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616
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チャレンジ九日目。
今日の指示は、三回目のリストカットだ。今度は三箇所、またキの字を書いて、写真をキャプテンに送らなければならない。もう左手首は無理だ。これ以上傷口を広げたら、母さんにバレてしまう。右手首を切るしかない。
長袖なのに、両手にリストバンドをしてもおかしくないだろうか。もう笑われるのは嫌だ。これ以上馬鹿にされるのは嫌だ。でもキャプテンに怒られるのはもっと嫌だ。だったらやらないと。これくらいやり遂げないと。
勇気が欲しい。もっともっと勇気が欲しい。何も怖い物がないくらいに。
◆ ◆ ◆
「だいたい、五味さんはなってないんすよ!」
笹桑ゆかりはそう言い放った。起き抜けの朝一番、俺の事務所で。
「……何でおまえがここにいる」
「そんなの決まってるじゃないすか。あれから家に帰らなかったんすよ」
まだ頭がボーッとしている。コーヒーを飲もう。タバコを吸おう。
「普通の男の子なら、こういうとき自分はソファに寝て、女の子をベッドに寝かせるもんじゃないすか。なのに何すか五味さんは。自分だけベッドに寝て、こっちはソファで寝たんすからね」
わめく笹桑を横目に、俺はヤカンをコンロにかけた。ついでにタバコにも火を点ける。
「で、何でおまえがここにいるんだ」
「だから帰らなかったんだって言ってるじゃないすか」
「だから何で帰らないんだよ。帰れよ」
「そんな、帰れって言われて帰ったら、自分の負けみたいじゃないすか」
「何の勝負だよ。全然わかんねえわ」
おれはタバコを吹かした。少し頭がハッキリする。そう言えば昨夜は疲れ果ててしまって、笹桑を追い出した記憶も、ドアに鍵をかけた記憶もない。
「だいたいおまえ、仕事はどうした。今日月曜日だろ」
「いやだなあ、五味さんったら。雑誌記者に土日も平日も関係ないっすよ」
そう笹桑は屈託なく笑う。いやいやいや。
「だったら余計おかしいだろ。おまえ昨日から会社サボってるのか」
「大丈夫っすよ、有休いっぱい貯まってるんすから」
「パシリのペーペーがそんな簡単に有休取れるのかよ」
「もちろん事後申請っす」
痛い。何故か俺の頭が痛い。
「おまえ絶対クビになるぞ」
「別にいいっすよ。クビになったらなったで、自分は人脈使って再就職しますから。ああ、五味さんがどうしてもって言うんなら、永久就職もアリっすけど」
ヤカンの笛が鳴った。マグカップにインスタントコーヒーを適当にぶち込み、湯を入れる。まったく、笹桑のこの脳天気な自信は何処から湧いてくるのだろう。あやかるには爪の垢でも煎じて飲みゃいいのか。飲む気は毛頭ないが。何だかコーヒーがいつもより苦い気がする。
「それで。つまりは何の用だ」
俺は笹桑をにらみつけた。フォックスの警察手帳と拳銃は見つかった。もう俺に用はないはずだろう。だが笹桑はワクワク感を抑えきれない顔で、楽しげに笑う。
「そりゃあもちろん、海崎志保を殺した真犯人を捜すんすよ」
「……あ?」
「捜すんすよね、真犯人。だってそうしなきゃ、五味さんの仕事成立しないっすもんね」
「おまえ、意味わかって言ってんのか」
「手伝いますよお。自分は結構頼りになる相棒っすからね」
殴りてえ。ぶん殴りてえ。だが殴っちまったら、後で余計面倒な話にならないとも限らない。俺は湧き上がる暴力衝動を必死で抑えた。とりあえずコーヒーを飲んで気を落ち着かせよう。
「とにかく、俺の邪魔はすんなよ」
「はい、しないっす」
敬礼する笹桑を無視して、俺はジローの寝室に向かった。
「起きろジロー。立って歩け。飯食うぞ」
ジローがいつもの場所に膝を抱えて座るのを見て、俺は丼にパック飯を入れ、レトルトカレーをかけ、電子レンジを三分回す。すると笹桑が手を上げた。
「五味さん、自分はトーストとハムサラダとレモンティーでいいっす」
「トースト以外却下だ」
オーブントースターに六枚切り食パンを四枚入れて二分回す。レンジとトースターを同時に使ってもブレーカーは落ちない。安さが売りのボロい賃貸だが、この点だけは気に入っている。
トーストが先に焼き上がったので、皿にのせてテーブルまで持って行き、一言釘を刺す。
「わかってるだろうが、おまえの分は二枚だけだからな」
笹桑の胃袋のデカさは、昨日嫌というほど見た。こいつは要注意だ。そのとき、レンジが電子音を鳴らした。熱々の丼をジローの前に置くと、飛びついてむさぼり食い始める。それを横目にまたコーヒーを入れ、バターケースを冷蔵庫から取り出す。さて、食事を開始するか。
「五味総合興信所……興信所ということは、誰かに私の家を調査しろと言われたのかな」
ジローが海崎惣五郎のコピーを出している。とりあえずは『復習』だ。確かに海崎志保は死んだ。しかし海崎志保を樹の幹に例えるなら、そこからは何本も枝が出ている。海崎惣五郎も篠生幸夫も、その枝の一本だ。そして上手くすれば、枝が次の幹になるかも知れない。だから海崎志保のことを、もっと理解しておく必要があるのだ。
「五味さん、テレビ点けてもいいっすか」
笹桑がリモコンを手にたずねて来る。観る気満々だ。
「邪魔すんなって言ったろうが」
すると今度は新聞を手に持って、ピラピラと振り回す。
「だって一般紙の一面トップっすよ、海崎志保。こんなのワイドショーでも絶対トップっしょ」
そのうるさい新聞を取り上げ、テーブルの上に置いた。
「今の段階でマスコミの知ってることなんざ、警察発表と過去の発言だけだろ。俺らの方が情報を持ってるくらいだ。観る値打ちはない」
「でも警察が何か見つけてるかも知れないっすよ。五味さんは警察を過小評価してるんじゃないすか」
それほど馬鹿じゃねえよ、と言いたがったがやめた。別に笹桑の言葉に一理あると思った訳でもないが、一応観るだけは観ておくか、と思ったのだ。
「ジロー、ストップ。しばらく休んでろ」
俺がそう言うと同時に、笹桑はテレビを点けた。ちょうど始まったばかりらしい。司会者連中が立ち話をしている。笹桑は次々にチャンネルをザッピングして行く。各局を三周くらいしたところで、画面の隅に白いテロップが見えた。
616の謎
「あ」
笹桑はザッピングを止めた。そこに映る海崎志保の顔。それは報道されなかった、海蜃学園の生徒が自殺したときの謝罪会見の映像だ。そしてスタジオが映され、フリップを手に持った若い男が何やら話している。その内容をざっと要約すると、昨日見つかった海崎志保の遺体の腕に、『616』の数字が書かれていたらしい。これは警察からのリークだろうか。昨夜はそこまで見なかったからな。
「悪魔の羽根だ」
笹桑が画面を見つめたままつぶやく。
「悪魔の羽根がどうした」
俺の言葉に、しかし笹桑は顔を向けず、言葉だけを返した。
「腕に616を彫るのは、悪魔の羽根を始めたとき、一番最初に出されるチャレンジなんすよ」
「その616ってどういう意味だ」
「悪魔の数字っす」
「悪魔の数字?」
「ほら、『オーメン』って映画あったじゃないすか。あれで666が有名になったっしょ。でも専門家がよくよく調べてみたら、666じゃなくて616が正しい悪魔の数字だったらしいんす」
そんなもん、どうでもいいじゃねえか。何だよ正しい悪魔の数字って。くだらねえ。だいたい616より666の方が意匠的にもインパクトの面でも優れてるだろ。
などと言いたい気持ちが湧いたが、それは脇に置いておいた。いま重要なのは、その数字が海崎志保の死体にあったということだ。つまり海崎志保は、自殺サイト『悪魔の羽根』に参加していた可能性がある。テレビの中でもそれに触れている。だが、本当にそうか?
「海崎志保は海蜃学園のSNSを乗っ取って、悪魔の羽根を広めようとした。それは自分もそこに参加していたからだ、と考えれば話としては繋がるか。だが」
「繋がらないっすよ」
笹桑はやっとこちらを向いた。
「だってSNSの乗っ取り事件から、もう五十日以上経ってるじゃないすか」
自信に溢れた断言だった。
「その五十日ってのが重要なのか」
「悪魔の羽根のチャレンジは最大五十日までしかないんす。五十日目の最後の指示が『飛び降りて死ね』なんすから。だから五十日以上前に海崎志保が悪魔の羽根に参加してたとは思えないっす」
だとすると、どうなる。海崎志保は何故616と腕に書いた。いや、待て。それは海崎志保が書いたと言い切れるのか。
考え込む俺の横顔を、笹桑が見つめている。
「何だよ」
「ね、自分は頼りになる相棒っしょ?」
そう言って白い歯を見せた。
「……篠生幸夫という男を知っているかね。そうだ、志保の主治医のようなことをしている。あれは私の教え子なのだよ。学生時代は大変に優秀でね、私も目をかけたものなのだが、何が気に入らなかったのか、いつの間にか私に敵意を持つようになったらしい。私の下から離れるよう、志保をけしかけたりもしたようだ。飼い犬に手を噛まれたようなものかな。もし志保が誰かと一緒にいるとしたら、あの男ではないだろうか。他に思い当たる節はないな」
ジローがコピーした海崎惣五郎は、ずっと目を伏せたままだった。切々と真実を訴えている、と言う風には見えない。どちらかと言えば、言い訳をしているように見える。まあ、それは印象でしかないのだが。
「何か隠してますよね、これ」
笹桑が真剣な表情でジローを見つめながら言う。やっぱり、こいつにもそう見えるのか。
「笹桑」
「何すか」
「おまえ、酒は飲むか」
「飲むっすよ。おごってくれるんすか」
「ウイスキーは飲むか」
「飲むっすよ、コークハイっすけど。おごってくれるんすか」
「ちょっと付き合え」
「いやったーい」
喜んで飛び上がった笹桑を横目に、ジローに声をかけた。
「行くぞ、立って歩け」
ノロノロと立ち上がるジローを見ながら、俺はタバコを咥え、ライターで火を点ける。
「おまえ抜きじゃ面倒臭いんでな」
そして俺も立ち上がり、ドアに向かった。
笹桑ゆかりは、むくれていた。不満を満面に表わしている。
「お酒飲ませてくれるって言ったのに」
「んなことは一言も言ってねえよ」
前のヤツの受付が手間取っている。自立支援がどうとか言われて、書類を書かされているらしい。何だよ、患者いるんじゃねえか。俺は紙袋を下げ、その後ろに立っていた。芦則精神科の待合室。ジローは椅子に膝を抱えて座り、ふくれっ面の笹桑は俺のすぐ後ろに立っていた。
ようやく前の受付が終わったようだ。俺が診察券を出すと、顔を覚えていたのだろう、丸い巨体の看護師は不審げに眉を寄せた。
「次の予約の日、まだじゃなかった?」
「いや、ちょっと急なんですが、先生に聞きたいことがありまして」
「そう、先生に確認してみるわね」
確認も何も、他の患者なんて一人しかいねえんだから、どうでもいいだろう、と言いたい気持ちを抑えて笑顔を作る。看護師は一度奥に姿を消し、少ししてから戻って来た。
「先生はOKだそうなんで、しばらく待っててね」
俺は笑顔でうなずき、ジローの隣に座った。その横に笹桑が座る。
「おごってくれるって言ったのに」
「こんな午前中から開いてる飲み屋は、この近辺にはねえよ。て言うか、ウイスキー一本買ってやっただろうが」
「ペットボトルっすけどね」
「おまえにゃ上等だよ」
先に来ていた患者が呼ばれて診察室に入って行った。さて、何分ぐらい待たされるのやら。ああ、タバコ吸いてえなあ。と思っていたら、すぐに出て来た。何だよ、精神科ってこんなに回転速いのか。
そしてジローの名前が呼ばれ、俺たち三人は診察室に入った。顔がデカくてチョビひげで小柄な芦則佐太郎は、待ち構えていたかのように俺たちを迎えた。
「よう、やって来たな。今度は血圧測らせてくれるか、どうだ」
ジローは芦則の前の椅子に座ったが、またすぐに膝を抱えて体を硬くする。
「なるほど、今日もダメか。まあ仕方ないな。それで」芦則はジローの後ろに立つ俺の方を見た。「あんたはチェック表書いて来たのかね」
「ああっ」
思わず額を押さえた。完璧に忘れていた。芦則は呆れたようにため息をつく。
「まあそんなこったろうと思ったわ。で、今日は彼女連れで何の用だ」
「はい、彼女っす」
一歩前に出ようとした笹桑の額を軽くはたいた。
「あ痛っ」
俺は紙袋から琥珀色の詰まったガラス瓶を一本取り出し、机の上に置いた。
「賄賂です」
「ほう、前回よりはグレードアップした賄賂だな」
笹桑が選んだウイスキーだ。ビールしか飲まない俺が選ぶよりは、間違いがないに違いない。芦則老医師は瓶を手に取り、しげしげと眺めた。そして金属製の栓を回すと、前回同様ビーカーに一口分注いだ。
「……で、何が聞きたいね」
舐めるようにウイスキーを口に含む芦則に、俺はたずねた。
「先生ならご存じかと思いましてね。海崎惣五郎氏と篠生幸夫氏の関係を」
ビーカーの酒を飲み干すと、芦則は随分と苦そうな顔で俺を見つめた。
「そんなことを知ってどうする」
「そんなことって、どんなことです。つまり、ただの師弟関係ではないってことですか」
芦則はしんどそうなため息をまた一つ、そしてまた一口分、ウイスキーをビーカーに注ぐ。
「おまえさん、アレだな。頭が回り過ぎるきらいがある。いずれケガをするぞ」
「ケガならしょっちゅうしてましてね、慣れっこですよ」
そう言って紙袋の中から、もう一本ウイスキーを出した。さらに一段グレードの高い物を。芦則の目が丸くなる。
「これは必要ありませんか」
「いや、待て、待て」
紙袋に戻そうとする手を、思わずつかみ止める。俺が笑顔を作ると、芦則は降参したように両手を挙げた。
「はあ……わしもあの二人と特別親しい訳ではない。だから又聞き程度の、根拠薄弱な噂話しか知らんよ」
「結構です」
俺は手に持ったウイスキーの瓶を机に置いた。だが芦則はその栓を開けることなく、しばらくじっと悲しげに見つめていた。そして。
「あの二人は愛人関係にあったらしい」
視線をこちらに向けることなく、話し始めた。
「海崎惣五郎は、まあバイセクシャルと言うか、昔風に言えば両刀使いと言うヤツでな。しかも相当の好き者だったそうだ。男女問わず、あちこち頻繁に手を出していたという話は聞こえてきていたよ。その中でも学生の頃の篠生幸夫は美少年として有名だった。随分とお気に入りだったらしい。当時篠生の家はあまり豊かではなくて、学費を海崎が援助しているという噂もあったな。わしが知っているのは、これくらいか。参考になったかね」
そう言うと、責めるような視線を俺に向けた。
「大変参考になりましたよ。助かりました」
世辞のつもりも嫌味のつもりもなかった。八割方本心である。
「おまえさんは何も聞かなくていいのかね」
ちょっとホッとした顔の芦則が、誰に向かって話しているのかと思ったら、笹桑だった。
「あ、聞いていいんすか?」
また前に出て来たら額をはたいてやろうと思ったのだが、どうやら学習しやがったらしく、その場から動かずに笹桑はたずねた。
「篠生幸夫さんって、医者としてはどんなもんなんすか」
芦則はキョトンとした顔を見せた。
「どんなもん? まあ優秀な医者ではないのかな。何でそう思うのかね」
「いや、だって精神科やってる割には、奥さんあんな状態だし」
「ああ、カミさんのことか。それは仕方ないだろう。まだ娘が自殺してから、そう時間も経っていない。精神の病に必要なのは時間と休息だ。いかに名医であっても、その点は変わらんよ」
「そうなんすか。医学的な専門知識があったら、チョチョチョイっと病気にしたり治したり出来そうな気がするんすけどねえ」
「さすがにチョチョチョイっとはいかんな」
そう言って芦則は苦笑した。
酒代と診察代はかかったが、それに見合うだけの情報は手に入れたように思う。俺はジローと笹桑をクラウンに詰め込み、走り出した。
「ちょっと五味さん、何処行くんすか!」
後ろの席から笹桑が乗り出しているが、俺は構わずアクセルを踏み込む。
「肥田久子んとこだ。あの婆さん、肝心なことを黙ってやがった」
肥田久子は海蜃館大学病院で三十年を過ごし、海崎惣五郎と篠生幸夫を共に知っていた。二人の関係を知らなかったはずがない。いや、それだけじゃあるまい。
「でも、もうお昼っすよ。ご飯どうするんすか」
文句を垂れる笹桑に舌打ちをしながら、俺はステアリングを右に切った。
「飯くらい後でいくらでも食わせてやる。いまは黙ってろ!」
「んじゃ、焼き肉おごりっすね」
ルームミラーの中の笹桑がニンマリ微笑んでいる。こいつ、何人前食う気だ。まあいい、すべては後で考える。いまはまず確認しなくてはならない。それがその先に進む足場になるのだから。
食事時をかなり過ぎた頃、銀色のクラウンは肥田久子の家の前に停まった。また居留守を使われるかとも思ったが、今度はすんなり中に通された。
「それで」
いまいましそうに四つの紅茶を客間のテーブルに置き、久子は合皮のソファに深々と身体を沈めた。
「あの女が自殺した今になって、何の用ですか」
つまりは、もう用済みだと言いたい訳だ。だが、こっちはそうは行かない。
「肥田さん。アナタ、俺にイロイロと隠してましたよね」
「何のことでしょう」
「篠生幸夫が海崎惣五郎の愛人だったことですよ」
俺とジローの間に座る笹桑が紅茶を一口飲んだ。だがあまり美味そうではない。久子はしばらく黙って俺をにらみつけていたが、不意に口元を緩めて視線をそらした。
「話す必要がないと思ったからです」
「話したくなかったんじゃないですか」
「違います」
「アナタが隠してたのはそれだけじゃない。知ってたんですよね、篠生幸夫が海崎惣五郎に復讐心を抱いていたのを」
「知りません」
その顔は平然としているようにも見える。だが。
「アンタ気付いてたんじゃないのか。篠生幸夫が海崎志保を利用しようとしてたことに」
久子は釣り上がった目を俺に向けた。
「知らないと言ってるでしょう! だいたい何でそんな」
「そうか、アンタ……海崎惣五郎に抱かれたことがあるのか」
空気が凍り付いた。久子の目は虚ろになり、顔は仮面のように固まっている。
「な、何を根拠に」
「根拠も証拠もねえよ。いま思いついた、ただの当てずっぽだ。だがその反応じゃ正解みたいだな」
「私を馬鹿にする気ですか」
声が震えている。つまり肯定だ。
「篠生幸夫の魂胆に気付いたアンタは、それを利用しようと考えた。アンタには別れた藤松勘重より、海崎惣五郎の方が許せない相手だったんだろう。だがまさか孫が死ぬことになるとは思ってもみなかった」
「私を笑いものにする気ですか」
「そりゃあ海崎志保が許せない訳だ。海崎惣五郎の孫娘だからじゃない。アンタが注意を促してりゃ、孫は死なずに済んだのかも知れないんだからな。結局アンタはてめえの間抜けさ加減が許せなかったんだよ」
「出て行きなさい」
久子は立ち上がった。鬼のような形相で、部屋の入り口のドアを指さす。
「出て行かないと警察を呼びますよ。今すぐ出て行きなさい」
俺は立ち上がるとジローを立たせた。そして久子に背を向ける。
「あのメモの中に篠生の名前を混ぜたのは、警察がヤツを捕まえなかったからだ。だから今度は俺を利用しようとしたんだろ? アンタ向いてねえんだよ、こういうの」
「出て行け! 出て行け! 出て行けえっ!」
狂気じみた絶叫を聞きながら、俺とジローは部屋から出た。笹桑も後から付いて来る。
「ねえねえ五味さん、結局のところ、肥田久子と海崎惣五郎の間に何があったんすか」
玄関の引き戸を開けるときに笹桑がそうたずねて来たが、俺に聞かれても困る。
「知るかよ、そんな昔の話。興味もねえ」
タバコを咥え、ライターを探す。実際、金にならない話などどうでもいい。いまはとにかく、カレーライスがメニューにある焼き肉屋を捜す方が大事なのだ。
今日の指示は、三回目のリストカットだ。今度は三箇所、またキの字を書いて、写真をキャプテンに送らなければならない。もう左手首は無理だ。これ以上傷口を広げたら、母さんにバレてしまう。右手首を切るしかない。
長袖なのに、両手にリストバンドをしてもおかしくないだろうか。もう笑われるのは嫌だ。これ以上馬鹿にされるのは嫌だ。でもキャプテンに怒られるのはもっと嫌だ。だったらやらないと。これくらいやり遂げないと。
勇気が欲しい。もっともっと勇気が欲しい。何も怖い物がないくらいに。
◆ ◆ ◆
「だいたい、五味さんはなってないんすよ!」
笹桑ゆかりはそう言い放った。起き抜けの朝一番、俺の事務所で。
「……何でおまえがここにいる」
「そんなの決まってるじゃないすか。あれから家に帰らなかったんすよ」
まだ頭がボーッとしている。コーヒーを飲もう。タバコを吸おう。
「普通の男の子なら、こういうとき自分はソファに寝て、女の子をベッドに寝かせるもんじゃないすか。なのに何すか五味さんは。自分だけベッドに寝て、こっちはソファで寝たんすからね」
わめく笹桑を横目に、俺はヤカンをコンロにかけた。ついでにタバコにも火を点ける。
「で、何でおまえがここにいるんだ」
「だから帰らなかったんだって言ってるじゃないすか」
「だから何で帰らないんだよ。帰れよ」
「そんな、帰れって言われて帰ったら、自分の負けみたいじゃないすか」
「何の勝負だよ。全然わかんねえわ」
おれはタバコを吹かした。少し頭がハッキリする。そう言えば昨夜は疲れ果ててしまって、笹桑を追い出した記憶も、ドアに鍵をかけた記憶もない。
「だいたいおまえ、仕事はどうした。今日月曜日だろ」
「いやだなあ、五味さんったら。雑誌記者に土日も平日も関係ないっすよ」
そう笹桑は屈託なく笑う。いやいやいや。
「だったら余計おかしいだろ。おまえ昨日から会社サボってるのか」
「大丈夫っすよ、有休いっぱい貯まってるんすから」
「パシリのペーペーがそんな簡単に有休取れるのかよ」
「もちろん事後申請っす」
痛い。何故か俺の頭が痛い。
「おまえ絶対クビになるぞ」
「別にいいっすよ。クビになったらなったで、自分は人脈使って再就職しますから。ああ、五味さんがどうしてもって言うんなら、永久就職もアリっすけど」
ヤカンの笛が鳴った。マグカップにインスタントコーヒーを適当にぶち込み、湯を入れる。まったく、笹桑のこの脳天気な自信は何処から湧いてくるのだろう。あやかるには爪の垢でも煎じて飲みゃいいのか。飲む気は毛頭ないが。何だかコーヒーがいつもより苦い気がする。
「それで。つまりは何の用だ」
俺は笹桑をにらみつけた。フォックスの警察手帳と拳銃は見つかった。もう俺に用はないはずだろう。だが笹桑はワクワク感を抑えきれない顔で、楽しげに笑う。
「そりゃあもちろん、海崎志保を殺した真犯人を捜すんすよ」
「……あ?」
「捜すんすよね、真犯人。だってそうしなきゃ、五味さんの仕事成立しないっすもんね」
「おまえ、意味わかって言ってんのか」
「手伝いますよお。自分は結構頼りになる相棒っすからね」
殴りてえ。ぶん殴りてえ。だが殴っちまったら、後で余計面倒な話にならないとも限らない。俺は湧き上がる暴力衝動を必死で抑えた。とりあえずコーヒーを飲んで気を落ち着かせよう。
「とにかく、俺の邪魔はすんなよ」
「はい、しないっす」
敬礼する笹桑を無視して、俺はジローの寝室に向かった。
「起きろジロー。立って歩け。飯食うぞ」
ジローがいつもの場所に膝を抱えて座るのを見て、俺は丼にパック飯を入れ、レトルトカレーをかけ、電子レンジを三分回す。すると笹桑が手を上げた。
「五味さん、自分はトーストとハムサラダとレモンティーでいいっす」
「トースト以外却下だ」
オーブントースターに六枚切り食パンを四枚入れて二分回す。レンジとトースターを同時に使ってもブレーカーは落ちない。安さが売りのボロい賃貸だが、この点だけは気に入っている。
トーストが先に焼き上がったので、皿にのせてテーブルまで持って行き、一言釘を刺す。
「わかってるだろうが、おまえの分は二枚だけだからな」
笹桑の胃袋のデカさは、昨日嫌というほど見た。こいつは要注意だ。そのとき、レンジが電子音を鳴らした。熱々の丼をジローの前に置くと、飛びついてむさぼり食い始める。それを横目にまたコーヒーを入れ、バターケースを冷蔵庫から取り出す。さて、食事を開始するか。
「五味総合興信所……興信所ということは、誰かに私の家を調査しろと言われたのかな」
ジローが海崎惣五郎のコピーを出している。とりあえずは『復習』だ。確かに海崎志保は死んだ。しかし海崎志保を樹の幹に例えるなら、そこからは何本も枝が出ている。海崎惣五郎も篠生幸夫も、その枝の一本だ。そして上手くすれば、枝が次の幹になるかも知れない。だから海崎志保のことを、もっと理解しておく必要があるのだ。
「五味さん、テレビ点けてもいいっすか」
笹桑がリモコンを手にたずねて来る。観る気満々だ。
「邪魔すんなって言ったろうが」
すると今度は新聞を手に持って、ピラピラと振り回す。
「だって一般紙の一面トップっすよ、海崎志保。こんなのワイドショーでも絶対トップっしょ」
そのうるさい新聞を取り上げ、テーブルの上に置いた。
「今の段階でマスコミの知ってることなんざ、警察発表と過去の発言だけだろ。俺らの方が情報を持ってるくらいだ。観る値打ちはない」
「でも警察が何か見つけてるかも知れないっすよ。五味さんは警察を過小評価してるんじゃないすか」
それほど馬鹿じゃねえよ、と言いたがったがやめた。別に笹桑の言葉に一理あると思った訳でもないが、一応観るだけは観ておくか、と思ったのだ。
「ジロー、ストップ。しばらく休んでろ」
俺がそう言うと同時に、笹桑はテレビを点けた。ちょうど始まったばかりらしい。司会者連中が立ち話をしている。笹桑は次々にチャンネルをザッピングして行く。各局を三周くらいしたところで、画面の隅に白いテロップが見えた。
616の謎
「あ」
笹桑はザッピングを止めた。そこに映る海崎志保の顔。それは報道されなかった、海蜃学園の生徒が自殺したときの謝罪会見の映像だ。そしてスタジオが映され、フリップを手に持った若い男が何やら話している。その内容をざっと要約すると、昨日見つかった海崎志保の遺体の腕に、『616』の数字が書かれていたらしい。これは警察からのリークだろうか。昨夜はそこまで見なかったからな。
「悪魔の羽根だ」
笹桑が画面を見つめたままつぶやく。
「悪魔の羽根がどうした」
俺の言葉に、しかし笹桑は顔を向けず、言葉だけを返した。
「腕に616を彫るのは、悪魔の羽根を始めたとき、一番最初に出されるチャレンジなんすよ」
「その616ってどういう意味だ」
「悪魔の数字っす」
「悪魔の数字?」
「ほら、『オーメン』って映画あったじゃないすか。あれで666が有名になったっしょ。でも専門家がよくよく調べてみたら、666じゃなくて616が正しい悪魔の数字だったらしいんす」
そんなもん、どうでもいいじゃねえか。何だよ正しい悪魔の数字って。くだらねえ。だいたい616より666の方が意匠的にもインパクトの面でも優れてるだろ。
などと言いたい気持ちが湧いたが、それは脇に置いておいた。いま重要なのは、その数字が海崎志保の死体にあったということだ。つまり海崎志保は、自殺サイト『悪魔の羽根』に参加していた可能性がある。テレビの中でもそれに触れている。だが、本当にそうか?
「海崎志保は海蜃学園のSNSを乗っ取って、悪魔の羽根を広めようとした。それは自分もそこに参加していたからだ、と考えれば話としては繋がるか。だが」
「繋がらないっすよ」
笹桑はやっとこちらを向いた。
「だってSNSの乗っ取り事件から、もう五十日以上経ってるじゃないすか」
自信に溢れた断言だった。
「その五十日ってのが重要なのか」
「悪魔の羽根のチャレンジは最大五十日までしかないんす。五十日目の最後の指示が『飛び降りて死ね』なんすから。だから五十日以上前に海崎志保が悪魔の羽根に参加してたとは思えないっす」
だとすると、どうなる。海崎志保は何故616と腕に書いた。いや、待て。それは海崎志保が書いたと言い切れるのか。
考え込む俺の横顔を、笹桑が見つめている。
「何だよ」
「ね、自分は頼りになる相棒っしょ?」
そう言って白い歯を見せた。
「……篠生幸夫という男を知っているかね。そうだ、志保の主治医のようなことをしている。あれは私の教え子なのだよ。学生時代は大変に優秀でね、私も目をかけたものなのだが、何が気に入らなかったのか、いつの間にか私に敵意を持つようになったらしい。私の下から離れるよう、志保をけしかけたりもしたようだ。飼い犬に手を噛まれたようなものかな。もし志保が誰かと一緒にいるとしたら、あの男ではないだろうか。他に思い当たる節はないな」
ジローがコピーした海崎惣五郎は、ずっと目を伏せたままだった。切々と真実を訴えている、と言う風には見えない。どちらかと言えば、言い訳をしているように見える。まあ、それは印象でしかないのだが。
「何か隠してますよね、これ」
笹桑が真剣な表情でジローを見つめながら言う。やっぱり、こいつにもそう見えるのか。
「笹桑」
「何すか」
「おまえ、酒は飲むか」
「飲むっすよ。おごってくれるんすか」
「ウイスキーは飲むか」
「飲むっすよ、コークハイっすけど。おごってくれるんすか」
「ちょっと付き合え」
「いやったーい」
喜んで飛び上がった笹桑を横目に、ジローに声をかけた。
「行くぞ、立って歩け」
ノロノロと立ち上がるジローを見ながら、俺はタバコを咥え、ライターで火を点ける。
「おまえ抜きじゃ面倒臭いんでな」
そして俺も立ち上がり、ドアに向かった。
笹桑ゆかりは、むくれていた。不満を満面に表わしている。
「お酒飲ませてくれるって言ったのに」
「んなことは一言も言ってねえよ」
前のヤツの受付が手間取っている。自立支援がどうとか言われて、書類を書かされているらしい。何だよ、患者いるんじゃねえか。俺は紙袋を下げ、その後ろに立っていた。芦則精神科の待合室。ジローは椅子に膝を抱えて座り、ふくれっ面の笹桑は俺のすぐ後ろに立っていた。
ようやく前の受付が終わったようだ。俺が診察券を出すと、顔を覚えていたのだろう、丸い巨体の看護師は不審げに眉を寄せた。
「次の予約の日、まだじゃなかった?」
「いや、ちょっと急なんですが、先生に聞きたいことがありまして」
「そう、先生に確認してみるわね」
確認も何も、他の患者なんて一人しかいねえんだから、どうでもいいだろう、と言いたい気持ちを抑えて笑顔を作る。看護師は一度奥に姿を消し、少ししてから戻って来た。
「先生はOKだそうなんで、しばらく待っててね」
俺は笑顔でうなずき、ジローの隣に座った。その横に笹桑が座る。
「おごってくれるって言ったのに」
「こんな午前中から開いてる飲み屋は、この近辺にはねえよ。て言うか、ウイスキー一本買ってやっただろうが」
「ペットボトルっすけどね」
「おまえにゃ上等だよ」
先に来ていた患者が呼ばれて診察室に入って行った。さて、何分ぐらい待たされるのやら。ああ、タバコ吸いてえなあ。と思っていたら、すぐに出て来た。何だよ、精神科ってこんなに回転速いのか。
そしてジローの名前が呼ばれ、俺たち三人は診察室に入った。顔がデカくてチョビひげで小柄な芦則佐太郎は、待ち構えていたかのように俺たちを迎えた。
「よう、やって来たな。今度は血圧測らせてくれるか、どうだ」
ジローは芦則の前の椅子に座ったが、またすぐに膝を抱えて体を硬くする。
「なるほど、今日もダメか。まあ仕方ないな。それで」芦則はジローの後ろに立つ俺の方を見た。「あんたはチェック表書いて来たのかね」
「ああっ」
思わず額を押さえた。完璧に忘れていた。芦則は呆れたようにため息をつく。
「まあそんなこったろうと思ったわ。で、今日は彼女連れで何の用だ」
「はい、彼女っす」
一歩前に出ようとした笹桑の額を軽くはたいた。
「あ痛っ」
俺は紙袋から琥珀色の詰まったガラス瓶を一本取り出し、机の上に置いた。
「賄賂です」
「ほう、前回よりはグレードアップした賄賂だな」
笹桑が選んだウイスキーだ。ビールしか飲まない俺が選ぶよりは、間違いがないに違いない。芦則老医師は瓶を手に取り、しげしげと眺めた。そして金属製の栓を回すと、前回同様ビーカーに一口分注いだ。
「……で、何が聞きたいね」
舐めるようにウイスキーを口に含む芦則に、俺はたずねた。
「先生ならご存じかと思いましてね。海崎惣五郎氏と篠生幸夫氏の関係を」
ビーカーの酒を飲み干すと、芦則は随分と苦そうな顔で俺を見つめた。
「そんなことを知ってどうする」
「そんなことって、どんなことです。つまり、ただの師弟関係ではないってことですか」
芦則はしんどそうなため息をまた一つ、そしてまた一口分、ウイスキーをビーカーに注ぐ。
「おまえさん、アレだな。頭が回り過ぎるきらいがある。いずれケガをするぞ」
「ケガならしょっちゅうしてましてね、慣れっこですよ」
そう言って紙袋の中から、もう一本ウイスキーを出した。さらに一段グレードの高い物を。芦則の目が丸くなる。
「これは必要ありませんか」
「いや、待て、待て」
紙袋に戻そうとする手を、思わずつかみ止める。俺が笑顔を作ると、芦則は降参したように両手を挙げた。
「はあ……わしもあの二人と特別親しい訳ではない。だから又聞き程度の、根拠薄弱な噂話しか知らんよ」
「結構です」
俺は手に持ったウイスキーの瓶を机に置いた。だが芦則はその栓を開けることなく、しばらくじっと悲しげに見つめていた。そして。
「あの二人は愛人関係にあったらしい」
視線をこちらに向けることなく、話し始めた。
「海崎惣五郎は、まあバイセクシャルと言うか、昔風に言えば両刀使いと言うヤツでな。しかも相当の好き者だったそうだ。男女問わず、あちこち頻繁に手を出していたという話は聞こえてきていたよ。その中でも学生の頃の篠生幸夫は美少年として有名だった。随分とお気に入りだったらしい。当時篠生の家はあまり豊かではなくて、学費を海崎が援助しているという噂もあったな。わしが知っているのは、これくらいか。参考になったかね」
そう言うと、責めるような視線を俺に向けた。
「大変参考になりましたよ。助かりました」
世辞のつもりも嫌味のつもりもなかった。八割方本心である。
「おまえさんは何も聞かなくていいのかね」
ちょっとホッとした顔の芦則が、誰に向かって話しているのかと思ったら、笹桑だった。
「あ、聞いていいんすか?」
また前に出て来たら額をはたいてやろうと思ったのだが、どうやら学習しやがったらしく、その場から動かずに笹桑はたずねた。
「篠生幸夫さんって、医者としてはどんなもんなんすか」
芦則はキョトンとした顔を見せた。
「どんなもん? まあ優秀な医者ではないのかな。何でそう思うのかね」
「いや、だって精神科やってる割には、奥さんあんな状態だし」
「ああ、カミさんのことか。それは仕方ないだろう。まだ娘が自殺してから、そう時間も経っていない。精神の病に必要なのは時間と休息だ。いかに名医であっても、その点は変わらんよ」
「そうなんすか。医学的な専門知識があったら、チョチョチョイっと病気にしたり治したり出来そうな気がするんすけどねえ」
「さすがにチョチョチョイっとはいかんな」
そう言って芦則は苦笑した。
酒代と診察代はかかったが、それに見合うだけの情報は手に入れたように思う。俺はジローと笹桑をクラウンに詰め込み、走り出した。
「ちょっと五味さん、何処行くんすか!」
後ろの席から笹桑が乗り出しているが、俺は構わずアクセルを踏み込む。
「肥田久子んとこだ。あの婆さん、肝心なことを黙ってやがった」
肥田久子は海蜃館大学病院で三十年を過ごし、海崎惣五郎と篠生幸夫を共に知っていた。二人の関係を知らなかったはずがない。いや、それだけじゃあるまい。
「でも、もうお昼っすよ。ご飯どうするんすか」
文句を垂れる笹桑に舌打ちをしながら、俺はステアリングを右に切った。
「飯くらい後でいくらでも食わせてやる。いまは黙ってろ!」
「んじゃ、焼き肉おごりっすね」
ルームミラーの中の笹桑がニンマリ微笑んでいる。こいつ、何人前食う気だ。まあいい、すべては後で考える。いまはまず確認しなくてはならない。それがその先に進む足場になるのだから。
食事時をかなり過ぎた頃、銀色のクラウンは肥田久子の家の前に停まった。また居留守を使われるかとも思ったが、今度はすんなり中に通された。
「それで」
いまいましそうに四つの紅茶を客間のテーブルに置き、久子は合皮のソファに深々と身体を沈めた。
「あの女が自殺した今になって、何の用ですか」
つまりは、もう用済みだと言いたい訳だ。だが、こっちはそうは行かない。
「肥田さん。アナタ、俺にイロイロと隠してましたよね」
「何のことでしょう」
「篠生幸夫が海崎惣五郎の愛人だったことですよ」
俺とジローの間に座る笹桑が紅茶を一口飲んだ。だがあまり美味そうではない。久子はしばらく黙って俺をにらみつけていたが、不意に口元を緩めて視線をそらした。
「話す必要がないと思ったからです」
「話したくなかったんじゃないですか」
「違います」
「アナタが隠してたのはそれだけじゃない。知ってたんですよね、篠生幸夫が海崎惣五郎に復讐心を抱いていたのを」
「知りません」
その顔は平然としているようにも見える。だが。
「アンタ気付いてたんじゃないのか。篠生幸夫が海崎志保を利用しようとしてたことに」
久子は釣り上がった目を俺に向けた。
「知らないと言ってるでしょう! だいたい何でそんな」
「そうか、アンタ……海崎惣五郎に抱かれたことがあるのか」
空気が凍り付いた。久子の目は虚ろになり、顔は仮面のように固まっている。
「な、何を根拠に」
「根拠も証拠もねえよ。いま思いついた、ただの当てずっぽだ。だがその反応じゃ正解みたいだな」
「私を馬鹿にする気ですか」
声が震えている。つまり肯定だ。
「篠生幸夫の魂胆に気付いたアンタは、それを利用しようと考えた。アンタには別れた藤松勘重より、海崎惣五郎の方が許せない相手だったんだろう。だがまさか孫が死ぬことになるとは思ってもみなかった」
「私を笑いものにする気ですか」
「そりゃあ海崎志保が許せない訳だ。海崎惣五郎の孫娘だからじゃない。アンタが注意を促してりゃ、孫は死なずに済んだのかも知れないんだからな。結局アンタはてめえの間抜けさ加減が許せなかったんだよ」
「出て行きなさい」
久子は立ち上がった。鬼のような形相で、部屋の入り口のドアを指さす。
「出て行かないと警察を呼びますよ。今すぐ出て行きなさい」
俺は立ち上がるとジローを立たせた。そして久子に背を向ける。
「あのメモの中に篠生の名前を混ぜたのは、警察がヤツを捕まえなかったからだ。だから今度は俺を利用しようとしたんだろ? アンタ向いてねえんだよ、こういうの」
「出て行け! 出て行け! 出て行けえっ!」
狂気じみた絶叫を聞きながら、俺とジローは部屋から出た。笹桑も後から付いて来る。
「ねえねえ五味さん、結局のところ、肥田久子と海崎惣五郎の間に何があったんすか」
玄関の引き戸を開けるときに笹桑がそうたずねて来たが、俺に聞かれても困る。
「知るかよ、そんな昔の話。興味もねえ」
タバコを咥え、ライターを探す。実際、金にならない話などどうでもいい。いまはとにかく、カレーライスがメニューにある焼き肉屋を捜す方が大事なのだ。
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