40 / 66
絶望
武田 真剣
しおりを挟む
冷泉堂大学の面々がルーカスに再会した頃、私はテキサス州の自宅から最寄りのジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に到着していた。空港で母に連絡すると、母は慌てて車を飛ばして迎えに来てくれた。
「あなた、帰ってくるのは三月じゃなかったの?」
母はとても驚いていたが、どこか安堵しているようにも見えた。
「いろいろあって」
私は詳しいことを話す気にはなれなかった。負け犬として逃げ帰ってきたなど口が裂けても言えなかった。
車窓の外に広がるテキサス州の雄大な大地を黙って眺めている私を横目で見た母は、
「家に帰ったら道場に行きなさい。お父さんがお話があるそうよ」
と言った。嫌な予感がした。そして、この予感は的中した。
家に着くと、私はスーツケースを部屋に置き、広大な庭に建てられた大きな日本家屋に足を踏み入れた。引き戸を開けると、いつものように紫色の座布団に大事そうに置かれた赤い甲冑が視界に入る。その時、兜の下にある仮面の目の部分が赤く光った気がした。私は寒気を感じながら、一礼すると、道場に入った。
床張りの道場の真ん中では、父が稽古着姿で座禅を組んでいた。父のすぐ脇には二本の竹刀が置かれている。私に気づくと、父は黙って立ち上がり、竹刀を私に投げた。
竹刀を渋々受け取った私の目の前には、鬼の形相の父が既に中段に構えていた。
『ルーカスのやろう、ちくりやがったな』
その通りだった。ルーカスは私の携帯電話の電源が切られていることを知ると、すぐに私の実家に電話し、父に私が姿を消した理由を暴露していたのだ。
私もしょうがなく中段に構えた。
今日の父の稽古は普段以上に厳しかった。
正直、私は自分が父よりも強いと思っていた。
中学生になった頃から、自分の実力がめきめきと上がっていくことを実感していた。実際にアメリカで開かれた剣道大会では、私は負け知らずであった。同門同士の戦いを好まない父が、同じ大会に私とルーカスの二人が参加することを許さなかったため、ルーカスと正式な試合で対戦することはなかったが、練習ではスポーツ万能のルーカスと互角、いやそれ以上の戦績を収めていた。
そのため、私は父との立ち合いでは知らず知らずのうちに八割程度の力で戦うようになっていた。今日もそのつもりであった。
しかし、今日の父は強かった。焦った私が本気で挑んでも簡単に跳ね返されてしまう。あの北村雄平よりも強いとさえ私は思った。
私は何度も倒れた。その度に父は「立て!」とげきを飛ばした。
そして、この日の父は、私を倒す度に呪文のような言葉をブツブツと繰り返していた。
「疾きこと風のごとく...」
私にはさっぱり意味が分からなかったが、この呪文のような独り言は後々大きな意味を持つことになる。
私は初めて父を怖いと感じた。父が何かに取り憑かれているような気がしたからだ。
疲労と苦痛で意識が朦朧としていただけかもしれないが、父の分身を見た気がした。しかし、その分身は父ではなかった。道場の入り口に置かれた、あの赤甲冑をまとった武士であり、その手には竹刀ではなく、真剣が握られていた。
三十分ほど経過したころには、私はボロボロになっていた。竹刀を頼りに、立ち上がるのがやっとであった。そんな私を見て、父は竹刀を引き、
「ここまで」
と言って、一礼すると、入口に向かった。私は床の上に大の字になると天井を見上げた。
『助かった』
しかし、疲労困憊の私に対して、父は振り向きもせずに、
「明日から毎朝六時に稽古を始める」
と言い放ち、道場を後にした。
私は這いつくばって家に戻ると、シャワーを浴びた。全身が痛む。身体はあざだらけであった。
シャワーを済ませた私は、漂ってきた牛肉のいい匂いにつられてリビングルームに向かった。テーブルの上には四百グラムはあろうかと言う分厚いステーキが置かれていた。
肉にかぶりつく私を母が呆れた目で見ている。私は五分でステーキを食べきった。部屋の窓から、広大な庭が見える。
父が馬に乗り、芝生を疾走していた。すると、次第に怒りがこみあげてきた。傷心で帰国した息子を立てなくなるまで痛めつけるなんて、いくら何でも度を超えている。
そこで、私はリビングでテレビを見ていた母に訊いてみた。
「なんで父さんはあんなに怒っているの?」
すると母はテレビを消し、私の目の前の椅子に座ると、私が生まれる前の話を始めた。それは、今まで聞いたことのない話であった。
「あなた、帰ってくるのは三月じゃなかったの?」
母はとても驚いていたが、どこか安堵しているようにも見えた。
「いろいろあって」
私は詳しいことを話す気にはなれなかった。負け犬として逃げ帰ってきたなど口が裂けても言えなかった。
車窓の外に広がるテキサス州の雄大な大地を黙って眺めている私を横目で見た母は、
「家に帰ったら道場に行きなさい。お父さんがお話があるそうよ」
と言った。嫌な予感がした。そして、この予感は的中した。
家に着くと、私はスーツケースを部屋に置き、広大な庭に建てられた大きな日本家屋に足を踏み入れた。引き戸を開けると、いつものように紫色の座布団に大事そうに置かれた赤い甲冑が視界に入る。その時、兜の下にある仮面の目の部分が赤く光った気がした。私は寒気を感じながら、一礼すると、道場に入った。
床張りの道場の真ん中では、父が稽古着姿で座禅を組んでいた。父のすぐ脇には二本の竹刀が置かれている。私に気づくと、父は黙って立ち上がり、竹刀を私に投げた。
竹刀を渋々受け取った私の目の前には、鬼の形相の父が既に中段に構えていた。
『ルーカスのやろう、ちくりやがったな』
その通りだった。ルーカスは私の携帯電話の電源が切られていることを知ると、すぐに私の実家に電話し、父に私が姿を消した理由を暴露していたのだ。
私もしょうがなく中段に構えた。
今日の父の稽古は普段以上に厳しかった。
正直、私は自分が父よりも強いと思っていた。
中学生になった頃から、自分の実力がめきめきと上がっていくことを実感していた。実際にアメリカで開かれた剣道大会では、私は負け知らずであった。同門同士の戦いを好まない父が、同じ大会に私とルーカスの二人が参加することを許さなかったため、ルーカスと正式な試合で対戦することはなかったが、練習ではスポーツ万能のルーカスと互角、いやそれ以上の戦績を収めていた。
そのため、私は父との立ち合いでは知らず知らずのうちに八割程度の力で戦うようになっていた。今日もそのつもりであった。
しかし、今日の父は強かった。焦った私が本気で挑んでも簡単に跳ね返されてしまう。あの北村雄平よりも強いとさえ私は思った。
私は何度も倒れた。その度に父は「立て!」とげきを飛ばした。
そして、この日の父は、私を倒す度に呪文のような言葉をブツブツと繰り返していた。
「疾きこと風のごとく...」
私にはさっぱり意味が分からなかったが、この呪文のような独り言は後々大きな意味を持つことになる。
私は初めて父を怖いと感じた。父が何かに取り憑かれているような気がしたからだ。
疲労と苦痛で意識が朦朧としていただけかもしれないが、父の分身を見た気がした。しかし、その分身は父ではなかった。道場の入り口に置かれた、あの赤甲冑をまとった武士であり、その手には竹刀ではなく、真剣が握られていた。
三十分ほど経過したころには、私はボロボロになっていた。竹刀を頼りに、立ち上がるのがやっとであった。そんな私を見て、父は竹刀を引き、
「ここまで」
と言って、一礼すると、入口に向かった。私は床の上に大の字になると天井を見上げた。
『助かった』
しかし、疲労困憊の私に対して、父は振り向きもせずに、
「明日から毎朝六時に稽古を始める」
と言い放ち、道場を後にした。
私は這いつくばって家に戻ると、シャワーを浴びた。全身が痛む。身体はあざだらけであった。
シャワーを済ませた私は、漂ってきた牛肉のいい匂いにつられてリビングルームに向かった。テーブルの上には四百グラムはあろうかと言う分厚いステーキが置かれていた。
肉にかぶりつく私を母が呆れた目で見ている。私は五分でステーキを食べきった。部屋の窓から、広大な庭が見える。
父が馬に乗り、芝生を疾走していた。すると、次第に怒りがこみあげてきた。傷心で帰国した息子を立てなくなるまで痛めつけるなんて、いくら何でも度を超えている。
そこで、私はリビングでテレビを見ていた母に訊いてみた。
「なんで父さんはあんなに怒っているの?」
すると母はテレビを消し、私の目の前の椅子に座ると、私が生まれる前の話を始めた。それは、今まで聞いたことのない話であった。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる