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第三楽章

第12話 オペラ座の怪人

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 お互いの身体を知り尽くした後、私と銀河はシャワーを浴び、ドレスとタキシードに着替えた。

 「琴子、お前のそのボルドー・レッドのドレス、とてもよく似合っているよ」
 「銀のタキシードも凄く素敵。まるで頭がボサボサのニコラス・ケイジみたい」

 私たちは性を覚えたての高校生みたいに何度もキスをした。

 「お化粧するから少し待っててね?」
 「まだ時間があるから慌てなくてもいいよ。ビール貰ってもいいかい?」
 「どうぞ、冷蔵庫にハイネケンがあると思うわ」
 「ありがとう」
 
 彼は冷蔵庫からグリーンボトルのハイネケンを取り出し、栓を抜いてラッパ飲みをし、マネークリップから10ユーロ紙幣を抜いてテーブルに置いた。

 「いいわよ、お金なんて」
 「一応、男の礼儀だから」

 銀河はそういう男だった。
 女と食事に行って割り勘にするような情けない男ではない。

 「ありがとう。じゃあメイドさんへの枕チップにするわ。シーツも汚しちゃったしね?」

 私たちは笑った。



 ロビーに降りて行くと、フロント・チーフのアランたちに冷やかされた。

 「大変失礼いたしました。ただいまスタッフに薔薇の花を買いに行かせたところです。お二人の足元に撒く、花びらを用意するために。とてもお似合いのお二人ですので。
 若き日のダイアナとチャールズのようです!」
 「どうせなら下品なチャールズではなく、不倫男のあのドクトルの方にして欲しいな?」 
 「かしこまりました。ではドクトル、プリンセス・ダイアナ、お気を付けて」
 「ありがとうアラン、これからガルニエ宮でオペラ鑑賞なの」
 「それは素晴らしい! オペラ座の怪人によろしくお伝え下さい」


 ベル・キャプテンのレイモンドにも言われた。
 
 「今夜はベルサイユ宮殿で舞踏会ですか? それともこれからカンヌ映画祭へ?
 すみません、残念ながらレッドカーペットはここまでとなっております。ジュリア・ロバーツ様、アルパチーノ様」
 「レイモンドさん、これが私たちが乗るカボチャの馬車かしら? 早く行かないと「カボチャのタクシー」になってしまうわ」
 「では午前零時までにはお戻り下さい。魔法が解けてタクシーがカボチャに変わらぬうちに」

 そう言ってレイモンドは恭しくタクシーの後部座席のドアを開けてくれた。



 私たちはタクシーの中でもずっと手を握り、キスをした。
 
 「まるでプリンセスになったような気分。オペラ座は今回が初めてなの。だから凄く楽しみ」

 私は銀河のタキシードにリップやファンデが付かないように注意した。

 「俺も1年前にボリショイ・バレーを観に行ったきりだよ。あんなに立派な欧州一の劇場なのに、あそこのオケだけが残念だ」 
 「そんなに下手なの? オペラ座のオケは?」
 「日本の地方オーケストラのようだよ。
 プロの琴子が聴けば、かなり落胆するはずだ。
 でもオペラ座は本当に素晴らしい建物なんだ。ネオ・バロック様式の宮殿のようで、大休憩室はベルサイユの『鏡の間』のようだし、正面のファサードにはペガサスやアポロンの像も誂えてある。
 ガルニエ宮と呼ばれるのは、設計者がガルニエだったからだ。
 何度かパリの劇場は建て替えられている。今のオペラ座は13代目にあたるんだ。
 あのナポレオン・ボナパルトやナポレオン3世もオペラを観覧しようとして爆弾テロにあったこともある」
 「やだ怖い」

 私は銀河の手を握った。
 銀河との厚い壁が取り払われて、私はイヤな事すべてを忘れてしまった。
 愛は人間に勇気と力を与えてくれる。
 私は今、最高のしあわせを噛みしめていた。



 オペラ座はまるで華やかな映画祭のようだった。
 着飾った老若男女たち。銀河は私をやさしくエスコートしてくれた。


 オペラ座の内部は私の想像を遥かに超えていた。

 「絢爛豪華とはこれを言うんだろうなあ。
 オペラ座は当時としてはめずらしい、鉄骨構造になっている。だから柱の間を梁や桁で長く飛ばすことが出来て、このような大空間が実現した。
 ここのガルニエ宮は1989年に『オペラ・バスティーユ』として新設された歌劇場なんだ。
 小道具さんがこのオペラ座の屋上で養蜂もしているらしいよ」
 「えーっ! 銀座の屋上みたい! 舐めてみたいなあ、オペラ座の蜂蜜!」
 「確か販売していたかもしれないから、帰りに買ってあげるよ」
 「うれしい! 銀に塗って舐めちゃおうっと!」

 そう言って私たちは笑った。

 「5階建。収容人数1979名。イタリアの伝統的な馬蹄形の歌劇場形態となっている。
 1940年にはアドルフ・ヒトラーが日帰りのパリ観光で最初に訪れたのがオペラ座だった」
 「私もいつか、こんな舞台で歌ってみたいなあ」
 「大丈夫、琴子なら必ずここで歌えるソプラニスタになれるよ」
 「ありがとう、銀」

 私はここで朗々とアリアを歌う自分をイメージした。
 心が奮えた。

 「最初にオペラ座が計画されたのは、宮廷作曲家のロベール・カンベールと詩人のピエール・ペランが当時、フランス財務総督だったコルベールに請願し、ルイ14世を動かして造らせた建物だ。
 見てご覧、この素晴らしい天井壁画を。
 これはあのマルク・シャガールが描いた物なんだ。
 14人の偉大な音楽家たちが描かれている。
 ムソルグスキー、モーツァルト、アドルフ・アダム、ワーグナー、ベルリオーズ、ラモー、ドビュッシー、ラヴェルにストラビンスキー。チャイコフスキー、ビゼー、ヴェルディ、グルッグ、えーとあともう一人、そうだ、ベートーヴェンだ」
 「凄い記憶力ね?」
 「音楽はいいよ、音楽とお前がいなければこの世は闇だ」
 「まあ、詩人みたい」

 私は銀河の背中に手を置いた。甦る銀河との行為に身体が火照る。

 「僕はもう、詩を書けない詩人だけどね?」
 「どうしてもう詩が書けないの?」
 「詩人はしあわせになってしまうと詩が浮かばなくなってしまうんだ」
 「だったら詩人はいつも不幸じゃないといけないの?」
 「しあわせになるか? 詩を書くために不幸を選ぶか・・・」

 そう言って彼は寂しく笑った。

 (もう詩を書けないの? 銀河?)

 私は銀河のその言葉が気になった。


 「琴子は『オペラ座の怪人』のミュージカルは観たことがあるかい?」
 「一度は観たいと思っているんだけど、中々機会がなくて」
 「この広い宮殿のようなガルニエ宮には数々の伝説や怪談話があるんだ。
 原作者のガストン・ルルーは、1896年に起きた、客席へのシャンデリアの落下事故と、ウエーバーの『魔弾の射手』にヒントを得てこのバロック小説を書いた。
 あらすじはこうだ。
 舞台は1880年代のパリ。年老いたオペラ座の支配人が退職するという夜、ここの看板歌姫のクリスティーヌがガラに出演し、喝采を浴びる。
 このオペラ座には地下に棲む仮面を着けたファントム(怪人)がいて、彼はここの支配人とある密約を交わすんだ。
 それは月に2万フランの報酬を怪人に支払うことと、5番のボックス観覧席を常に開けておくことだった。
 彼は投げ縄と奇術の達人で、音楽の天才だった。
 そんな彼が劇場のプリマドンナ、クリスティーヌに恋をする。
 彼女には幼馴染の子爵、ラウルがいた。
 ラウルもまた、彼女に恋をしていた。
 そんな時、事件は起きる。
 怪人は支配人に「今度のオペラ『ファウスト』の主役はクリスティーヌにするように」と命じる。だがその時のプリマは怪人の意に反してカルロッタがプリマを演じてしまう。
 激怒した怪人は巨大な劇場のシャンデリアを落下させ、カルロッタは声を失ってしまう。
 その後、クリスティーヌはメキメキと頭角を現してゆく。
 でもそれには秘密があった。それは彼女の楽屋裏から囁かれる怪人の歌唱指導のお陰だったのだ。
 彼女はそれを『天使の声』と言っていた。
 彼女の美しさに耐えかねた怪人は、遂にクリスティーヌを自分の棲む地下の拷問室に連れ去り、自 分はエリックだと名乗る。
 数日間を地下でクリスティーヌと一緒に過ごしたエリックは、クリスティーヌに愛を迫る。
 そしてその時、彼女はエリックの仮面を剥いでしまうんだ」
 「それで仮面の下はどんなお顔だったの?」
 「その顔には鼻も唇もなく、落ち窪んだ目と、壊死した黄色い剥き出しの皮膚があった」
 「うわ、厭」
 「自分の素顔を見られてしまったエリックは、クリスティーヌを永久に地下に閉じ込めようとする。
 だが2週間後、エリックはクリスティーヌに地上に出て歌うことを許可する。その代わりに交換条件を出すんだ。
 それは自分の指輪をはめて、自分との信頼を裏切らないことだった。そして彼女は地上へと戻って行く。
 だがクリスティーヌはエリックを裏切り、屋上でその秘密をラウルに打ち明けてしまう。
 だが彼女はそんなエリックを哀れに思い、「エリックのために歌うわ。それまでここを出ては行かない」と。
 その会話をエリックは盗聴していた。
 そしてまた『ファウスト』の上演中にクリスティーヌをさらい、今度は地下室で彼女に自分との結婚を迫るんだ」
 「でも結婚はしないんでしょう? クリスティーヌは?」
 「どうしてそう思うんだい?」
 「だってイケメンのやさしい幼馴染み、子爵のラウルのことが好きだから」
 「なるほど。エリックは言う、「もし、自分との結婚を拒否すれば、オペラ座を爆破する」と彼女を脅迫するんだ。それでも彼女はエリックとの結婚を拒否する。
 なんとか彼女を救いたいラウルはペルシャ人のタロガと共に地下の拷問室に忍び込むんだが、それはエリックの仕組んだ罠だった。
 エリックはふたりを『合わせ鏡のトリック』の中へと誘導し、赤道直下の熱を彼らに浴びせる。
 クリスティーヌはふたりを助け、爆弾を爆発させないためにと、怪人との結婚を承諾し、「生ける花嫁」となる覚悟を決める。
 だがエリックはそんなラウルに嫉妬し、タロガだけを解放し、ラウルはそのまま地下に幽閉してしまう。
 タロガを解放して地下に戻ったエリックは、もう彼女は地下室から逃げていなくなってしまっているだろうと思ってしまう。
 だが彼女はエリックを待っていた。
 帰って来たエリックがクリスティーヌに近づき、彼女の額にキスをしようとする。そして彼女はそれを拒もうとはしなかった。
 自分を産んだ、実の母親ですら拒んだエリックのキスを。
 そしてエリックはクリスティーヌの足元に跪き、泣き崩れてしまう。
 エリックはふたりを解放し、最後の願いをクリスティーヌに託すんだ」
 「それはどんなお願いなの?」
 「彼は言う、「もし自分が死んだら僕の亡骸にその金の指輪をはめてくれ」と。
 そして別れ際、クリスティーヌはエリックの額に自らキスをする。
 エリックはタロガにも自分の死に際して、願いを託すんだ。
 「私が遺品を君に送る時、それは自分が死んだことを意味する。だからそれを新聞広告に掲載して欲しいんだ」と」
 「クリスティーヌに自分の死を知らせるためね?」
 「そうだ。そしてその三週間後、新聞広告に「エリック死す」と掲載される」
 「なんだか切ないお話ね? でもわかるなあ、そんな醜いエリックを捨てられないクリスティーヌの気持ちが。
 『ノートルダムのせむし男』みたいなお話ね?
 たとえ姿は醜くくても心は綺麗。
 音楽を愛する人はみんな、心がキレイだもん」
 「そうだね? 琴子は外見も心も美しい」
 「私ね、今まで人を憎んだり怒ったりしたことがないの。
 それに私、クリスチャンだしね?」
 「ちょっとエッチなクリスチャンだけどね?」
 「コラーッ!」

 私はふざけて銀河を殴るフリをした。

 「琴子、君はもし僕がエリックのようになっても愛し続けてくれるかい?」
 「もちろん!」

 私は即答した。

 「俺も同じだよ。たとえお前が白髪の皺くちゃの老婆になっても、君を生涯愛し続けると誓うよ」
 「ありがとう、銀。私もあなたのオムツをちゃんと交換してあげるね?」
 「よろしく頼むよ。さあ席に着こう、もうすぐ『フィガロの結婚』が始まる」

 私たちは長年連れ添った夫婦のように腕を組み、自分たちのシートに並んで座った。
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