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23.波紋
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「今日は歌が聞こえませんね」
ドリス・カッパーバンドは書斎の窓から雨脚の強まる外を眺めていた。
「雨が降っているからな」
ジョセフ・カッパーバンドは安楽椅子に腰掛け、パイプにタバコの葉を詰める。
「どれだけ防水技術が発達しても、水が苦手なのは変わらないのだろう」
ドリスは呆れた顔を見せた。
「また禁煙をやめたのですか」
「どうせ老い先短い年寄りだ。楽な方に流れるさ。それより」
マッチを擦り、パイプの先に差し込みながら、ジョセフは少し言いにくそうに尋ねた。
「好きなのか、歌祭」
「好きか嫌いかで言うのなら、あまり好きではありません」
小さな微笑みに、ジョセフは少しほっとしたような様子を見せた。ドリスは言う。
「でも、祭と名のつく行事が何もないよりはマシだと思います」
「そうだな、確かにゼロよりはあるだけマシだ」
部屋にタバコの香りが広がる。ドリスは困った顔をしている。
「私、自分の部屋に居ますから、ご用があったら呼んでください」
そう言うと、そそくさと部屋から出て行った。匂いがつくのが嫌なのだろう。
ジョセフはしばし煙をくゆらせると、机の引き出しに触れた。指紋、骨格、静脈血流の総合認証によってロックが解除され、引き出しが自動で開いて行く。その内には小さな写真立てとガラス瓶、そして瓶の中には黒い何か。
ジョセフはガラス瓶を取り出すと、机の上に置いた。
「ワシの言葉がわかるか」
小さな声で語りかけると、瓶の中に波紋が浮かんだ。
「その瓶から出たいか」
また波紋が浮かぶ。
「ワシはおまえに危害を加えるつもりは一切ない。そのことが理解できるのなら、そこから出してやろう」
すると黒い何かは激しく波立った。そしてそれが静まったとき、瓶の中には黒いバラの花が一輪咲いていた。
黒バラの花言葉には二面性がある。代表的な例を挙げるなら、『憎しみ』と『永遠の愛』だ。この瓶の中の黒バラはどちらの意味を表しているのだろう。しばらく迷ったが、ジョセフは瓶に手をかけた。そして栓をねじり、開けた。
黒いバラはしばしその形を保っていたが、やがて姿を崩し始め、そこから一本の糸が、上に向かって伸びていった。瓶の口から上へ上へ、まるで天界から釈迦如来が下ろす蜘蛛の糸のように、静かに、遠慮がちに伸びていくと、やがて天井に触れた。その瞬間、瓶の中から黒い塊が跳び上がった。そして糸に捕まり、まるでターザンの如く身を躍らせると、机の引き出しの中に落ちた。
いま引き出しの中にあるのは写真立て。黒い何かは、その上に落ちた。ジョセフが思わず手を伸ばしそうになったとき。その手が止まった。そこには顔があった。それは写真立てに飾られた写真の主の顔。かつてジョセフが永遠の愛を誓った相手。こんなに色は黒くなかったけれど、いや、透き通るような色白の肌だったけれど、それ以外はまったくそのまま、生き写しの顔がジョセフを見上げていた。ジョセフは思わずその名を口にした。
「アーニャ」
黒いアーニャの顔は、口を開いた。懸命に何かを言おうとしている。
「……ア……リ……ガ……ト……」
さすがに写真からでは声帯までコピーできなかったのだろう、それはアーニャの声とは似ても似つかぬものであったが、ジョセフには充分だった。
「わかった、もういい。おまえの気持ちはわかった。ありがとう、こちらこそありがとう」
深く頭を下げたジョセフに、黒いアーニャは一度微笑むと、花がしぼむように形を崩し、そして引き出しの中から飛び上がり、自ら瓶の中へと戻った。
ジョセフは瓶の栓を手に取ったが、それをそのまま机の上に放り投げた。
「おまえには知ってもらわねばならない。平和というものを、人間という生き物を。ワシが教える、すべて教える。おまえが望むのなら、この命もくれてやろう。だから力を貸してほしい。おまえの力で、この星の未来を変えるのだ」
うなずくような波紋がひとつ、瓶の中に広がった。
ドリス・カッパーバンドは書斎の窓から雨脚の強まる外を眺めていた。
「雨が降っているからな」
ジョセフ・カッパーバンドは安楽椅子に腰掛け、パイプにタバコの葉を詰める。
「どれだけ防水技術が発達しても、水が苦手なのは変わらないのだろう」
ドリスは呆れた顔を見せた。
「また禁煙をやめたのですか」
「どうせ老い先短い年寄りだ。楽な方に流れるさ。それより」
マッチを擦り、パイプの先に差し込みながら、ジョセフは少し言いにくそうに尋ねた。
「好きなのか、歌祭」
「好きか嫌いかで言うのなら、あまり好きではありません」
小さな微笑みに、ジョセフは少しほっとしたような様子を見せた。ドリスは言う。
「でも、祭と名のつく行事が何もないよりはマシだと思います」
「そうだな、確かにゼロよりはあるだけマシだ」
部屋にタバコの香りが広がる。ドリスは困った顔をしている。
「私、自分の部屋に居ますから、ご用があったら呼んでください」
そう言うと、そそくさと部屋から出て行った。匂いがつくのが嫌なのだろう。
ジョセフはしばし煙をくゆらせると、机の引き出しに触れた。指紋、骨格、静脈血流の総合認証によってロックが解除され、引き出しが自動で開いて行く。その内には小さな写真立てとガラス瓶、そして瓶の中には黒い何か。
ジョセフはガラス瓶を取り出すと、机の上に置いた。
「ワシの言葉がわかるか」
小さな声で語りかけると、瓶の中に波紋が浮かんだ。
「その瓶から出たいか」
また波紋が浮かぶ。
「ワシはおまえに危害を加えるつもりは一切ない。そのことが理解できるのなら、そこから出してやろう」
すると黒い何かは激しく波立った。そしてそれが静まったとき、瓶の中には黒いバラの花が一輪咲いていた。
黒バラの花言葉には二面性がある。代表的な例を挙げるなら、『憎しみ』と『永遠の愛』だ。この瓶の中の黒バラはどちらの意味を表しているのだろう。しばらく迷ったが、ジョセフは瓶に手をかけた。そして栓をねじり、開けた。
黒いバラはしばしその形を保っていたが、やがて姿を崩し始め、そこから一本の糸が、上に向かって伸びていった。瓶の口から上へ上へ、まるで天界から釈迦如来が下ろす蜘蛛の糸のように、静かに、遠慮がちに伸びていくと、やがて天井に触れた。その瞬間、瓶の中から黒い塊が跳び上がった。そして糸に捕まり、まるでターザンの如く身を躍らせると、机の引き出しの中に落ちた。
いま引き出しの中にあるのは写真立て。黒い何かは、その上に落ちた。ジョセフが思わず手を伸ばしそうになったとき。その手が止まった。そこには顔があった。それは写真立てに飾られた写真の主の顔。かつてジョセフが永遠の愛を誓った相手。こんなに色は黒くなかったけれど、いや、透き通るような色白の肌だったけれど、それ以外はまったくそのまま、生き写しの顔がジョセフを見上げていた。ジョセフは思わずその名を口にした。
「アーニャ」
黒いアーニャの顔は、口を開いた。懸命に何かを言おうとしている。
「……ア……リ……ガ……ト……」
さすがに写真からでは声帯までコピーできなかったのだろう、それはアーニャの声とは似ても似つかぬものであったが、ジョセフには充分だった。
「わかった、もういい。おまえの気持ちはわかった。ありがとう、こちらこそありがとう」
深く頭を下げたジョセフに、黒いアーニャは一度微笑むと、花がしぼむように形を崩し、そして引き出しの中から飛び上がり、自ら瓶の中へと戻った。
ジョセフは瓶の栓を手に取ったが、それをそのまま机の上に放り投げた。
「おまえには知ってもらわねばならない。平和というものを、人間という生き物を。ワシが教える、すべて教える。おまえが望むのなら、この命もくれてやろう。だから力を貸してほしい。おまえの力で、この星の未来を変えるのだ」
うなずくような波紋がひとつ、瓶の中に広がった。
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