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第三楽章

第9話 冷たい雨

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 私と銀河は黙ったまま、サンジェルマンの街を当てもなく漂っていた。

 キアヌ・リーブスとシャーリーズ・セロンの映画、『Sweet November』みたいな「11月だけの恋」なんてイヤ。
 私は行きずりの恋がしたいんじゃない、私はずっと銀河を愛し続けたい。
 恋愛も人生も同じ。どれだけ長く付き合ったかではなく、いかに愛したか? それは長さではなく深さなのだ。
 たとえそれが二日前の出会いだとしても、5分前の出会いだとしても、それは愛するための「運命の出会い」だったはず。
 何十年一緒に居ても、実らぬ恋もあるではないか。

 私がパリに導かれたのも、銀河に出会うためだったはずだ。
 手を繋いでくれなくてもいい、せめて彼のコートの裾を摘んで歩きたい。私は彼と同じ人生の舟に乗りたかった。

 (ダメ、もう限界!)

 私が銀河と腕を組もうとした時、彼が私を振り返った。
 
 「寒いだろう? このカフェで少し暖まらないか?」

 私は黙って頷き、彼とそのカフェへと入って行った。


 店内はすごく混雑していた。

 『Les Deux Magots(ドゥ・マゴ)』

 歴史を感じさせる街角のカフェ。
 ギャルソンに窓際の席を案内されたが銀河は、

 「暖房の近くにしてくれ」

 と言った。
 そして暖房機の近くに私を座らせてくれた。

 「俺はホット・ウイスキーを。琴子は?」
 「私はカフェラテで」
 「お腹空かない?」
 「少し空いた」
 「ポタージュとサラダ、フライドチキンでいいか?」
 「あと、ナッツとチーズも食べたい」
 「なんだかオツマミみたいな食事だな? 寒くないか?」
 「うん、大丈夫」

 銀河は元の銀河に戻っていた。

 「寒くてすっかり酔いが醒めてしまったよ」

 銀河はホット・ウイスキーのグラスを両手で持つと、労わるようにウイスキーを飲んだ。
 私はカフェラテを慎重に啜った。
 すると銀河が笑った。

 「ミルク、ここに付いてるよ」

 と、自分の口のその部分を指差して笑った。
 私も微笑んでナプキンでそれを拭いた。


 お料理が運ばれ、私は音楽の話を、そして銀河は最近読んだ小説の話をしながら私たちは食事を楽しんだ。
 それは他愛もない日常会話だったが、とてもしあわせなひと時だった。


 私はカフェラテをホットワインに変え、銀河もお酒をビールに変えた。
 ホットワインにはレモンが浮いていた。
 レモンが邪魔をしてワインが飲み難い。でもそのおかげで火傷をしなくて済んでいた。

 「このカフェ、『マゴ』なんてヘンな名前だろう?」
 「どんな意味なの?」
 「中国のグロテスクな陶器製の人形のことなんだ」
 「見たことあるかも」
 「実はね、琴子をここに連れて来たかったんだ。
 この店には色んな芸術家や文化人などが集まって来た。そして今もね?」
 「たとえば?」
 「サルトルにボーヴォワール、ピカソにヘミングウェイ。ここはダダイズムやシュールレアリズム、実存主義のメッカでもあったんだ。
 最近では映画、スターウォーズの『フォースの覚醒』のJ・J・エイブラハムとローレンス・カズダンがここでインスピレーションを得るために8時間も掛けて台本を書いていたらしい」
 「すごく由緒のあるお店なのね?」
 「そして詩人、アルチュール・ランボーもここに来ていた。
 今日は君にランボーの話をしたかったんだ。この場所で」

 そして銀河は美味しそうに喉を鳴らしてビールを飲むと、ゆっくりと語り始めた。

 「ランボーは子供の時から神童と呼ばれたほどの天才でね。15才から20才までの5年間で沢山の詩を書きまくったんだ。だがランボーは20才を過ぎると詩を書くのを辞めてしまう。辞めるというより「書けなくなってしまった」と言った方が妥当かもしれない。
 アルプス山脈を徒歩で越え、アフリカやアラビアの砂漠地帯、東南アジアなどを巡り、傭兵や貿易商としても働いた。
 アルベール・ディボーデは、ヴェルレーヌ、マラルメ、コルビエール、ロートレアモン伯爵と並んで、ランボーを「1870年代の5人の異端者」とも評した。
 堀口大學、中原中也、小林英雄にも多大な影響を与えた詩人だ。
 「酔いどれ船」「地獄の季節」「イルミナシオン」など、次々に偉大な詩が生まれた。
 『見者の手紙』という詩人論でランボーは、

   詩人とはあらゆる感覚の、長期に渡る広大無辺で、
   しかも理に即した錯乱により見者となることだ

 と言った。
 ブルジョア道徳をはじめとする、すべての因習と固定概念、秩序を捨て去り、精神、道徳、肉体の限界を超え、未知を体系的に探究しようとした「反逆の詩人」、ランボー。
 ダダイズム、シュールレアリズムを開いた戦う詩人。
 俺はランボーに憧れた。

   私が考えるのではない。人が私を考えるのだ。
   私とは一個の他者にすぎないのだから。

   詩人とは自己探求なのだ。自分を追求し毒を出す。

 愛と狂気。偉大な病人、罪人、そして呪われし人。ランボー。
 ランボーは写真家のカルジャと晩餐会で口論となり、アルベールメラの仕込み杖で彼に切り掛かり、怪我を負わせてしまう。
 激怒したカルジャはランボーの写真のネガをすべて焼き尽くしてしまったらしい。故に彼の現存する写真はただ1枚しか残っていない。
 同性愛者でもあった彼は、同じ詩人のヴェルレーヌと共にロンドンやベルギー、北欧などを旅して回る。
 ヴェルレーヌには妻子があったが別れてしまう。
 ふたりは反目し合い、仲良くなったり、喧嘩したり別れたりを繰り返した。
 そして遂にヴェルレーヌはランボーを愛しすぎるあまり、ランボーを忘れるために女房と復縁を求めようとし、もしそれが叶わなければ、ピストル自殺をすることを決意していた。
 だがその銃口は自分にではなく、ランボーに向けられてしまう。
 彼は負傷し、精神を病み、最後はガンが全身に転移して死んでしまう。たった37歳の若さで。
 ランボーは言う、

   人生とは誰もが演じなければならない道化芝居だ。

 そして俺はランボーの後を全力で追いかけた」
 「すばらしいことじゃないの、そんな人生なんて。
 私は結婚に失敗し、そしてここパリにやって来た。自分の人生をリセットするために。
 そしてあなたと出会い、私の悲しみはどこかへ消えてしまった。
 あなたと一緒にいたいの! 好きなの! どうしようもないくらいあなたが好き! 銀河のことが大好き!」

 彼は真顔で言った。

 「すごくうれしいよ琴子。でもそれは出来ない」
 「どうして! 理由を教えて!」
 
 そして銀河は重い口を開いた。

 「俺が人殺しだからだよ。
 俺には詩音シオンという恋人がいた。彼女は俺にとても良く尽くしてくれた。
 その頃の俺は定職にも就かず、いつも自堕落な生活をして詩ばかりを書いていた。どうしようもないクズのロクデナシだった。
 ランボーに負けないくらいに駄目な男だった。
 毎日飲む、打つ、買うの三拍子。
 高校の国語の教師をしていた詩音は、そんな俺を経済的にも精神的にも支えてくれた。
 そしてある日、いつものように俺がパチンコをしていると、詩音から携帯に着信があったが俺はそれを無視してパチンコを打ち続けていた。
 カネを使い果たした俺が家に帰ると、彼女は死んでいた。
 急性心筋梗塞だった。
 彼女を殺したのはこの俺なんだ。だから俺は人殺しさ。
 もう二度と誰も愛してはいけないんだ。
 それなのに琴子と出会ってしまった。憧れていたプリマドンナ、海音寺琴子に。
 そして俺は危うく自分の犯した罪を忘れてしまうところだった。だからもう今日で君に会うのは止めることにするよ。今ならまだ引き返せるから」

 私は銀河を睨み付けて言った。

 「そうやって毎日お酒ばかり飲んで、自分は罪人だと自暴自棄になってそれが亡くなった彼女への償いのつもりなの? あなたは間違ってる! ただ弱い自分から逃げたいだけよ!
 ただ傷付きたくないだけじゃない!
 じゃあ私はどうなるの? あなたをこんなに好きになった私はどうすればいいのよ! バカ! 銀のバカ! あんたなんか大っ嫌い!」

 私はそのままコートとバッグを持って店を飛び出した。
 すると銀河はすぐに私を追い駆けて来てくれた。

 「待ってくれ琴子!」

 そして彼は私の腕をグイッと掴んだ。

 「ホテルまで送るよ!」
 「放っておいて! 私のことなんか!」
 
 でも彼は私の腕を離そうとはしなかった。

 「お願いだ、最後に君を宿まで送らせて欲しい」

 うれしかった。輝信も私を追い駆けて来てはくれなかったが、銀河は私を追い駆けて来てくれた。

 私は黙って銀河とタクシーに乗った。

 外は冷たい雨が降っていた。
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