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9月16日(水)曇り 入院11日目

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 看護士さんが二交替制だと聞いて驚いた。
 つまり彼女たちは、1日12時間勤務ということになる。 
 医療ミスが起きないことの方が不思議なくらいだ。
 一人で50人近くの患者を受け持つらしい。
 
 元航海士だった俺は、昼の4時間と夜の4時間、一日合計8時間の三交代制の航海当直になっていたが、ブリッジには椅子がない。立ちっぱなしでの4時間はかなりキツかった。
 緊張と疲労から、立ったまま居眠りをしたこともあった。

 昔の兵隊さんは「歩きながら寝た」というが、まんざらウソではない筈だ。
 命を預かる看護士が12時間勤務。
 医者はもっと過酷だ。

 「家には風呂に入って着替えに帰るだけですよ」と、自嘲している医者もいた。
 救命救急になると、家にすら帰れないらしい。

 知識と経験に裏付けられた瞬間的判断と行動。タフな精神力が医者には欠かせない。
 彼らは医学生の頃からの勉強の大変さから、3日位は平気で眠らずに働くことが出来る。
 ラクが出来て収入が良くなるのは、大学教授になるか、開業してからのことだ。
 医者は稼ぎがいいと思われているが、それなりに大変な仕事のようだ。

 東京の大学病院で事務職をしている妹が言っていた。

 「お兄ちゃん、若いドクターなんて月8万円くらいしか貰っていないんだよ」

 だから実家が金持ちの医者以外は、他の病院でバイトをするのだそうだ。

 寮で医学部志望の先輩がいた。
 部屋に遊びに行くといつも勉強していた。
 壁には大きく、

      医は仁術なり

 と書かれた大きな貼紙がしてあった。
 先輩の同級生は笑っていた。

      医は算術なり

 だと。あの先輩は医者になれたのだろうか?



 会社で一番良くしてくれたAさんがお見舞いに来てくれた。
 ありがたいことである。
 こんな俺を見て、さぞドン引きしたことだろう。
 


 突然、元女房から電話があった。

 「ナースステーションに着替えとか渡しておいたから、それじゃあね」
 「会わないで帰るつもりか?」

 私は少し腹が立った。

 (それほどまでに俺をまだ憎んでいるのか?)

 だがすぐに私は冷静になって思った。
 女房が病室に訪ねて来なかったのは、俺の女と鉢合わせになるのがイヤだったからなのだと。
 女とはとっくに別れていた。
 俺と女がイチャついているところなど見たくもないからだ。

 「大丈夫なの?」
 「大丈夫? どうしてだ? まあ少し話せないか?」

 渋々彼女はそれを承諾した。


 談話室で少しだけ話をした。

 「何か飲むか?」
 「いらない。取り敢えず、下着とか持って来ただけだから」
 「ありがとう、わざわざ遠くから大変だったな? 子供たちは元気か?」
 「元気だよ。退院はいつになりそうなの?」
 「まだわからない」
 「そう。夕方までには帰りたいからもう行くね? お大事に」

 元妻はそう言って席を立った。
 1年ぶりに会った女房は、少し痩せたようだった。
 
 「カネを渡したいから俺も一緒に下に降りて行くよ」

 
 下りのエレベーターで、私たち「元夫婦」に会話はなかった。
 気不味い沈黙が長く感じた。


 私はATMでカネを下ろし、30万円を渡した。

 「今月分の慰謝料。気をつけてな?」
 「ありがとう。助かるわ」

 女房は振り返ることもなく、大学病院のエントランス・ホールを出て行った。
 私は彼女の姿が見えなくなるまでその後姿を見送った。

 それほど会話はなかったが、俺のことを心配してくれていることが嬉しかった。
 俺はひとりの女も幸せに出来なかったことを恥じた。

 あれほど俺との結婚をせがんだ女も、俺が女房と離婚した途端、俺と疎遠になった。
 俺は女と別れた。
 
 女は言った。

 「元嫁はあなたのことを凄く愛していたと思う」

 電話で女房と対決した女の、それが最後の言葉だった。
 今ではその女の顔すら思い出せない。
 俺は一体何を女に求めていたのだろう。

 俺が家に帰ると、子供たちはすぐに自室へと閉じ籠もってしまう。
 女房は食事を温めるとすぐに二階の娘の部屋へと上がって行った。
 俺は思った。


     カネさえ渡せば家族にとって俺は不必要な人間だ


 俺はその寂しさとやるせなさを、女たちと付き合うことで埋めようとした。
 虚しい別れだった。

 「家族のために」とがんばっていたつもりの俺が、いつの間にか「家族を犠牲にして働いていた」ことに気付かなくなっていた。
 いかに自分の生き方が間違っていたのかを、また今日、女房と会ったことで思い知らされた。

 だがこれで良かったのかもしれない。
 俺の面倒を家族は看なくてもすむからだ。
 その意味で俺は、良き父親であり、良き夫だった。

 ひとりで静かに死んでいく俺。
 墓参りになど来なくてもいい。

 家族は俺から離れられて幸福だと思うことにした。

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