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第2話

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 今、私たちはこうして何も変わることなく生活をしている。
 たとえ戸籍上は他人同士でも、夫婦であった頃と、さほど変わりはなかった。

 休日には一緒にスーパーに出掛け、料理を作り、一緒にメシを食べた。

 弥生はいつものように私の靴を磨き、洗濯もしてくれて、シャツにアイロンもかけてくれた。
 もちろん寝室は別々にはなったが、夫婦の性交渉など、子供が出来てからは殆ど無くなっていた。
 
 私は性欲を持て余し、女を口説き、また口説かれた。
 それはまるでゲームのようなものだった。疑似恋愛ゲーム。
 女房だった弥生に対して罪悪感は無かった。
 なぜならそれは本気の恋愛ではなく、あくまで心のない体だけの関係だったからだ。
 相手の女もそう割り切っていた。
 互いの寂しさをカラダで埋めていたのだ。
 そしてセックスの後、虚しさに襲われた。その連続だった。


 「ねえ、島津部長。
 私以外の女と、何人とお付き合いをしているの?」

 ベッドの中で、会社の販売管理課の佳子が私に訊ねた。
 面倒な女だと思った。
 私はその具体的な人数に言及するのを避け、たとえ話を始めた。

 「人を一人殺せばそれは殺人罪として断罪される。
 だが、戦争で100人、1,000人、1万人と殺せば英雄だ」
 「じゃあ部長は1万人の女とヤッたんだ。
 夜の帝王だもんね? 島津部長は」

 佳子はそう言って笑うと、さっきの続きを私にせがんだ。

 「ねえ? さっきみたいにして」

 再び行為を再開した。
 私は女と恋をする気持ちはすでに失せていた。
 失せていたというよりも、避けていたというべきなのかもしれない。
 私の下で眉間を顰めて喘ぐ佳子を見ながら、私は律動を続けた。
 それはまるで、犯人を知りながら読み進める、陳腐な推理小説のように退屈な行為だった。

 恋の始まりはドキドキもするし、緊張感もあり、刺激的だ。
 だがそれが過ぎて安定飛行になってくると、お互いに考え方の相違や、趣味嗜好が分かってくるようになる。
 結婚を前提として付き合うようになればなおさらのことだ。
 嫌な部分は無意識のうちに認識していくがそれには触れず、良い部分だけが増長されていく。
 そして「マリッジ・ブルー」が訪れ、自分の潜在意識の沼に疑念の石が落ちて波紋が広がる。


    「本当にこの人と結婚しても大丈夫なのかしら?」


 女は迷う。そして男も。
 そこで思い停まることが出来れば、「被害」は少なくて済むかもしれない。
 だがそこで自分の周囲のことを考え、妥協してしまうことになる。


    「一緒に暮らしてみれば、何とかなるはず」


 友だちの結婚、出産適齢期、親兄妹や親戚のことを考えてしまう自分がいる。
 寿退社を公言してしまい、もう後には引けない。

 確かに結婚はしたい、したいが「この人で本当にいいのだろうか?」という疑問を持ったまま結婚してしまうのだ。

 そして残酷なようだが結婚した途端、相手の嫌な部分が鮮明に露呈する。
 迷いが改善されることはない。

 あんなにやさしかった夫は暴君ネロのように振る舞い、いつも綺麗に着飾っていた女はジーンズにトレーナーというスタイルになる。
 釣った魚に緊張感がなくなるからだ。


      コイツは俺の女
      この人は私の物


 「最近、スカートを履かなくなったね?」
 「だってこの方がラクなんだもん」

 人間の魅了とはなんであろうか?
 それは「恥じらい」であると私は思う。
 たとえばレジのパートを相手に些細なことで怒鳴り散らす老人、それは人間として「恥ずべき行為」だ。
 尊敬に値しない。
 老醜を晒すとはそういうことだ。
 自分の正当性だけを主張し、周りを顧みない。
 服装にしてもそうではないだろうか? 
 女性がいつも裸で歩いていたら、男は欲情することはないだろう。
 見えそうで見えないスカートの奥に男は興奮を覚えるからだ。


 ある時弥生が言った。

 「テレビで言っていたんだけどね? 結婚式で泣くような男とは結婚しない方がいいんだって」
 「どうしてだ?」

 私は弥生との結婚式では終始、泣きとおしていた。

 「やさしすぎるからなんですって。
 あなた、どんな女にもやさしいもんね? 私以外の女には」

 どうやら彼女の怒りに、再びスイッチが入ったようだった。
 私はそれを避けるために書斎に籠り、レコードをかけた。

 ベルリオーズ、『幻想交響曲』

 私はキャビネットからオールド・パーを取出し、グラスに注いだ。
 私たち夫婦の関係は、いつから『幻想交響曲』になってしまったのだろう?

 ストレートウイスキーが喉を焼き、鼻からウイスキーの香りが抜けて行った。

 レコードジャケットの指揮棒を持つカラヤンの厳格で知性に満ちた横顔。
 今の私は段ボールに捨てられた、惨めな子犬のようだった。

 
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