLINEをしてはいたが、いつも連絡をするのは私の方からだった。
 彼から「会いたい」という言葉もなく、私が「今度いつ会えるの?」と訊いても、「今、来月学会で発表する論文の作成で忙しいんだ。それが完成したら会おう」

 何かが以前の輝信とは明らかに違う気がした。
 あんなにやさしく、積極的だった輝信が。

 私は防音室でTHE BLUE HEARTSの『情熱の薔薇』を大音量で聴いた。

 (輝信のばか・・・)

 手に持ったままのスマホが冷たく感じた。
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