★未完成交響曲

菊池昭仁

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第27話

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 ドライ・ドックとは乾式ドックといい、水が入っていないドックのことである。
 つまり船体のすべてが丸裸になっており、普段見ることが出来ない船底部やスクリューを見ることが出来る。
 船には見えない部分に多くのテクノロジーが詰まっている。
 実はあの美しい白い船体の海水に浸かっている部分は赤いペンキが塗られている。船底塗料と言ってフジツボなどの貝などが付着しないようにするためだ。
 船が効率よく進むためには海水との摩擦抵抗を極力抑える必要がある。ゆえに貝などが付着するとそれが大きな抵抗になるからだ。
 そして海水と空気が絶えず入れ替わるウォーター・ラインは錆易いのでそれを防止するための塗料が塗られている。
 つまり船にな大きく分けて3種類の塗料が使われているのである。
 汚れと錆は船体にとってとても重要で、学校では塗装工学と錆についての講義があった。
 ちなみに船底の洗浄にはサンド・ブラストという砂を高圧で吹き付けることで汚れを落す工程もある。

 一般的には推進装置をスクリューというが、我々船舶関係者はプロペラと呼んでいる。
 略して「ペラ」とも言う。
 海水はナトリウムを多く含む電解質であるため、そのままだとイオン化傾向によりマンガン・ブロンズ製のプロペラが腐食してしまう。そこでそれを防止するためにブロンズよりもイオン化傾向の強い、ジンク・プレート(亜鉛プレート)をプロペラの周りの船体に貼り付けている。するとそのジンク・プレートがプロペラの代わりに電気分解して腐食していくのである。
 プロペラにも様々の工夫がされている。
 プロペラの回転数を上げていけばスピードも上がると考えそうなものではあるが、あまりプロペラを早く回してしまうとプロペラが海水を排除して「空洞化現象」が生じてしまい、逆に船速が落ちてしまう。
 通常の航海では1分間に150回転ほどでプロペラを回している。
 そしてキャビテーションが生じ、プロペラに当たる気泡や水滴があの硬いプロペラを腐食させることはあまり知られてはいない。航空機や巨大船のタービン・エンジンのブレードも高速回転により空気でも腐食するのである。
 ドックに降りて下から見上げる日本丸はとてつもなく大きく見えた。


 日本丸の検査、修理修繕は最終段階を迎え、3日後にはドックを出る予定だった。
 帆船は大航海時代のしきたりや習わしもあり、号令や各部の名称などはすべて英語である。
 まずは帆船の歴史や船内生活、航海で重要な部分をすべて暗記させられた。
 1日があっという間に過ぎて行った。
 学校では神様だった我々も、今度は「囚人」になったわけである。

 出港間近ということもあり、初めて外出許可が出た。
 帆船には人でが必要なので、全員が一度に船を離れることは出来ない。
 故に半舷上陸という制度があり、船のキャビンの右舷や左舷だけが上陸を許され、交代で外出をするのである。
 これでやっと隠れて酒を買いに行かなくても済んだ。
 私たちは横須賀や横浜などへ出掛けた。

 「やっぱりシャバはいいよなあ」
 「刑務所から「出所」したみたいだな?」
 「あはははは」

 横須賀は軍港ということもあり、飲み屋も多かったが洋服屋も多かった。
 刺繍してくれる店もあり、当時流行りのアポロキャップやスカジャンに刺繍をしてくれるサービスもあり、それを利用する連中もいた。
 俺たちは居酒屋で浴びるほど酒を飲んだ。


 いよいよドックに海水がダムの放水のように注水され、明日には浦賀の三菱造船所を出ることになった。

 「本船(船乗りは自分の船を「本船」と呼ぶ)は明日、ヒトマルマルマル(10:00)、千葉県の館山湾にてセール・ベンディングを行う。ヤードにセイルを装着するのである」

 何しろマストは海面から約50メートルもある。毎日の訓練でマストにはなんとか登れるようにはなったが、そこで作業をするのは初めてである。どんなことをするのかと不安だった。
 ヤードの後ろにはワイヤーでセーフティロープが回してある。そこに命綱を掛けるのだが教官はそれを脅すのだ。

 「実際にはひとりが転落すると全員が転落するからマストに上がったら絶対に気を抜くんじゃない!」
 「はい!」

 海面から50メートル、噂によると運良く海に落ちたとしても、コンクリートに落ちたような衝撃となり、命の保証はないという。

 「足から落ちるとキンタマが潰れるらしいでえ」

 関西人の友人がそう付け加えた。
 飛び込み選手が羨ましかった。

 マストへはシュラウドという斜めに張ったワイヤーを登って行くのだが、カデットは船内ではいつも裸足だった。
 デッキ材は柾目板のチーク材が使われ、海水などでのヌメリを防止するためにヤシの身を半分にして乾燥させたスクラブ(たわし)を使い、ターン・ツーと言って、毎朝デッキを磨くのである。誰が? 我々実習生がである。
 腰を下ろして両手で磨く、声を出しながら。
 私は1年生の時の寮でのあの「地獄の風呂掃除」を思い出した。

 マストに登る時ももちろん裸足である。職員はベテランなので地下足袋を履いていた。
 だがそれは意味のあるものだった。裸足のほうが感覚が体に直に伝わるからだ。

 シュラウドにはラット・ラインという足を掛けるロープがネットのように張り巡らされている。
 ところが風雨や海水、紫外線に絶えず晒されるために脆くなっている場合があり、たまに切れるのだ。
 帆船乗りは足場に手を掛けて上り下りはしない。絶えずサイドのハンドレールやロープを握る。
 そうでないと足場が破損した場合、そのまま転落することも考えられるからだ。

 普通に登るのでも恐ろしいのに、実は各ヤードへ渡るためのステージ部分は「バック・シュラウド」と呼ばれる「仰向け」になって登る短い箇所がある。手を話せば確実に落ちてしまう。命綱もないのでかなり緊張した。

 
 館山湾に到着した。

 「それではただ今よりセール・ベンディングを行う。各自その場の職員の指示に従え。かかれ!(配置につけという意味だが、これは英語のcarry onが日本的に呼ばれたものだと教えられた)」

 (俺はどのヤードを担当するのだろう?)

 すると担当航海士から訊かれた。

 「ロイヤルヤード(最上ヤード)に登りたい者!」

 なんと自己申告制であったのである。
 目立ちたがり屋の私は真っ先に手をあげた。

 「おお、流石は菊池、いい度胸だ」

 すると仲良くなった広島商船高専のヤツに言われた。

 「ホンマや、菊池、お前はアホやもんなあ。あはははは」
 「お前も付き合え」
 「よっしゃ、ワシもロイヤルやりまっせえ!」

 負けず嫌いの我々でロイヤルの担当はすぐに埋まった。
 どうして自分で選ばせるのかは分かっている。もし事故が起きた場合、それが自己責任となるからだ。
 日本丸は毎年、何らかの事故で死亡者が出ていた。
 霊感の強い私は日本丸には霊気を感じた。
 戦時中はマストを撤去されて海軍に徴用され、戦後は兵士の復員や遺体や遺骨輸送にも使用されていたからである。


 実際作業をして分かったことは、上のヤードに行くほどセールが小さくなくなるので作業自体はラクになるということだ。
 つまり上は危険度は高いが作業はラク。下は比較的安全だが作業が大変であった。
 結果的に同じなのである。人生と同じように。


 ヤードにセイルを巻く際には2つの方法がある。
 シー・ガスケットとハーバー・ガスケットだ。
 シー・ガスケットは作業を短時間で終わらせるためのラフな縛り方で、一方のハーバー・ガスケットは港に入港する際の化粧用として、キチンとキレイに巻く遣り方である。

 取り敢えず、これから日本の沿岸を一般公開をしながらハワイへの往復する2ヶ月間の実習航海へ向けて、4ヶ月のトレーニングが開始された。

 次の港は神戸である。
 だがその私の「処女航海」が、その後の私の船乗り人生が始まるきっかけになることはその時、予想もしなかった。

  
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