11 / 24
第11話
しおりを挟む
小学校6年生で会津の田舎に転校して来た私にとって、毎日は驚きの連続だった。
大きくて綺麗な体育館、ひと学年が8クラスしかなく、生徒数もひとクラスに40人ほどしかいなかった。
大宮の小学校ほどの緊張感はなく、のんびりとした小学校だった。
当時の会津の産業は農業と観光、漆器と酒造りだった。
大企業などは殆どなく、役場職員か銀行員が地元のエリートだった。
だが、会津藩の末裔たちが暮らす会津には、徳川家、会津葵の御紋を背負った会津人としてのプライドがあった。
それは会津藩校日新館が校訓としていた、
ならぬことはならぬ
という武士としての矜持だった。
「恩は石に刻め」という、徳川から受けた恩は決して忘れてはならないという思想が会津藩にはあった。
サムライとして「恥ずべき行いをしてはならない」という教えである。
「目先の利益に飛びついてはならない」と、常に教えられた。
学校の教室にはこの言葉が額に入れて黒板の上に掲げられていた。
会津は昔の日本の縮図だと思う。
資源も植民地もない日本だが、卓越した教育制度だけが充実していた。
16、17歳位のまだあどけない武家の子息である少年剣士たちが『白虎隊』として組織され、鶴ヶ城に籠城すべきか薩長と戦を交えるべきかと激論した後、飯盛山で割腹自殺をした。
そしてその忠義心は今も語り継がれている。
現在の白虎隊の剣舞を創設したのは中学の教師で詩吟の師範でもあった義父である。
白虎隊士として命を取り留めた飯沼貞吉はその後、通信技士として日清戦争に陸軍歩兵大尉として従軍した際、ピストルを携帯するように言われたが、
「自分は白虎隊として死んだ身である」
としてそれを断ったという。
会津には伊東正義という偉大な政治家がいた。
盟友の大平正芳が死んで、総理臨時代行となった時でも彼は総理執務室ではなく、官房長官執務室で仕事をし、国会でも総理大臣席には座らなかったと言う。
総理になりたい政治家がウヨウヨいる中で、伊東は自民党総裁になって欲しいと懇願されたがそれを受けなかった。
「本の表紙を変えても中身が変わらねえと駄目だ」
と断ったという。
佐川急便の汚職でカネを受け取らなかった自民党の政治家は、伊東正義だけだったという。
地元に返ってくると、バブルで浮かれたあの時代ですら、雨漏りのする小さな事務所の六帖の畳で頭を肘で支えて横になって笑っていた。
そんな会津の名産は「教育」だった。
同志社大学を創設した新島襄の妻、女子教育の先駆者でもある茶道家、新島八重。ソニーの創業者の井深大。石油会社のオーナー夫人、七十七銀行の頭取、大阪市長など枚挙に暇がない。
戊辰戦争で薩長の仇敵でもあった会津の人間が政治経済、軍や省庁で重要なポストに就いている。
それは「相手を決して裏切らない、勤勉な人間である」ということが評価されたからではないだろうか?
学校の番長格のリーダーを懲らしめた私は、放課後、草野球に誘われるようになった。
野球は田舎の子供の方が野性的で上手いのではないかと思ったが、埼玉の野球チームよりもはるかにレベルは低かった。
大宮の少年野球ではピッチャーで4番を打っていた私はすぐにヒーローになった。
「昭仁君、野球、上手いね?」
私は有頂天になっていた。
大宮の少年野球チームには、小児麻痺で片足が不自由な2学年上の背が高くてハンサムな先輩がいて、ピッチャーが投げたボールを振り向きざまにバックネットに打ち込む特技を見せてくれたりもした。
みんながプロ野球選手になることに憧れた時代だった。
浦和の住人以外、サッカーに興味はなく、学校の授業でやる程度だった。
センターリングなんて知らずに、いつもボールに群がるようなサッカーだった。
いつものように校庭で野球をしていると、隣接していた只見線を走る列車の音が近づいて来た。
シュシュシュシュ ポーッ
それは初めて見たSLだった。
(蒸気機関車が走っている!)
それは物凄い迫力だった。
午後の澄んだ大空に、もくもくと煙を大空に叩きつけるように疾走し、警笛を鳴らして走って行った。
だが誰もそれに驚く子供などなく、普通に野球をしていた。
イベントで走るSLなどではなく、それは在来線として利用されていた。
それが今から50年前の会津の日常だった。
教諭たちは個性のある面白い先生が多かった。
私たちが広島の原爆について話している時、迂闊にも私が「原爆はアインシュタインが作ったんだよね?」と言うと、たまたまそこを通りかかった定年間近の教頭先生が大きな声で私に言った。
「違う! 原爆を作ったのはオッペン・ハイマーだ!」
私はその時初めてオッペン・ハイマーの名を知った。
ある日、次の授業に遅れそうになり、廊下を早足に私が歩いていると、音楽と図工を担当していた先生に呼び止められた。
「いかがです? 一緒に音楽でも聴きにまいりませんか?」
40歳くらいのその男性教師とは面識はあっても直接授業を受けたことはなかったが、私が6年生で埼玉の大宮からの転校生だったということは、どうやら職員室でも話題になっていたようだった。
私は授業のことも忘れ、先生について行った。
体育館から音楽が聴こえて来た。それは50人ほどの編成の合奏だった。
大宮にいる時には合唱はあったが、器楽合奏はなかったので衝撃だった。
「これは『マイアミ・ビーチルンバ』という曲なんですよ」
そう先生は私に教えてくれた。初めての音楽との出会いだった。
そしてエレクトーンを弾く女の子に目が停まっった。
一心不乱にエレクトーンを弾く女の子。
彼女は私と同じ六年生だった。
彼女は8組だったので名前も知らなかった。
ただ廊下で女子たちと大きな声で笑いながらすれ違うことがあり、耳に髪を掛ける仕草が印象的な子だった。
転校生の私はみんなから好奇の目で見られていたこともあり、彼女とも時々目が遭った。
それから13年後、その彼女は私の妻になった。
初めて彼女を見た時から、私は何となくそんな気がしたのが不思議だった。
大きくて綺麗な体育館、ひと学年が8クラスしかなく、生徒数もひとクラスに40人ほどしかいなかった。
大宮の小学校ほどの緊張感はなく、のんびりとした小学校だった。
当時の会津の産業は農業と観光、漆器と酒造りだった。
大企業などは殆どなく、役場職員か銀行員が地元のエリートだった。
だが、会津藩の末裔たちが暮らす会津には、徳川家、会津葵の御紋を背負った会津人としてのプライドがあった。
それは会津藩校日新館が校訓としていた、
ならぬことはならぬ
という武士としての矜持だった。
「恩は石に刻め」という、徳川から受けた恩は決して忘れてはならないという思想が会津藩にはあった。
サムライとして「恥ずべき行いをしてはならない」という教えである。
「目先の利益に飛びついてはならない」と、常に教えられた。
学校の教室にはこの言葉が額に入れて黒板の上に掲げられていた。
会津は昔の日本の縮図だと思う。
資源も植民地もない日本だが、卓越した教育制度だけが充実していた。
16、17歳位のまだあどけない武家の子息である少年剣士たちが『白虎隊』として組織され、鶴ヶ城に籠城すべきか薩長と戦を交えるべきかと激論した後、飯盛山で割腹自殺をした。
そしてその忠義心は今も語り継がれている。
現在の白虎隊の剣舞を創設したのは中学の教師で詩吟の師範でもあった義父である。
白虎隊士として命を取り留めた飯沼貞吉はその後、通信技士として日清戦争に陸軍歩兵大尉として従軍した際、ピストルを携帯するように言われたが、
「自分は白虎隊として死んだ身である」
としてそれを断ったという。
会津には伊東正義という偉大な政治家がいた。
盟友の大平正芳が死んで、総理臨時代行となった時でも彼は総理執務室ではなく、官房長官執務室で仕事をし、国会でも総理大臣席には座らなかったと言う。
総理になりたい政治家がウヨウヨいる中で、伊東は自民党総裁になって欲しいと懇願されたがそれを受けなかった。
「本の表紙を変えても中身が変わらねえと駄目だ」
と断ったという。
佐川急便の汚職でカネを受け取らなかった自民党の政治家は、伊東正義だけだったという。
地元に返ってくると、バブルで浮かれたあの時代ですら、雨漏りのする小さな事務所の六帖の畳で頭を肘で支えて横になって笑っていた。
そんな会津の名産は「教育」だった。
同志社大学を創設した新島襄の妻、女子教育の先駆者でもある茶道家、新島八重。ソニーの創業者の井深大。石油会社のオーナー夫人、七十七銀行の頭取、大阪市長など枚挙に暇がない。
戊辰戦争で薩長の仇敵でもあった会津の人間が政治経済、軍や省庁で重要なポストに就いている。
それは「相手を決して裏切らない、勤勉な人間である」ということが評価されたからではないだろうか?
学校の番長格のリーダーを懲らしめた私は、放課後、草野球に誘われるようになった。
野球は田舎の子供の方が野性的で上手いのではないかと思ったが、埼玉の野球チームよりもはるかにレベルは低かった。
大宮の少年野球ではピッチャーで4番を打っていた私はすぐにヒーローになった。
「昭仁君、野球、上手いね?」
私は有頂天になっていた。
大宮の少年野球チームには、小児麻痺で片足が不自由な2学年上の背が高くてハンサムな先輩がいて、ピッチャーが投げたボールを振り向きざまにバックネットに打ち込む特技を見せてくれたりもした。
みんながプロ野球選手になることに憧れた時代だった。
浦和の住人以外、サッカーに興味はなく、学校の授業でやる程度だった。
センターリングなんて知らずに、いつもボールに群がるようなサッカーだった。
いつものように校庭で野球をしていると、隣接していた只見線を走る列車の音が近づいて来た。
シュシュシュシュ ポーッ
それは初めて見たSLだった。
(蒸気機関車が走っている!)
それは物凄い迫力だった。
午後の澄んだ大空に、もくもくと煙を大空に叩きつけるように疾走し、警笛を鳴らして走って行った。
だが誰もそれに驚く子供などなく、普通に野球をしていた。
イベントで走るSLなどではなく、それは在来線として利用されていた。
それが今から50年前の会津の日常だった。
教諭たちは個性のある面白い先生が多かった。
私たちが広島の原爆について話している時、迂闊にも私が「原爆はアインシュタインが作ったんだよね?」と言うと、たまたまそこを通りかかった定年間近の教頭先生が大きな声で私に言った。
「違う! 原爆を作ったのはオッペン・ハイマーだ!」
私はその時初めてオッペン・ハイマーの名を知った。
ある日、次の授業に遅れそうになり、廊下を早足に私が歩いていると、音楽と図工を担当していた先生に呼び止められた。
「いかがです? 一緒に音楽でも聴きにまいりませんか?」
40歳くらいのその男性教師とは面識はあっても直接授業を受けたことはなかったが、私が6年生で埼玉の大宮からの転校生だったということは、どうやら職員室でも話題になっていたようだった。
私は授業のことも忘れ、先生について行った。
体育館から音楽が聴こえて来た。それは50人ほどの編成の合奏だった。
大宮にいる時には合唱はあったが、器楽合奏はなかったので衝撃だった。
「これは『マイアミ・ビーチルンバ』という曲なんですよ」
そう先生は私に教えてくれた。初めての音楽との出会いだった。
そしてエレクトーンを弾く女の子に目が停まっった。
一心不乱にエレクトーンを弾く女の子。
彼女は私と同じ六年生だった。
彼女は8組だったので名前も知らなかった。
ただ廊下で女子たちと大きな声で笑いながらすれ違うことがあり、耳に髪を掛ける仕草が印象的な子だった。
転校生の私はみんなから好奇の目で見られていたこともあり、彼女とも時々目が遭った。
それから13年後、その彼女は私の妻になった。
初めて彼女を見た時から、私は何となくそんな気がしたのが不思議だった。
応援ありがとうございます!
10
お気に入りに追加
2
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる