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第9話

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 碧の気持ちは鉛のように重かった。

 今日はこれからお互いの両親へ、結婚の報告に行くことになっていたからだ。
 クルマのハンドルを握りながら早川が言った。

 「僕。今日、碧ちゃんのご両親に会うのが楽しみだよ」

 後部座席の碧は早川の頭を拳で叩いた。

 「浮かれてんじゃないわよ! この豚メガネ!
 よくもそんなことが言えたわね! ひとの気も知らないで!」
 「ごめんなさい」

 うれしそうにしている早川を見て、碧は呆れた。

 「この変態ドM!」


 だがその罵倒は早川には逆効果だった。
 彼はより一層、悦に入っていた。

  

 碧の実家に着くと、父も母も玄関で碧たちを出迎えてくれた。
 ふたりとも凄くうれしそうだった。

 もちろん結婚については事前に母にだけは話しておいた。


 「良かったじゃないの碧! 同じ都庁の人ならお母さんも安心よ。結婚するには公務員が一番!」

 母はそう言って喜んでくれた。


 
 「ようこそいらっしゃいました! さあどうぞどうぞ、おあがり下さい!」

 碧は思った。

 (私のことをこんなにも心配してくれていたのね?)



 出前の寿司桶を中心にして、母の自慢の手料理が並んだ。

 それをブタのように食べている早川。
 

 「この筑前煮、お母さんが作ったんですか! すごく美味しいです!
 いいなあ、碧さんは毎日こんなに美味しいご飯を食べて育ったんですね? 羨ましいなあ」
 「たくさん食べて下さいね? 早川さんのお母さんに比べたら私のお料理なんて田舎料理ですけど」
 「とんでもありません! 母は料理をしない人なんです。
 ピアノを弾くので料理とか家事は一切しないんです。
 だから僕は「おふくろの味」を知りません。食事はいつもお手伝いさんが用意してくれます。
 いいですね? これが家庭の味なんですね?」
 「そうでしたか? お手伝いさんがお食事を」

 父も地方公務員だったので、早川との結婚には大賛成だった。
 
 「お父さんのお仕事は何をされているんですか?」
 「都内で開業医をしています」
 「それは大したものですね? お医者さんなんですか?」
 「ただの産婦人科医です」
 「碧、お式の準備は進んでいるの?」

 早川にお茶を注ぎながら母が言った。

 「これからよ、向こうのご両親とも相談しないと」
 「それもそうね? 早川さんのところはお付き合いも広いでしょうしね?」

 碧の気持ちは複雑だった。
 
 すると突然、早川は箸を置いて両親に頭を下げた。


 「お父さん、お母さん。僕は碧さんを必ずしあわせにします。
 碧さんを僕のお嫁さんに下さい」
 「娘をよろしくお願いします」

 父は少し寂しそうだった。
 これが娘を嫁がせる父親の気持ちなのだろう。




 早川の実家へ移動のクルマの中で碧は思った。

 (これで良かったのよ、親孝行が出来たんだから)

 碧は自分にそう言い聞かせた。
 これがお腹の子の父親を伏せたまま、シングルマザーへの道を選んでいたら、間違いなく両親は落胆しただろう。
 「私の選択は間違ってはいなかった」と、碧は思った。


 「碧ちゃん、本当に赤ちゃんのことは言わなくて良かったの?」

 碧は後部座席から早川のシートを蹴った。

 「「私はこの男に無理やりレイプされて妊娠してしまいました」って言うのかコラ!
 殺すぞテメー!」
 「ごめんなさい」

 流石の早川も、今度ばかりはシュンとしていた。



 早川の実家に着くと碧は驚いた。

 「ここが僕の実家なんだ」

 そこはまるでヨーロッパの貴族の館のような屋敷だった。


 「お前、こんな家に住んでいるのか?」
 「大きいだけの人形のお家だよ」

 早川は寂しそうに言った。


 両開きの大きな玄関扉を開くと、12帖ほどの吹き抜けがあり、そこは大理石が敷き詰められたエントランスホールになっていた。

 天井からはスワロフスキーのシャンデリアが吊るされ、コンソールには壮麗な華が生けてあった。


 「土足なんだ、そのままどうぞ」
 「なんて広い玄関ホールなの?」
 「よく人を呼んでパーティーをするからね、ここはその時のウエイティングエリアでもあるんだよ」


 すると50歳台くらいの能面のように無表情な顔をしたお手伝いさんが現れた。
 彼女はニコリともせずに言った。

 「お帰りなさいませお坊っちゃま。奥様たちがお待ちです」
 「ただいま早苗さん。こちらが僕のお嫁さんになる碧さん、よろしくね?」
 「かしこまりました。北村と申します」
 「碧です、こんにちは」

 
 早川の両親はサロンにいた。

 「ようこそ碧さん! 智之の父です。
 凄い美人じゃないか! 智之。
 良かったな? こんな素敵な人が我が家にお嫁に来てくれて!」

 早川は黙ったままだった。

 「はじめまして、碧と申します」
 
 義母は憮然としていた。


 「智之の母、麗子です。
 どうぞこちらへ。お茶の用意が出来ておりますので」

 夥しい高価な調度類、美術品の数々。そして中央に置かれたグランドピアノはスタインウエイ製のピアノだった。


 「このお紅茶はロンドンの友人から贈っていただいた物なの。
 ご存知かしら? ハロッズの『アフタヌーン・ティー・ドリーム』を。
 私、これが大好きなの」
 「お母様はピアニストをされていると伺いましたが、素敵ですね? いつもお家にピアノの音が流れているなんて」
 「私のピアノはそんなレストランで弾くような、下劣なものではありません。
 私は音楽家なのですから。
 言葉を慎みなさい」
 「失礼いたしました」

 すると早川の父親がフォローしてくれた。

 「うちのヤツのピアノは凄いんですよ、私は音楽のことは全然ダメなんですが、まるでクラッシックのCDを聴いているのかと思うほどです。
 まあプロだから当たり前なんでしょうけどね?」
 「プロとはいってももう昔のことですけれどね? 碧さん、お紅茶のお替りをどうぞ」
 「ありがとうございます。すごく芳醇で上品な香りがします」
 「昔はこのお紅茶も三越にもあったんですけどね? 今は国内では手に入らなくなってしまって。
 ところで碧さん、お式のことはこちらで段取りいたしますから、もちろん費用は全額こちらで持たせていただきます。
 招待客もかなりな方々がおいでになりますので、いろいろと細かいもありますので」
 「お任せいたします」

 碧にとっては式などはどうでもよかった。
 もちろん結婚式自体もあくまで形式だけのことだったからだ。


 「まさかとは思いますけど、赤ちゃんがお腹にいるなんてことはないわよね?」
 
 麗子が碧のお腹を見て言った。
 碧は黙っていた。

 すると早川が言った。
 
 「ママ、碧ちゃんは妊娠しているんだ」

 すると義母の麗子の瞳が冷たく光った。

 「まったく最近の若い人たちは物事の順序というものをわきまえないんだから。
 私たちの頃には考えられないことだわ。恥ずかしい、結婚式もまだだというのに何をしているのあなたたちは!」

 碧はその時、真実を暴露しようとしたが我慢した。


 「まあいいじゃないか、それだけ早く孫の顔が見れるんだから。
 今、何週目だね?」
 「12週目になりました」
 「そうですか? 大事にして下さいね?
 ところでどこのクリニック?」
 「伊藤咲江先生のクリニックです」
 「ああ咲江先生ね? 咲江先生なら大丈夫だ、優秀な先生だから安心だよ。僕もよく学会でご一緒するんですよ」
 「そうでしたか? とても親切な女医さんです」

 碧は安心した。
 義父に自分の股を見られることには抵抗があったからだ。
 
 だが義母の麗子だけは呆れ顔のまま、それ以上何も言わなかった。

 碧は先が思い遣られると思った。

 碧は姑の麗子とは距離を置くことを決めた。

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