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覚悟
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おまえには覚悟がないと言われて生きてきた。思えば小学生のとき、親にねだって初めて買ってもらったペットが十姉妹だったが、最初の間だけしか世話をせず、死なせてしまったときに親に言われた。何故最後まで飼う覚悟もなしに欲しがったのかと。
高校を受験する際、ランクを落とせば確実に合格できるが、大学進学のときに不利になると担任に言われ、俺は迷わずランクを落とした。高校に入りさえすれば、あとは自分の努力次第でなんとかなる、と考えた訳ではない。それすらも考えなかった。中学生の段階で大学に進む覚悟など、まったくなかったのだ。高校の三年間は、何の覚悟もなく過ごした。そして中学の担任が言っていた通り、進路で困ることになる。高校を出てすぐに働く覚悟などなかった。四年間の自由を求めて大学に進もうとしたが、行ける大学を選べるはずもなく、名前を書いただけで合格できるレベルの大学にしか進路はなかった。しかし大学で何を学ぼうという覚悟も当然あるはずがなかった。
「大学では教員資格を取れ」
受験のとき、親にそう言われた。反発する心も多少はあった。だが自分で自分の人生を切り開く覚悟など、俺にはなかった。まあ、資格は持っていても邪魔にはならない。親も親なりに息子の将来を心配しての言葉だろう。そう思い、黙って従うことにした。けれど教師になる覚悟ができた訳でもない。
「近道流一くん!」
「はいっ」
俺は夕日の照らす廊下であわてて振り返った。どっと笑い声が起こる。そこにいたのは4年3組の女子児童たち。俺が担当しているクラスの子供らだった。
「こら、おまえら」
俺はにらみつけて見せた。だがカエルの面に何とやらである。
「近道先生、考え事?」
「ふらふら歩いてたよ」
いかん、ぼうっとしていたのか。俺はいま自分が卒業した小学校に教育実習に来ている。だがこれがキツイ。毎日毎日教師連中にこき使われて、とんだブラック実習である。早く実習期間終わらないかな、そればかりを考えていた。しかしそんな愚痴を子供に言う訳にも行かない。いまはイロイロうるさいのだ。下手なことを口にすれば、保護者は乗り込んでくるし、教育委員会からはにらまれるし、ろくなことがない。黙っているのが得策なのである。
「先生は大人だからな。考えることも多いんだよ」
「えー、子供だって考えること多いよ」
「そうだよ、いくつ習い事やってると思ってるの」
「中学受験なんかもう対策始まってるんだよ」
女子たちは次々に不満を口にした。ああそれは大変でございますね、そう言いたくもあったが、さすがにそれは大人げないのでやめた。しかし正直、知ったことではない。俺は自分のことで精一杯なのだ。それに俺が子供の頃は、特に習い事もやらなかったし、中学受験もしなかった。どのみち気持ちはわかってやれない。
子供たちの不満はなかなかやむことがない。いい加減ほうっておいて職員室に戻らなければ、そう思った俺の視界の端に、離れた場所でひとり佇む女子の姿が映った。こちらを見て、何か言いたそうな顔をしている。俺に用だろうか。不満を並べ立てていた女子たちのひとりが、それに気づいた。
「あいつ」
他の女子も気づいたようだ。
「ああ」
「あいつ、嫌い」
「おいおい、何だ、いじめか。いじめは良くないぞ」
正直、面倒臭い。面倒臭いが、実習には評価というものがある。少しは一所懸命なところも見せておかねばならない。どうせ実習はもうすぐ終わる。そしたらこの学校ともオサラバだ。後々自分に火の粉が降りかかることもあるまい。しかし女子たちはそんな俺を小馬鹿にするように笑った。
「いじめじゃないよ」
「そうだよ、何もしてないんだから」
「無視もしてないし、無理に仲間はずれにもしてないし」
「ただ嫌いなだけ。仕方ないじゃん」
「あいつ暗いし、気持ち悪いよね」
「そう、そんでみんなで作業とかするときもさ、手伝わないじゃん」
「自分が楽することばっかり考えてんだよ。すごいムカつく」
心なしか、ちょっと胸が痛い。自分のことを言われているような気がする。俺は自分の左腕の時計を見た。困った時には時計を見るに限るのだ。
「ああ、ほらもうすぐチャイムが鳴るぞ。教室に戻れ、戻れ」
女子たちの背を押すように、俺は促した。みなブーブーと文句を垂れながらも戻って行く。そして教室に入って行ったのを見計らって、ひとり佇んでいた少女に声をかけた。
「確か、大輪さんだっけ」
「あっ」
記憶違いじゃなければ、大輪心といったはずだが、少女は肯定も否定もせず、ただ立ち尽くしていた。はっきりとした目鼻立ちはボーイッシュで、クールに決めていれば人気も出そうな感じなのだが、その顔がみるみる赤くなっていく。あまりに言葉が出てこないので、しゃべれないのか、と一瞬思ったが、そんなはずはない。この学校では基本的に、障害がある子供は特殊学級にいるはずだ。それに教科書を読ませたこともあった。小さな声で何を言ってるのか聞き取れなかったが、とりあえずは読んでいた。つまりしゃべれるのだ。しゃべれるけれど、言葉が出てこない。ああ、あるなあ。俺は心の中で苦笑した。これほど酷くはないが、自分にも心当たりはある。ダメなときはダメなものだ。しかし今は同情していても始まらない。
「とにかく、君も教室に戻りなさい」
大輪心は一瞬泣きそうな顔を浮かべたが、うなずき、背を向けた。何か言いたいことがあったのかもしれない。だがそれを聞いている時間は俺にはなかった。もう一度時計を見る。
「やばい」
急いで職員室に戻らなければ。教頭にどやされる。とはいえ教育実習生が廊下を走る訳にも行かない。可能な限り早足で歩いた。と、視界の隅に小さな白い影が動いた。一瞬そちらに顔を向けると、夕焼けが照らす運動場に向けて開かれた窓に、白い小鳥が止まっていた。スズメか。いや、スズメより小さい。この大きさ、知っている。そのとき、チャイムが鳴った。
「くそ、やばいやばい」
俺はもう振り返ることもなく、小走りで職員室に向かった。けれどなぜ。なぜあんなところに十姉妹がいたのだろう。
普通、鳥は子供が育つと強制的に縄張りから追い出す。また、兄弟姉妹が仲良くしているのも親に育てられている間だけで、巣立てば生存競争のライバルとして互いを牽制し合うのが当たり前だ。しかし、ジュウシマツだけは巣立った後でも子供や兄弟と同じ巣で仲良く暮らすことができる。つまり十人姉妹が一緒に暮らせるから十姉妹と書く。と、何かの本で読んだ記憶がある。何の本だったか。
「そもそも教育実習生が廊下を走るとは何事ですか。あなた本当に教師になる覚悟があるの。ちょっと近道先生、聞いてますか」
「あ、はい、聞いてます」
給食前のこの時間は、休憩時間だったはずだ。しかし俺はいま学年主任に言われて、4年生全員分のプリントをコピーさせられている。非合理だ。みんなタブレット端末を持っているこの時代に、何で紙のプリントを配らにゃならんのだ。しかし実習生ごときがそんなことを言えるはずもなく、俺は延々とコピー機を回し続けていた。そしてその作業を続けながら、コピー機の前で教頭から説教をくらっているのである。何だこの職場。とりあえず就職するときには、この学校だけはやめておこう。そう心に決めた。
教頭は60過ぎの女性で、子供たちは「ヒスばばあ」と呼んでいた。いくらあだ名とは言え、直球過ぎるだろ、と最初は思ったが、正直いまは子供の見る目の確かさに驚いている。
コピーが終了した。次にコピーした4種類のプリントを4枚1組に重ねて、ステープラーで止めなければならない。資源の無駄遣いもいいところである。心の中でぶつくさ言いながら、そして教頭の小言を右の耳から左の耳に受け流しながら、俺はデカいステープラーを使ってプリントを止めた。それを横から教頭がひったくるように取り上げた。
「ちょっと貸しなさい」教頭はプリントをめくると、眉間に皺を寄せた。「何よこれ。警察からの注意情報じゃない」
「あ、そうなんですか」
いちいちプリントの内容まで見ていなかった。
「そうよ、これ4年生の分だけじゃダメよ。全学年の分刷らなきゃ」
「えええ」
この小学校は、少子高齢化の現代にあってなお、全校生徒が600人を超える大型校であった。
「それは他の学年の人にやってもらっては」
「ダメよ。下校時間に間に合わなかったらどうするの。あなたがやりなさい」
でも休憩時間が、などと言える空気ではなかった。俺はうんざりしながらも原稿をコピー機にセットし直し、枚数を入力すると、スタートボタンを押した。
・小学校近隣で、ネコやウサギやニワトリの首を切断した死体が見つかっている。
・小学校近隣で、目出し帽をかぶった不審な人物が目撃されている。
・小学校近隣に住んでいたと思われる男性が銃器の密輸入に関わった疑いがある。その男性は現在行方不明であり、警察が捜索中である。
4枚のプリントの内容は、簡単に書くと以上のようなものであった。これ1枚にまとまるよな、と思ったが、もちろんそんなことは口に出せない。この国の「空気を読む」という謎の文化は労働者の敵だ。心の中でそうつぶやきながら、俺はなんとか全校生徒分のプリントをまとめた。言うまでもなく、休憩時間はなくなった。
授業終了のチャイムが鳴り、給食の時間となった。世間的にはちょっと遅い夕食の頃合いである。給食は教室で生徒たちと食べなければならない。俺はとぼとぼと4年3組の教室へと向かった。廊下の窓から見える外はもう暗く、照明塔が運動場を照らしている。その向こうに見える正門は閉じられていた。大昔、まだ学校も世間も皆が昼間に活動していた頃には、学校の門は常に開け放たれ、地域の人々が自由に学校に入れる時代もあったというが、今はもうそんなことは無理である。校舎を囲う壁は年々高くなり、門は登下校時の決まった時間以外は固く閉ざされている。門は守護者として社会のすべてから子供たちを引き離し、そして卒業すると同時に子供たちを社会の側にはじき出すのだ。冷徹な社会規範の象徴である。その門に。門の上に。何だろう、何かが立っているように見える。門の向こう側には街灯がある。こちら側には運動場を照らす照明塔の光がある。だが、門の真上を照らす明かりがない。そこだけが薄暗くなっている。その影が、こちらを見た。いや、俺を見た。なぜそう思ったのかはわからない。けれどそれは間違いない、俺の直感がそう叫んでいる。影は門をこちら側に飛び降りた。人の形をしている。その途端、非常ベルが鳴り響いた。
「侵入者デス。警察ニ通報シマス」
時代がかった合成音声が校内のスピーカーから繰り返し流れる。もちろん侵入者にも聞こえているはずだ。だが正門の人影は、ひるむ気配すら見せずに、まっすぐこちらに、俺の方に走ってきた。そのとき、何かが俺の手に触れた。
【こっちに来て】
頭の中に直接話しかけられる感覚。俺の手を引いて走り出そうとしていたのは、大輪心だった。
屋上の扉には鍵がかかっていなかった。毎日下校時間には施錠確認をしているから、今日は誰かが開けたままで忘れていたのだろうか。階段を一気に駆け上った俺たちは、息を切らせて屋上へと走り出た。そしてへたり込んだ。こんなに走ったのはいつ以来だろう。心臓が破裂しそうだった。一方の大輪心は、何度か深呼吸をしただけで呼吸を整えた。やはり子供の体力は化け物じみているな、と俺が呆れていると、大輪心は俺の顔をのぞき込んだ。背後に輝く水銀灯の明かりが、まるで後光のように見えた。
「大……丈夫」
「ああ、何とかね。君は大丈夫なの」
大輪心は慌てたようにうなずいた。本当にしゃべるのが苦手らしい。とは言え、いまは聞かなきゃならないことがある。
「さっきのアレ、誰なのか知ってるの」
大輪心はまたひとつ、うなずいた。
「誰なの」
すると大輪心は、口を固く結んで悲しそうな顔でうつむいたかと思うと、ふいに俺の肩に片手を置いた。
【あの人は、先生を殺しに来たの】
まただ。頭の中に直接話しかけられた。
「これ、何だ。何かの手品か」
【先生、いいから聞いて。私はこうしなきゃ上手に話せない。だからこのまま聞いて。あの人は、先生を殺しに来たの。先生を殺すために、そのためだけに鉄砲を密輸して、ネコやウサギやニワトリを殺して練習して、そして今日、先生を見つけたの。あの人はもうすぐここに来る。あの人には私たちの居場所がわかってるの】
「な、何でそんな」
【私と同じような力。あの人も持っているみたい。今も見てる。物凄い殺意を込めて、こっちを見ながら階段を上っている】
「い、いや」
そうじゃない、なぜ自分が狙われているのか、どうして俺が殺されなきゃならないのか、いったい何がどうなっているんだ、そう言いたかったが口が回らない。いつしか身体は震えていた。恐怖。大輪心は嘘を言っていない。何故かそれだけはわかった。
【先生、本当に覚えていないの】
何をだ。俺は何を覚えていなければならなかったのだ。
【先生が小学生のとき、転校していった同級生がいたでしょう】
そんなの、何人もいただろう。全部覚えているなんて、そんなの。
【手乗りの十姉妹を飼っていた】
比杭。その名が電撃のように脳裏に走った。比杭道理。たしかに十姉妹を飼っていた。良く慣れた白い十姉妹。それを見て俺は親に十姉妹をねだったのだった。
「あいつ……なのか」
大輪心はうなずいた。
【あの人は先生を友達だと思っていたの。ずっと友達でいてくれると。だけど】
そうだ。転校して一年目は暑中見舞いも年賀状も出した。だが十姉妹を死なせてから、俺はあいつがウザくなって。
【そのまま離れていればよかった。でもあの人は親の転勤でこの町に戻ってきていたの。そしてある日、先生がこの学校に教育実習に来ていると知って】
「ちょ、ちょっと待ってくれ、そんな、そんなことで俺を殺そうっていうのか」
【あの人には、そんなことがとても大事だったの】
俺は思わず立ち上がった。
「馬鹿げてる、狂ってる、そんなことで人殺しなんて、そんな」
俺の声をさえぎるように、夜にこだまする乾いた破裂音。階下からガラスの割れる音。それが銃声だと認識するのに数秒かかった。銃声は3発。言葉を失った俺の腕に、大輪心が触れた。
【大丈夫、先生は私が守るから】
まっすぐで力強い感情が俺の中に流れ込む。それは俺の身体の震えを止めた。
「何で、君はいったい」
【先生は私に優しくしてくれたから】
「優しく?」
何のことだ。俺はこの子に特別優しくしたことなどない。
【教科書を読んだとき。先生は最後まで聞いてくれた。私の言葉なんて何言ってるのかわからないのに、他の先生なら途中でやめさせるのに、先生は最後まで聞いてくれたでしょ】
「そんな、そんなことで」
【そんなことが、私にはとても大事なの】
大輪心は照れ臭そうに笑った。しかし一瞬後、その顔に緊張が走る。ドアが開いた。そこに立っていたのは、背の高い、ジャージ姿に目出し帽をかぶった男。右手には自動拳銃を、左手にはナタのような刃物を持っている。
「見つけたよおお、近道君んん」
その声は笑っていた。いや、感激してうわずっているようにも聞こえる。
「比杭、なのか」
「遅いよおお、今さら気づいてもダメだよおお、もう殺すって決めたんだからああ」
比杭はゆっくり銃をこちらに向けた。俺は後ずさった。恐怖に腰が抜けそうになる。その俺を支えるように大輪心は隣に立った。
【先生、耳をふさいで。早く!】
何が起こるのかはわからない。だが俺は言われた通り耳をふさいだ。水銀灯の光が大輪心の髪を照らしている。その髪が、ゆらゆらとゆれながら逆立った。そして、緑色に輝いた。大輪心は口を大きく開く。絶叫。それはふさいだ俺の耳には届かなかった。だが大気の振動は感じる。その激しさは、比杭を後ろに吹き飛ばし、その身体をドアへと叩きつけた。俺の身体も1メートルとは言わないが後ろに押され、盛大に尻もちをついた。その膝の上に、大輪心は鳥の羽根が落ちるように、ふわりと倒れ込んだ。
「お、おい、大丈夫か、いったい何をしたんだ」
俺の膝の上で、大輪心の髪は緑色の輝きを失っていった。
【死を告げたの】
「死?」
【5分後に、あの人は死にます。だから先生……5分だけ逃げて……】
そう言うと、大輪心は気を失った。
「おい、待てよ、それって、おい!」
「痛いよおお、何するんだよおお」比杭はドアから身をはがした。特にダメージは受けていないように見える。「頭きたああ、そのガキから殺すうう!」
比杭は銃口を大輪心に向けた。俺は動けなかった。かばうこともできなかったし、かと言って放り出して逃げることもできなかった。どちらを選ぶべきなのか。考えた。もし俺が大輪心をかばったとしよう。するとどうなる。俺はあの銃で撃ち殺される。その後、大輪心も殺されるだろう。だが俺が逃げたとしよう。その場合も大輪心は殺される。しかし俺は生き延びられるかもしれない。客観的に見て、どちらがマシな状況だろう。簡単だ。算数の問題じゃないか。俺は結論を出した。大輪心を置いて逃げよう、と。けれど。本当にそれでいいのか?先生は優しくしてくれたから、大輪心はそう言った。大輪心にはクラスに友達がいない。それがもし、彼女の不思議な能力に由来しているとしたら。大輪心はおそらく、他人の心が読めるのだ。比杭のことを言い当てたときも、おそらく比杭の心の中を読んだのだろう。ならば当然、クラスの他の生徒たちの心の中で自分がどう思われているかも知っているし、俺の心の中も読んだはずだ。つまり俺が大輪心に本心から優しくしたことなど一度もないことは、彼女は知っていたはずなのだ。なのに、それでも、命をかけて守ってくれると言った。その大輪心を見捨てて自分だけ逃げるというのか。それが正しい判断だと言うのか。覚悟。おまえには覚悟がないと言われて生きてきた。俺の覚悟は。
「じゃあなああ、死ねえええっ!」
比杭は叫んだ。俺は走った。大輪心を腕に抱えて。比杭はトリガーを引かなかった。そして、ひゃっひゃっひゃっひゃ、と気持ち悪い笑い声を上げた。
「近道君んん、今さらああ、今さら良い人になるつもりなのおお?」
「知るか」俺は吐き捨てた。「おまえに何て思われようが、どうでもいい」
比杭の笑い声が止まった。
「何だよそれ」比杭は目出し帽を引きはがすように脱いだ。「何だよそれ、何だよそれ、何だよそれええっ!またオレか、オレばっかりか、オレばっかり苦しい思いして、そっちはまた知らんぷりか、また無視すんのかよクソがああっ!」
比杭は目出し帽を投げ捨てると、何度も何度も踏みにじった。俺は静かに後ずさった。1歩、2歩、3歩。比杭の右腕が跳ね上がる。銃口がこちらを向いた。
「逃がさねえよおお、バーカ」
5分、まだ5分経たないのか。俺が奥歯を噛みしめたとき、背後の闇の中から小さな声がした。
――空間干渉壁――
「じゃあサヨナラだ、近道君んん!」
比杭が銃のトリガーを引いた。銃声が連続する。4発。俺は大輪心を抱きしめ伏せた。しかし、銃弾は俺達には届かなかった。顔を上げると、中空に4四つの光点があった。その淡い光が消えゆく中、何かが落ちた音。下を見るとぺちゃんこに潰れた鉛色の弾があった。いったい何が起こっているのだろう。それについては、比杭も同じ感想であったようだ。
「何だ、何をした」
「要するに、さ」俺の背後から声がした。「その銃は役に立たないっていうことだよ」
振り返ると、人影が立っていた。いつの間に。
「ふ、ふざけるなああっ!」
比杭は慌ててその人影に銃を向け、トリガーを引いた。3発。人影の前の空間に、3つの光点が音もなく浮かんだ。そして潰れた弾丸が落ちる音。
「ほらね」
比杭は続けてトリガーを引いた。しかし弾はもう出ない。すべて撃ち尽くしたのだ。比杭は銃を叩きつけるように投げ捨てた。そして左手に握ったナタに両手を添え、大きく振りかぶると、俺に向かって斬りつけてきた。
「おまえがあっ!おまえがあっ!おまえがあっ!」
何度も何度も斬りつける。だがそのたびに空間に光点が輝き、ナタは弾き返される。
「無駄だよ」人影は呆れたように言った。「銃弾でも通らないのに、そんなもので」
しかし比杭は何かにとり憑かれたかのように、ナタを振るった。
「うああっ!うああっ!うああっ!うああっ!うああっ!」
そのとき突然、俺の腕を振りほどき、大輪心が立ち上がると、こう声に出して言った。
「5分経った」
「うあああああっ!」
その一撃は、大輪心の頭上に振り下ろされた。しかし光点が輝き、その刃は大輪心には届かない。キン。甲高い金属音と共に、ナタの刃は、根本からぽっきりと折れた。そして作用と反作用。折れた刃はそれを叩きつけた者の方へと宙を飛ぶ。次の瞬間、比杭は首筋から血を噴水のように噴き出した。眼を見開いて倒れて行く比杭。その血を浴びて立つ大輪心。勝者と敗者の図であった。大輪心は血にまみれた顔で振り返った。寂しげな笑顔だった。
「……殺したのか」
思わず問いかけた俺の言葉を、しかし背後の人影が否定した。
「それは違う。その子は何もしていない」
【それも違う。何もしていない訳ではない】
その第3の声は、頭の中に響いた。頭の真上が明るくなる。振り仰ぐと、夜空が裂けていた。裂け目から漏れ出す黄金の光。その光の中から、サンダルを履いた足が現れ、灰色のローブをまとった身体が現れ、最後に頭が現れた。黄金の髪に白い肌、40代にも60代にも見える外国人の男。男は宙に浮いている。その男を見上げて、大輪心は驚いていた。
「ホントに来てくれたんだ。夢かと思ってた」
男は静かに降り立つと、大輪心に手をかざした。すると全身を濡らしていたどす黒い血液は、乾いた粉末へと姿を変え、大輪心の身体からはらはらと剥がれ落ちて行く。
【君は我々の側の存在だ。ここには君の居場所はない。私と一緒に来たまえ】
大輪心は一瞬ためらった。
「でも」
【君が何者かはよく知っている。知った上で共に行こうと言っているのだ。遠慮はいらない】
男は右手を差し出した。大輪心はもう迷わない。男の大きな手に、自分の小さな右手を重ねる。だが俺は複雑な気持ちだった。これでいいのか。ちょっと待ってくれ、そう言いかけたとき。
闇の中から小鳥たちが飛び出した。男の頭上と前後左右でホバリングしている。十姉妹だ。
「多重干渉壁」
俺の背後の人影がつぶやくと、男の頭上と前後左右に、透明な光の壁が浮き上がった。
「あなたはもう動けない」人影は前に出てきた。「その子をどうするつもりです」
その姿を見て、金髪の男は目を丸くした。
【何ということだ。そうか、君だったのか】
「何を言っている。その子をどうするのか、と聞いてるんです」
【もちろん、共に戦うのだよ】
「戦うって誰と」
【我らが挑むは、唯一絶対神】
「ふざけているのか」
【そうか、やはり君は覚えていないか】
「さっきから何を訳のわからないことを」
【君には感謝している。だからここは穏便に済まそう。だが忘れないでいてくれたまえ、我々は本気だ。願わくば君がすべてを思い出さんことを】
「無駄だ、あなたの動きはもう封じられて」
男は目を閉じた。その瞬間、光の壁は音もなく粉々に砕け散った。
男は再び宙に浮かんだ。手をつないだ大輪心と一緒に。上空の黄金色の光が漏れ出す夜の裂け目に向かって。
「先生さようなら」
大輪心は少し振り返ると、まるで家に帰るかのようにそう言った。やがて2人は光に飲まれ、夜の裂け目は閉じてしまった。
俺はしばし、茫然と夜空を見上げていたが、ドアの向こう、階段から声が聞こえることに気がついた。
「ここです、犯人はここです」
「しーっ、静かに。あなたたちは下がって」
どうやら警察が到着したらしい。さて、この状況をどう説明しよう。とりあえず話だけは合わせておいた方がいいような気がする。だが。屋上には俺1人だった。正確には俺と、比杭の死体だけ。謎の人影はいつの間にか姿を消していた。だが。あの中性的な横顔、確か見覚えがある。
「全員動くな!」
ドアを開けて警官隊が突入してきた。ああ、今夜は長くなるのだろうな。
◆◆◆◆◆◆
「バンシーというのはアイルランドやスコットランドに伝わる死を予告する女の精霊と言われていますが、もちろん正体は不明です。緑色の服を着ているという話もあれば、赤い服を着ているという話もあります。美しい女だという話もあれば、醜い女だという話もあります。出産のために早死にした女だという話もあるのですが、これは日本で言えば姑獲鳥に重なりますね。バンシーは誰彼かまわず姿を見せるのではなく、とり憑いた家系の者の前に姿を現します。日本なら狐憑きや狗神憑きの家系がありますが、アイルランドやスコットランドにはバンシー憑きの家系があるのです。バンシーのすることといえば基本的には叫ぶだけです。中には叫ばないバンシーもいますが、たいていのバンシーは叫びます。その悲し気な叫びは死の予告なのですが、バンシー自身が誰かを殺すという話はありません。あくまでも予告するだけです。ただこのバンシーの伝説がアメリカに伝わった際に、人を殺すという特性が付け加えられています」
ヨウムのパスタが一気に話した。夕方、小鳥ホテルの鳥部屋。十姉妹のトド吉が突っ込みを入れる。
「長いなあ」
「馬鹿者!」ブルーボタンの伝蔵が叱りつけた。「その長い説明をなぜ聞くはめになったと思っている。おまえが余計な仕事を増やしたからであろうが!」
「いや、そうかて、人助けやないですか」
「地球はまだ我ら連盟の加盟惑星ではない。非加盟惑星の知的生命体の活動には可能な限り干渉しない、それは基本中の基本である。たとえこの惑星の法に触れ道義に反しようともだ。知らぬ訳ではあるまい。なのにあんな勝手なことを。報告書や顛末書を何枚書いたと思っているのだ」
しかしトド吉も引き下がらない。
「ほな子供が殺されそうになってるのん、黙って見過ごせ言うんですか!それにだいたい時空渡航者が絡んでたんやから、結果的にはワイらの仕事やないですか!」
「それとこれとは話が別である」
「そんなことありません、納得でけへんわ、そんなん」
「そうやそうや」
「お父ちゃんをいじめるな」
トド吉のファミリーまで口を挟んできたとあっては、さしもの伝蔵も閉口せざるを得ない。モモイロインコのミヨシが、ひとつため息をついた。
「それで。結局あの女の子はバンシーな訳」
「特徴が異なりますからバンシーとは特定できませんが、もしバンシーの伝説の基になる存在がいたとしたら、その存在が伝説として膾炙される中で特徴の描写が変容していったとも考えられます」
パスタは慎重な姿勢を崩さない。セキセイインコのリリイが僕に問いかけた。
「菊弥さんはどう思われますか」
「うーん、君たちの事情はよくわからないけど、今回の件に関しては、トド吉に感謝してる。よく見つけたね」
トド吉は羽を広げ、胸を張った。
「いやあ、なんとなく、直感言うたらええのかな、他の作業のついでにテレパシー検知器チェックしたら、微細な反応があるやないの、ほんで発信源探したら拳銃もって小学校の周りウロウロしてるやつがおって、これはヤバいな、と。まあ半分マグレみたいなもんやけど」
「調子に乗るな。ほぼマグレだ」
伝蔵は憮然としている。
「テレパシーの発信源はあの死んだ男で間違いないの」
と、ミヨシ。
「それは間違いないけど、何でやな」
トド吉は不審げなミヨシが気に入らないようだ。
「あの金髪の男」ミヨシはあの光景を思い出しているようだ。あのときの屋上の様子は僕の視界を通してここの皆にモニタリングされている。「坊やのこと知ってるみたいな口ぶりだったわよね。まさか誘い出された、なんてことはない?」
「そういう風に言われたらなあ……絶対ないとは言えんわ」
ここで絶対にない、と言わないのがトド吉の良いところだと僕は思う。
「坊やはどう。本当に記憶にないの」
ミヨシの問いかけに僕は苦笑した。
「本当も何も、僕が嘘ついてもバレるんだろ」
「そりゃ心理センサでバレるわね」
「まあ可能性としては、以前に会ったことがあるのに僕が完全に忘れちゃってる場合なんだろうけど、そういうのは調べることはできないのかな」
「できるわよ」
「え、何だできるの」
「あなた廃人になっちゃうけどね」
「……それ普通はできるって言わないよね」
「理論は理論、実践は実践」
ミヨシはおかしそうに声を上げて笑った。その笑い声が響く中、チャイムの音が鳴った。
「また巌でも来たのかな」
営業開始時間まで、あと3時間はある。僕が玄関に向かうと、風除室の中に居たのは。
「頂さん、お久しぶりです」
「……えっと」
「覚えてませんか、近道流一です」
「ああ!流一くん、久しぶりだねえ、僕が中学生のとき以来かな。大きくなったなあ。今なにしてんの」
「はい、いま小学校の教育実習で、こっちに戻ってます」
「そうなんだ。小学校の先生になるんだね」
「……いえ」
「え」
「小学校の教師に、なってもいいのかな、って思ってたんですけど、やめました。俺、何か自分にできること探してみます。まだそれが何かわからないけど、自分が覚悟決めてできるような仕事、探してみようと思ってます」
流一が僕を見る目は、きらきらと輝いていた。
「そう。なかなか難しいとは思うけど、探してみなよ。後悔のないようにさ」
「それでひとつ、聞いていいですか」
「ん、何」
「頂さんは今の仕事に就いて、後悔はありませんか」
「ないね。そりゃ理想通りにならないことはたくさんあるけど、それでもこの仕事は僕じゃなきゃ務まらないと思うし、他にできることもないしさ」
「それを聞いて安心しました」
「安心?」
「俺も、頂さんみたいに言えるような、そんな仕事、探してみせます。きっと」
「ああ、見つかるよ、きっと」
すると流一は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「やめてよ、そんな、頭上げて」
流一は顔を上げると、スッキリとした顔で別れを告げた。
「俺、明日から大学に戻ります」
「うん、がんばれ」
「それじゃ」
背を向けると、流一はもう振り返らず、歩き去って行った。それをしばらく見送ると、僕は鳥部屋に戻った。
「ふう」
「相変わらず下手くそな嘘だな。聞いていてヒヤヒヤしたぞ」
伝蔵はパタパタと軽く羽ばたいて見せた。
「バレてなきゃいいんだけど」
「気になるんなら調べてみる?」
そう言うミヨシに、僕は首を横に振った。
「いや、いいよ」
覚悟決めてできるような仕事か。見つかるかな。見つかるといいな。僕はどうだろう。この仕事をするのに、覚悟を決めているだろうか。考えたこともないや。
高校を受験する際、ランクを落とせば確実に合格できるが、大学進学のときに不利になると担任に言われ、俺は迷わずランクを落とした。高校に入りさえすれば、あとは自分の努力次第でなんとかなる、と考えた訳ではない。それすらも考えなかった。中学生の段階で大学に進む覚悟など、まったくなかったのだ。高校の三年間は、何の覚悟もなく過ごした。そして中学の担任が言っていた通り、進路で困ることになる。高校を出てすぐに働く覚悟などなかった。四年間の自由を求めて大学に進もうとしたが、行ける大学を選べるはずもなく、名前を書いただけで合格できるレベルの大学にしか進路はなかった。しかし大学で何を学ぼうという覚悟も当然あるはずがなかった。
「大学では教員資格を取れ」
受験のとき、親にそう言われた。反発する心も多少はあった。だが自分で自分の人生を切り開く覚悟など、俺にはなかった。まあ、資格は持っていても邪魔にはならない。親も親なりに息子の将来を心配しての言葉だろう。そう思い、黙って従うことにした。けれど教師になる覚悟ができた訳でもない。
「近道流一くん!」
「はいっ」
俺は夕日の照らす廊下であわてて振り返った。どっと笑い声が起こる。そこにいたのは4年3組の女子児童たち。俺が担当しているクラスの子供らだった。
「こら、おまえら」
俺はにらみつけて見せた。だがカエルの面に何とやらである。
「近道先生、考え事?」
「ふらふら歩いてたよ」
いかん、ぼうっとしていたのか。俺はいま自分が卒業した小学校に教育実習に来ている。だがこれがキツイ。毎日毎日教師連中にこき使われて、とんだブラック実習である。早く実習期間終わらないかな、そればかりを考えていた。しかしそんな愚痴を子供に言う訳にも行かない。いまはイロイロうるさいのだ。下手なことを口にすれば、保護者は乗り込んでくるし、教育委員会からはにらまれるし、ろくなことがない。黙っているのが得策なのである。
「先生は大人だからな。考えることも多いんだよ」
「えー、子供だって考えること多いよ」
「そうだよ、いくつ習い事やってると思ってるの」
「中学受験なんかもう対策始まってるんだよ」
女子たちは次々に不満を口にした。ああそれは大変でございますね、そう言いたくもあったが、さすがにそれは大人げないのでやめた。しかし正直、知ったことではない。俺は自分のことで精一杯なのだ。それに俺が子供の頃は、特に習い事もやらなかったし、中学受験もしなかった。どのみち気持ちはわかってやれない。
子供たちの不満はなかなかやむことがない。いい加減ほうっておいて職員室に戻らなければ、そう思った俺の視界の端に、離れた場所でひとり佇む女子の姿が映った。こちらを見て、何か言いたそうな顔をしている。俺に用だろうか。不満を並べ立てていた女子たちのひとりが、それに気づいた。
「あいつ」
他の女子も気づいたようだ。
「ああ」
「あいつ、嫌い」
「おいおい、何だ、いじめか。いじめは良くないぞ」
正直、面倒臭い。面倒臭いが、実習には評価というものがある。少しは一所懸命なところも見せておかねばならない。どうせ実習はもうすぐ終わる。そしたらこの学校ともオサラバだ。後々自分に火の粉が降りかかることもあるまい。しかし女子たちはそんな俺を小馬鹿にするように笑った。
「いじめじゃないよ」
「そうだよ、何もしてないんだから」
「無視もしてないし、無理に仲間はずれにもしてないし」
「ただ嫌いなだけ。仕方ないじゃん」
「あいつ暗いし、気持ち悪いよね」
「そう、そんでみんなで作業とかするときもさ、手伝わないじゃん」
「自分が楽することばっかり考えてんだよ。すごいムカつく」
心なしか、ちょっと胸が痛い。自分のことを言われているような気がする。俺は自分の左腕の時計を見た。困った時には時計を見るに限るのだ。
「ああ、ほらもうすぐチャイムが鳴るぞ。教室に戻れ、戻れ」
女子たちの背を押すように、俺は促した。みなブーブーと文句を垂れながらも戻って行く。そして教室に入って行ったのを見計らって、ひとり佇んでいた少女に声をかけた。
「確か、大輪さんだっけ」
「あっ」
記憶違いじゃなければ、大輪心といったはずだが、少女は肯定も否定もせず、ただ立ち尽くしていた。はっきりとした目鼻立ちはボーイッシュで、クールに決めていれば人気も出そうな感じなのだが、その顔がみるみる赤くなっていく。あまりに言葉が出てこないので、しゃべれないのか、と一瞬思ったが、そんなはずはない。この学校では基本的に、障害がある子供は特殊学級にいるはずだ。それに教科書を読ませたこともあった。小さな声で何を言ってるのか聞き取れなかったが、とりあえずは読んでいた。つまりしゃべれるのだ。しゃべれるけれど、言葉が出てこない。ああ、あるなあ。俺は心の中で苦笑した。これほど酷くはないが、自分にも心当たりはある。ダメなときはダメなものだ。しかし今は同情していても始まらない。
「とにかく、君も教室に戻りなさい」
大輪心は一瞬泣きそうな顔を浮かべたが、うなずき、背を向けた。何か言いたいことがあったのかもしれない。だがそれを聞いている時間は俺にはなかった。もう一度時計を見る。
「やばい」
急いで職員室に戻らなければ。教頭にどやされる。とはいえ教育実習生が廊下を走る訳にも行かない。可能な限り早足で歩いた。と、視界の隅に小さな白い影が動いた。一瞬そちらに顔を向けると、夕焼けが照らす運動場に向けて開かれた窓に、白い小鳥が止まっていた。スズメか。いや、スズメより小さい。この大きさ、知っている。そのとき、チャイムが鳴った。
「くそ、やばいやばい」
俺はもう振り返ることもなく、小走りで職員室に向かった。けれどなぜ。なぜあんなところに十姉妹がいたのだろう。
普通、鳥は子供が育つと強制的に縄張りから追い出す。また、兄弟姉妹が仲良くしているのも親に育てられている間だけで、巣立てば生存競争のライバルとして互いを牽制し合うのが当たり前だ。しかし、ジュウシマツだけは巣立った後でも子供や兄弟と同じ巣で仲良く暮らすことができる。つまり十人姉妹が一緒に暮らせるから十姉妹と書く。と、何かの本で読んだ記憶がある。何の本だったか。
「そもそも教育実習生が廊下を走るとは何事ですか。あなた本当に教師になる覚悟があるの。ちょっと近道先生、聞いてますか」
「あ、はい、聞いてます」
給食前のこの時間は、休憩時間だったはずだ。しかし俺はいま学年主任に言われて、4年生全員分のプリントをコピーさせられている。非合理だ。みんなタブレット端末を持っているこの時代に、何で紙のプリントを配らにゃならんのだ。しかし実習生ごときがそんなことを言えるはずもなく、俺は延々とコピー機を回し続けていた。そしてその作業を続けながら、コピー機の前で教頭から説教をくらっているのである。何だこの職場。とりあえず就職するときには、この学校だけはやめておこう。そう心に決めた。
教頭は60過ぎの女性で、子供たちは「ヒスばばあ」と呼んでいた。いくらあだ名とは言え、直球過ぎるだろ、と最初は思ったが、正直いまは子供の見る目の確かさに驚いている。
コピーが終了した。次にコピーした4種類のプリントを4枚1組に重ねて、ステープラーで止めなければならない。資源の無駄遣いもいいところである。心の中でぶつくさ言いながら、そして教頭の小言を右の耳から左の耳に受け流しながら、俺はデカいステープラーを使ってプリントを止めた。それを横から教頭がひったくるように取り上げた。
「ちょっと貸しなさい」教頭はプリントをめくると、眉間に皺を寄せた。「何よこれ。警察からの注意情報じゃない」
「あ、そうなんですか」
いちいちプリントの内容まで見ていなかった。
「そうよ、これ4年生の分だけじゃダメよ。全学年の分刷らなきゃ」
「えええ」
この小学校は、少子高齢化の現代にあってなお、全校生徒が600人を超える大型校であった。
「それは他の学年の人にやってもらっては」
「ダメよ。下校時間に間に合わなかったらどうするの。あなたがやりなさい」
でも休憩時間が、などと言える空気ではなかった。俺はうんざりしながらも原稿をコピー機にセットし直し、枚数を入力すると、スタートボタンを押した。
・小学校近隣で、ネコやウサギやニワトリの首を切断した死体が見つかっている。
・小学校近隣で、目出し帽をかぶった不審な人物が目撃されている。
・小学校近隣に住んでいたと思われる男性が銃器の密輸入に関わった疑いがある。その男性は現在行方不明であり、警察が捜索中である。
4枚のプリントの内容は、簡単に書くと以上のようなものであった。これ1枚にまとまるよな、と思ったが、もちろんそんなことは口に出せない。この国の「空気を読む」という謎の文化は労働者の敵だ。心の中でそうつぶやきながら、俺はなんとか全校生徒分のプリントをまとめた。言うまでもなく、休憩時間はなくなった。
授業終了のチャイムが鳴り、給食の時間となった。世間的にはちょっと遅い夕食の頃合いである。給食は教室で生徒たちと食べなければならない。俺はとぼとぼと4年3組の教室へと向かった。廊下の窓から見える外はもう暗く、照明塔が運動場を照らしている。その向こうに見える正門は閉じられていた。大昔、まだ学校も世間も皆が昼間に活動していた頃には、学校の門は常に開け放たれ、地域の人々が自由に学校に入れる時代もあったというが、今はもうそんなことは無理である。校舎を囲う壁は年々高くなり、門は登下校時の決まった時間以外は固く閉ざされている。門は守護者として社会のすべてから子供たちを引き離し、そして卒業すると同時に子供たちを社会の側にはじき出すのだ。冷徹な社会規範の象徴である。その門に。門の上に。何だろう、何かが立っているように見える。門の向こう側には街灯がある。こちら側には運動場を照らす照明塔の光がある。だが、門の真上を照らす明かりがない。そこだけが薄暗くなっている。その影が、こちらを見た。いや、俺を見た。なぜそう思ったのかはわからない。けれどそれは間違いない、俺の直感がそう叫んでいる。影は門をこちら側に飛び降りた。人の形をしている。その途端、非常ベルが鳴り響いた。
「侵入者デス。警察ニ通報シマス」
時代がかった合成音声が校内のスピーカーから繰り返し流れる。もちろん侵入者にも聞こえているはずだ。だが正門の人影は、ひるむ気配すら見せずに、まっすぐこちらに、俺の方に走ってきた。そのとき、何かが俺の手に触れた。
【こっちに来て】
頭の中に直接話しかけられる感覚。俺の手を引いて走り出そうとしていたのは、大輪心だった。
屋上の扉には鍵がかかっていなかった。毎日下校時間には施錠確認をしているから、今日は誰かが開けたままで忘れていたのだろうか。階段を一気に駆け上った俺たちは、息を切らせて屋上へと走り出た。そしてへたり込んだ。こんなに走ったのはいつ以来だろう。心臓が破裂しそうだった。一方の大輪心は、何度か深呼吸をしただけで呼吸を整えた。やはり子供の体力は化け物じみているな、と俺が呆れていると、大輪心は俺の顔をのぞき込んだ。背後に輝く水銀灯の明かりが、まるで後光のように見えた。
「大……丈夫」
「ああ、何とかね。君は大丈夫なの」
大輪心は慌てたようにうなずいた。本当にしゃべるのが苦手らしい。とは言え、いまは聞かなきゃならないことがある。
「さっきのアレ、誰なのか知ってるの」
大輪心はまたひとつ、うなずいた。
「誰なの」
すると大輪心は、口を固く結んで悲しそうな顔でうつむいたかと思うと、ふいに俺の肩に片手を置いた。
【あの人は、先生を殺しに来たの】
まただ。頭の中に直接話しかけられた。
「これ、何だ。何かの手品か」
【先生、いいから聞いて。私はこうしなきゃ上手に話せない。だからこのまま聞いて。あの人は、先生を殺しに来たの。先生を殺すために、そのためだけに鉄砲を密輸して、ネコやウサギやニワトリを殺して練習して、そして今日、先生を見つけたの。あの人はもうすぐここに来る。あの人には私たちの居場所がわかってるの】
「な、何でそんな」
【私と同じような力。あの人も持っているみたい。今も見てる。物凄い殺意を込めて、こっちを見ながら階段を上っている】
「い、いや」
そうじゃない、なぜ自分が狙われているのか、どうして俺が殺されなきゃならないのか、いったい何がどうなっているんだ、そう言いたかったが口が回らない。いつしか身体は震えていた。恐怖。大輪心は嘘を言っていない。何故かそれだけはわかった。
【先生、本当に覚えていないの】
何をだ。俺は何を覚えていなければならなかったのだ。
【先生が小学生のとき、転校していった同級生がいたでしょう】
そんなの、何人もいただろう。全部覚えているなんて、そんなの。
【手乗りの十姉妹を飼っていた】
比杭。その名が電撃のように脳裏に走った。比杭道理。たしかに十姉妹を飼っていた。良く慣れた白い十姉妹。それを見て俺は親に十姉妹をねだったのだった。
「あいつ……なのか」
大輪心はうなずいた。
【あの人は先生を友達だと思っていたの。ずっと友達でいてくれると。だけど】
そうだ。転校して一年目は暑中見舞いも年賀状も出した。だが十姉妹を死なせてから、俺はあいつがウザくなって。
【そのまま離れていればよかった。でもあの人は親の転勤でこの町に戻ってきていたの。そしてある日、先生がこの学校に教育実習に来ていると知って】
「ちょ、ちょっと待ってくれ、そんな、そんなことで俺を殺そうっていうのか」
【あの人には、そんなことがとても大事だったの】
俺は思わず立ち上がった。
「馬鹿げてる、狂ってる、そんなことで人殺しなんて、そんな」
俺の声をさえぎるように、夜にこだまする乾いた破裂音。階下からガラスの割れる音。それが銃声だと認識するのに数秒かかった。銃声は3発。言葉を失った俺の腕に、大輪心が触れた。
【大丈夫、先生は私が守るから】
まっすぐで力強い感情が俺の中に流れ込む。それは俺の身体の震えを止めた。
「何で、君はいったい」
【先生は私に優しくしてくれたから】
「優しく?」
何のことだ。俺はこの子に特別優しくしたことなどない。
【教科書を読んだとき。先生は最後まで聞いてくれた。私の言葉なんて何言ってるのかわからないのに、他の先生なら途中でやめさせるのに、先生は最後まで聞いてくれたでしょ】
「そんな、そんなことで」
【そんなことが、私にはとても大事なの】
大輪心は照れ臭そうに笑った。しかし一瞬後、その顔に緊張が走る。ドアが開いた。そこに立っていたのは、背の高い、ジャージ姿に目出し帽をかぶった男。右手には自動拳銃を、左手にはナタのような刃物を持っている。
「見つけたよおお、近道君んん」
その声は笑っていた。いや、感激してうわずっているようにも聞こえる。
「比杭、なのか」
「遅いよおお、今さら気づいてもダメだよおお、もう殺すって決めたんだからああ」
比杭はゆっくり銃をこちらに向けた。俺は後ずさった。恐怖に腰が抜けそうになる。その俺を支えるように大輪心は隣に立った。
【先生、耳をふさいで。早く!】
何が起こるのかはわからない。だが俺は言われた通り耳をふさいだ。水銀灯の光が大輪心の髪を照らしている。その髪が、ゆらゆらとゆれながら逆立った。そして、緑色に輝いた。大輪心は口を大きく開く。絶叫。それはふさいだ俺の耳には届かなかった。だが大気の振動は感じる。その激しさは、比杭を後ろに吹き飛ばし、その身体をドアへと叩きつけた。俺の身体も1メートルとは言わないが後ろに押され、盛大に尻もちをついた。その膝の上に、大輪心は鳥の羽根が落ちるように、ふわりと倒れ込んだ。
「お、おい、大丈夫か、いったい何をしたんだ」
俺の膝の上で、大輪心の髪は緑色の輝きを失っていった。
【死を告げたの】
「死?」
【5分後に、あの人は死にます。だから先生……5分だけ逃げて……】
そう言うと、大輪心は気を失った。
「おい、待てよ、それって、おい!」
「痛いよおお、何するんだよおお」比杭はドアから身をはがした。特にダメージは受けていないように見える。「頭きたああ、そのガキから殺すうう!」
比杭は銃口を大輪心に向けた。俺は動けなかった。かばうこともできなかったし、かと言って放り出して逃げることもできなかった。どちらを選ぶべきなのか。考えた。もし俺が大輪心をかばったとしよう。するとどうなる。俺はあの銃で撃ち殺される。その後、大輪心も殺されるだろう。だが俺が逃げたとしよう。その場合も大輪心は殺される。しかし俺は生き延びられるかもしれない。客観的に見て、どちらがマシな状況だろう。簡単だ。算数の問題じゃないか。俺は結論を出した。大輪心を置いて逃げよう、と。けれど。本当にそれでいいのか?先生は優しくしてくれたから、大輪心はそう言った。大輪心にはクラスに友達がいない。それがもし、彼女の不思議な能力に由来しているとしたら。大輪心はおそらく、他人の心が読めるのだ。比杭のことを言い当てたときも、おそらく比杭の心の中を読んだのだろう。ならば当然、クラスの他の生徒たちの心の中で自分がどう思われているかも知っているし、俺の心の中も読んだはずだ。つまり俺が大輪心に本心から優しくしたことなど一度もないことは、彼女は知っていたはずなのだ。なのに、それでも、命をかけて守ってくれると言った。その大輪心を見捨てて自分だけ逃げるというのか。それが正しい判断だと言うのか。覚悟。おまえには覚悟がないと言われて生きてきた。俺の覚悟は。
「じゃあなああ、死ねえええっ!」
比杭は叫んだ。俺は走った。大輪心を腕に抱えて。比杭はトリガーを引かなかった。そして、ひゃっひゃっひゃっひゃ、と気持ち悪い笑い声を上げた。
「近道君んん、今さらああ、今さら良い人になるつもりなのおお?」
「知るか」俺は吐き捨てた。「おまえに何て思われようが、どうでもいい」
比杭の笑い声が止まった。
「何だよそれ」比杭は目出し帽を引きはがすように脱いだ。「何だよそれ、何だよそれ、何だよそれええっ!またオレか、オレばっかりか、オレばっかり苦しい思いして、そっちはまた知らんぷりか、また無視すんのかよクソがああっ!」
比杭は目出し帽を投げ捨てると、何度も何度も踏みにじった。俺は静かに後ずさった。1歩、2歩、3歩。比杭の右腕が跳ね上がる。銃口がこちらを向いた。
「逃がさねえよおお、バーカ」
5分、まだ5分経たないのか。俺が奥歯を噛みしめたとき、背後の闇の中から小さな声がした。
――空間干渉壁――
「じゃあサヨナラだ、近道君んん!」
比杭が銃のトリガーを引いた。銃声が連続する。4発。俺は大輪心を抱きしめ伏せた。しかし、銃弾は俺達には届かなかった。顔を上げると、中空に4四つの光点があった。その淡い光が消えゆく中、何かが落ちた音。下を見るとぺちゃんこに潰れた鉛色の弾があった。いったい何が起こっているのだろう。それについては、比杭も同じ感想であったようだ。
「何だ、何をした」
「要するに、さ」俺の背後から声がした。「その銃は役に立たないっていうことだよ」
振り返ると、人影が立っていた。いつの間に。
「ふ、ふざけるなああっ!」
比杭は慌ててその人影に銃を向け、トリガーを引いた。3発。人影の前の空間に、3つの光点が音もなく浮かんだ。そして潰れた弾丸が落ちる音。
「ほらね」
比杭は続けてトリガーを引いた。しかし弾はもう出ない。すべて撃ち尽くしたのだ。比杭は銃を叩きつけるように投げ捨てた。そして左手に握ったナタに両手を添え、大きく振りかぶると、俺に向かって斬りつけてきた。
「おまえがあっ!おまえがあっ!おまえがあっ!」
何度も何度も斬りつける。だがそのたびに空間に光点が輝き、ナタは弾き返される。
「無駄だよ」人影は呆れたように言った。「銃弾でも通らないのに、そんなもので」
しかし比杭は何かにとり憑かれたかのように、ナタを振るった。
「うああっ!うああっ!うああっ!うああっ!うああっ!」
そのとき突然、俺の腕を振りほどき、大輪心が立ち上がると、こう声に出して言った。
「5分経った」
「うあああああっ!」
その一撃は、大輪心の頭上に振り下ろされた。しかし光点が輝き、その刃は大輪心には届かない。キン。甲高い金属音と共に、ナタの刃は、根本からぽっきりと折れた。そして作用と反作用。折れた刃はそれを叩きつけた者の方へと宙を飛ぶ。次の瞬間、比杭は首筋から血を噴水のように噴き出した。眼を見開いて倒れて行く比杭。その血を浴びて立つ大輪心。勝者と敗者の図であった。大輪心は血にまみれた顔で振り返った。寂しげな笑顔だった。
「……殺したのか」
思わず問いかけた俺の言葉を、しかし背後の人影が否定した。
「それは違う。その子は何もしていない」
【それも違う。何もしていない訳ではない】
その第3の声は、頭の中に響いた。頭の真上が明るくなる。振り仰ぐと、夜空が裂けていた。裂け目から漏れ出す黄金の光。その光の中から、サンダルを履いた足が現れ、灰色のローブをまとった身体が現れ、最後に頭が現れた。黄金の髪に白い肌、40代にも60代にも見える外国人の男。男は宙に浮いている。その男を見上げて、大輪心は驚いていた。
「ホントに来てくれたんだ。夢かと思ってた」
男は静かに降り立つと、大輪心に手をかざした。すると全身を濡らしていたどす黒い血液は、乾いた粉末へと姿を変え、大輪心の身体からはらはらと剥がれ落ちて行く。
【君は我々の側の存在だ。ここには君の居場所はない。私と一緒に来たまえ】
大輪心は一瞬ためらった。
「でも」
【君が何者かはよく知っている。知った上で共に行こうと言っているのだ。遠慮はいらない】
男は右手を差し出した。大輪心はもう迷わない。男の大きな手に、自分の小さな右手を重ねる。だが俺は複雑な気持ちだった。これでいいのか。ちょっと待ってくれ、そう言いかけたとき。
闇の中から小鳥たちが飛び出した。男の頭上と前後左右でホバリングしている。十姉妹だ。
「多重干渉壁」
俺の背後の人影がつぶやくと、男の頭上と前後左右に、透明な光の壁が浮き上がった。
「あなたはもう動けない」人影は前に出てきた。「その子をどうするつもりです」
その姿を見て、金髪の男は目を丸くした。
【何ということだ。そうか、君だったのか】
「何を言っている。その子をどうするのか、と聞いてるんです」
【もちろん、共に戦うのだよ】
「戦うって誰と」
【我らが挑むは、唯一絶対神】
「ふざけているのか」
【そうか、やはり君は覚えていないか】
「さっきから何を訳のわからないことを」
【君には感謝している。だからここは穏便に済まそう。だが忘れないでいてくれたまえ、我々は本気だ。願わくば君がすべてを思い出さんことを】
「無駄だ、あなたの動きはもう封じられて」
男は目を閉じた。その瞬間、光の壁は音もなく粉々に砕け散った。
男は再び宙に浮かんだ。手をつないだ大輪心と一緒に。上空の黄金色の光が漏れ出す夜の裂け目に向かって。
「先生さようなら」
大輪心は少し振り返ると、まるで家に帰るかのようにそう言った。やがて2人は光に飲まれ、夜の裂け目は閉じてしまった。
俺はしばし、茫然と夜空を見上げていたが、ドアの向こう、階段から声が聞こえることに気がついた。
「ここです、犯人はここです」
「しーっ、静かに。あなたたちは下がって」
どうやら警察が到着したらしい。さて、この状況をどう説明しよう。とりあえず話だけは合わせておいた方がいいような気がする。だが。屋上には俺1人だった。正確には俺と、比杭の死体だけ。謎の人影はいつの間にか姿を消していた。だが。あの中性的な横顔、確か見覚えがある。
「全員動くな!」
ドアを開けて警官隊が突入してきた。ああ、今夜は長くなるのだろうな。
◆◆◆◆◆◆
「バンシーというのはアイルランドやスコットランドに伝わる死を予告する女の精霊と言われていますが、もちろん正体は不明です。緑色の服を着ているという話もあれば、赤い服を着ているという話もあります。美しい女だという話もあれば、醜い女だという話もあります。出産のために早死にした女だという話もあるのですが、これは日本で言えば姑獲鳥に重なりますね。バンシーは誰彼かまわず姿を見せるのではなく、とり憑いた家系の者の前に姿を現します。日本なら狐憑きや狗神憑きの家系がありますが、アイルランドやスコットランドにはバンシー憑きの家系があるのです。バンシーのすることといえば基本的には叫ぶだけです。中には叫ばないバンシーもいますが、たいていのバンシーは叫びます。その悲し気な叫びは死の予告なのですが、バンシー自身が誰かを殺すという話はありません。あくまでも予告するだけです。ただこのバンシーの伝説がアメリカに伝わった際に、人を殺すという特性が付け加えられています」
ヨウムのパスタが一気に話した。夕方、小鳥ホテルの鳥部屋。十姉妹のトド吉が突っ込みを入れる。
「長いなあ」
「馬鹿者!」ブルーボタンの伝蔵が叱りつけた。「その長い説明をなぜ聞くはめになったと思っている。おまえが余計な仕事を増やしたからであろうが!」
「いや、そうかて、人助けやないですか」
「地球はまだ我ら連盟の加盟惑星ではない。非加盟惑星の知的生命体の活動には可能な限り干渉しない、それは基本中の基本である。たとえこの惑星の法に触れ道義に反しようともだ。知らぬ訳ではあるまい。なのにあんな勝手なことを。報告書や顛末書を何枚書いたと思っているのだ」
しかしトド吉も引き下がらない。
「ほな子供が殺されそうになってるのん、黙って見過ごせ言うんですか!それにだいたい時空渡航者が絡んでたんやから、結果的にはワイらの仕事やないですか!」
「それとこれとは話が別である」
「そんなことありません、納得でけへんわ、そんなん」
「そうやそうや」
「お父ちゃんをいじめるな」
トド吉のファミリーまで口を挟んできたとあっては、さしもの伝蔵も閉口せざるを得ない。モモイロインコのミヨシが、ひとつため息をついた。
「それで。結局あの女の子はバンシーな訳」
「特徴が異なりますからバンシーとは特定できませんが、もしバンシーの伝説の基になる存在がいたとしたら、その存在が伝説として膾炙される中で特徴の描写が変容していったとも考えられます」
パスタは慎重な姿勢を崩さない。セキセイインコのリリイが僕に問いかけた。
「菊弥さんはどう思われますか」
「うーん、君たちの事情はよくわからないけど、今回の件に関しては、トド吉に感謝してる。よく見つけたね」
トド吉は羽を広げ、胸を張った。
「いやあ、なんとなく、直感言うたらええのかな、他の作業のついでにテレパシー検知器チェックしたら、微細な反応があるやないの、ほんで発信源探したら拳銃もって小学校の周りウロウロしてるやつがおって、これはヤバいな、と。まあ半分マグレみたいなもんやけど」
「調子に乗るな。ほぼマグレだ」
伝蔵は憮然としている。
「テレパシーの発信源はあの死んだ男で間違いないの」
と、ミヨシ。
「それは間違いないけど、何でやな」
トド吉は不審げなミヨシが気に入らないようだ。
「あの金髪の男」ミヨシはあの光景を思い出しているようだ。あのときの屋上の様子は僕の視界を通してここの皆にモニタリングされている。「坊やのこと知ってるみたいな口ぶりだったわよね。まさか誘い出された、なんてことはない?」
「そういう風に言われたらなあ……絶対ないとは言えんわ」
ここで絶対にない、と言わないのがトド吉の良いところだと僕は思う。
「坊やはどう。本当に記憶にないの」
ミヨシの問いかけに僕は苦笑した。
「本当も何も、僕が嘘ついてもバレるんだろ」
「そりゃ心理センサでバレるわね」
「まあ可能性としては、以前に会ったことがあるのに僕が完全に忘れちゃってる場合なんだろうけど、そういうのは調べることはできないのかな」
「できるわよ」
「え、何だできるの」
「あなた廃人になっちゃうけどね」
「……それ普通はできるって言わないよね」
「理論は理論、実践は実践」
ミヨシはおかしそうに声を上げて笑った。その笑い声が響く中、チャイムの音が鳴った。
「また巌でも来たのかな」
営業開始時間まで、あと3時間はある。僕が玄関に向かうと、風除室の中に居たのは。
「頂さん、お久しぶりです」
「……えっと」
「覚えてませんか、近道流一です」
「ああ!流一くん、久しぶりだねえ、僕が中学生のとき以来かな。大きくなったなあ。今なにしてんの」
「はい、いま小学校の教育実習で、こっちに戻ってます」
「そうなんだ。小学校の先生になるんだね」
「……いえ」
「え」
「小学校の教師に、なってもいいのかな、って思ってたんですけど、やめました。俺、何か自分にできること探してみます。まだそれが何かわからないけど、自分が覚悟決めてできるような仕事、探してみようと思ってます」
流一が僕を見る目は、きらきらと輝いていた。
「そう。なかなか難しいとは思うけど、探してみなよ。後悔のないようにさ」
「それでひとつ、聞いていいですか」
「ん、何」
「頂さんは今の仕事に就いて、後悔はありませんか」
「ないね。そりゃ理想通りにならないことはたくさんあるけど、それでもこの仕事は僕じゃなきゃ務まらないと思うし、他にできることもないしさ」
「それを聞いて安心しました」
「安心?」
「俺も、頂さんみたいに言えるような、そんな仕事、探してみせます。きっと」
「ああ、見つかるよ、きっと」
すると流一は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「やめてよ、そんな、頭上げて」
流一は顔を上げると、スッキリとした顔で別れを告げた。
「俺、明日から大学に戻ります」
「うん、がんばれ」
「それじゃ」
背を向けると、流一はもう振り返らず、歩き去って行った。それをしばらく見送ると、僕は鳥部屋に戻った。
「ふう」
「相変わらず下手くそな嘘だな。聞いていてヒヤヒヤしたぞ」
伝蔵はパタパタと軽く羽ばたいて見せた。
「バレてなきゃいいんだけど」
「気になるんなら調べてみる?」
そう言うミヨシに、僕は首を横に振った。
「いや、いいよ」
覚悟決めてできるような仕事か。見つかるかな。見つかるといいな。僕はどうだろう。この仕事をするのに、覚悟を決めているだろうか。考えたこともないや。
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