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第九章 天正十一年十二月二十七日

三十五 忍び寄るもの

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 あまり話しすぎて雪姫さまが疲れてもいけないからと、孫一郎が本願寺を出たのは日が一番高くなった頃。冬の薄曇りの空から差す光であっても、ほんのり暖かいような気がする。

 孫一郎は通りでふと立ち止まり、懐に手を入れた。抜き出した手に握られていたのは、赤い艶やかな鞘に包まれた、手のひらに大半が隠れるほどの小さな護り刀。

「椿……」

 遠い目で灰色の空を見上げる。雪は降っていない。

 雪姫と話すとき、孫一郎の脳裏にはいつも椿がいる。雪姫のために何かをする事が、何もしてやれなかった妹に対する罪滅ぼしになるとは思っていない。そもそも、それは雪姫に対して失礼というものであろう。だがそう考えてはみても、雪姫の向こうに椿の幻影を追っているのは事実だ。勝手である。それはただ孫一郎の自己満足に過ぎない。

「兄はずるいのかな」

 そう護り刀に小さく声をかけてみる。もちろん返事はない。一つため息をつき、孫一郎は刀を懐に戻すと、また通りを歩き出した。すると向こうから、ナギサと口の利けない少女が手をつないでやって来る。

「あれ、どうしたのですか、法師殿」

 思わず駆け寄った孫一郎に、ナギサは屈託のない笑顔を見せた。

「ん、迎えに来たんだよ、孫一郎を」

 わざわざ迎えに来るというのはどういう事だろう。悪い事でも起きたのか。

「何かあったのでしょうか」
「何もないよ。ただ、孫一郎がもうすぐ戻ってくるって、この子が言うもんだから」

「はあ」

 しかし一瞬置いて、孫一郎は気付いた。

「……え、この子話せるんですか!」

 少女はムッとした顔でナギサをにらみつけている。しかしナギサは素知らぬ顔だ。

「この子の名前はみぞれちゃん。よろしくね。じゃ、帰ろうか」

 そしてさっさと背を向ける。

「え、あの、ちょっと法師殿!」

 孫一郎は慌てて後を追いかけた。



 日が傾いた夕刻、卜半斎了珍の下を訪れたのは海塚であった。開け放たれた障子戸の向こうの庭先に海塚の姿を認めると、卜半斎は書き物の手を止めた。

「おや、どうしました。本日は非番でありましょう」

 口ではそう言うが、卜半斎に驚いた様子はない。対する海塚も、普段と変わらぬ様子で淡々と話す。

「はい、松を抜いて参りました」
「それで」

「積善寺城の近くを通ってみたのですが」

 積善寺城とは貝塚の近木川沿いに建てられた、根来の付け城の一つである。

「いかがでした」
「随分と賑やかになっております」

「……ふうむ」

 卜半斎が顔を曇らせる。根来の付け城が賑やかになる、すなわち人が集まっているという事が、何を意味するのか承知しているのだ。海塚はこう続けた。

「かなり大きいのが一つ、来るやも知れません」
「それは厄介ですな」

「この寺内町が攻められる事は、さすがにないと思いますが」

 海塚のそれは、確信と言って良い。卜半斎も否定はしないものの。

「まあ、それはないでしょうな。さりとて、戦場いくさばでは何が起きるか。思いもよらぬ形で巻き込まれぬとも限りますまい」
「確かに」

 そして卜半斎は、一瞬厳しい顔を見せた。

「顕如さまには拙僧から申し上げましょう。くれぐれも雪姫さまには気取られぬように」
「心得ております」

 海塚は一度頭を下げると、庭先の勝手口へと向かった。



 日はとっぷりと暮れた。外では冷たい風が吹いている。部屋の中には灯明の火がともり、菜種油の香りが漂っている。

 雪姫は決して闇が怖い訳ではなかった。ただ、横になってもなかなか眠れない。暗闇の中で目を開けていると、たまらなく無力感に襲われる。

 何の役にも立たない自分が、こんなにも親切にされて良いのだろうかと胸が苦しくなる。古川さまも、法師さまも、卜半斎さまも、それに鶴と兄上も、みな自分を哀れんでいるだけなのだ、と思えてならなくなる。だがそうではないのだ、と古川さまは言ってくれる。こんな私にもきっと役割はあるのだと。今はその言葉を信じたい。

 灯明の火は心の支え。文の字も読めない小さな灯りが、胸の内の希望を照らしてくれるのだ。

「?」

 雪姫は障子戸に顔を向けた。何だろう。何か変だ。何が変なのかはわからない。音や声が聞こえた訳でもないし、何かが動いた様子もない。だが何かがいつもと違う。

「誰か居るのですか」

 当然のように返事はない。気のせいだろうか。いや違う。隣の部屋には鶴がいる。しかしもう眠っているだろう。起こした方が良いのかも知れない。けれど、もし何かの勘違いなら、また迷惑をかけることになる。どうする。

 雪姫は身を起こした。重い体を引きずるように、障子戸に向かう。ゆっくりと障子を引き開ける。外は闇。何も見えない。聞こえるのは、ただ風の音。

「そこにいるのは誰ですか」

 声をかけた。風の音に紛れてしまうくらい小さな声を。やはり返事はない。誰も居ないのだ。誰も居ないはずだ。誰も居ないに決まっている。雪姫はホッとため息をついた。だが。

「へえ、勘が良いんだ」

 暗闇から声がした。若い女の声。雪姫は身がすくんだ。いけない。鶴を呼ばないと。

「つ、鶴……」

 しかしその口元を誰かの手が覆った。障子戸が開かれる。灯明の火が風に消えた。
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