ちゃんばら多角形(ポリゴン)

柚緒駆

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第十一章 天正十一年十二月二十九日

三十七 交渉人

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【顕如の日記】

 何やら嫌な噂を耳にした。大きな戦が始まるとの事。まさか。もう正月だぞ。正月は本願寺だけではなく、根来寺にも粉河寺にも高野山にも、大変おおきな意味を持つ。ないがしろにして良いものではない。正月から戦など罰当たりな事、まさかまさか。正直、戦にはもう疲れた。本願寺としては、巻き込まれたくないところ。

 だが私の耳に入っているのである。もう町の皆も知っているのではないか。そう思って用人の一人にたずねてみたら初耳だったらしく、驚いて他の者に聞いて回っていた。もしかして不注意だったろうか。いやいや、まさかまさか。

 ◆ ◆ ◆



 ぎし、ぎし、ぎし。牛が荷車を引く音が続く。四つずつ樽を乗せた五台の荷車を、五頭の牛はゆっくりゆっくりと引きながら、紀州街道を北へ進んでいた。目指すは貝塚本願寺。その牛の列の先頭を行くのは、まげを結い、でっぷりとした腹回りにキツく帯を巻き、一本刀を差した五十がらみの男。名を、佐野正左衛門という。

 やがて牛の列は貝塚寺内町に入り、日が少し傾いた頃、本願寺の前に達した。来訪に気付いた海塚が歩み寄る。

「これは佐野さま、ご無沙汰しております」
「ああ海塚さん、一年近うになりますな。お元気でしたか」

 二人は旧知の間柄であるようだ。

「おかげさまで。今日はまた卜半斎さまにご用でしょうか」

「はいな。ぼっかんさんに暮れのご挨拶にと思いましてな。本当でしたら年が明けてからご挨拶に来たかったんですが、どうも来年は正月から忙しそうでしてな。来れるときに来ておこうと思いました次第」

「左様ですか。卜半斎さまは丁度おられます。すぐ取り次ぎましょう。しばしお待ちください」

 会釈をする海塚に、正左衛門は満面の笑みを浮かべた。

「はいな。お願いします」


 その様子を、雪姫の所から帰る途中だった孫一郎が見ていた。

「卜半斎さまにお客さまですか」

 親しげな様子であったから、何の気なしにたずねたのだが。

「ええ、嫌な客です」

 海塚は顔に不快感を表している。あまりに直截な言いように、思わず孫一郎は笑ってしまった。

「……はは、嫌いな人なんですか」
「好きか嫌いかの問題ではありません。あの人がここに来るのは、面倒事の先触れなので嫌なのです」

「面倒事、といいますと」
「あの人は佐野村の地侍でしてね。根来寺のお先に使われているのですよ」

 海塚は背を向けると、ため息交じりにつぶやいた。

「また縁起の悪い日に、縁起の悪い人が来たものです」

 今日は二十九日。二重に苦しむ日なのだ。



「ぼっかんさんにはご機嫌麗しゅう」

 卜半斎の執務室に通された正左衛門は、深々と頭を下げて見せた。

「まあまあ、正左衛門殿。お互い、そういう挨拶はよろしいでしょう。で、本日は何事かございましたかな」

 卜半斎の言葉に、正左衛門は、顔だけをひょっこり上げる。

「はいな。暮れの挨拶として、酒の大樽を二十ほどお持ちいたしました」
「正左衛門殿」

 卜半斎を苛立たせて満足したのか、正左衛門は背筋を伸ばし、居住まいを正す。そして落ち着いた声でこう告げた。

「近々、根来と雑賀の一揆衆が、岸和田を攻める事になっております」
「ふむ」

 予想はしていた事である。卜半斎は静かにうなずいた。

「数は三万。岸和田城を落とすためだけに、その三万を使います」
「ほう」

 その数には、さしもの卜半斎も驚いた。三万は大名の合戦の規模である。

「孤立無援の岸和田城では、耐えきれますまい。落城は確実」
「なるほど」

 確かにそれはそうかも知れない。岸和田城は、守るに適した堅固な要塞ではない。守勢に回れば長くは持たないだろう。そんな卜半斎の思いを余所に、正左衛門は本題に入った。

「つきましては、ぼっかんさんには一揆衆の側に付いて頂きたい」

 声を一段落とした正左衛門に、卜半斎も静かに応えた。

「何をせよと仰るのかな」
「今回は何も。見物を決め込んで頂ければ。ただ、一揆衆の本当の狙いは岸和田にはございません」

「大坂城、ですかな」

 正左衛門は、にんまりと笑う。

「さすが話が早うございますな。その通り、一揆衆は春には大坂城に攻め上がります。いかな天下の巨城といえども、鉄砲五千挺の前には落ちましょう」
「はて、それはどうですかな」

「落ちますとも!」

 正左衛門は語気を強めた。よほど自信があるのだろう。

「とは言え、一揆衆とて延々と戦い続ける訳にも参りません。ぼっかんさん、あなたは羽柴秀吉とも常々手紙をやりとりしておられる。なればこそ一揆衆の使者として、羽柴と手打ちをしていただきたいのです」

「また難儀な事を」

 実際、これは難儀である。確かに卜半斎と羽柴秀吉は親交がある。しかしなればこそ、秀吉を裏切るような形になっては収拾がつかない。そういう点においては、秀吉は信長ほどの度量はないのだ。一度敵に回った者を許しはしまい。

「ぼっかんさんも根来寺には恩義がございましょう。此度の戦は、それに報いる丁度良い機会なのでは」
「さあて、困りましたな」

「ぼっかんさん」

 なかば恫喝するかのように、正左衛門は押す。しかし卜半斎は受け流した。

「それで岸和田を攻めるのは、いつになるのですかな。正月明けでしょうか」
「それは近々としか」

 毒気を抜かれた正左衛門が言葉を濁した。卜半斎は何を納得したのか、大きくうなずく。

「左様ですか……ま、良いでしょう」

 その一言に、正左衛門の顔が明るくなった。

「おお、それでは」
「秀吉公との交渉、引き受けましょう。そう根来寺にはお伝えください」

「わかり申した。では早速ですが、これにて失礼をば」

 慌てて立ち上がった正左衛門は、挨拶もそこそこに背を向けた。

「これこれ、そんなに慌てずとも」

 そんな卜半斎の声にも振り返らず、正左衛門は逃げるように、声だけを残して出口に向かった。

「いえいえ、それではまた」


 正左衛門が帰った事を確認して、卜半斎は庭に面した障子戸を開けた。外は夕焼けに染まっている。

「海塚殿、おられますか」
「これに」

 海塚信三郎は廊下に座っていた。

「今の話、どう思われます」
「あの慌てよう、戦は相当差し迫っているのではと。もしや、晦日か元日からという事もあるやもしれません」

 それは冷静な分析であった。あの正左衛門と根来の付け城の様子を照らし合わせるに、それ以外の答はないように卜半斎にも思えた。

「やはりそう思いますか……」卜半斎に迷いは一瞬。「これから手紙を書きます。岸和田まで走ってくださらぬか」
「承りました」

 頭を下げた海塚であったが、卜半斎の次の言葉に、驚いたような顔を見せた。

「それと古川殿を、ここに呼んでください」



 夕焼けが赤い。朱色に染まる世界の中、宣教師は草むらの中で立ち小便をしていた。その暗い手元が、不意に明るくなる。

「司祭さま!」

 忠善が駆けつけて来たものの、宣教師は構わず小便を続けた。浪と流が全身から青い炎を吹き出し燃えている。地の底から響いてくるようなうめき声を上げながら、二人はのたうち回った。しかし、その炎は草には燃え移らない。

「今日は七日目でしたか」
「スッカリ忘レテマシタネ」

 小便を終えた宣教師は、おどけた顔をして見せた。

 まだ炎は完全には消えていない。だが宣教師と忠善は、燃える二人を置いて歩き出した。

「また誰か見つけなければなりませんね」

 忠善の言葉に宣教師はうなずく。

「強クテ利口デ元気ノ良イ死体ガ欲シイデス」
「……それは笑うところでしょうか」

「オーウ、ちゅーぜんハ頭固イデスネ。モチロン笑ウトコロデス」
「忠善にございます」

 宣教師と忠善の声は遠ざかって行く。こうして浪と流という二人の忍びは、誰に知られる事なく、灰となって果てたのであった。



「卜半斎さま、御用でしょうか」

 海塚に呼ばれ、孫一郎は本願寺の卜半斎を訪れた。卜半斎は何か手紙のようなものを書きながら、孫一郎にたずねた。

「ああ、お忙しいところを申し訳ない。一つうかがいたい事がございましてな」
「はあ、何でしょう」

「古川殿は、いつまでここに逗留されるおつもりですかな」

 そういう問いが来るとは想定していなかった。だがそれもそうか。孫一郎は、おずおずと答えた。

「そうですね、そろそろとも思うのですが」

 もう海塚の家に厄介になって一週間以上になる。少々長逗留に過ぎたかも知れない。迷惑に思われているのだろうか。そんな事を考えている孫一郎に、卜半斎は書き物の筆を止めると、やや口調を強めた。

「左様、そろそろ出立する頃合いでござりましょう」

 違和感があった。口調こそ厳しいが、卜半斎が怒っているようには見えない。その様子と、海塚のあの言葉が、孫一郎の頭で結びついた。

――また縁起の悪い日に、縁起の悪い人が来たものです。

「あの、もしや何か起こるというのでしょうか」

 しかし卜半斎は孫一郎のその問いには答えず、念を押した。

「なるべく早く出立されるのがよろしいでしょう。良いですね」



 噂というものは、誰から漏れて何処から始まるのか。まあ根来の付け城に人が集まっている事は、以前から気づいていた者も多かったのだろう。そこに付け城の向こう側の佐野村から、荷車の列が本願寺にやって来たのだ。何かが起こると思っても不思議はない。

 寺内町の中は、戦の噂で持ちきりだった。もちろんこの時代、岸和田城と根来雑賀の一揆勢との間で、小競り合いは珍しくなかった。付け城に人が集まるのも、ままある事だったのだが、今回は違うという声があちこちから聞こえた。本格的な戦が、大戦おおいくさが始まると人々が口々に言うのだ。なるほど卜半斎が口にしなかったのはこの事だったのだな、と孫一郎が気付くのに、さほど時間はかからなかった。
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