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第5話

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 いつも通り、東京駅はかなり混雑していた。

 「お弁当とか買う?」
 「冷えた高い弁当を食べるより、神戸牛が待っているからいらないよ。 
 あの店、まだあるかな?」
 「どうかしらね? 震災もあったしね。
 でも、あるといいわね? 私たちの思い出のお店だから」
 「飲物とつまみでも買おうか?」

 私たちはKIOSKで缶ビールと珈琲、柿ピーとポッキーを買った。

 「ポッキーなんて珍しいね?」
 「うん、普段は買わないんだけど、なんとなくね?
 そうだ『都こんぶ』も買おうよ、懐かしいなあ。
 遠足みたいだね?」
 「そうだな? 遠足みたいだな。あはは」

 夫は寂しそうに笑った。
 これが私たち夫婦の最後の旅行?
 遼が家を出て行ったら、ふたりで旅行に行こうと思っていたのに。どうしてこんなことになってしまうの?
 こんな元気そうな夫が末期ガン?
 嘘よ、絶対に嘘。

 「不思議ですねえ? 完治しています! 奇跡ですよ奥さん!」
 そうあの村田医師は驚いて言うはずだ。絶対に。
 そして笑顔で「良かったですね?」と。
 そうよ、すべてが笑い話になるはず。
 
   「あの時は大変だったわよね?」

 と、家族で笑いながら。



 私と光明は昼過ぎの新幹線に乗った。明るいうちには神戸に着くはずだ。

 「奮発してグリーン車にしちゃった。いいでしょ?」
 「いいね、ゆったりして。社長か芸能人になった気分だよ。写真週刊誌に気を付けないとな? 愛人と不倫旅行だな?」
 「こんなおばさんと?」
 「俺もおじさんだよ」

 私たちは笑った。

 「ヨーロッパに旅行した時は、エコノミーで予約したのにビジネスクラスだったわよね?」
 「ああ、俺たちはいつもツイているからな?」

 ツイている? そうよ、私たちはいつもツイているのよ。
 子供も、家も、光明の仕事もすべてが順調だった。
 家族全員、大きな病気やケガもせず。
 それなのに・・・。

 いけない、暗い想いばかりが想い浮かんでしまう。
 何のために旅行に来たの? 夫を楽しませてあげないと。私は笑顔になるように努めた。
 私は心の中で祈った。

 (神様、どうか奇跡が起きますように)



 東海道新幹線『のぞみ』は定刻通りにホームを滑り出した。
 高層ビルの森の中を、『のぞみ』は徐々に加速して行った。
 私は缶ビールを開け、一口だけそれを飲むと光明に渡した。
 
 「殿、お毒見完了でございます。うふふ」
 「どうだった? お毒見は?」
 「美味しいわよ、冷たくて」

 私たちは笑った。
 私も珈琲のスクリューキャップを開けて飲んだ。
 そして夫と手を繋いだ。

 「なんだか新婚旅行に行くみたいね?」
 「そうだな?」

 夫は寂しそうに外を見て笑った。
 今は余計なことを考えるのは止そう、ただ楽しむのだ、この旅を。
 私はそう、自分に言い聞かせた。


 しばらくすると、左手に太平洋が広がった。

 「あなた、海よ海! きれい!」
 「ほら、こっちには富士山も見えるよ」
 「東京よりも南には殆ど来ないもんね?」
 「ママが大学を卒業して、ウチの会社に入社してからだからな、もう25年ぶりだな?」
 「初めての旅行だったね? 
 ねえ、旅行中は「ママ」、「お父さん」って呼ぶの辞めにしない?
 名前で呼ぼうよ、昔みたいに」
 「そうだな? じゃあ、加奈子」
 「光明さん」

 私は恥ずかしさを誤魔化すために、ポッキーを齧った。


 名古屋、新大阪を過ぎ、新幹線は新神戸駅に到着した。
 私たちはタクシーでポートアイランドのホテルへと向かい、チェックインを済ませると、ポートライナーで三宮へ出た。
 三宮は沢山の人とお洒落なお店で溢れていた。
 
 「まるでメガロポリスね? 東京よりも洗練されているわ。ここで震災があったなんて嘘みたい」
 「神戸はどこの港町よりもエレガントな街だ。
 横浜、東京、博多、長崎。
 俺は神戸が一番好きだな」
 「光明、お腹空いたー」
 「そうだな、行くか? 神戸牛?」
 「うん」

 私たちは25年前の記憶を辿り、その店を探したが、あまりにも街並みが変わってしまい、記憶も曖昧だったので、中々見つけることが出来なかった。

 「スマホで調べるか?」
 「ううん、探そうよ、探してみようよ。
 私たちの思い出のお店を私たちの足で」

 私は賭けてみたかったのだ。
 もしもあのお店に辿り着くことが出来たなら、必ず奇跡は起きると。

 「こうして加奈子と神戸の街を歩いていると、色んな事を思い出すなあ。
 ちょうどあの時は夏でさ、マックでチョコバナナシェークなんて飲んだよな?」
 「あれ、おいしかったわよね?
 バナナシェークにチョコソースをかけて、それが固まってチョコチップみたいになって。
 なんでなくなっちゃったのかしらね?」
 「何か問題があったんだろうな? コストの面とかで」


 そんな話をしながら、私たちは2時間も店を探し回った。
 そして遂に見つけた。私と光明の思い出のその店を。

 「光明! ここだよ!ここ! 間違いないわ!」
 「すごいな? 加奈子の執念は」
  
 私はまた泣いてしまった。
 それはお店を見つけたことに対する感動の涙ではなく、夫の病気が治ったと確信した喜びの涙だった。


 「いらっしゃいませ」
 「東京から来ました。25年前にもお邪魔しましたが、良かった、まだお店が残っていて。
 震災は大変でしたよね?」
 「そうでしたか? 25年前に。
 ありがとうございます。凄くうれしいです、ご贔屓にしていただいて」
 「こちらこそ、感激ですよ!
 良かった、思い出のお店が残っていてくれて!
 私たち、その後、結婚したんです。
 今日はフルムーン旅行なんです!」
 「そうでしたか? それはおめでとうございます」
 「では折角来たので、この5万円のシャトーブリアンをふたつ、お願いします」
 「かしこまりました。ではささやかではございますが、グラスワインをサービスさせていただきます」
 「えっー、うれしい!」
 「少々お待ち下さい。ご用意させていただきますので」


 私たちはワインを手にした。

 「何に乾杯しようか?」
 「光明の病気が治ったことに乾杯しましょうよ」
 「そうだな? じゃあ乾杯」
 「乾杯!」

 夫はうれしそうに笑った。
 私も笑った。私は奇跡が起きたと信じた。


 神戸牛が溶岩の皿に乗せられて、フランベされた青い炎のまま、運ばれて来た。
 お肉にナイフが吸い込まれて行くようだった。

 「ねっ、私たちってツイているでしょう?」
 「そうだな、ホント、ツイているな?
 ツイているというより、加奈子のお陰だよ。ありがとう」

 夫の光明はしみじみと言った。
 私はまた、泣きそうになったので、

 「美味しい! 何これ? これってお肉なの? なんだか全然別な物をいただいているみたい!」
 「流石は神戸牛だな? 神戸まで来た甲斐があるよ」
 「ホントだね?」


 
 その後、私たちは老舗の有名なBAR、『やながせ』で、まったりとした時間を過ごした。
 暖炉の薪が赤々と燃えていた。


 「美味しかったね? 神戸牛」
 「ああ、旨かったな、5万円の価値はあるよ」
 「ねえ、また来ようよ、神戸。
 今度は遼も連れて」
 「そうだな」
 「なんだかこうしていると、恋人同士に戻ったみたいだね?」

 光明は何も言わず、ジントニックを口にした。

 「ジントニックって、カクテルの基本なんだよ。
 イギリスの南国の植民地時代に、健康飲料として飲まれていた炭酸水に、ジンを混ぜただけのカクテル。
 シンプルだからこそ、その店のバーテンダーの腕が試される。
 ここのジントニックは今までで最高のジントニックだよ」
 「少し、私にも飲ませて」

 私もそれを飲んでみた。
 すっきりとしていて、ジンの香りがとても清々しく爽やかだった。

 「そしてジントニックには「強い意志」とか「希望を捨てない」という意味があるんだ」

 夫の光明も、まだ生きることへの希望を捨ててはいないようだった。



 ホテルに戻り、夫の光明がバスルームへ行った。
 荷物を整理していると、シャワーの音に変化がないことに気付いた。
 私がすぐに浴室へ行ってドアを開けると、そこに光明が倒れていた。

 「あなた!」



 すぐに救急車を呼んでもらい、光明を病院へ搬送してもらった。
 幸い、大事には至らずに済んだが、旅行はそこで中止することにした。


 「ごめんな、加奈子」
 「ううん、神戸はまた来ればいいわよ、遼がひとりで待っているわ。早く帰りましょう」
 
 奇跡は起きなかった。 
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