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第一楽章

第1話 冷たいベッド

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 私はすでに死んでいた。
 
 銀河を失った今、私は何も考えることも出来ず、何も感じなくなっていた。
 私から五感が消えてしまった。
 食欲もなく、すべてがグレーカラーに見えた。
 ベッドから起き上がれない日々が続いた。



 母に付き添われ、耳鼻咽喉科を受診した。

 「メニエール病ですね? 内耳の中に「内リンパ水腫」が生じ、難聴と激しい眩暈を伴います。
 原因は様々ですが、過度のストレスや睡眠不足から起きることが多いようです。
 点滴をして少し横になって眠ると改善するはずです。
 ただ、何度も繰り返すようになると、生活に支障をきたすこともあるので注意が必要です。
 まずはストレスを溜めず、穏やかに暮らすことです。現代社会では中々難しいかもしれませんが」
 「ありがとうございました」
 「お大事にして下さい」


 私は処置室で点滴を受け、久しぶりに死んだように眠った。
 銀河の夢を見た。

 銀河は地下のワインカーヴの中にいた。ワイン樽からグラスに赤ワインを注ぎ、色と香りを確認し、口に含んでテイスティングをしていた。満足げに頷く銀河。

 「素晴らしい出来だよ、琴子。ほら、君も飲んでごらんよ。
 これは天使の酒だ」
 「銀! お酒はもう止めて! 銀が死んじゃう!」
 
 銀河は悲しそうな目をして私を見ていた。


 母に起こされ、目が覚めた。

 「夢を見ていたのね? すごくうなされていたわよ」
 「銀の夢を見ていたの。お酒を飲んでいる銀を必死になって止めたけど、彼は悲しそうな瞳で私を見ているだけだった」
 
 母は私を憐れむように見詰め、私の頭を撫でてくれた。

 「可哀そうな琴子・・・。早く立ち直らなくてもいいのよ、焦ることはないわ。
 悲しい時は落ちるところまで落ちたらいい。そのうち自然と心は浮かんで来るものよ」

 私は一体どこまで落ちて行けばいいんだろう? 底が見えない。




 後日、私は精神科の診察も受けた。
 典型的なうつ病と診断された。
 その若いフランス人の女医は言った。

 「うつ病は「心の風邪」とも言われるわ。つまり、誰でもかかる病気なの。以前、精神科医の私ですらなったことがある。だからあなたの辛さも私には分かる。精神科医としてだけでなく、ひとりの同じ人間、女性としてもね?
 愛する人を失う悲しみは、精神に強い衝撃とストレスを与えるわ。
 不眠と不安。心臓の動悸、過呼吸、手や足の震え、発汗、胃痛に頭痛、食欲不振・・・。キリがないわね?」

 この美しい女医が言う通りだった。
 何もする気が起きず、集中出来ない。物事に興味も楽しみも感じない。
 大好きだった音楽も聴きたくない、歌も歌いたくない。
 そして消えてしまいたいと思うばかり・・・。

 好きな人に突然あんな死に方をされて、うつ病にならない方がおかしい。
 すぐに泣く、無反応、死にたいと絶えず考える毎日。
 私のうつ病は重症だった。

 「ストレスの要因を除去する、避ける。そして無理をしない。
 十分な睡眠とバランスの良い食事、そして適度な運動をすること。
 なんてすぐにそんなことが出来たらそれは「うつ病」とは言わないわ。
 精神科医の私も失業しちゃうしね?
 まずはそれが出来るようになる為のお薬を処方してあげるからちゃんと飲んでね?」
 「はい・・・」
 「脳内のセロトニンの濃度を高めるSSRI、セロトニン、ノルアドレナリンの再取り込み阻害剤、SNRI。三環系抗うつ薬があります。ただし、これらの抗うつ薬の効果が表れるのは通常、服用を始めてから1カ月から2か月は掛かりますから注意して下さい」
 「・・・」
 「もし効果が見られない場合は向精神薬を処方します。
 睡眠薬と抗不安薬も処方しておきますから、まずは眠る事、そして不安にならないように心を落ち着けること。お大事にね?」




 母は私がヘンな事をしないようにと、四六時中私の傍にいてくれた。

 「私、パリの銀の家に帰る」
 「じゃあママも一緒にパリに行くわ」
 「大丈夫、ひとりで帰れるから。私、もう子供じゃないのよ」
 「あなたはいつまでもママの子供よ」
 「琴子ちゃん、僕も一緒にパリに行くよ」
 「ありがとうおじ様。でも大丈夫、母をよろしくお願いします」
 「僕がいると迷惑かい?」
 「迷惑だなんて、ある訳がないじゃないですか?」
 「こんな僕でもフランスには長く住んでいるから、少しは役に立てると思うよ」
 「琴子、悟の好意に甘えなさい。先生のご自宅のこともあるし」
 「私は売らないわよ! 銀のメゾンには私があそこで暮らすの!
 だってあの家には銀の思い出が一杯詰まっているから!」
 「わかったわ。それならそこで私たちと一緒に暮らしましょう。あなたの気が済むまで、あなたがまた、プリマとして歌いたくなるまで」
 「僕も付き合うよ。絵はどこでも描けるからね? それに僕たちはもう家族じゃないか?」
 「おじ様・・・」
 
 私はすでに笑うことを忘れていた。
 私は感情のない、ただのお人形になっていた。





 パリの銀河の家に戻って来た。
 冷たい部屋、懐かしいニスの匂い。
 もちろん暖炉の火は消えていた。
 ディエッペからは日帰りするつもりだったので、ベッドのシーツや枕カバーも、銀河と愛し合ったそのままだった。

 「素敵なお家ね?」
 「詩人の家らしいな?」

 私はキャビネットの上の詩音さんのフォトスタンドを手にして彼女に言った。

 「詩音さん、もう銀と会えた?
 銀は寂しがり屋だからよろしくね? 銀河は本当にお星様になっちゃったの」

 母は写真を覗き込んだ。

 「その人が先生の亡くなった彼女さん?」
 「そう。綺麗な人でしょう?」
 「琴子、あなたも十分綺麗よ」

 花瓶の水はなくなり、花は枯れていた。

 「ママ、お花を買って来る」
 「ママも一緒に行くわ。悟、琴子と出掛けて来るわね?」
 「ああ、気を付けて。僕は暖炉に薪を焚べて部屋を暖めておくよ」

 悟さんはエアコンのスイッチを入れ、暖炉に火を起こし始めた。

 


 パリはすっかりクリスマスの景色になっていた。
 鮮やかな様々なデコレーションとクリスマスイルミネーション。そして街に溢れるクリスマスソング。
 パリは今、ソルドで賑わっていた。殆どの商品が半額で売られていた。
 
 楽しそうに腕を組んで歩く恋人たち。セーヌの川畔で抱き合いキスをしている人たちもいる。
 私は彼らから目を背けた。

 クリスマス・イブ、そして新年も銀河と一緒に迎えるはずだった。
 そんなささやかな願いも今は消えてしまった。
 
 「ねえ、今日は疲れたからデリカテッセンでお惣菜とパンを買って、お家で食べない?」
 「うん」



 詩音さんのお花とお惣菜、そしてバゲットを買って私たちは家に戻って来た。
 とても暖かい、暖炉の炎を見て、私は思わず涙ぐんでしまった。
 母はそんな私を何も言わず、やさしく抱き締めてくれた。


 食卓にはパンとチーズ、そしていくつかのお惣菜が並んだ。
 お酒は売るほどある。

 私はパンとチーズを少しだけ齧り、ワインを飲んだ。
 
 「ご馳走さま」

 私はそのままベッドに横になった。微かに残る銀河の匂い。
 銀河と私が愛し合った痕跡が幾つか渇いて、シーツがカピカピになている場所を私は手で撫でた。

 (銀・・・)

 「ベッドのシーツと枕カバーはそのままにしておくわね? 今夜は彼の温もりを感じてそこで眠りなさい。
 ママと悟はソファで寝るから」
 「ごめんね、ママ」


 冷たいベッド。
 羽毛布団を掛けると、銀河のCHANELの『Egoist』の香りがした。

 私は嗚咽し、シャワーも浴びずにそのまま泣き疲れて眠ってしまった。
 銀河の香りに包まれて。
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