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第四章

第16話 告白 そして悲恋

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 正月は明けたが、杉田と会えない寂しさに、絹世は深く沈んでいた。 


 「専務、昼飯どうします?」

 総務部長の桜井が絹世に声を掛けて来た。

 「あらもうそんな時間? 今日はお蕎麦にしようかしら?」
 「私もご相伴させて下さい」
 「どうぞ。じゃあ運転はお願いね?」
 「よろこんで」


 桜井は取引銀行からの出向で、今年で3年目になる。   
 5年前に離婚して、今はひとり身だった。
 年齢は48才。
 銀行員には珍しく控え目だが、仕事の出来る男で、社長である父からの信頼も厚かった。


 「桜井は中々見所のある男だ。
 出来ればこのままウチにいて貰いたいものだな。
 絹世、お前はどう思う?」

 父の考えは分かっている。
 桜井と結婚して家と会社を継いで欲しいということだった。
 銀行とのパイプも太くなり、会社経営はより安定的になるからだ。


 「いい人だと思うわよ、ウチの会社にとってはね?」
 
 私は父親に釘を刺した。
 そもそも前の結婚を半ば強引に勧めたのは父だった。
 今、私の頭の中は杉田の事でいっぱいだった。




 「今日は温かいお蕎麦にしようかな? 私は山菜蕎麦で」
 「私は天ざるの大盛りを」


 蕎麦が運ばれて来た。

 「オバサンになるとね、お昼はお蕎麦とかが丁度いいのよ」
 「専務はオバサンじゃありませんよ」
 「ありがとう。流石は銀行マンね? お世辞でもうれしいわ」
 「お世辞なんかじゃありません。専務は素敵な人です」

 桜井は勢い良く音を立てて蕎麦を啜った。
 彼の左手の薬指にはまだ結婚指輪の痕が残っている。
 そして私の左手の薬指には、杉田から貰ったプラチナと金であしらわれた結婚指輪が光っていた。


 「部長は再婚しないの?」
 「それは相手がいればしたいですよ。ひとりは寂しいですから」
 「沢山いるんでしょ? お付き合いしている人。うふっ」
 「全然ですよ」
 「嘘ばっかり」
 「専務は僕のタイプです」
 「からかわないで頂戴。お蕎麦屋さんで」
 「じゃあ今夜、一緒に飲みに行きましょうよ」

 思い掛けない桜井の突然の誘いに、私は一瞬躊躇った。

 「私なんかとお酒を飲んでもつまらないわよ」
 「そんなことはありません。僕は専務とじっくりお話がしてみたいんです。将来の事も含めて」
 「ごめんなさい。私、今お付き合いしている人がいるの」
 
 私は桜井に指輪を見せた。
 それを見て落胆する桜井の顔がカワイイと思った。
 だが彼は急に明るい顔になり、こう言った。

 「その指輪、前の旦那さんとの未練なのかと思っていました。そうですか? わかりました。ではその男性と破局するのを待ちます」
 「あはははは、ヘンな人。でもそれはないと思う」
 「物事には絶対などありませんよ」

 ふたりは笑って蕎麦を啜った。




 仕事を終えると杉田にLINEを送ったが、中々既読にならなかった。

 「今夜はたくさん甘えたかったのに。ダーリンのバカ」





 自宅マンションに帰り、携帯を持って湯舟に浸かった。
 髪を洗い始めた時、突然携帯が鳴った。
 杉田からだった。

 「今、LINEを見たよ。遅くなってごめんな?」
 「ちょっと待ってて、今、シャンプーしていたところなの。あがったら電話するね?」
 「そうか? じゃあ後で電話をくれ」
 「うん、わかった」

 私は大急ぎで髪を洗い、トリートメントをして入念に身体を洗った。
 久しぶりの杉田の声に、女の部分が少し潤んでいた。



 杉田のお気に入りの下着を着け、脱ぎやすいワンピースに着替えると、私はいつもよりきちんと化粧をした。
 準備を整え、杉田に電話を掛けた。

 「お待たせ。ちょっとでいいから会いたい」
 「ちょっとでいいのか?」
 「もうー、意地悪な人ね?」
 「あと20分くらいで迎えに行くよ。メシは?」
 「私は食べたから大丈夫。あなたは?」
 「俺はさっきまでイヤな連中と不味いメシを食ったから大丈夫だ。あははは」
 「じゃあ、待ってるわね?」
 「ああ、今夜は姫始めだからな?」
 「ばか・・・」



 タクシーに乗ると、すぐに杉田に寄り添った。

 「すごく会いたかったんだから」
 「俺もだよ。悪かったな? 放ったらかしにして」
 「仕方ないわ、それを承知でお付き合いしているんだから」



 その日はシティホテルではなく、ラブホテルに行った。
 ふたりは久しぶりの逢瀬に我を忘れて行為に熱中し、絹世は何度も歓喜の声を上げた。

 私が杉田から頭を掴まれ、フェラチオをしている時、信じられない言葉を浴びせられた。


     「芳恵!」


 杉田はその時確かに「芳恵」と言った。
 私はペニスを口から離した。
 杉田はそれを咎めなかった。

 「芳恵って誰なの! 私がしている時に他の女の名前を呼ぶなんて最低!」
 「すまん、別れた昔の女の名前なんだ」

 杉田はベッドから降りると冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ベッドに腰掛け、喉を鳴らしてビールを飲んだ。


 長い沈黙の後、杉田が言った。

 「俺を嫌いになったか?」
 
 私は杉田の背中に抱き付き、

 「嫌いになんかなれない。ごめんなさい・・・」
 「俺はこんな男だぞ、そして他の女にも同じようにお前の名前を呼ぶこともある」
 「それはうれしいけど・・・」
 「絹。もしもこの関係が辛くなったらいつでも降りていいからな?」
 「そんなこと言わないで! 私はいいの! ずっとこのままでいいの! だから許して!」
 「俺と結婚出来なくてもか?」
 「そんなの初めから望んでいない! 私はあなたが好き! ただそれだけ!」

 私は杉田の背中に額を押し当て、泣いた。
 杉田は私をやさしく抱き締めた。




 俺は絹世のあどけない寝顔を見ながら、煙草に火を点けた。

 (このままでいいのだろうか?)

 良くないのは分かっている。
 だが、今の俺にはどうすることも出来なかった。
 その時が来るまでは。

 タバコの煙が目に沁みる夜だった。
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