ことり会議

柚緒駆

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魔光射す家

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「海沿いに白い4四階建ての洋館があるの。周囲は防風林に囲まれて、海側からじゃないと建物は見えないんだけど、庭も広くてヨットハーバーもあって、とても立派な洋館だっていうわ。でも持ち主はそこには住んでいなくて、もう何十年も人が暮らしていないはずなのよ。それなのに、その洋館にときどき明かりが灯るらしいの。4階の一番端の窓に、まるで灯台みたいに明るい光が輝くのよ」
 滝緒たきおはおどろおどろしく語ったが、今は秋真っ盛りの、それも昼間だ。怪談に似合う雰囲気ではなかった。
「ここ、テーブルとか置こうぜ」
 いわおは脚を組みながら言った。着物で脚って組めるものなのだな、と僕は思った。
「そんなもの置いてどうするんだよ」
「コーヒーとか飲めるだろ」
「飲めなくていいよ。ペットホテルの玄関だぞ」
「ペットホテルの玄関だとコーヒー飲めねえってどんな理屈だ」
「おまえの屁理屈に付き合わなきゃならん理由はないんだよ」
「ちょっと菊弥きくや、聞きなさいよ」
 滝緒はむくれた。せっかく話してやってるのに、その顔はそう言っていた。
「何を聞くんだよ。この時期に怪談はねえだろ」
「あんたは聞かなくていいのよ」
 と、巌に真顔を向けた滝緒は、カーディガン姿だった。このままポーチでも持って、お弁当を買いに行きそうな雰囲気である。
「たきおんは仕事いいの、今日は」
「その呼び方やめなさいってば。今日は公休なのよ。別に予定もないし」
 だからって、うちに集まることもないだろう、とは思うのだが、何だか言いにくい。
「でね、続きなんだけど」
「何だよ、まだ続きあんのかよ」
「あんたはとっとと帰りなさい」
 滝緒は切れ長の目で刺すように巌をにらんだ。
「おめえなあ、俺の方が先に来てたんだぞ」
 何を早い者勝ちみたいに言ってるんだ。その理屈なら。
「その理屈で言うなら、僕が一番先に来てるだろう。ていうかここは僕の家だし僕の仕事場だ」
「んなこたあ、どうでもいいんだよ」
「いや、よくないだろ」
「聞きなさい!」
 ぱん、と滝緒は手を叩いた。僕らは黙るしかなかった。
「その窓の明かりはもう何年も確認されてなくて、最近じゃただの怪談になってたんだけど、今月に入ってから、沖を通るフェリーの運行会社から問い合わせがきたのよ。灯台と誤認するから何とかならないかって。それで持ち主に連絡しようとしたんだけど、引っ越しちゃったみたいで連絡が取れなくて、もちろん洋館には誰も住んでいないみたいだし、でもフェリー会社の言うことが本当なら放置するのは危険だし、仕方がないから行政代執行でその洋館に立ち入ったのよ。そしたら」
「そしたら?」
 思わず身を乗り出した僕を見て、滝緒はニンマリ笑った。
「ほらほらー、やっぱり気になってる」
「……いや、そういうのはいいから」
「へ、どうせ何もなかったってオチだろ」
 そう言った途端、巌の顔面に丸椅子が飛んできた。
「オチを言うなぁっ!」
 投げつけた滝緒は肩で息をしている。
「えっと、実際そうだった訳?」
「……そうよ。中には人の気配どころか、家具も椅子もテーブルも、何ひとつなかったの。明かりを点ける機械なんて、豆電球すら落ちていなかったわ」
「豆電球」顔にめり込んだ丸椅子を外すと、巌は床に置いた。「発想がオッサンだな。LEDくらい知ってるだろ」
「いまどきへっぽこ陰陽師やってるような人に言われたくありません」
「呪禁道士だ」
 言い直した巌に、あのときのパスタの言葉が重なる。
――呪禁道士という言葉は存在していません――
「どうした」
 巌が僕の顔を不思議そうにのぞき込んでいる。
「いや、何でもない」
 何でもないこともないような気がするが、今はまだどう対応していいやらわからない。
「という訳で」滝緒は手をぱん、と叩いた。「今晩行ってみましょう」
「どういう訳だよ」
「さあな」
 この瞬間、僕と巌の意向は無視され、今晩幽霊屋敷に乗り込むことが決まった。


「第147回定例会議を始めます」
 会議が始まった。議長はモモイロインコのミヨシ、議題は滝緒の持ってきた幽霊屋敷の件についてである。


 モモイロインコはオーストラリア原産の鳥であり、インコと名前がついているが、オウムの仲間である。頭部には小ぶりな冠羽がついている。名前の通り頭部から腹部にかけてはピンク色で、羽は灰色である。全長は35センチ以上もあり、会議のメンバーの中ではヨウムと並んで大型だ。昔の事典などを読むと人の真似をしないと書かれていて驚くが、実際はよく人真似をする利口な鳥である。


 ミヨシは冠羽をぴょこぴょこ立てながら、面倒臭そうに会議を進めた。
「まあ早い話が、坊やのバックアップをするかどうかよね」
「言うても、家に明かりが点くっちゅうだけの話やろ」
 十姉妹のトド吉は首を傾げた。
「でも、部屋の中に照明器具はないのよ」
 セキセイインコのリリイが言った。それを受けてヨウムのパスタが話す。
「部屋の中に照明器具がある場合なら、いわゆるポルターガイスト現象として、部屋の明かりが勝手に点く話は枚挙にいとまがありません。ただ、照明器具がないとなると、どのような現象が起きているのか」
「いわゆる人魂のような物が家の中に現れるという記録はないのか」
 そう言ったのはブルーボタンの伝蔵である。
「人魂を初めとする発光体が部屋の中に出現したという例はたくさんあります。ただそれで灯台のような強さの明かりが発生するかというと」
 パスタは口を濁す。
「けど灯台と誤認するっちゅうのもフェリーの乗員あたりが言うてるだけやろ。実際に誤認した例はないんやし、そこまで強い光やないんやないか。いや、よしんば強い光やったとしても、単なるお化け屋敷の探検に、ワイらのバックアップいるやろか」
 トド吉は話そのものに懐疑的なようだった。
「まあその辺は実際に確認してみないと、わからないわよねえ」
 ミヨシはまとめに入った。とっとと終わらせるつもりであろう。
「決を採ります。この件について我々のバックアップが必要だと思う人」
 さっと翼を上げたのは、リリイ一人だった。
「結論は出たな」
 伝蔵はそう言ったが、リリイはむくれた。
「えーっ、そんなあ」
「ほんならリリイが一緒について行ったらええんやないか」
 トド吉が発したその言葉に、一同の視線はリリイに向かった。
「えっ」



「みんな酷いです。いつもいつも菊弥さんを好きに使ってるくせに、こういうときだけ面倒臭がるなんて」
 僕の肩の上でリリイはぶつくさ文句を言っている。いやあ、僕がみんなの立場でも、今回はバックアップしないんじゃないかな、と思ったりもしたが、それは言わなかった。僕たちは小鳥ホテルの玄関前で滝緒たちを待っている。日はとっぷりと暮れ、そろそろ営業開始時間なのだが、今日は予約も入っていないし、宿泊中のお客様も居ないので、臨時休業だ。自営業の気楽なところではある。
 駐車場の入り口のところに、白い人影が見えた。近寄って来るのは、滝緒だ。またサファリルックを着ている。
「おーまーたーせー」
 手を振り駆け寄って来る滝緒の背後に、突如明かりが灯った。車だ、と思った瞬間、エンジンを唸らせ滝緒に突っ込んできた。危ない、と思うと同時に鳴り響くブレーキ音。テールをスライドさせて、車は滝緒まであと数センチというところで停まった。しばしの静寂のあと、運転席のドアが開くと、スーツ姿の女が降りてきた。それは。
いただきさま、ご無沙汰しております」女は僕に黒い大きな瞳の、少し陰のある笑顔を向けると、こう言って頭を下げた。「五十雀いそがら家家政婦長の日和香春ひわこうしゅんでございます」
 家政婦長なのか。出世したなあ。香春は僕らと同い年である。小学校も中学校も同じだった。だからずっとよく知っている存在だった。だが、幼馴染とは言えない。一度も一緒に遊んだことがないからだ。
 香春は事故で両親と死別した。その後親戚の間をたらい回しにされ、最後に五十雀家で家政婦をしていた遠縁の女性を頼った。そのときの五十雀家の当主が香春に同情し、将来五十雀家で家政婦として働くことを条件に、衣食住の提供と、高校までの進学を約束したのだった。
 黒いセダンの後部座席のドアが開いた。降りてきたのは巌。頭を押さえている。
「香春~~てめえ」
「巌さま、申し訳ございません。バッタが飛び出しましたので、つい」
「ちょっと香春!」滝緒は香春の前に回り込んだ。「何がバッタよ、あんた私をくところだったのよ!」
「あらあら吉備さま、すみません、白いバッタに見えましたものですから」
「そんなの見間違える訳ないでしょうが!どういうつもりよ!」
「どういうつもり?」香春の声がかすかに怒気をはらんだ。「そのお言葉、そのまま返させていただきます。そちらこそどういうつもりですか。巌さまをこんな時間に連れ出すなど」
「連れ出す?はあ?私が巌なんぞ連れ出す訳がないでしょうが」
「なんぞ」
「そう、『なんぞ』よ『なんぞ』。『なんぞ』で悪けりゃ『ごとき』よ」
 一瞬、香春の姿が揺れた。
「待ったーーっ!」
 巌は香春を羽交い絞めにしていた。その右手の爪はあと数ミリで滝緒の眼球に届く。
「お放しください巌さま、この女には目にもの見せてやりませんと」
「馬鹿野郎、いい加減にしろおめえは」そして僕の方を向いた。「おい菊弥、おめえも手伝えこら」
「何で僕が」
 とは言え、いつまでも見物している訳にも行くまい。僕は肩のリリイを気にしながら駆け寄った。すると滝緒は僕の背後に回り込んだ。
「菊弥、この女こわーい」
 その声が全然怖そうに聞こえないのは何故だろう。香春は歯をむき出し、いまにも飛びかからんばかりに僕の背後をにらんでいる。
「ま、まあまあ、香春ちょっと落ち着いて。話し合おう」
「お言葉ですが」香春は口から瘴気を吐き出すかのように声を上げた。「頂さまはそのアバズレに騙されておいでです。その女は頂さまの考えておられるような人間ではございません」
 またそんな話か。僕はどんだけ騙されやすいんだ。てかアバズレってまた古風な罵倒だな。
「うん、まあそれはそれでいいから、とにかく落ち着こう」
「ちょっと、否定しなさいよ」
 滝緒が後ろから脇をつつく。しかし僕がどう否定するのだ。一方の香春はといえば、どうやら落ち着いてきたようだった。
「……頂さまがそうおっしゃるのでしたら」
 香春はつかみかからんとしていた両手を下ろし、居ずまいを正した。たはっ、と息を吐いて巌は香春を放した。
「勘弁しろよ、おめえはよ」
「大変失礼をいたしました」
「という訳で」滝緒は嬉しそうに声を上げた。「幽霊屋敷には私と菊弥が行くので、巌くんはおうちに帰りなさい」
「おい、そりゃねえだろ。ここまで来たんだぞ」
 巌の抗弁も滝緒には通じない。
「だって、香春が怖いんだもの、仕方ないじゃない。私たちはタクシーで行くから、あんたは香春と一緒にとっとと帰りなさい」
 滝緒は勝ち誇ったかのように笑った。だが。
「いいえ」香春が言い切った。「皆様はこの日和香春がお送りいたします」
「何よ、あんた私が気に入らないんでしょう」
 滝緒の言い分はもっともだった。けれど香春はうなずく。
「はい、あなたが巌さまと同行するのは気に入りません。しかし、あなたに巌さまが馬鹿にされるのはもっと気に入りません」
 香春は車のドアを開けた。そして僕らを促す。
「さあお乗りください」


 黒塗りの高級セダンの乗り心地は、タクシーの比ではなかった。にぎやかな夜の道路を、セダンは音もなく、滑るように走って行く。助手席に巌を乗せ、僕と滝緒は後部座席に座った。滝緒はときどきルームミラーに向かって舌を出している。子供か。
「頂さま」
 香春とミラー越しに目が合う。
「その肩の子は、セキセイインコですか」
 リリイは肩の上でうとうとしていた。いつもは寝ている時間だ、無理もない。
「香春は鳥は大丈夫なのかな」
「いえ、少し苦手です」
「そうか。しばらくごめんね」
「……子供の頃、まだ両親が生きていたとき、うちで水色のセキセイインコを飼っていました。でも私の不注意で逃がしてしまって。それを知ったとき、母が泣き崩れたんです。父もひどく怒って。あんな両親を見たのは初めてでした。それ以来、小鳥は少し苦手です」
「そう」
「その子は逃げないんですか」
「うん、この子は大丈夫」
「よかったです」
「こんなことを言うのは変かもしれないけどさ」
「はあ」
「香春もまたいつか、鳥が飼えるようになるかもしれないよ」
「私は……私は見習いの頃を合わせれば、もう15年以上家政婦をやってきました。これからも家政婦以外の仕事をするとは思えません。鳥を飼う余裕など、とても」
「そうだよねえ、家政婦以外の香春なんて想像がつかないや」
「私もそう思います」
「でも生きてると何があるかわからないからさ」
 そのとき、対向車がハイビームで通過した。一瞬白くなる視界に香春の横顔が溶ける。
「ねえ」
 滝緒が僕の腕を小さく引っ張った。
「何」
「何で私にはそういうこと言わないの」
「そういうことって、どういうこと」
「どういうことじゃない」
 突然、巌がふき出した。そして腹を抱えて笑い転げる。
「そこ、笑わない」
 誰か面白いことでも言ったのだろうか。そう尋ねてみたかったが、やめておいた。車は交差点を曲がり国道から細い県道に入った。目的地は近づいている。


 表面がデコボコとした、かなり古いコンクリート製の堤防。階段状になった堤防を乗り越えると、その向こうには松林があり、さらに向こうには砂浜が広がっている。秋の海には人影もなく、ただ波の音が響くのみ。滝緒は懐中電灯で砂浜を照らしながら、真っ暗な砂浜をずんずんと進んでいった。
「堤防のこっち側に家なんて建てられるのか」
 巌の疑問は当然であるように思えた。滝緒は振り返りもせずに答える。
「私有地だもの。プライベートビーチってやつよ」
 観光地でもないこんなところにプライベートビーチなんてあったのか。そのことに僕が驚いていると、滝緒は懐中電灯の明かりで少し先を照らした。松の木が密集して立っている。
「ほら、防風林。あそこから向こうが私有地。小さいけどヨットハーバーが見えるでしょ」
 見えるでしょ、と言われても懐中電灯の光を受けて、何か白いものがまっすぐ海に向かって突き出していることしかわからない。かろうじて人が暮らしていた気配が読み取れる、といったところか。
「で、この防風林どうやって抜けるんだ。道があるのか」
 巌が松の木を軽く叩いた。
「あるんじゃないの、強制代執行のときは入れたんだから」
 滝緒はそこいらを照らしながらそう言った。
「おめえも代執行に参加したんじゃねえのか」
「そんなこと言った覚えはないけど」
「この女は」
 香春は吐き捨てるようにつぶやいた。
「リリイ、起きてる?」
 肩の上のリリイは、眠そうに一つあくびをすると、小さくうなずく。
「じゃあ頼む」
 僕の出した人差し指にリリイが乗る。そして僕は夜空に向かって大きくその腕を振るった。リリイはまっすぐに飛び上がると、防風林の向こうへ消えて行った。
「おいおい、大丈夫なのか」
「ああ、リリイは大丈夫」
 僕は巌を振り返った。
「でも鳥って鳥目なんだろ」
「鳥が鳥目だっていうのは単なる誤解だよ」
「なんだよ鳥って鳥目じゃねえのかよ」
「うん、鳥は鳥目じゃない」
「その頭悪そうな会話やめなさい」
 呆れる滝緒の声を遮るように、頭の上からリリイの「ピッ」という声がした。
 リリイの声を頼りに防風林を進む。くねくねと曲がる道とも言えないような細い道は、夜の闇の中にあるからか、何十メートルもの距離があるかに思えた。実際はそんなに幅はないはずだ。防風林の幅などせいぜい数メートルだろう。いささか現実とのギャップが大きすぎるような気がするが、いまそれを言っても仕方あるまい。
 なんとか防風林を通り過ぎ、ようやく洋館の前に出た。周囲にはおそらく芝が張られていたのだろう庭が見て取れた。長い間手入れもされていないようだ。だが草ぼうぼうという訳でもない。海の塩気のせいだろうか。
 僕の肩に、リリイが戻ってきた。
「ご苦労さま」
 ねぎらいの言葉に、リリイは嬉しそうに頭を上下させた。
「今夜は明かりは点いていないみたいね」
 滝緒は4階の一番右端の窓を見上げていた。
「そもそも本当に点くのかよ」
 巌はすたすたと建物に向かって歩いていく。
「それを調べに来たんでしょうが」
「そりゃまあ、そうなんだが」
 白い両開きのドアの前に巌は立った。滝緒が懐中電灯でその背を照らす。その大きなドアにはライオンの顔が輪を咥えていた。いわゆるドアノッカーというやつか。巌はその輪に指をかけると、2回ドアに打ちつけた。
「何やってるの」
 滝緒は眉をひそめている。
「押し込みじゃねえんだ、空き家でも礼儀ってもんがあるだろうよ」
 その言葉を言い終わるより早く。ドアが、ぎい、と音を鳴らした。香春が駆けた。風のように走ると、巌とドアの間に身を滑り込ませる。左右のドアは内側に引かれ、ゆっくりと開いて行く。そして大きく開き切ったとき、そこには光があった。赤、黄、緑、青、紫、さまざまな色が満ちた空間があった。その真ん中に、黒い人影がひとつ。
「いらっしゃいませ、お客様。私めは当館の執事、泊戸はくとと申します。今宵はご足労いただきましてありがとうございます。されど」人影は顔を上げた。燕尾服を着た、痩せぎすの白髪の老人。「今宵わが主人には来客の予定はございません。大変に失礼なのですが、何かのお間違えではありませんでしょうか」
 その泊戸と名乗った老執事に対し、香春は一度深々と頭を下げると顔を上げた。
「ご丁寧にありがとうございます、泊戸さま。私めは五十雀家にて家政婦をしております、日和と申します。このたびはわが主が失礼をいたしまして、申し訳ございません。今宵は海に人影もなく、波も静かで星も輝き、散策には良き日と思われ、主はあれなる友人たちとこの浜に出かけて参ったのですが、どこをどう迷ったものか松林の中をさまよい歩き、こちらのお屋敷の前に至った次第にございます。いささか足は疲れ、のどは乾いております。ご迷惑なこととは存じますが、どうぞ冷たい水を一口たまわりたく」
 香春の口上を泊戸は眉一本動かすでもなく直立不動で聞いていたが、聞き終わると少し困った顔をした。迷っているようだ。
「泊戸」屋敷の内側から声がかかったのはそんなとき。「客人か」
 泊戸は振り返り、見上げた。
「旦那さま。左様にございます。ただ」
「構わん、奥へ通せ」
「承りました」
 泊戸は奥へ向かって一礼するとこちらに向き直り、巌と香春を、そして僕と滝緒を見た。
「ではみなさま、こちらへどうぞ」
 そう言うと脇に下がり、道をあけた。巌は僕たちを見やり、声もなくニッと歯を見せると、香春を先に立たせ、洋館の中へ入って行く。僕と滝緒は顔を見合わせたが、互いにうなずき、巌の後を追った。
 屋敷の中は、色と光に満ちていた。外から見たときはただのガラスだったはずの窓には色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれ、高い天井から吊るされた、燦然と輝くシャンデリアの光を反射して輝いていた。壁面には大きな油彩画がいくつもかかり、床には赤地に様々な文様が織り込まれた厚手の絨毯じゅうたんが敷かれている。左右には緩やかな曲線を描いて上る階段があり、二階部分のバルコニーにつながっている。そのバルコニーの向こうには、巨大な肖像画があった。鋭い目、力強さを湛えたあごひげ、恰幅の良い体。
「あの絵は……」
 つい口に出してしまった僕に、後ろから泊戸の声が聞こえた。
「当館の主、唐渡修七郎からわたりしゅうしちろうにございます」


「当館の主、唐渡修七郎にございます」
 広い玄関を通り過ぎ、正面にあった扉を開いて入ったもっと広い部屋。泊戸が紹介した男は、その一番奥に座っていた。くぼんだ光のない目、ちょろっと生えた貧相なあごひげ、やせこけたミイラのような体。肖像画は何割か増しで美化して描くと聞いたことがあるが、これは割り増しどころの騒ぎではない。詐欺だ。僕はそう思ったものの、さすがに口には出さなかった。
 それにしても、部屋が広い。でたらめな広さである。洋館は確かに小さな建物ではなかったが、あの広い玄関の向こうにこんな広さの部屋が続くほどの大きさはなかった。あの山の中の謎の大浴場を思い出す。また空間が捩じれているのではないだろうか。そして広いだけではない。部屋は絢爛豪華に輝いていた。黄金色の柱が立ち並び、幾つものシャンデリアが吊るされている。壁面や丸い天井には神や天使の絵が描かれ、その集中点の結ぶ先、すなわち部屋の一番奥の席に座るこの部屋の主人を飾り立てていた。ただの広間ではない。謁見えっけんの間と呼ぶにふさわしい。ただし玉座に座る主人は、貧相なミイラもどきであったが。そのミイラもどきが、にまあっ、と笑った。
「こういうところは初めてかな」
 僕を見つめていた。いかん、無意識にきょろきょろしていたのだろうか。
「あ、はい、どうもすみません、何をどうしていいかわからなくて」
「いやいや、構わん構わん。別にワシは王様でも何でもない。ひざを折れだの礼を尽くせだの言うつもりもない」
 つもりはあるんじゃないのか、と思ったがそれを言う訳にも行かない。
「ただな」
 唐渡修七郎はワイングラスを手に取ると、軽く揺らした。いつの間に隣に立っていたのだろう、泊戸がグラスにワインを注ぐ。血のように赤々としたワインを。
「一献傾けたいと思うのだが、受けてくれんか」
 そう言うとワイングラスを僕に突き出した。これを飲めと言うことだろうか。別に酒は飲めない訳ではない。だが何だろう、心の奥で抵抗する力が働いている。飲むな、飲んではいけない、そう叫ぶ声がある。
「どうした、ワシの酒は飲めんのか。ん?」
 その言い方に、カチンと来る。足が一歩出かかる。しかし、左手に熱を感じた。滝緒が僕の手を握り締めている。
「唐渡さま」香春が僕と唐渡修七郎の間に立った。「そのお酒、私めにいただけませんでしょうか」
 しかし唐渡修七郎は手を振った。グラスが投げつけられる。それが香春の顔に当たる寸前、割って入った巌の背に当たって落ちた。
「何しやがる」
「メイドごときが出しゃばるな。不愉快だ」
「んだとてめえ」
「巌さま」
 香春は巌の腕を取り、抑えようとしている。それを唐渡修七郎はつまらなさそうに見つめた。
「ワシは女には興味がない」そして歯をむき出した。「それに民対にも興味はない」
 その瞬間、光が消えた。


 暗転。何も見えない。しかし一瞬後、僕らを包む闇を払ったのは、滝緒の懐中電灯だった。光は滝緒を、僕を、巌を、香春を照らした。全員いる。次いで壁を照らし、天井を照らした。何もなかった。シャンデリアも、黄金色の柱もない。壁にも天井にも何も描かれていなかったし、そもそもそんなに広い部屋ではなかった。ちょっと広めの旅館くらいの広さ。十畳ほどか。三方の壁は薄汚れた灰色で、扉はなかった。残る一方には大きな窓。ステンドグラスではない。ただの透明なガラス窓。外も真っ暗だ。だが空には星明りが見える。思わずそちらに歩み寄ったその僕の足首を、何かがつかんだ。前のめりに倒れかけた僕の、今度は襟首がつかまれた。
「動き回んじゃねえよ」
 闇に響く巌の声。滝緒の懐中電灯が僕の足元を照らした。そこにあったのは、人間の腕。床から生えた青白い人間の手が僕の足首をつかんでいたのだ。その手に、白い串のようなものが突き刺さる。声こそ聞こえなかったが、青白い手は悲鳴を上げたかのように震えると、姿を消してしまった。巌は僕の身体を起こすと、床の四方に向かって何かを投げつけた。さっきの串のようなものだろうか。
「今の何」
「何ってただの白木の串だよ」巌は一本、袂から串を取り出して見せた。「結界を張るってよく言うだろ。まあそれだ」
 滝緒が懐中電灯で床に刺さった串を照らした。その串の向こう側には、青白い腕が何本も床から生えている。いや、床だけではない。壁からも、天井からも、腕が無数に生えていた。
「こ、ここここここ」
「だからおめえはニワトリか、っつうんだよ」
 焦る僕に対して、巌は軽く笑った。
「ここここれ、何だよこれ」
「何って霊だろうよ」
「霊?幽霊とか悪霊の霊か」
「死霊生霊怨霊精霊、浮遊霊に自縛霊、いろいろあるぞ」
 僕は頭を抱えた。妖精、魔女、バンシーと来て、今度は幽霊か。何でこんなことにばかり巻き込まれるんだ。
「それで、結界の内側は大丈夫なのか」
「もう落ち着いたのか。早えな」驚くというより半ば呆れた顔で、巌は言った。「大丈夫かどうかはわからねえな。あのジジイ次第だ」
 あのミイラもどきの老人。
「あの人も幽霊なのか」
「だろうな。嫌な名前してやがったが」
「嫌な名前って何だよ」
「唐渡修七郎。俺の記憶が間違ってなきゃ、唐渡の先々代だ」
「その唐渡がわからん。有名人なのか」
「業界では有名人です」香春が答えた。「鳳凰グループ、旧財閥系としては最も小さな企業集団ですが、その中で最古を誇り、財閥の基礎を作ったツバメ製鉄を代々経営していたのが唐渡家です。唐渡修七郎といえば先々代のツバメ製鉄会長の名前で、オカルトに傾倒した人物としても有名です」
「……何でそんなこと知ってるんだ」
「五十雀家の家政婦長ですから、この程度は当然の知識です。鳳凰グループの方が見えられることもありますし」
 香春は胸を張った。
「へえ、凄いな、香春」
「いえいえ、それほどでも」
 そのとき、滝緒が結界の外に片足を出した。明らかに、自分から出した。
「あーっ、捕まっちゃった、菊弥助けて」
「いや、見てたから。何やってるの」
 滝緒の足首をつかむ青白い手に、白木の串が突き刺さった。香春がニヤリと笑う。
「ほうら、助けてあげましたよ、喜びなさい」
「うっさいわ、余計なことすんな、馬鹿女」
「まあ、お聞きになりましたか、頂さま。何て下品な女なのでしょう。近づくと下品がうつります。ささ、離れて離れて」
「こらこらこら、菊弥に触るなこの馬鹿女」
「やかましいわ!」
 突如、部屋全体を揺るがす大声が響いた。無数の青白い腕は、恐れおののくように引っ込んでしまった。直後、天井一面に、プロジェクションマッピングのように巨大な顔が映し出される。貧相な老人の顔が。
「死の恐怖でじわじわと締め付けてやろうと、この部屋に放り込んだのだぞ。それを貴様らという奴らは」
「すまねえな。こちとら腕の幽霊くらいじゃ怖がらねえ奴ばっかりでよ」
 巌が笑った。いや、嗤った。それは相手のプライドを傷つけたようで、老人の顔は一瞬眉間に皺を寄せた後、うっすらとした笑みを顔に張り付けた。
「構わんさ。どうせ、これで最後だ」
「ねえねえ」滝緒が老人の顔に向かって懐中電灯の光を向けた。「どうせ最後なら聞いてもいいかな」
「な、なんだ、こら、まぶしい」
 滝緒は懐中電灯を下に向けた。
「ここって4階の一番端の部屋よね。つまりは今までこの部屋から見えた強い光はあなたたちが起こしたってこと?もっと正確に言うなら、あなたが誰かを殺すたびにここから光が発せられたってことでいいのかな」
「ああ、そうだ、そうとも。貴様ら同様、民対の犬どもを喰らってやった証があの光よ」
 ニンマリ、滝緒は笑顔を浮かべた。その笑顔を僕に向ける。
「いまの聞いたわよね」
「え、うん、聞いたけど」
「巌も聞いたでしょ」
「ああ、聞いた聞いた」
 滝緒は天井の老人を指さした。
「証人は確保しました。あなたを文化庁文化部宗務しゅうむ課民間伝承対策室の権限において特定危険霊障と認定し、排除します」
 しかし。
「馬鹿めが!」
 唐渡修七郎の叫ぶ声と共に、何かが僕らの眼前に飛び出した。落ちてきた、と言う方が感覚的には正しいだろうか。それは部屋を埋め尽くす巨大なレンガの壁。と、その壁の中央部分が突然崩れた。まるで口が開くように。その空間から発せられたのは、身体を溶かさんばかりの熱風。そして目を焼く強い光。光はガラス窓を抜け、海の彼方を照らした。
「ちょっと、何よこれ」
 熱風に押されて、滝緒は目を開けることができない。
「無学な公僕に教えてやろう。これが溶鉱炉というものだ」唐渡修七郎の笑い声が響く。「それもただの溶鉱炉ではない。我が唐渡家代々が精魂込めて育て上げたツバメ製鉄の初代溶鉱炉、一番高炉の付喪神つくもがみだ。貴様らごときの半端な霊力でどうこうできる存在ではないわ。諦めろ。さあ喰らえ、喰らってしまえ」
 溶鉱炉はさらに大きく口を開けた。その中には舌のように、溶けてオレンジ色に輝く鉄がうねっている。その舌が、いまにもこちらに飛び出てきそうに思えた。これはヤバい、本格的にヤバい。
「リリイ、何とかならないの、リリイ」
 僕は肩のリリイに呼びかけた。しかし返事がない。まるで死体のように。だが肩にはつかまっている。死んでいるはずがない。
「巌、何とかしなさい」
 滝緒のそれは無茶振りに思えた。だが巌は慌てる様子もなく、溶鉱炉に背を向け、宙をじっと見つめている。
「何とかしてほしかったら、時間を稼げ」
「ああもう」滝緒は胸のポケットから、手帳を取り出した。そして溶鉱炉の口に向かって投げ込む。「これでもくらえ!」
「馬鹿め、そんな物が」
 嗤う唐渡修七郎。手帳はボッと音を立て、炎に消えた。その瞬間。天地を貫く衝撃。爆音。もうもうと上がる煙。溶鉱炉はうめき声を上げながら、たまらず口を閉じた。
「貴様、何をした」
 天井の唐渡修七郎の顔が怒りに歪む。滝緒はススだらけの顔を上げてニッと笑った。
「神札千枚溶かした特製の手帳よ。ちょっとは効いたでしょ」
 そのとき。
「キョッ」僕の肩で、リリイが声を上げた。「キョッ、キョッ、キョッ、キョッ、キョッ、キョッ」
「何、何なの」
 滝緒はあっけにとられてこちらを見ている。いや、僕に聞かれても困るのだが。香春もこちらを見ている。そして唐渡修七郎まで見ている。ちょっと、どうするんだよこれ。おろおろする僕の肩の上で、リリイは翼を広げた。
「キョッ、キョッ、キョーセイカイニュー、キョーセイカイニュー、キョーセイカイニューオヨビキョーセイサイキドーヲジッコウスル」
 そこに。ぐるるるるる、うなる声。それを発しているのは溶鉱炉だった。
「うそ、まだ動けるの」
 滝緒の驚きを、唐渡修七郎の怒声がかき消した。
「我らの一番高炉があの程度でくたばるものか。さあ我らの威を知らしめよ。今度こそ喰らってやるがいい」
 溶鉱炉が再び口を開いた。オレンジ色の輝く舌がうねる。
「再起動確認」 
 肩の上のリリイが声を上げた。だがそれはリリイの声ではない。
「え、トド吉?」
「説明は後!」
 僕の右腕が勝手に動いた。左上から右上に、そして右下から左下へと空を四角く切り取る。
「総転移ウィンドウ!」
 トド吉の声をかき消すように溶鉱炉が吠えた。溶けて輝く鉄の舌が、激流となって僕らへと襲いかかる。しかし。そのオレンジ色の流れは僕らに届く寸前で、空中に現れた四角形の枠内へと飲み込まれていった。滔々とうとうと流れだし、飲み込まれて行くオレンジ色の流れ。そして、溶鉱炉の口からは、とうとう何も出てこなくなった。腹の中に溜まっていたものをすべて吐き出した溶鉱炉は、明らかにひるんでいる。
「どうした、一番高炉。おまえはこんなものではないはずだ、最後の力を出せ」
 出来の悪い父親のような励ましを唐渡修七郎から受け、しかし溶鉱炉の付喪神は固く口を閉じてしまった。一瞬の静寂。それをかき消したのは、巌の声。
「見つけた。やっぱり居るじゃねえか」
 巌は溶鉱炉に背を向け、右斜め上30度くらいの中空を見つめている。
「おい、おめえ。聞こえてるよな。聞いてるなら返事くらいしろよ」
 誰に話しかけているのだろう。もちろん僕たちにではない。唐渡修七郎にでもない。それ以外の誰かに、巌は話しかけていた。
「巌……誰と話してるの」
 滝緒がおそるおそる声をかけた。
「は、恐怖で気でも違ったか。この屋敷にはワシと泊戸以外には貴様らしかおらん」
 その唐渡修七郎の言葉に、巌は小さく振り返った。
「それが、居るんだな」そしてニヤリと笑ってみせた。「こういうデカい、それでいてオフィスビルみたいに人が出入りするようなタイプじゃねえ、普通に人が暮らす建物には、霊的な、それも幽霊だの怨霊だのといった連中よりも高次の存在が住み着くもんなんだよ。そいつが霊的な場を作る。それが良い方に傾きゃ聖地にもなるし、悪い方に傾きゃここみたいに亡霊の住処になる訳だ。つまりてめえらがこの洋館にとり憑けたってのは、別に生前オカルティストとして正しいことをしてたからじゃねえ。既にここに霊的な場が出来上がってたってことだ。てめえらは他人の作った台の上にポンと乗っかっただけなんだよ」
 僕は唖然とした。これまで曲がりなりにも友人として付き合ってきて、巌がオカルト的な話をするのを聞くのは初めてだったのだ。と言うか、へっぽこ陰陽師はへっぽこすぎて、そういう話はできないのだと勝手に思っていた節がある。きっと滝緒もそうだろう。いや。滝緒は唖然とはしていなかった。それどころか、ようやく納得した、という顔である。香春は言わずもがなと言うべきか、平然としていたし、呆気にとられていたのは僕と、唐渡修七郎の二人だけだった。
「な、何を馬鹿なことを。そんなたわごとをワシが信じるとでも思ったか」
 唐渡修七郎は動揺しつつも、天井いっぱいにドアップの顔で笑ってみせた。
「おい、たわごととか言われてんぞ。いい加減、返事くらいはしたらどうよ」巌はその名を呼んだ。「屋敷神よ」
 ずん。洋館が震えた。
「おめえの言いたいことはわかってるよ。人間世界の善悪なんぞ、おめえらは知ったこっちゃねえんだろ?だからこれまでのことはどうこう言わねえ。ただ、ここで動かねえんなら、悪いがこの洋館はぶっ潰すことになるな。だがおめえが動いてくれるんなら、ここはしばらく現状維持ってことにしてやる。なんなら新しい屋敷を建ててやってもいい。悪い話じゃねえと思うが」
 ずん、ずん、ずん、洋館が3度震えた。
「ようし、取引成立だな。……じゃあゴミどもを引きはがせ!」
 洋館が絶叫した。その狂おしい声に窓ガラスはびりびりと振動した。壁から、床から、無数の淡い光を浮かべた白っぽい塊が浮き出し、窓の方へと飛んで行くと、ガラス窓を通り抜け、外の世界に逃げ出して行った。溶鉱炉も震えだした。その全身に細かいヒビが入ったかと思うと、バラバラと崩れだし、あっという間に割れたレンガの山になった。
「あああ、よせ、やめろ、ワシを引きはがすな、引きはがさないで、ワシを」
 天井一面に広がっていた唐渡修七郎の顔は、風船がしぼむようにみるみるうちに小さくなり、普通の人間の顔の大きさになった。そしてそこから、まず鼻先が天井面から突き出した。そして顔面、やがて頭全体がぶら下がった。そこまで来ればあとは一気である。肩口が、胸が、腹が、腰が、脚が順々に、まるで絞り出されるかのように天井から現れた。足首の部分で少し抵抗したが、最後は吐き出されたガムのように、床の上に落ちた。ミイラもどきの、裸の老人。唐渡修七郎は屈辱的な表情を浮かべて顔を上げる。よろよろと立ち上がると、執事を呼んだ。
「泊戸!」
「お呼びでございますか」
 泊戸はどこからともなく現れたかと思うと、主人の肩にガウンをかけた。ガウンに袖だけを通すと、唐渡修七郎は言った。
「もはやこれまで。最後に一矢報いる。力を貸せ」
「お供いたします。ご存分に」
 途端、唐渡修七郎と泊戸の姿が崩れた。そしてゆらゆらと燃える青い炎に姿を変えた。
「こうなれば、この屋敷ごと燃やし尽くしてくれる。死なばもろとも!」
 ごうっ、と音を上げ、激しく燃え上がった青い炎は天井に達する。
「おまえもう死んどるやんけ!」
 トド吉の声はそう突っ込むと、総転移ウィンドウを叩きつけるように炎にかぶせた。青い炎はその中に、跡形もなく飲み込まれた。部屋を包む静寂。ずん。また洋館が震えた。部屋の壁の一角が崩れ、その向こうに扉が現れた。
「おう、出口か」巌がドアのノブをつかんだ。「固えな。」
「お手伝いします」
 香春が一緒になってドアを引っ張っている。
「あの2人はどこへ行ったの」
 僕は肩の上の、トド吉の声をしたリリイに尋ねた。
「上空4万キロ。静止衛星軌道よりも向こう。まあ、要するに宇宙空間やな」
「そんなに遠いと、もう戻ってこれないのか」
「さあな。元々が場に依存したエネルギー体やろ。場から切り離された宇宙空間では状態を維持することはでけへんのやないか。物理的な推進力もないやろしな」
「そういうものなの」
「そういうもんや」
「へえ、そうなんだ」
 背後から、滝緒がのぞき込んでいた。
「えっ、や、いや、あの、これは、セキセイインコだから」
「ああ、そっか。セキセイインコは言葉覚えるの上手だものね」
「そ、そう、そうなんだ」
「それで私が納得すると思ってるのかな」
 笑顔が怖い。と、僕の肩から小さなため息が聞こえた。
「人にものをたずねるんやったら、自分からまず名乗ろうや」
「あ、それもそうね」滝緒は胸ポケットから名刺入れを取り出すと、名刺を差し出した。
「文化庁文化部宗務課、民間伝承対策室の吉備滝緒です」
「え、たきおん市役所の人じゃなかったの」
 受け取った名刺には、ちゃんと文化庁云々が書いてあった 。
「だから申し上げましたでしょう」香春がドアを引きながら言った。「この女は頂さまの考えておられるような人間ではないのです」
「うっさいな、だからいま説明してんでしょ」そして滝緒は小さく舌を出した。「市役所へは出向で来てたの。別にだますつもりはなかったのよ。いずれ話すつもりだったの。ごめんね」
「巌は知ってたの」
 ばつの悪そうに頭をかきながら、巌はうなずいた。
「まあ一応な」
「巌は民間の協力業者ってことで、たまに手伝ってもらってたのよ」
 滝緒は手をもみ始めた。「社長サン!」とか言い出しそうな勢いだ。
「ワイからも聞いてええかな」トド吉声のリリイがたずねる。もう隠すつもりもないようだ。「この民間伝承対策室って何するんや」
「ああ、それはイロイロよ。仕事の幅は広いわ。とりあえず、幽霊、妖怪、妖精の類、いわゆる既成宗教がカバーしてない民間伝承に関わることはすべて我々の管轄になります。つまり」滝緒は満面の笑みを見せた。「宇宙人もね」
「なるほどな、そやから菊弥をわざわざ危ない場所に引っ張り出したんか」
「あ、違うの、それは違うの」
「違わへんやろが。宇宙人の情報が欲しいから、こんな物騒なとこへ菊弥を連れてきて、ワイらの出方を見たんやろ」
「そうじゃないの、そういう面がまったくない訳じゃないけど、ここは私一人で解決できると思ってたの。菊弥を連れてきたのは話の流れでイロイロ聞けるかな、って思っただけで。まさかここまで大変なことになるとは思ってなかったのよ」
「それを信じいっちゅうんか。アホかふざけるな!おまえのうっかりのせいで菊弥が殺されたらたまらんわ!おい菊弥、もうこいつらと縁切れ」
 リリイの姿をしたトド吉は、完全に切れてしまっていた。
「いや、ちょっと待ってよトド吉、そんな急に言われても」
「そうよ、そんな一方的に。もうちょっと話を聞いてくれても」
「アカン!記憶消されへんだけ有り難いと思え。菊弥、もう帰るぞ」
「帰るって言われて……も、あれ?」
 僕の目の前には、伝蔵とリリイのケージ。滝緒も巌も香春も居ない。と言うか、周りの風景が、あの洋館の部屋ではない。見慣れた小鳥ホテルの鳥部屋だ。
「どういうこと」
「どうって、空間転移で帰ってきたんやがな」
 トド吉はパスタのケージの上に止まっていた。
「空間転移なんてできたんだ」
「それくらいできるわ。馬鹿にすんなよ」
「そんなことより」ボタンインコの伝蔵が咳ばらいをした。「リリイを目覚めさせろ」
「ああ、そうだリリイ。リリイは大丈夫なの」
 僕は肩に手を伸ばし、リリイをそっとつかんだ。静かに爪を肩から外し、手のひらに乗せる。動かない。その手のひらに、トド吉が飛び乗った。
「大丈夫や。リリイ自身は気絶しとるだけやから」
「気絶?」
 モモイロインコのミヨシが説明を引き継ぐ。
「あの洋館の周りには霊的な力が高密度に広がっていたのよ。防風林を抜けるのに苦労したり、部屋が実際以上に大きく感じたりしたでしょう。リリイは坊やたちと違って身体が小さいから、神経回路が負担に耐えきれなかったのよ」
「そうか、空間がねじれてた訳じゃなかったんだ」
「物理的には何も起きていなかった。みんな外部から脳に入力されたイメージだったのよ。あの溶鉱炉と最後の青い炎以外は」
「つまりあれは実体があったんだ」
「エネルギー体としてはね。実体がなければ総転移ウィンドウで飛ばすこともできなかったわよ」
 トド吉がリリイの頭をつつく。つついてるようにしか、僕には見えない。ヨウムのパスタが心配そうにのぞき込んだ。
「本当に大丈夫ですか」
「だーいじょーぶ。任せなさい」
 トド吉は自信たっぷりにそう言った。
「さっきはトド吉がリリイの中に入ってた、ってことでいいの」
「入ってたっていうのは微妙に違うけどな。この星のコンピューターでも外部メモリーに積んだOSから起動することできるやろ。そんな感じや」
 なるほど、わかったようなわからないような。
「よっしゃ、準備は完了。ミヨシ、やってくれ」
「はいはい。じゃ、起こすわよ」
 ミヨシは一回うなずいた。それだけ。リリイは一回身体を震わせると、パチリと目を開け、僕の手の上で身体を起こした。そして羽根を膨らませた。
「リリイ、大丈夫?」
 僕の言葉に、リリイは横目で僕を見上げると、具合悪そうに言った。
「大丈夫です。大丈夫ですけど、あー、何だろ。気持ち悪い。何か変なものが頭に入ってきたような感じです。すごい気持ち悪い」
「何か……傷つくわ」
 トド吉は、しょげ返ってしまった。
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