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第四楽章

最終話 Amazing Grace

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 1年半の入院生活を終え、私は再び鎌倉の祖母の家に身を寄せることにした。
 私は意地っ張りな性格なので、錬三郎と歌子が暮らす自宅に帰る訳にはいかなかった。
 素直になれない自分がいた。


 「琴子。良かったわね? やっと退院出来て」
 「お婆ちゃま、またお世話になります」
 「人生は意外と永いものよ。これからどうするか? どうした方がいいか? よく考えることね?」
 
 私の心は既に決まっていた。
 
 (錬三郎と歌子とまた一緒に暮らしたい)

 だがそのきっかけが見つからなかった。




 クリスチャンだった私は、退院出来たことを神様に感謝するためにいつもの教会に礼拝に訪れていた。

 (イエス様、私はようやく退院することが出来ました。ありがとうございます)

 祈りを終えると牧師先生に声を掛けられた。


 「海音寺兄妹きょうだい、退院出来て本当に良かったですね? ところであなたのような著名なプリマドンナにこんなお願いをすることは失礼かもしれませんが、今度のクリスマス・イブのミサであの讃美歌、『Amazing Grace』をチャリティとして歌ってもらう訳にはいきませんでしょうか?」
 「牧師先生、今の私の声はまだこのような状態です。みなさんの前で歌うのはまだ時期尚早かと?」
 「歌は心で歌うものではありませんか? 私たちはあなたの「心の歌」が聴きたいのです」
 「心の歌?」
 「そうです、あなたが再び蘇った姿を見ることで、信者さんたちに生きることの素晴らしさを感じていただきたいのです」

 心の歌? 私は歌うべきだと思った。
 いや、歌わなければならないと思った。偉大なる主、イエスのために。そして信者さんと私のために。
 だがまだ歌うには声に不安があり、体調も万全とは言えない。
 毎日たくさんの薬を服用することで、私の体と精神はやっと支えられていたからだ。


 「わかりました。少し考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」
 「もちろんです。いいお返事をお待ちしております」


 『Amazing Grace』を作詞したのはイギリス人の牧師、ジョン・ニュートンだった。
 讃美歌第二編第167番、『すばらしき神の恵み』

 彼は幼い頃から、敬虔なクリスチャンであった母親から聖書の読み聞かせをされるなど、キリスト教に強い影響を受けて育ったが、ジョンが7歳になって母が他界してからは、商船士官だった父親と一緒に船乗り見習いとなり、やがてアフリカの黒人奴隷貿易にも関わるようになり、富を築いて自堕落な生活に溺れていた。

 当時の奴隷輸送船はかなりの劣悪な環境で、人間として扱われていない奴隷たちの多くは、航海中に感染症や飢えで死んでしまったという。
 そんなある日のこと、英国への航海の途中、激しい嵐に遭遇し、流石のジョンも神に命乞いの祈りを捧げた。


    「主よ、どうか私をお助け下さい」


 すると積荷が船体に空いた穴を塞ぎ、浸水は収まり、ジョンは命拾いをした。
 ジョンはその日を契機に酒や賭博、女遊びを一切辞め、キリスト教に心酔していったが奴隷貿易を辞めることはなかった。
 ただし、これまでの奴隷に対する処遇の改善をしたらしい。

 それから7年後、彼は病気を理由に船を降り、神学を学び、教会への多額の献金を行い牧師となった。
 彼は様々な自分の奴隷に対する悪業を悔い改め、神の許しに感謝してこれを作詞したのが『Amazing Grace』だった。
 まだ声がちゃんと出ない自分に、この曲は重すぎた。

 
 それを聡子に話すと、

 「いいじゃない? やりなよそれ」
 「でもまだちゃんと歌うことが出来ないし・・・」
 「何を迷っているの? 歌はテクニックで歌うものではないでしょう? どうしてそんなことに拘るの? オルガンなら私が弾いてあげる。バカにしないで頂戴、もう以前の私じゃないんだから」
 「それは分かっているわよ。でも私はプロとして完璧に歌いたいの」
 「琴子の歌でみんなが励まされるなら素敵なことじゃない? そうだ、今夜、ちょっと私に付き合いなさいよ」
 「別にいいけど」




 聡子は私を新宿二丁目のゴールデン街に連れて行った。

 「何? オカマBARなら行かないわよ」
 「ちゃんとしたスナックだから安心して。コーラでいいから」

 
 その店は『アカシアの雨』という店だった。
 入口は間口1けんほどの店で、カウンターが6席だけの小さなお店に、お客は私たちふたりだけだった。
 花魁のような着物をだらしなく着た、50代くらいの色白細面ほそおもての妖艶なママがハイライトを吸っていた。
 左手首には無数の傷跡が覗いていた。

 (リストカッター?)

 「ママ、今日は私のマブダチを連れて来たんだ」
 「あら、綺麗な人ね?」
 「私のボトルまだある?」
 「アンタのじゃなくて裕太のボトルならあるわよ」
 「それは私のボトルだよ、だってお金を出したのは私だもん」
 「そりゃそうだ。あはははは」

 ママはそう言って、美味しそうにジャックダニエルのストレートを口にした。
 時代遅れのお店とママ。ここは昭和で時間が停止していた。


 「琴子はコーラでいいよね?」
 「うん」
 「ママの歌、すごくいいんだよ。心からの歌なんだ。
 ねえまま、いつものあれ、歌ってよ」

 ママはお酒とコーラを準備しながら、

 「いいわよ。でもあれを歌うとまたお酒が飲みたくなっちゃう。あはははは」
 「いいわよ驕るから」
 「そう? じゃあ歌おうかしら?」


 ママは私たちに各々グラスを置くと、カラオケのリモコンを操作してマイクを握った。
 曲は美空ひばりの『佐渡情話』だった。

 (演歌?)

 彼女が歌い始めた瞬間、私の全身の毛穴が粟立った。


     『佐渡情話』

     佐渡の荒磯の 岩かげに

     咲くは鹿の子の 百合の花・・・


 後から後から涙が零れた。
 お酒とタバコでしゃがれたダミ声。だがそこには彼女の壮絶な人生が浮かんで見えるようだった。
 ママは泣いていた。


 「ジーンと来ちゃった。ママの歌は最高だよ!
 ねえ琴子? 凄いでしょ? ママの歌の迫力!」

 私は完全に負けたと思った。この歌姫の私が。

 (そうなんだ! 歌は心で歌うものなんだ!)

 私は上手く歌う事ばかりを考えていた。錬三郎はそれを私に伝えたかったのだ!


 「ママはね? これを歌う時、抗争で亡くなったヤクザのご主人を偲んで歌うそうよ。心が締め付けられるようでしょう?
 あの本田美奈子が一時帰宅を許された時、ナースステーションの前でスタッフさんたちにお礼を込めて『Amazing Grace』を歌ったそうよ。
 お医者さんも看護師さんたちもみんな泣いたんですって。
 歌って、音楽って人を感動させることよね?」
 「ありがとう聡子。イブの夜、オルガンを弾いてくれる?」
 「もちろん! 琴子にはその力があるわ」

 私と聡子は抱き合って泣いた。




 
 当日、教会には錬三郎と義母の麗子さん、そして歌子。葵さんも来てくれた。


 (歌子、大きくなったなあ)

 歌子はもう2歳になっていた。
 錬三郎の膝の上にかわいい白のドレスを着て、お行儀よく座っていた。


 聡子のオルガン伴奏が始まった。私は錬三郎と歌子、そしてみんなのために精一杯の想いを込めて、『Amazing Grace』を歌った。



        『Amazing Grace』

    Amazing Grace
    How sweet the sound,
    That saved a wretch like me. .
    I once was lost but now am found,
    Was blind, but now, I see.


        『素晴らしき神の恵み』

    何と甘美な響きであろう
    私のような者までも救ってくださった
    かつて私は道に迷ったが
    見出してくださり
    盲目だった私は、今は見える


    ‘Twas Grace that taught. 
    my heart to fear.
    And Grace, my fears relieved.
    How precious did that Grace appear. .
    the hour I first believed.

    神の恵みが私の心に恐れることを教えた
    そして、その恵みが私の恐れを解き放ってくれた
    神の恵みのなんと尊いことか
    私が初めて信じたその時


    Through many dangers, toils and snares. .
    we have already come.
    T’was Grace that brought us safe thus far. .
    and Grace will lead us home.

    これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑を
    私は乗り越えてきたが、
    神の恵みこそが、私にこれほどの安らぎを与え
    ふるさとへと導いてくれた


    The Lord has promised good to me. 
    His word my hope secures.
    He will my shield and portion be. .
    as long as life endures.

    主は私に良いことを約束された
    主のお言葉は私の望みを守ってくださる
    主は私の盾となり一部となるだろう
    わが命の続く限り


    When we’ve been here ten thousand years. .
    bright shining as the sun.
    We’ve no less days to sing God’s praise. .
    than when we’ve first begun.

    何万年経とうとも
    太陽のように明るく輝き続ける
    神への讃美を歌ってきた
    初めて歌った時と同じように。


    Amazing Grace, how sweet the sound,
    That saved a wretch like me. .
    I once was lost but now am found,
    Was blind, but now, I see.

    アメージング・グレース
    何と甘美な響きであろう
    私のような者までも救ってくださった
    かつて私は道に迷ったが
    見出してくださり
    盲目だった私は、今は見える



 私が歌い終わっても、教会の中は静まり返っていた。
 拍手をするのも忘れて、みんなが泣いている。



 「ママーっ!」


 歌子が私に向かって走って来るのが見えた。
 私も思わず歌子に駆け寄り、歌子を抱き締めて泣いた。
 ミルクの甘い香りがした。
 一斉に沸き起こる拍手喝采のスタンディングオベーション。
 その後からゆっくりと錬三郎が私に近づいて来る。


 「さあ帰ろう。僕たちの家に。
 今夜はイブの夜だから」


 聡子はオルガンでバッハの名曲、『主よ 人の望みの喜びを』を弾いてくれた。
 私は今、全身に神様を感じていた。


                      『歌姫(後編)』完


 【作者あとがき】

 これはフィクションであり、登場人物はすべて架空の人たちです。
 歌うことにすべてを捧げる琴子に伝説の歌姫、マリア・カラスの儚くも美しい人生を重ねてみました。
 すべての音楽を愛する人たちのために。

 お読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。

                            菊池昭仁


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