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第四楽章

第1話 新しい伴奏者

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 ご当主とお義母様の喜び様は尋常ではなかった。

 「ちっちゃい手。なんて可愛いのかしら? やはり初孫ってうれしいものね?」

 歌子を抱いた義母は満面の笑みを浮かべていた。

 「美しい指をしておる。早速バイオリンをプレゼントしよう。 
 ところで名前は決めたのかね?」
 「はい。錬三郎さんが歌子と名付けて下さいました」
 「歌子か? いい名だ」

 錬三郎は名付けた理由を話し始めた。

 「ありがとうございます。
 椎名家は代々、男子には「三郎」を、そして女の子には漢字一文字に「子」をつける決まりがあるんだ」
 「そうだったの? じゃあ「歌子」も椎名家の伝統に習って名付けてくれたのね?」
 「椎名歌子。琴子のように歌が上手な子になるようにと、女の子の名前は以前からそう決めていたんだ。
 夏目漱石は自分の娘に「筆子」と名付けた。漱石は自分が字が下手だったからだそうだ」
 「歌子。私がバアバですよー。
 最初の子供だから何かと大変でしょうけど、困ったことがあればいつでも言って頂戴ね?」
 「ありがとうございます、麗子さん」
 「歌子のためにヘリと別荘を用意してあげよう」
 「あなた、まだ産まれたばかりですよ」
 「あはははは そうだな? だが幼いうちから本物に慣れ親しむことは大切な教育になるものだよ」

 歌子はこんな素敵なご両親に愛されて凄くしあわせだと私は思った。

 


 子育てがこんなに大変だとは思わなかった。
 4時間おきの授乳、夜泣き、オムツの交換など、私と錬三郎は疲弊していた。
 それでも錬三郎は積極的に育児に参加してくれた。


 歌子は私のお乳をゴクゴクと飲んでいた。
 錬三郎はその光景をスマホで撮影していた。

 「ママと歌子。とてもいい顔をしているね? これを新しい待ち受けにしようかな?」
 「他の人には見せないでね?」
 「どうして?」
 「だって私のおっぱいが見えちゃうじゃない。恥ずかしい」
 「わかったよ、誰にも見せない」
 「事務所との契約の約款にもあるんだから。ヌードは禁止だって。あはははは」
 「あのマドンナとの契約約款なんて百科事典くらいの厚みがあるからね? 特にアメリカの大スターとの契約交渉は大変なんだよ」
 「そんなに細かく?」
 「特に衣食住の取り決めが細かく指示されるんだ。「アイスクリームはハーゲンダッツのラムレーズンだけ」とかね?」
 「本当に?」
 「それは僕の好みだけどね? あはははは」
 「でも錬三郎パパ、大丈夫? 夕べも殆ど寝てないんじゃない?」
 「それは琴子も同じだろう? 僕は別に気にならないよ。歌子の事が可愛くてしょうがないからね」
 「ねえ、ベビーシッターさんをお願いしない?」
 「そうだなあ、君もレッスンが疎かになっちゃうしね?」
 
 昼間、私が休めることが出来れば夜は何とかなる。そうすれば錬三郎をゆっくりと寝かせてあげることが出来るのだ。

 「じゃあちょっと探してみるね?」
 「うん、君にも歌子にとってもいい人を雇うといい」
 「ありがとう錬三郎」

 


 何人か面接をしたが、「帯に短し襷に長し」といった感じで、歌子を安心して任せることが出来るベビーシッターは中々見つからなかった。


 「どうだい? いい人は見つかったかい?」
 「まだなの、3カ月の歌子を任せるにはちょっとね?」
 「僕の面倒を看てくれていた、乳母の唯さんはどうかなあ?」
 「錬三郎の乳母の人?」
 「うん、とてもいい人だよ。今度、ここに来てもらおうか?」
 「錬三郎を育ててくれた人なら安心ね? でも引き受けてくれるかしら?」
 「今は椎名家で働いてくれているから、たぶん大丈夫だと思う。保育士と看護師の資格も持っているんだ」
 


 唯さんは今年で還暦だったが、40代にしか見えない、綺麗で聡明な女性だった。
 出しゃばるでもなく、穏やかだが凛とした人だった。

 
 「錬三郎お坊ちゃま。お久しぶりでございます。本日はお招きいただき誠にありがとうございます」
 「唯さん、お久しぶりです。妻の琴子です。そして娘の歌子です」
 「初めまして、河上唯と申します。錬三郎お坊ちゃまのお世話をさせていただいておりました」
 「初めまして、琴子です」
 「実は唯さんにお願いがあるんだ。歌子のベビーシッターになってもらえないだろうか?」
 「このかわいい歌子様の乳母に私がですか?」
 「朝の9時から17時まででいいんだけど」
 「私でよろしければ喜んでお世話をさせていただきます。
 ちょっと抱かせていただいてもよろしいですか?」
 
 私は歌子を唯さんに抱かせた。
 歌子は唯さんが気に入ったようで、笑っていた。


 「笑っていらっしゃいます。かわいい」
 「それでは早速明日からお願いしても構わないかい? 母には僕から話しておくから」
 「わかりました。よろしくお願いします」
 「良かったね? 歌子。唯さんがお世話を引き受けてくれるってさ」



 翌日から唯さんが家に来てくれた。
 歌子のこと以外にもお掃除にお洗濯、お料理。そして歌子の育児日誌までも書いてくれていた。もちろん、動画も添えて。
 彼女の育児、家事は完璧だった。
 さすがは名家の女中だけあって卒がない。
 決しておしゃべりではなく、私の話に上手に合わせてくれた。
 お陰でとてもカラダがラクになり、少しずつ歌の感覚も戻りつつあった。
 出産を経験したことで、少し声にしっとりとした艶が出て来た気もする。



 ウォーキングも再開し、レッスンも徐々に増やしていった。
 まずは基本的な発声訓練から始めることにした。
 
 「SORA」を十分に練習した。
 「S」を発音する時には0.001秒から0.00001秒に拘った。
 「SO」は頭蓋骨のどの部分に当てるか? 鼻腔の開閉、マスケラに沿っていかに音を乗せるか? 後ろから回すのかなど、繊細な部分に神経を集中させた。

 鏡の前での所作、容姿、口の中、唇の位置、形。
 顔の筋肉、肩の位置。全体の筋肉の確認。そしてヨガの呼吸法で学んだ肛門の力の入れ方、横隔膜の位置、背骨を中心にした内臓の位置を整える修練を心掛けた。
 スタミナが衰えていたので食生活と筋トレ、走ることで持久力を養うようにした。

 だが、問題は伴奏者だった。
 錬三郎にいつまでも頼るわけにはいかなかった。
 彼はすでにファームの共同経営者、パートナーになっていたからだ。
 オペラに復帰するためには優秀な伴奏者が必要だった。




 歌子を連れて事務所に挨拶に行った。

 「琴子さん、赤ちゃん見せてくださいよー!」
 「かわいい! 抱っこさせてもらってもいいですか?」

 私は歌子を他人に抱かせることに抵抗があった。

 「ごめんなさいね? ちょっと急いでいるのでこれ、皆さんで食べて下さい。社長は?」
 「相変わらず出掛けています」
 「専務は?」
 「はい、お部屋においでです」


 私は歌子を抱いて専務の部屋のドアをノックした。

 「どうぞ」

 室内から専務の声がした。

 「ご無沙汰しています。叔母様」
 「あら大きくなったわね? どれどれ」

 叔母は歌子を愛おしそうに抱っこした。

 「将来あなたもママみたいな歌姫になるのよ。
 丁度良かった、あなたの伴奏者の話なんだけど」
 「実はそのことでご相談がありまして。ピアニストを田所さんにしていただくわけにはいきませんか?」
 「良かったわ。私も琴子の伴奏は彼がいいと思っていたのよ。雅之なら琴子の歌に合うかなと思って」

 私は田所さんのピアノが好きだった。
 だが彼は事務所の稼ぎ頭。看板ピアニストで作曲家でもあり、伴奏をお願いするには少し気が引けていたのだ。 
 彼は私の憧れの音楽家だった。
 穏やかな物腰、卓越した音楽センス。
 何よりも私の目指す音楽と、ベクトルが一致しているように感じた。
 
 (彼のピアノで歌いたい)

 「彼は快諾してくれるでしょうか? 私とユニットを組むことを?」
 「これは彼からの提案なのよ。どう? やってみない?」
 「是非! よろしくお願いします! 叔母様」

 夢のような話だった。これで私はもっとソプラニスタとしての高見を目指すことが出来る。

 「歌ちゃん、琴子ママは乗り気のようでちゅよー。あはははは
 じゃあ後はあなたたちのスケジュールを調整しておくわね? 子育てで大変だとは思うけど、これもあなたのキャリアのためよ、頑張りなさい」
 「よろしくお願いします」

 私の心は踊った。




 夕食時、田所さんのことを錬三郎に話した。

 「今度ね? 事務所の大御所、田所雅之さんとユニットを組むことになったの。凄いでしょう?」

 錬三郎は当然、それを喜んでくれるものだと思っていた。
 だが、錬三郎の反応は意外なものだった。

 「田所雅之かあ。僕は君には合わないと思うなあ」
 「えっ、どうして?」
 「彼のピアノにはテクニックはあるが、心がない。
 いや、寧ろ穢れているとさえ感じてしまう」
 「どうしてそんなことを言うの! 彼とユニットが組めるなんて滅多にないチャンスなのよ!」
 「とにかく僕は賛成しない。お風呂に入って来るよ」

 いつも温和な錬三郎がそんな不機嫌な顔を見せたのは初めてだった。
 だが私には妥協はない。一度自分で決めたことは最後まで遣り通すのが私の性分だったからだ。
 私は田所さんとのユニットを決めた。


 錬三郎のピアノは私を全面的に惹き立ててくれるピアノだったが、彼のピアノは私の歌と「融合するピアノ」だった。
 私の歌と呼応するように自らも主張して来る。それは武道の心得と似ていた。
 私が息を吐く時は彼は息を吸い、私が息を吸う時は息を吐く。
 私と彼の音は色、温度、湿度、香りなどがすべて同じだった。
 つまり私の歌と彼のピアノでひとつの音楽が奏でられた。
 しかも彼は作曲やアレンジも出来るので、私が歌いたい曲をよりクラシカルに品位のある音楽に仕上げてくれた。
 それはまるで愛のあるSEXのように甘美なものだった。




 田所さんとレッスンを始めてから、錬三郎は益々不機嫌になった。


 「今度の週末、田所さんとレッスンなの。歌子のこと、お願い出来る?」
 「琴子の優先順位は田所か! 折角の休みなんだぞ! 勝手にしろ!」

 (田所さんが男だから妬いているのかしら?)

 もちろん彼とは大切な音楽のパートナーであり、恋愛感情があるわけではない。
 私は錬三郎の気持ちが分からなくなっていた。
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