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最終話 夜の観覧車

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 日曜の午後の昼下がり、私と光一郎は南青山のカフェにいた。
 店は休日ということもあり、混雑していた。


 「紅葉は元気にしているの?」
 「いつも「ママはどこ?」ってベソをかいているよ」
 「お願い、紅葉に会わせて」

 光一郎は珈琲を啜り、大通りを歩く人に視線を移した。

 「みんな、幸せそうだよな? 悩みなんてないんだろうな? きっと。
 先日、冴島に会って来たよ。アメリカのサンディエゴまで行って来た」
 「えっ? どうしてそんなことをしたの!」
 「思いっきり殴ってやった、3発も」
 「・・・」
 「1発は僕の分、もう1発は紅葉の分、そして3発目は遥、君の分だ。
 彼は抵抗しなかったよ、僕に詫びて土下座までしていた。
 そしてこれは彼が依頼した弁護士から渡された慰謝料だ。
 もちろん僕が要求したわけではない。彼が勝手に寄越した物だ。
 示談にして欲しいと弁護士から言われ、僕は示談同意書にサインした。
 それがこの300万円だ。
 これで彼も救われるはずだ。ケリはついた。ノーサイドだよ」

 光一郎はその現金が入った封筒を私の前に置いた。

 「こんなお金、受け取れないわ。
 だったら家のローンの返済にでも使って。あのマンションは私たちふたりで買った物だから。
 月々のローンは私も半分負担するわ。
 だからお願い、紅葉に会わせて頂戴、お願いします」

 私はテーブルに頭をつけて光一郎に懇願した。

 「別に構わないよ、紅葉も君に会いたがっているからね?
 遥、僕は君を責めちゃいない、僕は自分を責めているんだ。君から愛されなかった自分をね?
 僕にとって君はずっと憧れだった、君が大好きだった。
 でも君は僕を愛してはくれなかった。
 僕はこれで目が覚めたんだ。僕と紅葉の住むシルバニアファミリーに、君を無理矢理閉じ込めてしまっていたことに。
 君にはこれから自分の人生を生きて欲しい。
 もちろんそれは僕も同じだ。
 すべては終わったことなんだよ、紅葉もじきに大人になって恋をして家を出て行くだろう。
 そして紅葉はいつか君を理解してくれるはずだ。
 子供にとって親は、ただ頼れる存在であればそれでいいと僕は思う。
 紅葉が自分の人生に躓いた時、助けてあげられる存在であればそれでいいんだ。
 時々、紅葉にも会ってあげてくれ、紅葉には君という母親が必要だ」
 「ありがとう、あなた・・・」

 私は泣いた。
 誰に憚ることなく泣いた。
 そして気付いた、本当に自分を愛してくれていたのは光一郎だったのだと。


 
 遥はその日の夕暮れ、花屋で黄色い薔薇を4本買った。
 そしてそれを持って、ひとりでお台場の観覧車に乗った。

 日は沈み、東京の街は銀河のように沢山の光で輝き始めた。
 ゆっくりと上昇してゆく観覧車。

 観覧車がやがて頂上に差し掛かると私は窓を開け、その薔薇の花びらを一枚ずつ窓から捨て始めた。
 黄色い薔薇の花びらが夜風に吹かれ飛んでいく。

 その4本の薔薇は1本が冴島、もう1本が聡、そしてもう1本は光一郎だった。
 そして最後の4本目の薔薇は、今までの私自身だった。

 私はすべての薔薇の花びらを捨て去り、観覧車はゆっくりと地上に降りていった。
 
 
 観覧車を降りると、私はそのまま海に向かって歩いて行った。
 そして花びらがなくなった4本の薔薇を、暗い海に投げ捨てた。

 遠くから出港を告げる船の霧笛が聞こえた。
 
 東京湾の海風が、やさしく私の体を吹き抜けて行く。


 振り向いた遥は、より美しい可憐な薔薇となって再び歩き始めた。
 勇気と信念を持って。


 煌めく高層ビルの谷間から、スーパームーンが青白く浮かぶ夜だった。

                       『棘のない薔薇』完
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