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第二楽章

第5話 まぼろし

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 鎌倉の屋敷での食事には、いつもモーツァルトが流れていた。
 それは亡くなった祖父の習慣だった。
 私はエスプレッソだけの朝食を辞め、スープとサラダ、卵料理、トースト、フルーツ・スムージー、そしてミックス・ナッツの食事に変えた。
 量は多くは食べられないが、まずは落ちた体力を回復させることが先決だった。

 「琴子の朝食は、なんだかリスのお食事みたいね? 木の実なんか食べて」
 
 と、祖母は目を細めて笑った。

 「まるでスーパーモデルのお食事みたいでしょ?」
 「あら、スーパーモデルはリスと同じご飯を食べているの? ほっぺはあんなに膨れてはいないけど?」
 「そうだったらモデルになんかなれないわよ、お口にアーモンドとか貯め込んでいるモデルなんて。あはははは」
 「うふふふふ」

 私と祖母、母の三人は笑った。
 食べられるようになって、少しずつではあるが気持ちの落ち込みは改善されていった。

 「でも良かったわね? 『椿姫』のヴィオレッタの役が決まって。ママ、凄くうれしいわ。
 しかも新国立劇場でやるんでしょう? となると当分は日本での生活になるわね?」
 「ごめんねママ、一緒にパリに戻れなくて」
 「心配しないで、パリで悟と仲良くやっているから。2月になったらパリに戻るつもりよ。銀行口座やクレジットカード、行政関係の書類、パスポートとかの住所と名前の変更も済んだしね」
 「生年月日も変えられるといいのにね? オホホホホ」
 「そうね、16歳とかに戻りたいわ」
 「ママもお婆ちゃまもまだ若いわよ、外見も気持ちも」
 「私も久子みたいに再婚しようかしら?」
 「お父さんが焼餅焼くかもね? あはははは」

 楽しい朝食が続いた。

 「琴子様、エスプレッソをお持ちいたしましょうか?」
 「ありがとう、幸江さん。お願いします」
 「かしこまりました」

 屋敷にはお手伝いさんの幸江さんがいた。この家に来てもう20年以上になる。祖母の良き話し相手でもあった。

 「琴子、明日の椎名先生のところに持って行く書類とかは準備したの?」
 「うん、もう用意したよ。それからママ、明日は私ひとりで大丈夫だから」
 
 母は私の想いを汲んでくれたようだった。

 「椎名先生なら安心ね? それじゃあ明日の椎名先生との打ち合わせにはママはついて行かないけど、判断に迷うようなことがあれば電話しなさい。明日は銀座をぶらついているから」
 「ありがとう、その時はお願い」

 私にはある計略があった。私の知らない銀河の事をもっとよく知りたいという想いが。
 それに母を付き合わせるのは気が引けたのだ。



 食後、母がサロンでピアノを弾いていた。
 ベートーヴェン、ピアノソナタ第17番『テンペスト』第三楽章。
 いつものショパンではなく、母はここに来てからベートーヴェンばかりを弾いていた。
 まるでホロヴィッツのような素晴らしいタッチで。

 『テンペスト』はベートーヴェンがシェイクスピアの戯曲、『テンペスト』に触発されて書いたピアノ・ソナタだ。

 ミラノ大公だったプロスペローが、ナポリ王とミラノ大公の船団を嵐を起こして難破させ、島に漂着した二人に復讐するという物語だ。

 演奏を終えた母に私は声を掛けた。

 「ママのベートーヴェン、素敵。荒れ狂う嵐の海がよく表現されていたわ」
 「タッチにまだ力強さがないでしょう? 指もまだ良く動かないし」
 「音にふくよかさがあるわ。とても自由な音」
 「でもこのスタインウェイはやっぱりいいわ。音もいいしレスポンスが凄くいいの。弾き馴れてもいるしね?」
 「ママ、とても生き生きしている」
 「それは琴子のお陰よ。琴子がパリに行かなければ、私は悟と二度と会うことは出来なかった。あの牢獄のような家でお婆ちゃんになっていたわ」 
 「お礼を言わなければいけないのは私の方よ。ありがとう、ママ」

 人の人生とは分からないものだ。不幸だと思ったことが幸福に繋がっていたり、幸福だと思っていたことが不幸の原因になることもある。
 幸福と不幸はコインのように常に表裏一体なのだ。
 そしてオセロゲームのように、絶えず白と黒が入れ変わってゆく。
 私の人生は、再び始まったばかりだった。




 椎名弁護士はてきぱきと書類を確認し、私はそれをひとつひとつ確認しながら署名捺印をした。

 「お疲れ様でした。書類は以上になります。後は随時、ご指定いただいた口座の方に入金されて参ります。この記載された内容で、来年の確定申告をして下さい」
 「ご親切にどうもありがとうございました。椎名先生が銀の親友で本当に良かったです」
 「私も海音寺さんが銀の彼女さんで本当に嬉しく思います。
 あなたのような素敵な女性が銀とお付き合いしてくれて本当に良かった。アイツはしあわせ者です。
 銀の生活は荒んでいましたから」
 「詩音さんがお亡くなりになってからのことですか?」
 「ご存知でしたか? 詩音さんのことは?」
 「銀から最初に聞かされました。とても愛していたようです、詩音さんのことを。
 彼のメゾンには、彼女の写真が飾ってありました。
 そして今もそのままにしています」
 「そうでしたか? 銀はそれからどんどん壊れていきました。
 「詩音を殺したのはこの俺だ」と言って、毎日のように酒場を歩き泥酔し、絡まれて喧嘩してズタボロでした。
 何度銀を警察に引き取りに行ったことか。
 その頃、彼は何かに取り憑かれたようにいつも詩を書いていました。折り込み広告の裏やメモ紙、レストランのナプキンやレシートの裏にまで。
 「詩が降って来るんだよ、どんどん降って来るんだ!」と。
 皮肉なものです、まるで彼の悲しみが詩に変換されているようでした」
 「病院には?」
 「もちろん連れて行きましたよ、心療内科にもね。
 でも、その精神科医は中々粋な人で、「クスリを服用すれば症状は改善するかもしれませんが、詩人、森田人生は死ぬかもしれない。星野銀河を取るか? 詩人、森田人生を取るかです」と。
 銀は言いました。「最後まで俺は詩人、森田人生でいたい」と。
 その後、彼はパリへと旅立って行きました」

 私はどうしても訪れたい場所があった。それは銀河と椎名弁護士がバイト時代に通ったという上野の居酒屋だった。

 「先生、今日はこれからお忙しいですか?」
 「いえ、この後は何もありませんが」
 「ひとつお願いがあります。私を先生が先日仰っていた、銀河と先生がよく行っていたという、上野アメ横の居酒屋さんへ案内していただけないでしょうか?」
 「まだ残っているかどうかわかりませんよ? それに汚いし、猥雑なところですから」
 「構いません、突然こんなことをお願いして申し訳ないのですが、どうしても銀の思い出の場所を見てみたいのです」
 「わかりました。ではご案内しましょう。私と銀の過ごした青春の場所へ」




 私と椎名弁護士は、上野駅からアメ横を歩いて行った。
 椎名弁護士が立ち止まった。

 「ここです。懐かしいなあ、まだやっていたんだ。海音寺さん、この店ですよ。私が言った通りの店でしょう?」

 椎名弁護士は嬉しそうに笑った。子供のように素直な笑顔だった。
 
 その居酒屋は山手線の高架下にあった。
 透明なビニールシートで覆われ、看板も見当たらない。
 安物のスーツを着たサラリーマンや作業服姿の労働者、そして怪しげな人間たちがお酒を飲んでいた。

 「では銀座へ出て、天ぷらでもいかがです? ご馳走させて下さい。銀の親友として」

 私は引き寄せられるようにそのままお店に入って行った。

 「海音寺さん」
 
 彼と私はお店にいた人たちの注目を一斉に浴びた。
 
 「何だおめえ? 吉本のお笑い芸人か? 女優なんか連れていい御身分だぜ」

 椎名弁護士は真っ赤なハーフコートを着ていた。
 その老人には歯が殆どなかった。前歯が2本だけ覗いていた。
 まだ1月だというのに薄い、少し破れたブルーのウインドブレーカーを着ていた。
 私たちは奥のカウンター近くのテーブル席に座った。

 「私は生ビールと焼鳥を一本、お願いします」
 「琴子さんは面白い人ですね? 銀が惚れるのも分かる気がします。じゃあ私も同じ物で」

 その時、彼は私の事を初めて「琴子さん」と名前で呼んでくれた。
 何だか同じクラスメイトのようでうれしかった。
 私は店内を隅々まで見渡した。

 (銀河がここにいたのね?)

 銀河と椎名弁護士が、大きく口を開けて笑っている姿が目に浮かんだ。そして銀の汗の匂いも。

 私は泡のバランスの悪い発泡酒を飲み、少し焦げた焼鳥を齧った。
 涙が零れ、私は俯いてしまった。

 「おいゲッツ! 女を泣かしてんじゃねえぞ! コラッツ!」

 椎名はそれを無視し、

 「琴子さん、ここでは銀の思い出話も落ち着いて出来ませんから場所を変えましょう」

 私はそれに同意した。



 「凄い店だったでしょう? あそこで飲んでいたんですよ、銀と僕は」
 「中々のカオスでしたね?」
 「カオス過ぎますよ。でもあれが今の日本の闇の部分なんです。同じ日本人なのにね? 金持ちはどんどん金持ちになり、貧しい人たちはその日暮らしの毎日なんです」



 少し歩いて行くと、商店街主催のカラオケ大会が開催されていた。
 私たちは足を止めてそれを見物した。
 中年のオバサンが美空ひばりの『川の流れのように』を歌い終わると、疎らな拍手が起こった。

 「ありがとうございました! 若いひばりさんでしたね?  はーい、これは参加賞のおつまみの入った福袋でーす!」
 「正月の余りもんじゃねえのか!」
 「よくご存知で。あはははは」

 会場がどっと沸いた。

 「さあみなさん! 飛び入り参加も大歓迎ですよ!
 参加賞はこのおつまみセットですが、優勝者には熱海の1泊旅行券がペアで贈呈されます! いかがですか? ご夫婦で、恋人同士で、あるいは不倫関係でも結構ですよ! このスケベ!」
 「あはははは」

 すると驚いたことに椎名弁護士が両手を挙げた。

 「はいはい! はーい! 歌わせて下さい! 僕が歌います!」

 椎名弁護士は舞台に駆け上がった。

 「おっ、これはこれはゲッツの人ですか? あんな美人な彼女さんの前でいいところを見せようなんて、この宿泊券が欲しいんですね? このドスケベ芸人!」
 「いいぞー! 歌えエロ芸人! ゲッツ!」
 
 ヤジと笑いが飛んだ。
 
 「ではこのタブレットで曲目を選んで下さい」
 「伴奏は要りません。アカペラで歌いますから」

 彼はマイクを手にして歌い始めた。
 それは驚いたことに私がリサイタルでたまに歌う、『もののけ姫』だった。
 男性ではまず、声が裏返ってしまう。

 (ふざけているのかしら? それともファルセットで歌うつもり?)

 どちらにしても彼の歌にはあまり期待はしてはいなかった。
 所詮は素人だと思ったからだ
 だが彼が歌い始めた瞬間、カラオケ会場は水を打ったように静まり返った。
 胸を打つ、美しいカウンター・テナー。
 隣のカップルの女の子が涙を拭いながら言った。

 「米良美一さんみたい・・・」

 冬の夜空に響き渡る彼の伸びやかで繊細な歌声に、人々は魅了された。
 歌い終わった時、少し遅れて凄まじい拍手喝采が巻き起こった。司会者は興奮して彼に訊ねた。

 「あんたプロなの? 優勝です優勝!
 持ってけドロボー! みなさんもう一度、ゲッツさんに盛大な拍手を!」

 
 旅行券を貰って椎名弁護士はご満悦だった。

 「錬三郎先生、歌、凄くお上手なんですね?」
 「琴子さんのYouTubeで勉強しましたからね? あはははは」
 「えっ、私の歌をですか?」
 「ええ、最近は寝る時はいつも聴かせていただいています。ぐっすりと眠れるんですよ、琴子さんの歌声を聴いて眠ると」

 私は銀河の親友だと言うこの男性を、いつの間にか名前で呼んでいた。

 「それじゃあ銀座にでも行きましょうか? 美味しい天ぷら屋さんがあるんですよ」

 私はその笑顔に銀河のまぼろしを見た気がした。
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