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第四章

第22話 蒼い月

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 直子は杉田と会う約束をした。
 杉田から指定されたのは、横浜のロイヤルパークホテルの70階にあるスカイラウンジ、『シリウス』だった。
 眼下にはライトアップされた遊園地の観覧車がとても小さく見えていた。


 「ごめんなさいね? 忙しいのに私から呼び出したりして」
 「こういう場所もたまにはいいだろう? 横浜の夜景も悪くはない。
 俺も直子に話したいことがあったから丁度良かった。じゃあ俺から先に言うよ」
 「はい」
 「俺はお前と別れる気はない。もちろん遥ともだ。
 だがそれが、お前たち親子の幸福に繋がらないというのなら話は別だ。
 そして俺より他に、お前と遥を大切にしてくれるという男がいればの話だ」
 「・・・」
 「同情で言っているのではない。俺は直子と遥が好きだ。しあわせにしてやりたいと思っている」
 「私も遥も杉田さんが好きです。
 でも、このままの関係を続けることは杉田さんのご家族に申し訳ない気がするんです」
 「じゃあ俺と結婚するか?」
 「杉田さんを奥さんから奪いたいとは思いません」
 「俺は結婚には向いていない男だ。
 だから仮に女房と離婚しても俺は誰とも結婚はしねえ。
 同じ結果になるのは目に見えているからだ。
 また不幸な女を増やすだけだからな?
 どうして人は結婚に拘るんだろうなあ? 俺には理解出来ねえよ。
 愛しているだけじゃ駄目なのか?」
 「結婚なんて私、望んではいません。
 でも・・・」
 「でも何だ? 遥から言われたのか? 俺と別れた方がいいと?」
 「いえ、私の意志です。私があなたのご家族を苦しめているからです」
 
 杉田はハモンセラーノで巻かれたゴルゴンゾーラを食べ、ソルティドッグを口にした。

 「ソルティドッグもいいもんだなあ。久しぶりに飲んだよ」
 「私はあなたにとって、たまに飲むソルティドッグですものね?」
 「それじゃイヤか? たまに飲むソルティドッグだから痺れる。俺は毎日同じ酒は飲まねえ主義だ。
 それが嫌なら別れてもいい」
 「所詮は不倫じゃないですか? 私たち」
 
 直子は杉田のソルティドッグを飲んだ。

 「どうだ? 不倫の味は?」
 「イヤな言い方をするのね? でも美味しい・・・」
 「しょうがねえだろう? お前といういい女に出会ってしまったんだから。
 愛すべき女が目の前に現れた、だから愛した。
 ただそれだけのことだ。
 だがそれで直子が辛いというのなら、これで終わりにしてもいい」

 直子は自分のワインを一気に飲み干した。

 「私と別れて下さい。お願いします」

 直子は杉田に頭を下げた。

 「わかった。じゃあ最後に一緒に温泉に行かねえか?」
 「温泉に?」
 「遥に言われたんだ、「ママを旅行に連れて行ってあげて」とな?
 今週の土日、熱海にでもどうだ?」

 直子はそれを了承した。

 (最後の温泉旅行・・・)




 直子と杉田は東海道新幹線に乗って、熱海へと向かっていた。

 「直子と新幹線の旅は初めてだな?」

 杉田はショウマイ弁当を広げ、直子の前に置いた。
 
 「ビールのつまみにはこれが一番だ」

 杉田は350mlの缶ビールを開け、直子にそれを渡し、自分はロング缶を開け、喉を鳴らしてそれを飲んだ。

 「いいよなあ、車窓から見る太平洋は」
 「そうですね?」
 
 直子は杉田の手を危うく握りそうになったが、思い留まった。
 直子の心は揺れた。



 直子と杉田は旅館に着くと部屋に荷物を置いて、一緒に海辺を散歩した。
 潮風が肌にべた付き、磯の匂いも強かったがあまり気にはならなかった。
 直子はこうして杉田と海辺を歩くことが嬉しかった。
 だが今日は、いつものように杉田と腕を組むことはしなかった。
 すると杉田の方から直子の手と恋人繋ぎをしてきた。
 それはとても自然な行為だった

 「海っていいよなあ。この海の向こうにアメリカがあるんだぜ」

 直子はその手をそっと握り返した。




 夕食前に部屋の露天風呂に杉田と一緒に入った。
 
 「潮騒の音が聞こえるなあ」

 杉田は椅子に座り、夕暮れの海を眺めながら生ビールを飲んでいた。

 「温泉なんて、遥と三人で飯坂温泉に行った時以来ですね? いい気持ち」

 直子は湯を両手で掬った。

 


 部屋に豪華な料理が運ばれて来た。
 直子は杉田に酌をした。

 「こんな素敵なところに連れて来てくれて、本当にありがとうございました」
 「これが最後だもんな?」
 「ええ、最後です。これで最後」
 「男と女は面倒臭えよなあ。どうしてだろう?」
 「面倒ですよね? 男と女って」

 直子はアワビのステーキを口にした。

 「もしこれが人間と人間ならどうだろう?」
 「人間と人間?」
 「男と女じゃなく、人間と人間と考えたらどうだ?」
 「男と女ではなくですか?」
 「そうだ。人間対人間としてだ。それなら俺たちは別れることもねえんじゃねえのか?」

 直子の箸の動きが止まった。

 「そんなこと、出来ますか?」
 「俺は出来る」
 「私は無理です。女だから」
 「人間として好きならいいじゃねえのか? 色恋じゃなく」
 「それはカラダの関係がなくてもということですか?」
 「そうだ。SEXをせずに付き合うということだ」
 「プラトニックな恋ですか?」
 「俺はそれでも直子が好きだ。男女を越えた、性別を超えた存在として」
 「杉田さん・・・」



 食事を終えて布団が並べて敷かれた。
 杉田は部屋の電気を消した。
 浴衣を着て、ふたりはそれぞれの寝床に就いた。

 「月がとても綺麗ですね?」
 「今夜はブルームーンだな?」

 直子は杉田の布団に自分から入って行った。

 「最後に抱いて・・・」
 「最後にか?」
 「好き。あなたが好き」
 「それはどういう意味でだ?」
 「男性として、そして人間として好き」
 「それで辛くはないのか?」
 「辛いです。でもやっぱり別れられない! 別れたくない! あなたが好きなの!」
 
 杉田は直子を強く抱き締めた。

 「俺もだ。人間として、そして女としてお前が好きだ」
 「あなた!」

 青い月明かりに照らされた、ふたりの愛が交わり、蕩けていった。
 直子の決意は脆くも崩れ去った。
 



 その夜、直子は杉田に女を曝け出した。
 直子は思った。このまま、このままでいいのだと。
 杉田の家族のことは忘れようとした。
 せめてこんな美しい月夜の間だけでも。


 杉田の荒い息遣いと直子の悦楽した喘ぎ声。そして波の音が聞こえていた。

 男と女。それは理屈ではなく、成り行きと言う名の運命なのかもしれない。
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