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第12話

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 突然、涼子が吐血した。
 私はすぐに救急車を呼び、病院へ付き添った。
 救急隊員が私に訊ねた。

 「かかりつけの病院はありますか?」
 「はい、壬生の医大病院へお願いします」
 「わかりました。担当の先生は?」
 「消化器外科の大西先生です」
 「わかりました。ではこれから医大病院へ向かいます」
 「お願いします」
 

 涼子は酸素マスクをされ、少し苦しそうだった。
 救急車の内部には心臓と血圧のモニターが作動していた。
 私はずっと涼子の手を握っていた。

 「大丈夫だよ、もうすぐ病院だから」
 「あ、な、た・・・」
 「何だ?」

 彼女の口元に耳を近づけた。

 「病院は、い、や・・・。
 びょ、う、いん、では、死に、たく、ないの・・・」
 「わかっているよ、大丈夫。すぐに一緒に帰れるからね?」
 
 涼子は静かに頷いた。
 涼子の手が少し、汗ばんでいた。



 幸い、数日の入院で退院出来ることになった。
 私は大西准教授に呼ばれた。

 「失礼ですが、涼子さんの「ご主人」でよろしいですよね?」
 「はい」
 「残念ですが、かなり衰弱しています」
 「あと、どのくらい、ですか?」
 「持って3カ月といったところかもしれません。
 今度出血すると、かなり厳しい状態になります」
 「延命処置は可能でしょうか? いま建築中の家の完成まで、あと2か月なんです」
 「お家を?」
 「ええ、妻の夢なんです。海の見える家で暮らすのが。
 出来ればそこで最後を看取ってやりたいのです」

 大西准教授はカウンセリング・ルームの天井を見上げた。

 「そうですか? 本当はこのまま病院に入院していただければ、1か月程度の延命は可能なのかもしれませんが、それでは家を見ることが出来ません。
 宮永さんのお考えはいかがですか?」

 私は即答した。

 「家で私が看病します。在宅での訪問看護をお願い出来ませんか?」
 「わかりました。検討してみましょう。 ところで宮永さん?」
 「何でしょう?」
 「人を看取るということは大変なことです。
 精神的にも肉体的にも。
 死期が近づくと、その人から逃げたくなることもある。
 辛いことですよ、死にゆく者の哀願する眼を見るのは。
 あなたにその覚悟がおありですか?」
 「正直「あります」とは言えません。
 でもやるしかない、耐えるしかありません。
 家内と結婚する時、それを覚悟して結婚しましたから。
 先生、もし逃げたくなったら私はどうすればいいでしょうか?」
 「逃げることです。そしてまた、戻ってあげればいい。
 無理はしないことです。すべて相手に伝わる事ですから。
 奥さんは、ご主人に無理をされることがいちばん辛い。
 医者をしていると、多くの患者さんを見送ることになります。
 全員助けたい、でもそれは不可能です。
 医者は神ではないのですから。
 奇跡は起こせないのです。
 でもこれだけは言えます。「死はすべての人間に平等に訪れます」と。
 一人の例外もなくです。
 私は医者になって20年以上になりますが、死なない人間に出会ったことがありません。
 もちろん僕にもあなたにも、必ずその時がやって来ます。
 どうせ旅立つなら、安らかに送り出してあげましょうよ。愛を持って。
 そう思いませんか?」
 「あなたが主治医で本当に良かった。心からそう思います」



 3日後、涼子は退院した。

 「ねえ、お家、どこまで出来た?」
 「基礎は完成したよ。
 明後日、土台を敷いて次の日に足場を掛ける。その翌日が上棟だ」
 「見に行きたいなあ、いいでしょう?」
 「ああ、見に行こう。涼子の「海が見える家」を」
 「ごめんなさいね、わがままを言って」
 「楽しみだね?」
 「うん」
 


 そして上棟の日を迎えた。この日も雲一つない快晴だった。

 「ほら、あそこにクレーンが見えるだろう? 建方が始まっているんだ」
 「どんな風になっているのかしら?」
 

 足場が見えて来た。
 ほぼ柱は立て終わり、胴差や梁、桁が組まれていた。


 現場に到着すると、木のいい香りがしていた。
 カケヤを叩く音が心地よく響いている。


 「どんどんお家が組みあがっていく。素敵・・・」



 そして夕方には屋根の野地板が敷かれ、無事、上棟になった。


 「親方、ありがとうございました」
 「明日、屋根屋が下地の施工に来るそうだ。
 さっき見て、帰ったところだよ」
 「棟梁、ちょっとお願いがあるんです」
 「何だい?」
 「なるべく工期を短くして欲しいのです」
 「どうして?」
 「妻が、もう長くないんです・・・」
 「えっ?」
 「だから少しでも早く、この家に住まわせてやりたいんです。
 この家で妻を看取ってやりたいので。
 もちろん追加の手間はお支払いしますので、大工の数を増やしていただけませんか?
 お願いします」
 「そうだったのかい・・・。
 俺も3年前、女房を亡くしたからよお、わかるよ、アンタの気持ち。
 何とかするよ。材料だけ、どんどん現場に入れてくれ」
 「無理を言ってすみません」
 「早く住まわせてやりてえよなあ?
 まだ若いのになあ・・・」
 「よろしくお願いします」


 車椅子の涼子のところへ戻ると、涼子は大粒の涙を流していた。

 「もっと小さい家かと思ってた。だって地縄を張った時、本当に小さい家だなあと思っちゃったから。
 とても素敵なお家、ありがとう、新一。
 早く住みたいなあ」
 「さっき親方に頼んで来たよ、なるべく早くお願いしますって」
 「それで親方さん、何だって?」
 「頑張ってくれるそうだよ」
 「よかったー。完成まで生きていられるかしら? 私」
 「君がそんな弱気じゃ駄目じゃないか?
 ちょっと骨組みの中に入ってみようか?」
 「えっ、いいの?」
 「特別だよ。さあヘルメットを被って、僕におんぶするんだ」

 涼子を背負った時、あまりの軽さに思わず私は泣きそうになった。

 (これが涼子の命の重さなのか? あまりにも軽過ぎる)

 「ほら、ここが玄関だよ。そしてここがLDKだ」
 「海が見える! 波の音も聞こえる!」
 「ここがキッチン、そしてダイニングだ。
 それからここにテレビがあって、ここにソファを置こう」
 「ねえ、ちょっと降ろして」
 「わかった、静かに降ろすからね?」


 涼子は床の下地に足を着けた。
 そしてゆっくりとキッチンへと歩いて行った。

 「ここのあたりがキッチンなのね?」
 「そうだよ、どうだい? 全体がよく見渡せて、海が見えるだろう?」
 「見える! 見えるわ! 海も、そしてあなたも!」

 夕日を背にして、海が輝き始めていた。
 私はこの時、このまま時が止まればいいと願った。

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