【完結】陽炎(作品230623)

菊池昭仁

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第8話 開く新たな扉

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 晴美と母は布団を並べて敷いた。

 「晴美ちゃんはウチの栄次のどこが好きなの?」
 「自分をよく見せようとしないところです」
 「あの子、そういうところ、あるかもしれないわね?
 子供の頃から手の掛からない子供だったわ。
 いつも本ばかり読んでいてね、あの子が宇宙に興味を持つようになったのは、小学校の入学祝いに夫が買い与えた
天体望遠鏡だったのよ。いつも星ばかり眺めていたわ。
 そして言ったの、「ボク、火星に行く」って」
 「それがNASAに入るきっかけになったんですね?」
 「そうね、親バカだけどあの子はいい子よ。
 きっとあなたを大切にしてくれるわ」
 「私が栄次さんをしあわせにします。もちろんお母さんも」
 「ありがとう晴美ちゃん。これからも栄次をよろしくね?」
 「はい、よろこんで」






 農作業を終え、私は風呂から上がり、缶ビールを飲みながらNASAのホームページを開いた。
 NASAを離れた今も、火星への憧れはNASAに置いて来たままだった。


 LINE が入った。晴美からだった。


      今 お風呂から上がって
      髪の毛を乾かしてまーす
      栄次は今 何してた?



 私はすぐに返事をしなかった。
 いつも晴美の話は長くなるからだ。
 電話をしようとも考えたが、止めた。
 私は再びNASAの情報検索を続けた。


      雨 酷いね?
      会いたいなあ 栄次と
      ねえ 電話してもいい?


 彼女はふたりの自分を巧みに使い分けていた。
 チェリストの晴美と、それを否定するもうひとりの晴美がいた。
 世界的に活躍する演奏家に挫折した晴美は、神に選ばれることを望んでいた。
 自分の才能とその限界の狭間で。

 前にセックスを終えた後、晴美が言ったことがある。

 「みんなはストラディヴァリが素晴らしいというけれど、その素晴らしい音色を引き出すには、弓のストラディヴァリといわれる「トルテ」がなければダメ。
 いい音楽を奏でるにはいいチェロが必要。そして私には私を弾きこなす、栄次という「弓」が必要なの。
 栄次、私の弓になって欲しい・・・」


 
 またLINEが入った。だが今度は涼子からだった。


      今 晴美と一緒なの?


 私はすぐに返信をした。


                ひとりだよ

 
      今ね ひとりで渋谷で
      飲んでるの
      迎えに来てよ 栄次
 


 私はすぐに涼子に電話を掛けた。

 「もしもし、どうした? 修一とケンカでもしたのか?」
 「時々ね、そんなあなたのやさしさにイラつくことがあるわ。 
 私、どうしていいのかわからないの・・・」
 「飲み過ぎだよ、明日は仕事だろう?」
 「私ね、つまらない高校の音楽の先生じゃないのよ。
 私はピアニストなんだから。美人ピアニスト。あはははは
 わかってんの? 火星博士・・・」
 「とにかく早く帰った方がいい。深夜に女が渋谷で一人で飲むなんて、いくら日本でも危険だ」
 「だから迎えに来てよ。私がさらわれないように。
 私、ひとりじゃ帰れないもん」
 「店はどこだ?」
 「松田優作もよく来ていた、『門』っていうBAR。
 すぐ来てね? 私がお持ち帰りされないうちに」

 私はすぐにタクシーを呼び、着替えてタクシーに飛び乗った。
 途中、新幹線の中から晴美にLINEをした。


       ゴメン 今日は農作業で
       疲れたから
       明日、電話するよ

                  つまんないのー
                  絶対だよ おやすみなさい
                  愛してる?

       Yes, of course.
                     Good night. Honey
 

 私は晴美にウソを吐いた。
 これが涼子がイラつくという、俺の「やさしさ」なのか?
 でもこれはやさしさとは言わない、男の狡さだ。
 誰も傷つかない、傷つけたくはないという「偽りの優しさ」だった。

 私はいつもそうだった。
 他人と争うことをいつも避けて生きて来た。
 だがそれは日本での話だ。
 欧米人には通用しない。自分の考えを持たない無能な奴だと思われてしまう。

 私は夜の新幹線の窓に斜めに流れる雨雫を目で追っていた。
 雨が一筋の流れになり、合流したり離れたり。
 そうして枝分かれしながら、いつかは落ちて消えてゆく雨。

 真っすぐ落ちても、斜めに落ちても落ちるのは同じだ。
 果たして人生には正しい「堕ち方」などあるのだろうか?




 渋谷駅のタクシー乗り場は雨の為、長蛇の列になっていた。
 私は走った。土砂降りの雨の中を傘もなく、水溜まりさえも気にすることなく私は走った。

 
 (涼子に会いたい、寂しさに震えている涼子を助けたい!)


 私はメロスのように必死に走った。



 店のドアを開けると、カウンターの中央に、見覚えのある涼子の背中を見つけた。

 「涼子!」
 「来てくれたのね? 来てくれないのかと思ってた・・・」

 涼子は淋しそうに笑った。

 「君が俺を呼んだんじゃないか! ライムソーダを」
 「かしこまりました」

 涼子は私に抱き着き、キスをした。
 それは炎のように熱いキスだった。
 そしてそれは裏切りの口づけ、背徳のキスでもあった。

 
 「びしょ濡れだね? 私がこのカラダで拭き取ってあげる・・・」
 
 私は涼子を強く抱きしめた。
 ここが日本だということも忘れて。

 彼女の香水の香りがした。
 私は眩暈めまいがしそうだった。
 その香水はリンダがいつも着けていた、シャネルの19番だったからだ。
 私はライムソーダを一気に飲み干した。

 「帰ろう。涼子」

 涼子は黙って頷き、私の腕に自分の腕を絡ませた。



 私たちはホテルのある坂道を、傘も差さずに無言で登って行った。
 すべての「しがらみ」を忘れて雨の中を。

 ネオンが雨に滲む、派手なラブホテルの前に私たちは辿り着いた。

 涼子は私の手を引いて、二度とは戻れない棘多き薔薇の道へと私をいざなった。
 
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