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第一楽章

第10話 とまどうペリカン

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 明日のブルーノート東京のことを考えるとワクワクして眠ることが出来なかった。

 輝信と会える。

 彼との話題について行きたくて、小野リサのCDを買い求め、何度も聴いて予習をした。
 
 彼と秋の夜に聴く透明感のあるリサのボサノバ。
 明日着て行く服を選ぶためにどんどん時間が費やされていく。

 香水は既に決めていた。

   CHANEL#19

 調香師 アンリ・ロベールの傑作。ココ・シャネルの最後の一品といわれ、#19とは彼女の誕生日である8月19日から名付けられたパルファムだった。

 大胆で凛とした香り。「求められる 自由で意志の強い女性」をイメージして作られた香水。



 いつもなら家まで迎えに来てくれる輝信だったが、今日は直接現地で待ち合わせだった。
 私は家を出る時間ギリギリまで入念にメイクを施し、今日、そうなるであろうために、下着はほのかな桜色のかわいい物を身に着けた。



 ブルーノートには待ち合わせの5分前に到着したが、輝信はすでに入口で私を待っていてくれた。
 眉間に皺を寄せ、スマホを見ている。

 「ごめんね? 待った?」

 彼はカーキー色のロングコートのポケットにスマホをすぐに仕舞った。
 さっきまでの険しい表情は消え、いつものやさしい笑顔になっていた。

 「僕も今来たところだよ。それに約束の時間にまだ5分もある。寒いからとりあえず中に入ろう」


 私たちはクロークにコートを預け、レストランのテーブルに腰を据えた。
 料理はコース料理にした。
 食べられない物は輝信が食べてくれた。食事中の会話は少なかった。

 
 小野リサのコンサートが始まった。ブルーに照明が落とされ、リサだけがスポットライトに照らされている。

 最初の曲は『イパネマの娘』だった。

 ピアノ、ウッドベース、ガット・ギター、フルート、パーカッション、ドラム。そしてブラスはトランペットとテナーサックスという編成だった。
 
 ボサノバはエイト・ビートが基本のブラジル発祥の音楽だ。
 ジョアン・ジルベルト、カルロス・ジョビンは日本でも知られている。

 語り掛けるような温かく軽やかな歌声。
 まるでイパネマの街のような旋律に乗って、気持ち良く漂うように歌う小野リサ。
 私はデートに来ていることも忘れ、同じ歌い手としての小野リサの歌声に聴き入っていた。

 『カリオカ』『コルコヴァード』『黒いオルフェ』そしてボサノバにアレンジされた『シェルブールの雨傘』『Fly me to the Moon』と懐かしいナンバーが続く。

 小野リサは歌う、

          私を月に連れて行って
   そしてキスして
   手を握って キスをして
   私の心を歌で満たして
   そして ずっと歌っていたいの
   あなたは私の待ち望んだすべてだから
   尊敬と愛情のすべてなの
    

 オペラのような大掛かりなものではないが、客席との距離が近いため、聴衆との一体感が直に伝わる。

 曲によって表情と声が微妙に変化して行く。
 歌詞の内容をよく理解し、その情景をイメージしながら大切に歌っているのが伺えた。



 あっという間のコンサートだった。
 ブルーノートを出た時、私はさりげなく彼と腕を絡ませた。
 彼の横顔を見た時、その厳しい横顔に思わず私は腕を解いてしまった。

 「少し歩くんだけど、いいBARがあるんだ」
 「うん」

 私たちは無言のまま、その店に向かって歩いた。
 さっきまでの熱く満たされた時間がみるみる冷めていった。
 私は嫌な予感がした。 



 そのBARは渋谷のセンター街にあった。
 店内に沁み付いたタバコの匂いと、邪魔にならないスタンダードなJAZZが流れている。


 「この店は昔、松田優作もよく来ていたらしい。 
 そしていつもここでラム・ソーダを飲んでいたそうだ。
 松田優作らしい酒だと思わないかい? ラム・ソーダなんて。
 琴子は何がいい?」
 「私はテキーラ・サンセットを」

 それは「今夜、私を慰めて」という意味のカクテルだった。

 「すみません、テキーラ・サンセットとジプシーを」
 「かしこまりました」

 (この人、テキーラ・サンセットのカクテルの意味を知っているのかしら?)

 だが私が彼の頼んだ「ジプシー」というカクテルの言葉の意味を知るのは、間もなくのことだった。
 そのカクテル言葉は「しばしの別れ」という意味だった。

 目の前に置かれたふたつのカクテル。
 その時、彼が耳を疑うようなことを言った。

 「婚約、白紙に戻したい」

 その時、すべての音が消え、時間が止まった。
 
 (私、悪い夢でも見ているの?)

 私は言葉を失った。

 「・・・」
 「ゴメン、僕からお願いした婚約だったのに」
 「なんで? どうして? 私、あなたに嫌われるようなことした?」

 馬鹿なことを訊いてしまったと後悔した。
 それは普通の女が言う陳腐なセリフだ。
 それで彼の出した結論が覆るわけでもないのに。


 「君をしあわせにする自信がなくなったんだ」

 (しあわせにする自信がない? しあわせにするのにどうして自信が必要なの?)

 私はようやくそれを怒りに変換することが出来た。

 「何それ! 結婚してくれって言ったのはあなたの方じゃない!」

 私はカクテルを彼の顔に浴びせ、席を立った。

 「人をなんだと思っているの! 二度と私の前に現れないで!」


 私はそのまま店を飛び出した。
 彼に追いかけて来て欲しかった。
 でも彼は私を追いかけては来なかった。

 どこからか、陽水の『とまどうペリカン』が聴こえて来た。


   夜のどこかに隠された あなたの瞳が囁く
   どうか今夜の行き先を 教えておくれと囁く
   私も今 寂しい時だから 教えるのはすぐ出来る・・・


 私はライオンに捨てられた、とまどうペリカンだった。 
 夜の渋谷の街が涙の海に沈んで行く。


 
 私はどうやって家に帰って来たのかさえ覚えてはいなかった。
 氷のナイフのような彼の言葉が胸に突き刺さったまま溶けない。
 涙が止まらない。泣いても泣いても涙が止まらなかった。
 本気で彼を愛していた。私の未来予想図は呆気なく消えたのだ。

 (忘れよう、傷はまだ浅いはずだから。
 私は悪い夢を見ていたんだわ)

 せめてもの救いは、まだ迷宮の入口だったということだった。
 私はお風呂にも入らず、そのままベッドに仰向けになった。
 天井が歪んで見えた。

 眠ることも出来ず、私はそのまま朝を迎えた。
 外は冷たい雨が降っているようだった。
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