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第15話

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 「素敵なお店ですね? 久しぶりです、ジャズを聴くのは」
 「私もです。もう7年くらい前になります、このジャズ・クラブに来たのは?」
 「ご主人と?」
 「いえ、前に付き合っていたポンコツ、ロクデナシとです」

 霧島は笑った。

 「いいんですか? そんな想い出の場所に僕なんかと来ても?」
 「寧ろ助かりました。女性ひとりで来るには少し抵抗がありますから」
 「ビル・エヴァンスですか? 好きですよ、彼のジャズは」
 「私もです。
 決してでしゃばらない、押しつけがましくない自然な音。
 それでいて、ないと寂しい。
 そんなビル・エヴァンスの音楽のような男性がいるといいんですけどね?」

 碧は挑発するように霧島を熱く見た。

 「ご主人はそういう男性じゃないんですか? このビル・エヴァンスのような?」
 「全然・・・」

 碧はライム・ソーダの入ったグラスを見詰めた。
 気泡が氷の海を駆け上がって行くようだった。

 「それは寂しいですね? でも夫婦なんてそんなものかもしれません。
 自分の想いは中々相手には伝わらないものですから」
 「霧島さんの奥さんはどんな女性だったんですか?」
 「できた女房でしたよ、奥さんの鑑のような女性でした。
 料理はプロ級、家事全般はすべて完璧、子供の教育もきちんとしてくれていました。
 ただ・・・」
 「ただ何ですか?」
 「ベクトルが同じ方向に向いてはいなかった。
 私の生き方のベクトルと、彼女の人生のベクトルが・・・」

 霧島は遠い目をして、カナディアンウイスキーのクラウンロイヤルを喉に流し込んだ。


 「おそらく女房は普通の暮らしを望んでいたんだと思います。
 一般的な家庭の暮らしを。
 悪い事をしたと今でも反省しています。
 それは撚りを戻したいということではありません、私のような自分勝手な男が夫だったということに対してです。
 わかりますか? こんな男の気持ち?」
 「わかりません。私は女ですから。
 わかるのは奥さんの気持ちだけです。
 霧島さんを愛していたんだなあということだけはわかります。とても・・・」
 「どうしてですか?」
 「女だからわかるんです、男の人にはわからないでしょうけど?」
 「碧さんはご主人を愛しているんですか?」

 碧はライム・ソーダを呷った。

 「一度もありませんよ。
 私、夫にレイプされたんです。
 それで子供が出来て、止む無く籍を入れました。
 愛なんてあるわけがないじゃないですか!
 一緒に住んではいますが、寝室はもちろん別々、愛の欠片もありません」

 霧島は黙ってしまった。

 「ヘンですよね? 私」
 「いえ、それは辛いですよね? そんな男と一緒に暮らすのは」
 「辛くはないんです、アイツは私の召使ですから」

 碧は寂しそうに笑った。
 碧は霧島に体を寄せた。

 「今日は帰らなくてもいいんです。今度は静かな所で飲みませんか?」

 霧島は静かに碧の肩を抱いた。


 
 霧島の裸体から直に香るムスクの香りに碧は狂い、自ら霧島の上に跨り、腰を振っていた。
 忘れかけていたセックスの快感。碧は我を忘れた。

 霧島の巧みなリードにより、自分でもわかるほど、碧のそこは潤んでいた。

 喘ぎというより、絶叫がホテルの部屋に響いていた。
 男女が交わる淫らな音とムスク・ローズの香り。

 ふたりはほぼ同時に絶頂を迎え、バックスタイルの体位だったので、霧島はその直前でそれを抜き去り、碧の背中に射精した。
 そして霧島は優しく碧にキスをした。


 「後悔はしません。初めてあなたを見た時から、碧さんに心が奪われていました。
 僕はどんな罰も受ける覚悟です」

 碧は黙って頷き、そして言った。

 「私、霧島さんに初めて会った時、目が醒めたんです。この香りに。
 これってムスクですよね? マキュワベリ・ムスク。
 昔の彼がつけていましたが、彼にこの香りを纏うには若すぎました」
 「そうでしたか? この香りが。
 僕もこの香りが好きなんです。
 そして名前もいい、目的の為には手段を選ばないというマキュワベリズムにも。
 シャネルのエゴイストのようには甘くはないが、このムスクは「征服者の香り」です。
 「我儘な男」よりも「戦う男」、そんな感じがするんです、このコロンには」
 「危険な香りですよね? この香り・・・。
 女を狂わせてしまう・・・」

 碧は霧島の胸を指でなぞった。


 ホテルの窓に朝の気配が近づいていた。
 始発電車の音が聞こえていた。

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