ことり会議

柚緒駆

文字の大きさ
5 / 8

鳥落とす声

しおりを挟む
 いよいよ秋も本番である。山々の紅葉も美しいこの時期に、台風が近づいているという。とはいえこの辺りは予想進路からは外れているし、それほど気にする必要もないのだけれど、それでも大雨は降るかもしれない。あんまり晴天が続くのも、紫外線的に嫌なものなのだが、降ったら降ったで厄介なんだよなあ。特に今は。
 今は真昼、普通ならば昼飯時なのだが、僕は小鳥ホテルの玄関ホールでお客様を待っていた。当ホテルの営業時間は午後8時からだが、事前に申し出があれば、それ以外の時間でも対応する。どうしても昼間に預けたいという飼い主さんもいるのだ。余程の不都合がない限りそういうことにも配慮しなければ、サービス業はやって行けない。まあ、実際やっていけてるのかどうかという点には疑問符がつくのだけれど、それはそれでまた別の話だ。
 約束の時間は12時。いまはそれを15分ほど過ぎたところ。さて、何時ごろになるのかな、と長期戦も覚悟しだしたとき。駐車場に黒いミニバンが入ってきた。ちょっとスピードオーバー気味である。前から駐車場に停め、運転席から飛び降りると、後部のスライドドアを勢いよく開け、ケージと紙袋を取り出すと、ドアも閉めないでこちらに走って来る。そして玄関前まで来たときに内側の僕に気づき、神妙な顔でガラス扉を押し開けた。そして風除室からホールの中に入って来ると、いきなりケージを持ったまま頭を深く下げた。
「すみません、遅れました!」
「いやいやいや、そこまで遅れてないですから」またえらい真面目な人だな。そう思いながら僕はケージに手を伸ばした。「とりあえず、ケージ預かります。あ、紙袋も」
「はい、すみません、よろしくお願いします」
 手渡されたのは、およそ45センチ角のインコ用ケージ。慌てふためく飼い主とは対照的に、中の鳥はどっしりと落ち着いていた。そして一声、「カア」と鳴く。バイオカラスだ。厳密に言うなら、バイオカラスはペットホテルでは預かれない。普通に考えれば野鳥だからだ。野鳥は基本、飼うことは禁じられている。ただ自治体によって差があるが、特例として、『保護』という形なら飼うことも可能になる。しかしこれには当然自治体の許可が必要であり、そして許可は個人に限定される。すなわち許可を受けた者以外は野鳥を飼育してはならないのである。それが短期間であろうと、ダメなものはダメなのだ――つまり本当に厳密に言うなら、許可を受けた者の家族が野鳥の世話をすることもダメなはずだ――だからペットホテルでは預かれない、というのが通説である。別に鳥獣保護法に『ペットホテルで預かってはならない』と書かれている訳ではない。あと、バイオカラスを本当に『野鳥』のカテゴリーに入れていいのかどうか、と言う点で議論があるのも事実だ。でも普通なら預からない。申し訳ないがお断りする案件だ。しかし僕も人間、「どうしても、仕事の都合でどうしても3日だけ家を空けなければならないのです。その3日だけ預かってもらえたら」と熱心に頼まれたら、ダメなものはダメ、と機械的に断ることはなかなか難しい。まして他に預かっている鳥の居ない期間である。
「あ、あの、何か書いたりしなくていいんでしょうか」
 飼い主氏は手で書くジェスチャーをしながら、心配そうに聞いた。本当に真面目な性格なのだろう。サングラスで目の表情は見えないが、たぶん僕より少し若いくらい。親が厳しかったのだろうか。
「いえ、ご予約のときも申し上げましたが、本来預かっちゃいけない鳥です。記録を残す訳にも行かないですし、その点、加津さんもご内密によろしくお願いします」
 加津功かづいさお、それが彼の名前である。『いさお』と『いわお』、一字違うだけでえらい違いだな、と思った。
「なにぶん他の人に預かってもらうことも初めてなので、よろしくお願いします。では」
 そう言いながら上着の胸ポケットから財布を出した。
「はい、3泊で4千5百円になります」


 加津氏は途中何度も振り返りながら車に戻り、今度は落ち着いて車を発進させた。それを見送ってから、僕は客室に入り、バイオカラスのケージに餌と水が入っているか確認した。餌はふやかしたドッグフードを与えているようだ。こちらは大丈夫だったが、しかしやはり水はほとんどこぼれている。水を入れなきゃな、とケージから水の容器を取り出すと、バイオカラスが一声鳴いた。
「クウちゃん」
 そのときになって、僕はこのバイオカラスの名前を聞いていなかったことに初めて気づいた。凡ミスもいいところである。
「そうか、おまえクウちゃんっていうのか。カアちゃんじゃないんだな」
「クウちゃん」
「了解、クウちゃん。水入れてくるからちょっと待っててな」
 僕は一旦玄関ホールに出ると、キッチンに向かおうとして、鳥部屋のドアを開けた。その途端。
「キャーッ!」
 セキセイインコのリリイが奇声を上げて僕の顔に飛びついてきた。
「いったい何。何事だよ」
「さっきのカヅですよね。カヅでしたよね!」
「おいおい、飼い主さんを呼び捨てはやめてくれないかな」
 するとリリイは、足で僕の顔にぶら下がったままで、心外である、という顔をした。
「そういうことじゃありません。菊弥さんはさっきの人が誰なのか、知らないんですか」
「だから飼い主さんの加津さん」
「そうじゃなくて!あれはカモミールスーパーマーケットのボーカルのカヅなんですよ!」
 カモミールスーパーマーケット、そんな名前を最近聞いたような気がしないでもない。だが。
「知らないなあ」
「もう、このあいだ話したじゃないですか」
「覚えてない」
「おじいちゃんですか!」
「そんなこと言われても、興味ないんだから仕方ないじゃない」
「菊弥さんは老けすぎです。もうちょっと若者らしくしてください。だから女の子にもモテないんです」
「それは余計なお世話だ」
「好意的助言です」
「いいんだよ、知らなくていいことは知らなくても。芸能人だからって特別扱いできる訳じゃないんだし」
「すればいいのに。一晩タダとか」
「自分の仕事の存在意義を否定するような真似はできないよ」
「頭固いなあもう」
「他に取り柄がないんでね」
 僕はリリイを指に乗せるとケージの上に誘導し、クウちゃんの水を入れるためにキッチンへと向かった。そのとき、ふと、さっき加津氏が言っていた「何か書く」っていうのは、もしかしたらサインのことだったのかな、と思い至ったが、まあ済んだことである。気にしても仕方ない。


 その日は他に来客もなく、天候も穏やかなまま一日が過ぎた。世はなべて事もなし。いや、本当の所、まったく何もなかった訳ではないけれど、僕個人ではいかんともしがたいことであったし、何も見なかったことにして玄関の照明を落とした。
 翌日は来客も一切なく、静かな1日。クウちゃんのカバンの中には餌と一緒におやつとして、食塩不使用の食パンが入っていた。小さくちぎってあげてみたら、食べる食べる。あっという間に1枚食べきってしまった。これはあげすぎちゃいけないな、餌を食べなくなるかもしれない。注意しよう。そんなことを思いながら1日が終わった。


 クウちゃんを預かって3日目、曇り空。台風はこちらには来ないものの、南下する前線を刺激している。雨が降る予報。大雨にならなければいいけど。いや、いっそ大雨が降ればいいのかもしれない。大雨が降れば、さすがに。
 PCで天気予報を見ながら朝食を食べていると、突然頭の中にリリイの声がした。
【テレビ見てますか】
「見てないよ。何かあったの」
 テレビはPCの隣にある。マルチディスプレイとしても使えるのだが、普段はそんなにウィンドウを開く訳ではないので、PCと同時に起動したりはしない。テレビ番組も、せいぜい夜7時のニュースくらいしか見ないので、ほとんど使われていなかった。そのテレビが勝手に起動した。そしてチャンネルが次々に変わって行く。すごいな宇宙人、こんなこともできるのかと見ていると、あるチャンネルで止まった。民放の朝の情報番組である。画面には滔々とうとうと流れる茶色い水が映っていた。今回の台風の影響で、どこかの堤防が決壊し、水が住宅地に流れ込んだようだ。こういう報道なら民放より公共放送の方が詳しいんだが。
【見ててください】
 カメラの映像は住宅地を離れて河を映しているらしいが、一面茶色い水だらけで河とはわからない。もうちょっとカメラを引いた方がいいんじゃないだろうか。と思っていると、河の真ん中に大きな建物が現れた。取材記者が中州がどうこうと叫んでいる。なるほど、この建物は中州に建っているのか。普段は両脇を静かに河が流れているのに、一気に増水してこんな河面から突き出たようなことになったわけだな。こりゃ大変だ、中にいる人は屋上からヘリで脱出するしかないんじゃないか。僕がそう思った瞬間である。画面が揺れた。そしてカメラは下から上へと流れる景色を映し出し、暗転した。
【ついさっき起こったことです。テレビ局は繰り返しこの映像を流しています】
「何だこれ。何が起きたの」
【撃墜です】
「撃墜?」
【取材ヘリが何者かの攻撃を受けて撃墜されたんです。そうとしか考えられません】
 僕は思わず立ち上がった。ようやく頭が目覚めた気がした。


――この地域では深夜に堤防が決壊し、多くの住宅に被害が出ていました。墜落したヘリはその様子を取材中で、中州に建っていたホテルを撮影しているときに機体にトラブルが生じて墜落した模様です――
 時刻は午前8時を過ぎている。テレビ各局は先を争ってヘリを飛ばし、河の中に落ちた哀れな同業の機体を映像に収めていた。
「命知らずだなあ」
 テレビに向かってつぶやく僕に、リリイは言った。
「撃墜されたなんて思ってないんですよ」
「まあこの国の平素の状態なら、そう思うのが当然よね」
 ミヨシは面白そうに周囲を見回している。普段はキッチンに入ることがないからだ。キッチンには鳥の身体によくないものがたくさんある。人間の食べ物しかり、フライパンやオーブンのテフロンしかり。宇宙人にはどうということもないのかもしれないが、万が一を考えて、普段はキッチンには僕以外立ち入り禁止だ。でも今日は仕方ない。
「何かわかったか」
 伝蔵がトド吉に声をかける。トド吉はPCのモニターの上に止まっていた。PCの画面はめまぐるしい速度でどんどん変わって行く。何が表示されているのか僕にはさっぱりわからない。
「わかった、ちゅうか、映像にはそれらしいもんは何も映ってないんやけど」PCの画面には、何かの波形のようなものがたくさん並んでいる。「ヘリが落ちる寸前に人間の可聴域外の音波が記録されてるな。物凄い音圧で」
「ふむ。で、おまえの見解は」
「超低周波砲やろな」
「さらっと言いおったな」
 その伝蔵の言い方が気になった。
「超低周波砲って、もしかして物凄いものなの」
 伝蔵はうなずいた。
「音を砲弾とする、という発想自体はそう突飛なものではない。この惑星でも過去にそういう兵器を作ろうとした者はいるだろう。だが破壊力が減衰することを計算に入れて狙いを定め撃ち出す、ということなら、普通の金属製の砲弾を使った方が合理的だ。音波砲のメリットは重たい砲弾を砲にセットしなくて済むということと、砲弾が相手から見えないという2点くらいしかない。それは超低周波砲でも同様だ。技術的には作れても、コストに見合うだけの効果が出せるかというと、はなはだ疑問なのだ。だから普通は実用化はされない」
「それを誰かが実用化した」
「よほど酔狂なやつか、それとも何か理由があるのか」
 黄金の髪、白い肌。僕の脳裏には、あの名も知らぬ男の姿が浮かんでいた。根拠も確証も何もないが、あの男が絡んでいるような気がしてならない。と、そのとき。
「超低周波検知!」
 トド吉が叫んだ。次いでテレビを見ていたリリイが声を上げる。
「2機目、落ちました!」
 落ちたのはまた民放の取材ヘリ。河の中から突き出た建物――ホテルだそうだ――を撮影中に墜落した。
「1機目とまったく同じか」
 伝蔵の言葉に、しかしトド吉は振り返った。
「いや、まったく、ではないみたいやで」
 2機目のヘリに搭載されていたカメラの映像が、PCの中に映っている。どこからどうやってダウンロードしたんだろう。宇宙人の技術は変なところが凄い。その映像が止まった。コマ送りされている。
「ここやな」
 完全に止まった映像を、今度はクローズアップする。どんなソフト使ってるんだろう。気になる。画面ではホテルのバルコニーの部分がどんどん拡大されていく。と、1か所だけ、窓が開いていた。そこからバルコニーに出てきたのであろう、一人の人物。チェックのスーツに、いわゆる鳥打帽をかぶった男の人。口に両手をあてて、何か叫んでいるかのように見える。よくここまで鮮明に拡大できるものだな、僕が感心していると、ミヨシが何かに気づいたようだ。
「この部屋の中、何か居るわね」
「んー?」
 言われてトド吉は画面を見つめた。画像の色がどんどん変わって行く。明度と彩度を変化させているようだ。徐々に部屋の中に居るものの影が浮き上がって来る。それは。
「……馬?」
 暗い部屋の中に居たそれは、黒い馬に見えた。僕の頭の中を記憶が走る。これはあの、恵海老人と戦った黒い馬ではないのだろうか。
「可能性はあるわね」
 僕が口に出すより先に、ミヨシが答えた。
「だが何故だ。何故あの馬がここに居る」
 伝蔵はまだ懐疑的だ。しかし。
「何故、って言うか、まずホテルの部屋の中に馬が居ることが変だよね」
「確かに」
 僕の言葉にリリイがうなずいた。
「変なことやったらまだあるで」トド吉は画面を見つめている。「このホテル、ざっと見たとこ十階建てくらいやと思うんやが、なんで他の部屋の客はバルコニーに出てけえへんのやろ。よしんばバルコニーに出られへん理由があったとして、屋上に出て救助を待つとか何とかすることはあるやろうに、このおっさん以外、誰も外に出てないのは変やろ」
「それも確かに」
 リリイはまたうなずいた。伝蔵は難しい顔で目を閉じている。パスタは画面をのぞき込み、ミヨシは少し飽きてきたような顔だ。みんな黙ってしまった。キッチンにはテレビの音声だけが延々と流れている。こんなときでもCMを流すんだな、僕がどうでもいいことに驚いていると、突然壁の電話が鳴った。うちはいまだに固定電話なのだ。光電話だけど。
「はい、もしもし、『小鳥ホテル いただき』です」
 誰だろう、表示された電話番号は未登録の番号だったが。
「ああ、良かった、やっとつながった」電話の主は、受話器の向こうで随分とホッとしているようだった。「このあたりの電話回線パンクしてるみたいで、なかなか通じなかったんです、すみません」
「いや、あの、えっと、どちらさまでしょうか」
「ああ!すみません、加津です。一昨日鳥をお預けした加津功なんですが」
「あ、加津さんでしたか」振り向いたリリイが目を輝かせた。「どうなさったんですか。急に」
「いや、それが、何て言えば良いんでしょうね」
「はあ」
「いま、テレビって点いてますか」
「ええ、まあ」
「そのテレビに映ってるホテルなんですよ、いま居るのが」
「……えっ」
「で、いつここから出られるかわからないんで、明日のお迎え行けるかどうか、いまの段階ではわからないんです。大変に申し訳ないのですが、もしかしたら、もう1日か2日延長させていただくことになるかと思うのですが、その、大丈夫でしょうか」
「ええ、お預かりに関しては大丈夫ですけど、加津さんの方は大丈夫なんですか」
「いや、それが大丈夫とも何とも言えなくて。変な話なんですが」
 加津氏がそれから話した『変な話』に、僕たちは息を呑んだ。


 こちらへは仕事で来たのですが、台風の予想進路に幅があり過ぎて、継続するか中止するかの判断がギリギリまでできませんでした。まあ結局初日は中止になったのですが、どのみち仕事は2日ありましたから、2日目だけでもできればと思ってこのホテルに滞在した訳です。で、昨日の夜中のことなのですが、突然部屋の電話が鳴りまして、何事かと思って出てみたら、いきなり「堤防が決壊する。すぐに4階の宴会場に集まれ」って言われたんです。でも夜中のことですし、頭も寝ぼけていますから、しばらくぼんやりしていると、今度は部屋の外の廊下を大勢の人が走って行く音がしました。その人たちが叫んでいるんです「今すぐ4階の宴会場に集まれ!」って。慌ててドアを開けてみたら、誰もいない。他の部屋の人たちも、ドアを開けてキョトンとしていました。でもやっぱり不安になるじゃないですか。他のメンバーやスタッフにもたずねてみたら、みんな同じ電話を受けて、同じ声を聞いていたんです。それでとりあえず、宴会場に行ってみました。そうしたら、ホテル中の人たちが集まっていました。どうやらみんな同じ体験をしているようでした。それで5分くらいしたときですかね、急に真っ暗になったんです。停電したみたいでした。でも、このホテルは屋上に非常用電源があるらしくて、すぐに非常灯が点いたんです。すると、えっと、どう言えばいいのかな、信じてもらえないかもしれないですけど、宴会場の真ん中に、真っ黒い大きな馬がいたんです。しかも、後ろ2本足で立って。目が花火みたいにチカチカ光ってました。で、その馬が、しゃべったんです。人間の言葉をしゃべりだしたんです、馬が。
「諸君の身の安全は保障します」
 それが第一声でした。
「ただし各自部屋の中でおとなしくしていること。ここから逃げようとしないこと。順守すべきルールはそれだけ。それ以外はすべて自由です」
 馬はそう言いました。そしたら非常灯が消え、また真っ暗になって、でも次の瞬間照明が普通に点いて、でも、馬はもうそこにはいませんでした。夢でも見たのかな、って最初は思いました。けど、そのとき宴会場にいた人間が全員あの馬を見たんです。声を聞いたんです。それは間違いのないことでした。いったいどういうことなんだろう。そこで、私はこう思ったんです。一度ホテルから外に出てみればわかるんじゃないかと。私はすぐにエレベーターに向かいました。一緒に来た人も何人かいました。ところが、ボタンを押しても押してもエレベーターは反応しませんでした。これはダメだな、と思って階段に向かったんですが、階段は3階までしか降りられませんでした。2階の天井まで水が来てたんです。本当に堤防が決壊したんだ、とそのとき初めて理解しました。もうこうなっては仕方ないです、みんな自分たちの部屋に戻りました。でも私はまだどこかで疑ってたんでしょうね、部屋の窓から外に出られないかと思って、開けようとしたんです。でも開きませんでした。ロックがどうやっても外れないんです。しばらく頑張ってみたんですけど、無理でした。けどそのときになって気づきました。外が真っ暗だってことに。街の明かりが見えないんです。近隣一帯が停電してるんだ、と少し経ってから理解しました……の中で、ホテルだけが……あれ、バッテリ……


 電話は切れた。その内容は、僕の耳を通じてそこにいる宇宙人たちにも共有されている。
「ホテルの部屋なら外線電話使えたでしょうにね」
 呆れたようにミヨシが言う。
「そらわからんで。2階まで水に浸かってたんやろ。有線は使い物にならんかったかもしれん」
 トド吉はそう言った。
「その前に、電話することは大丈夫なんでしょうか」
 パスタが疑問を呈する。
「おとなしくしていること、逃げないこと、ルールはそれだけ。電話は最初から禁じられてないわね」
 リリイが答えた。
「目的がわからん」伝蔵がうなった。「その黒い馬が以前我らが遭遇したものだとして、何のためにこんなことをしているのか。それが理解できん」
 リリイが僕を見つめた。
菊弥きくやさんはどう思われます」
「僕が意見していいの」
「これは定例会議ではない。構わんよ」
 伝蔵がうなずいた。会議かそうでないかの差って何なんだろうな、と思いながら、僕は答えた。
「デモンストレーションだと思う」
「この大層な騒ぎがデモやっちゅうんかいな」
 トド吉は首を傾げる。僕は続けた。
「その大層な騒ぎを起こして、人をたくさん閉じ込めて、なのに電話は禁止しない。これは電話をかけてくれって言ってるのと同じだよ。電話で情報を発信してもらって、話が広がれば広がるほど、黒い馬にとっては有り難いんだろう」
「おまけにテレビ局のヘリまで落とせば、情報はあっという間に日本中に広がるわね」
 ミヨシがいつになく真面目な顔をしている。
「いえ、世界中に広がりますよ」
 パスタが目を丸くした。
「まさか、これが政治的デモンストレーションだとでも言うのか」
 伝蔵が僕をにらむように見つめる。
「政治的かどうかは僕にはわからない。けど、世界に見せつけてるんだと思う」
「問題は、見せつけて何を望むのか、ですよね」リリイはつぶやいた。「見せつけられた側の反応がわかればいいんですけど」
「メディアに取り上げられる情報ならすぐ集まるけど、それ以上深いところはすぐには難しいわよね」
 ミヨシがトド吉を見た。
「こんなことやったら、首相官邸に隠しカメラとか設置しとくんやったな」
「そんなことできるんだ」
 引き気味の僕に、トド吉は胸を張って見せた。
「できるで。時間かければの話やけどな」
「誰か政府側に知り合いでもいたらいいんでしょうけど」
 パスタがそう言った。
「あ」
 僕の声に、一同の視線は集まった。


 曇り空は時間と共に暗くなり、昼過ぎになると、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてきた。やがて一面を雨が叩くようになった頃、空はなお一層暗くなった。もう夕方だ。日が落ちる。世間の人々が家から仕事場に向かい始める時間、その人波に逆らって、傘もささず歩く合羽姿の影が一つ。影は、『小鳥ホテル 頂』の駐車場門の外に立つと、ふいに座り込んだ。その様子を玄関の内側から確認して、僕は傘を手に外へ出た。雨音が足音を消す。でも向こうは気づいているはずだ。僕は滝緒たきおの隣に立つと、頭の上に傘をさしかけた。
「雨が降ってるから来ないかと思った」
「……ごめん」滝緒はひざに顔をうずめた。「毎日毎日、ストーカーみたいだよね。気持ち悪いよね」
「らしくはないと思うよ」
「らしいって何よ。どんな私だったら私らしいの」
「あんまり繊細なたきおんを見せられると、僕は困る」
「何よそれ。私は鈍感で大ざっぱな方がいいって言うの」
「僕はその方が気楽だ」
「私は気楽じゃない!」滝緒は立ち上がった。「私だって、私だってたまには繊細なところとか、ナイーブなところとか、傷つきやすいところとか、見せたいの、見てほしいの」
「わかった。じゃ、そういうたきおんも見ることにする」
 滝緒の顔が不満に歪んだ。僕を指さしなじる。
「ずるい。あんたずるい。勝手に縁切ろうとしたくせに」
「だってスポンサーの意向は無視できないじゃない」
「だったら、何で話しかけてきたの」
「そのスポンサーが、たきおんの話を聞きたいってさ」
「んんん、ああもう、ずるい」
 かんしゃくを起こしそうな滝緒をなだめながら、僕は中へといざなった。


 小さなシステムキッチンの向かいにPCデスク。椅子、デスクトップPCと並んでテレビ。その向こうに冷蔵庫があり、さらにその奥にはユニットバスのドアがある。女の子を招き入れるのは、ちょっとためらわれる雑多な空間。しかもそのPCデスクの上の棚にはボタンインコの伝蔵がとまり、椅子の背もたれにはヨウムのパスタが、PCのモニターの上には十姉妹のトド吉ファミリーが、テレビの上にはセキセイインコのリリイが、そしてキッチンのふきんかけにはモモイロインコのミヨシがとまっていた。さすがの滝緒も、戸惑っている。
「あの、つまり、この中に宇宙人がいるってこと?」
「全員宇宙人ですよ」
 リリイは楽しそうだ。しかし滝緒は混乱した。
「イメージが、何か違う」
 トド吉は不満そうに3度羽ばたいた。
「なあ、ワイはやっぱり反対やで」
「関西弁」
「そう言わないの、決まった事なんだから」
 ミヨシが諭す。
「とにかく、いまは状況を説明して意見を聞いてみないと」
 パスタもとりなすように言った。
「そうだな。まずは説明から始めよう」
 伝蔵は滝緒の同意を求めることもなく語り始めた。ヘリの墜落が超低周波砲によるものだということ、鳥打帽の男と黒い馬、加津氏からの電話の内容、そしてデモンストレーションではないかという推論。
「それが事実だとして」しばしの沈黙をはさんで、滝緒は言った。「あなたたち以外の宇宙人が起こしてるってことなの」
 伝蔵は首を振った。
「いまのところ異星文明の痕跡はない。しかし時空渡航者の可能性はある」
「時空渡航者は宇宙人とイコールではない訳ね」
 滝緒の問いに伝蔵が答える。
「時間軸の異なる並行世界の地球から来た者ならば地球人だ。宇宙人というくくりには入るまい」
「その推測に根拠はあるの」
 滝緒は腕を組み、手を顎に伸ばした。何か思い当たる節があるのだろうか。一方伝蔵はパスタを見やった。パスタはひとつうなずく。
「イングランドの古い伝承に、グラントと呼ばれる精霊の話があります。そのグラントは馬に似た姿をして、人語を話し、後ろ二本足で立ち、チカチカと光る眼を持っていると伝わっています」
 滝緒は息を呑んだ。僕も驚いた。宴会場に現れた馬そのものじゃないか。
「ただしグラントの現れる時間帯は一日のうちで一番暑い時間帯、もしくは黄昏時とされていますから、まったく同じではありません。グラントの話す言葉も火災の告知であり、洪水の告知ではありませんから、これも違います。しかし、もしその黒い馬を遣わした誰かがいるのなら、グラントの伝承を知っていたかもしれません。そして少なくとも、ワンドレビリアの伝承は知っていたはずです。もしかしたら、ポッツオーリの浴場のことも知っていたかもしれない。ヨーロッパの古い伝承に造詣が深い人物である可能性が高いのです」
 パスタの言葉に、滝緒もひとつうなずいた。
「つまり勉強熱心な宇宙人がいると考えるよりは、地球人と考えた方がスッキリするってことね」
「何か知ってるの」
 僕の言葉に振り向くことなく、滝緒は目を閉じた。しばし沈黙。そして。
「取引しない」滝緒は切り出した。「私は知ってることを話す。その代わり、一つだけ質問させて」
「アカンアカン」
 トド吉が声を上げた。
「こういう展開でろくなことになった試しがない。取引になんか乗ったらアカンで。この話はもう終わりや終わり」
「いや」しかし伝蔵が遮る。「いいだろう、その取引に乗ろう」
 滝緒がニヤリ笑った。
「そうこなくちゃ。じゃ、先に私が話すわね。と言っても私は直接の担当じゃないからまた聞きの情報だけど、最近日本政府を脅迫してるやつがいるみたいなの」
「脅迫?テロリストですか」
 パスタが目を丸くする。
「それがテロの脅迫ではないの。でも考えようによっちゃ、テロの脅迫より凶悪かもしれない。簡単にまとめて言うと、『日本という国家を解体せよ。解体して我々に明け渡せ。さもなくば力づくで奪い取る』という内容」
「それ、本気にした人いるんですか?」
 リリイが滝緒にたずねた。そりゃそう思うよな、僕は思った。
「もちろん、て言うか、普通に考えて本気にする人はいなかったわ。最初は。でも同じ内容の文書が世界中の国の政府に公式ルートで送られて、『新しい日本』の独立が宣言されていると聞いて、さすがに気持ち悪くなったみたい。関係各所に至急調査するように、とお達しがあったの。その関係各所のなかに、うちの民間伝承対策室も入っていたって訳。超自然的な力の介在も一応考慮に入れたんでしょうね」
「つまり山奥の旅館も幽霊屋敷もその流れの調査っちゅうことか。けどなんで菊弥を巻き込もう思たんや」
 結局参加しているトド吉である。
「菊弥は本来別件。税務署の方から問い合わせがあったのよ。収入に疑わしいところのある店があるんだけど、税務調査に行こうとしたら調査員がことごとく体調不良になってしまう、どうにかならないか、って」
「あちゃー」
 トド吉は頭を抱えた。僕はびっくりした。
「え、何。トド吉そんなことしてたの」
「いや、そう言われてもやな」
 滝緒は続けた。
「最初は霊的なものか呪術的なものか、って調べてみたんだけど、どうもそういう気配がない。超能力的なものも感じられない、でも選択の仕方を見るに人の意志が介在しているように思える。ならばもしかしたら超技術的なものかもしれない、ってことで、私のところにまで話が回ってきたのよ」
 なるほど、消去法で宇宙人の可能性に至ったということか。まあ消去法だろうと何だろうと、いまのこの社会の中で宇宙人の存在に気がつけるというだけで、凄い組織だなと思ったりするのだが。
「藪をつついてなんとやら、だな」
 伝蔵がひとつ、ため息をついた。
「私が知っているのはこれくらいよ。参考になったかしら」
 そう言う滝緒に、伝蔵はうなずいた。
「ヘリを落としたのは日本政府に対するデモンストレーションである可能性が高いと知れただけでも収穫だ。どのように落としたのかは謎だがな」
「じゃあ、今度は私が聞く番ね。質問してもいい?」
「いいだろう、答えられることなら答えよう」
「なぜ菊弥を選んだの」
 滝緒の言葉に、僕はギクリとした。
「あなたたちがこの星で暮らすのに、カモフラージュが必要なのはわかるわ。でもどうして菊弥なの。いったいどういう理由で菊弥が選ばれなきゃならなかったの」
 それは、なぜだろう。その疑問については、僕はこれまで考えたことがなかった。伝蔵は数秒の沈黙の後、ミヨシを見やった。滝緒もミヨシを見た。ミヨシはふきんかけの上で、居心地悪そうに身体を動かした。
「ひとつには、坊やが経済的に困窮していたことね。取り入りやすかったのは事実」眠そうな顔で、しかしハッキリとした声で話している。「でも貧しい人なんて、どこの国にもたくさんいる。坊やを選んだ理由はもうひとつあるわ。それは」
 クシュン、ミヨシはくしゃみをすると、顔を振った。そしてこう続けた。
「坊や自身が時空渡航者になる可能性があったことね」
 頭の上にクエスチョンマークが浮かんだ。何を言っているのだろう。意味がわからない。時空渡航には並行宇宙を行き来する技術を必要とする。そんな技術を僕が持っている訳ないではないか。
「それはつまり、菊弥が並行宇宙を行き来できる技術を持ってるってこと?」
 滝緒も同じことを思ったのだろう、ミヨシにそうたずねた。するとミヨシは、トド吉を見つめた。トド吉は、ばつの悪そうな顔を浮かべている。
「並行宇宙を行き来するには2つのパターンがあるんや」トド吉は嫌々そうに答えた。「1つ目は、まあほとんどの場合がこのパターンやが、技術的に亜空間ゲートを開いて隣接する並行世界に侵入するやり方やな。9割9分、並行世界間の移動いうたらこのパターンで間違いない。けど例外的に、滅多にはないんやけど、ごくたまに、もう1つのパターンが存在する場合がある。それが、知的生命体が意志の力で空間壁を抜けて並行世界に達するパターン。これは特殊能力や。念力やらテレパシーやら、俗に言う超能力とも異質な、まだワイらの文明でも解明されてない未知の力を使う。ただ、使う力自体は未知のものでも、空間壁を抜けた痕跡は追跡できるんや。その追跡の結果、たどり着いたのが……」
「それが、菊弥だっていうの」
 無言。滝緒の問いに、誰も答えなかった。それは肯定の沈黙。滝緒は僕を振り返った。問いかける視線。しかし、僕に答えられる解答などない。
「それいったいどういうこと。何でいままで僕にだまってたの。いや、違う。僕は何でそのことについて疑問を持たなかったの」
 僕は伝蔵を見た。
「いや、それはだな」
「僕の頭の中、いじったってことだよね」
 トド吉を見た。
「まあ、その、いじったっちゅうか、なんちゅうか」
 パスタを見た。リリイを見た。2人とも目をそらした。
「それで。坊やとしては、どうしたい訳」
 ミヨシが僕に問うた。
「別に。しょうがないんじゃないの」
「えっ」
 全員が目を丸くして僕を見た。
「しょうがないって、しょうがないって、それで良いの?」
 滝緒が愕然としている。何をそこまで驚いているんだろう。
「良くはないけど、今さら怒っても、済んだことは仕方ないしね」
「いやいやいや、ここは怒るでしょ、感情的になるでしょ、自分を何だと思ってるんだ、って気持ちをぶつけるところでしょ」
「でも僕としてはそんな感情より、これからの生活が安定するかどうかの方が大事なんだよ」
「えぇ……」滝緒は額に手を当てた。そしてひとつ、深いため息をついた。「ああ、思い出した。あんたってば子供の頃から変人だったわ」
「そりゃ失敬だな」
「ほれ、ほれ見ろ、案ずるより産むがやすしということだ」
 いったい何を案じていたのか、伝蔵がホッとしたかのように笑い始めた。
「別に怒ってない訳じゃないんだけどね」
 僕は笑顔でそう言った。


 ザンザンと雨粒が顔を叩く。強風に体が揺れる。さすがにもうヘリは飛んでいない。台風の接近にともない、この地域には大雨洪水警報と土砂災害警戒情報が出ていた。避難指示も出されている。眼下に流れる河には今も茶色い水が流れ続けているのだろう。僕と滝緒と伝蔵は、通行止めになっている鉄橋の上に立っていた。欄干のライトが足元を照らしている。5百メートルほど下流には、件のホテルが水の中から突き出ている様子が見える。周囲の停電がいまだ復旧しない中、ホテルの部屋の照明だけが、煌々こうこうと光り輝いているのだ。
【バリア反応なし】
 僕の脳内に、トド吉の声が響く。同じ声は伝蔵にも届いているはずだ。
【センサー反応なし】
 伝蔵は僕の肩でつぶやく。
「丸腰というわけか。解せんな」
「罠だと思う?」
 滝緒が伝蔵をのぞき込んだ。
「わからん。連中の目的がデモンストレーションだったとして、この状況で警察なり自衛隊なりが突入してこないと考えているとは思えん。だがそれに対する備えが見えない。最初から戦う気がないのか。しかしそれならば、ヘリを落とした時点で目的は達しているはずだ。なぜ人質を解放しない」
「まだ終わってないってことだよね」
 普通に考えれば、そういうことだろう。僕の言葉に伝蔵は「うむ」とうなずいた。
「ミヨシ」
【空間のねじれは検出されてないわよ】
 伝蔵のよびかけに、ミヨシはそう答えた。
「重力制御フィールドの準備は」
【立ち上げは終ってるわ。いつでも展開できるけど】
「いつ使うかわからん。頼むぞ」
【了解】
 重力制御フィールドは文字通り重力を制御する。らしい。何回か使っているのだが、どういう理屈で何がどうなっているのかはまったく知らない。
「重力制御って言っても空が飛べたりはしないんだよね」
 僕の何気ない質問に、伝蔵は驚きの答えを返した。
「飛べるぞ」
「え、飛べるの」
「重力を制御するのだから当たり前だろう」
「そんな使い方したことないじゃん」
「飛んだら降りねばならんからな。飛ぶのは簡単だが安全に降りるのは難しい。飛行機と同じだ。だから専門の教育を受けた者でもなければ重力制御フィールドだけで飛ぼうなどとは普通思わない。どうしても飛びたいのなら飛び方を教えてやってもいいが」
「いや、それはいいや」
「ふん」伝蔵は小さく笑った。「それが物理法則にのっとっているかぎり、重力の影響下にある現象は重力を制御することでコントロールできる。一番使い勝手の良い道具だ。便利に使えればそれでいいではないか」
「まあ、そりゃそうだけどね」
「そろそろ?」
 滝緒が僕らを見た。切れ長の目が淡い光を受けて星のように輝く。
「そうだな、行くとするか。離れるなよ」
 伝蔵が言う。僕の手を滝緒が握った。
「トド吉」
【アイアイサー】
 一瞬の気圧の低下。耳がキンとする。視界が揺れた、と思ったときにはもう、僕らはホテルの廊下にいた。廊下の照明は落ちている。大きな緑色の非常誘導灯だけがぼんやりと廊下を照らしていた。赤絨毯の敷かれた幅2メートルほどの廊下を、僕らは静かに歩いた。
「ここ何階なの」
 僕は何だか気になったのだ。ドアの間隔が広い気がした。
【十階や。最上階やな。ホテルのサイトにはスイートルームって書いてある】
「じゃ、階段の下が9階なんだ」
【9階はレストランで8階は結婚式場らしい】
 ああ、幸いなるかな。このトド吉の声は滝緒には聞こえていない。僕は廊下の突き当りのドアを開け、階段室に入る。
「とりあえず7階まで降りる?」
 階段を下りながら、肩の上の伝蔵にたずねた。伝蔵は小首をかしげる。
「いや、9階と8階ものぞいておこう。連中がどこにいるのかわからんからな」
「それ調べることってできないの」
「もちろんできる」
「できるんじゃん」
「ただ相手の正体がわからん。目的もわからんし、文明レベルもわからん。何もわからん状態で、むやみに刺激する訳にも行かんだろう」
「なんかここに来てること自体を否定してるような」
「別に戦争をしに来た訳ではない。それならそれでやりようもあるが、まずは平和裏にことを運ぼうとしているのだ。話し合いで解決するならそれに越したことはない」
「そりゃそうだけどさ」
 などと言っているうちに9階である。階段室のドアを引く。開いた。フロアの真ん中に通路があり、向かって右側が和風レストラン、左側がイタリア料理店らしい。和風レストランのドアを押してみた。開かない。まあ普通に考えてこの時間は施錠されているだろう。イタリア料理店のドアも同じだ。厨房の扉も試してはみたが、どちらも閉まっていた。
「何もなし、だね」
「では8階に行くか」
 伝蔵が肩の上で小さく笑う。
「何?8階に何かあるの」
 滝緒が僕の顔をのぞき込む。何でこんなときだけ勘が良いんだ。
「いや、別に何ってことはないけど」
 僕は再び階段室のドアを開けた。


 僕らは無言で階段を下り、8階に着いた。階段室のドアは少し重い感じがしたが、気のせいだろうか。8階はびっくりするほど天井が高かった。入るとドアのすぐ左手に、ウェディングドレス姿の女性のポスターが。そこにデカデカと書かれている文字。『新春ウェディングプラン』もうごまかしようがない。滝緒はポスターの前に釘付けになっている。
「あのさ、たきおん……」
 滝緒は振り返った。瞳をらんらんと輝かせて。
「何、驚かそうとしたの?サプライズ?」
「違うから」
 何でそうなるんだ。僕は滝緒の手を引っ張り、その場を離れた。
 通路は右に折れ、左に折れた。通路に沿って歩くと、突き当り、エレベーターホールの手前に扉が見えた。向かって右側に1つ、左側には2つ。右側の扉を引いた。開いた。何故施錠されていないのか。一瞬迷ったが、中に入ってみた。暗い。けれど非常誘導灯の光でうっすらと様子はわかる。中には背もたれのついた長椅子が並び、真ん中に通路、その突き当りには大きな十字架がかかっていた。
「チャペルだあ」滝緒は楽しげな声を上げた。「いいなあ。ちょっと小さいけど、いい雰囲気。ね、良くない?」
「そう言われても、クリスチャンじゃないし」
「もう、そういうことじゃないでしょ」
 じゃ、どういうことなんだ。僕がそう言いかけたとき。ガタン。何かが倒れる音がした。周囲を見回す。だが何も異常はない。僕たちはチャペルの外に出た。通路の左側には、扉が2つある。向かって右、エレベーターホール側には小さな扉。向かって左、階段側には大きな扉。その大きな扉が開いていた。中は真っ暗だ。非常誘導灯があると思うのだが、その光さえ見えない。
「どうする。入る?」
 僕の言葉に、伝蔵はちらりと右側を見た。
「ちなみに、あの小さな扉は何だ」
「新郎新婦の控室じゃない」
 滝緒が言った。
【正解】
 頭の中にトド吉の声がした。
「聞こえてるんじゃないか」
【そら聞こえとるわな】
「黙ってるから聞こえないのかと」
【おまえらが参加しにくい会話してるからやろ】
「そんな会話してたっけ」
【おまえ、ホンマ自覚症状のないやつやな】
「そういう話は後にせい」
 伝蔵に叱られて、トド吉はまた黙った。伝蔵は開かれた扉の奥の闇を見つめた。
「とにかく、ここに入らんことには話にならん。ミヨシ」
【聞こえてるわよ】
「重力制御フィールド展開」
 僕の右手が勝手に跳ね上がり、手のひらを前に突き出す。
【はい、展開】
 僕らは扉から中に入った。暗闇の中に一歩踏み入った、そのとき。天井の一点から強い光が発せられた。スポットライトが照らし出したのは、一番奥の空間。輝く金屏風。その前に、馬が居た。身体の大きな、黒い馬。それが後ろ2本足で立っていた。
「ようこそ、いらっしゃいました」馬は人語を話した。「どうしたのです。私に会いに来たのでしょう。もっと近くへお寄りなさい」
 僕たちは歩を進めた。金屏風に反射した光が、うっすらと室内の様子を照らし出す。丸テーブルが幾つも並び、その上に椅子が5つ6つ逆様に乗せられている。披露宴会場の大広間であろう。そのテーブルの中を縫うように歩きながら、僕らは金屏風に近づいて行った。
 デカい。近づいて改めて黒馬のデカさに気づく。頭の位置は3メートル以上の高さがあった。なるほどな、と僕は思った。他の階では立ち上がると頭が天井に着いてしまうのだろう。おそらくは4階の宴会場も天井が高いのではあるまいか。
「ようこそ、お三方」黒馬は僕らを見据えると、改めてそう言った。「お二方とはお初にお目にかかります。君とは2度目ですね」
 僕のことだろう。
「あなたは、あのときの馬ですか」
「そうですよ、君に斬れと言われたあの馬です」
「なら、ひとつ聞いてもいいですか」
「なんなりと」
「あの戦いには何の意味があったんですか」
 恵海えみ老人が命をかけて挑んだ戦い。けれど僕には、その意味がわからなかった。黒馬は愉快げに目元を歪ませた。
「君は面白い人ですね。いいでしょう、教えてあげましょう。我々はこの国を欲しています。しかしこの国と言っても、地図に引かれた国境線の内側のみを欲している訳ではありません。この領域と境を接する異界を含めてこの国のすべてを欲しているのです。ゆえに異界にも橋頭堡きょうとうほを築く必要がありました。そのための戦いを、我々は幾つも並行して行っていたのです。あの戦いは、その数あるうちのひとつです。それ以上の意味も値打ちもありませんよ」
「勝ち負けなど論ずるに値しないと」
「結論を言うならそういうことです。もちろん、勝てるならそれに越したことはありませんでしたが」
 本当だろうか。黒馬の眼はチカチカと光り輝いている。その奥にひそむ虚実など見極められない。もしここに、いわおがいたら何と言うだろう。僕は己の力不足を痛感していた。
「他に質問はありませんか。ないのなら……」
「質問は、ある」伝蔵が答えた。「だがその前に、そちらに質問はないのか」
 黒馬は意外だ、というそぶりを見せた。
「おや、こちらの質問に答えていただけるのですか」
「こっちはひとつ答えてもらった。ならばひとつ答えよう。我らは戦いに来た訳ではない。よってフェアに行きたい」
 カッポカッポ、黒馬は前足のひづめを打ち鳴らし、拍手の真似事をした。
「素晴らしい。こんなところでフェアプレーの精神にお目にかかれるとは思いもよりませんでした。ではお言葉に甘えて、質問させていただきます」その蹄が、伝蔵を指した。「あなたはいったい、どこの何者ですか」
「キルヤガリヤレ=フィレステハスト星間宇宙連盟の時空移民局第341銀河境界監視団の団長である」
 黒馬は目をぱちくりさせて当惑を表した。いや黒馬だけではない。僕と滝緒も困惑した。特に僕は、いま初めて宇宙連盟の名前を聞いたのだ。驚きもする。
「と、言っても何のことやらわかるまい。まあ、異星人の公務員であるとだけ理解してもらえれば良い」
 その伝蔵の説明に、黒馬はホッとしたようなため息をついた。
「それで、その異星人のかたがなぜ人類に肩入れしているのですか」
「我らの使命は時空渡航者の並行世界間の移動を監視すること。あんたらの仲間に、その時空渡航者がいるのでは、と思っているのだ」
「時空渡航者というものがどういう存在かは存じませんが、我々の仲間にはいろいろな種族がおります。もしかしたら、そういう者もいるやもしれません。しかし、いたとして、それをどうするつもりなのですか」
「それは交渉次第だ。我らは秘密警察ではない。見つけ次第捕まえることが第一の使命という訳ではないのだ。そもそもこの惑星は我ら連盟の加盟惑星ではない。逮捕する権限もない。ゆえにこの惑星の住人に多大な影響を与えないというのなら、引き換えに見逃すこともやぶさかではない」
「おお、なんと寛大な。なんと心の広い方でしょう。この星の上に暮らすすべての公務員がみなあなたのような心であれば、もっと良い世界になるでしょうに」
「と、いう訳だ。あんたの仲間に会わせてくれないだろうか」
「それはできかねます」
 黒馬は歯をむき出した。嗤っているのか。
「なぜできないの、って聞いていいのかしら」
 滝緒の問いに、黒馬はうなずいた。
「あなたたちがフェアにこだわるのなら、こちらもフェアに参りましょう。随分たくさん質問してしまいましたからね、そちらの質問にも答えましょう。なぜできないのか、それを聞きたいのですね。理由は簡単です。我々の目的は、この惑星の住人たちに、多大な影響を与えることそれ自体だからですよ」
「いったいどんな影響を与えるつもりなの」
「このアニミズムとシャーマニズムにあふれた稀有な近代国家を無敵の魔法国家へと変貌させるのですよ」
「なんのために」
「世界を変えるためにです」
「でもどうして日本なのよ」
 その滝緒の問いには、しかし黒馬は答えなかった。
「はい、ここまでです。時間切れ」
 黒馬がそう言うと同時に、かすかな振動が。天井がビリビリと震えている。
【自衛隊が突入した!】
 トド吉の慌てた声が頭の中に響く。
「どういうことだ、監視していなかったのか」
 伝蔵の叱責に、ミヨシが割って入る。
【監視はしてたわよ。でも察知できなかったの】
「そんなマヌケな話があるか!」
【だって本当なんだもの、仕方ないでしょ】
「内輪もめは好きになさってください。我々は失礼いたしますので」
 黒馬は前足を下ろすと、金屏風の前から立ち去ろうとした。
「待て、逃がす訳にはいかん」
 伝蔵は僕の肩から飛び上がると、黒馬につかみかかった。その瞬間。伝蔵の羽根が音もなく散った。はるか彼方の花火のように。
【超低周波確認!】
 僕は反射的に振り返った。扉のところに立つシルエット。鳥打帽の男。男は大きく息を吸い込んだように見えた。僕は右手のひらを男に向けた。男が何か叫んだ。しかし何も聞こえない。けれど僕の右手のひらの真下の床と真上の天井に突然亀裂が走った。
【超低周波確認、そいつが超低周波砲の正体や】
「おやめなさい」
 黒馬がとがめたのは、鳥打帽の男だったか、それとも僕だったか。僕は開いていた右手をギュッとすぼめた。重力制御フィールドをラッパ型にするイメージ。鳥打帽の男はまた聞こえない叫びを上げた。しかし次の瞬間、男は反射した己の声に額を撃ち抜かれ、後ろへと倒れた。
「やれやれ、困りますね」黒馬は倒れた男に近づいた。「こんなところで大切な兵隊を潰されてはかないません」
 男の身体が、ふわりと浮いた。それは宙を舞い、静かに黒馬の背中に乗った。
「もはや目的は達成しましたし、とっとと逃げることにします。でもあなた方と会話ができたのは有意義でした。お礼と言っては何ですが、一つ予言をしてあげましょう」そして黒馬は、歯をむき出した。「もうすぐ、火事が起きますよ」
 そう言い残すと、黒馬は扉から出て行った。
 それを確認して、僕は振り返った。滝緒がひざまずいている。その足元には、伝蔵がいた。羽根を散らし、目を閉じ、ピクリとも動かず。僕は崩れるようにしゃがみこんだ。
「伝蔵……」
 声がかすれる。
「トド吉、伝蔵は」
 しかし、返事はない。
「ミヨシ、伝蔵は」
【……あきらめなさい】
 何故だ。過去の出来事が走馬灯のように頭を駆け抜ける。走馬灯は死んで行く者が見るのではないのか。次々に駆け抜けて行く過去の伝蔵の姿。初めて会ったとき。初めての会議。初めて怒られたとき。伝蔵の顔が幾重にも重なり僕の視界を埋める。胸が痛い。指が震える。けれどその指を伸ばした。伝蔵に触れなければ。いま触れなければ、大事な何かを失ってしまいそうな、そんな気がして。しかし。
「触れてはなりません」
 その声とともに、大広間に明かりが灯った。振り返った僕は、扉の向こうに青い影を認めた。青いワンピースの少女。
「いま触れたら、本当にあきらめることになりますよ」
「大峰……さん?」
 大峰瑠璃羽おおみねるりは、アオちゃんの飼い主がなぜここに。僕は混乱した。さらに混乱することに、彼女の背後から、自動小銃を構えた自衛隊員が姿を現し、大広間の中に散らばった。
「君は、いったい」
「説明は後で」
 大峰さんはワンピースの襟元からネックレスを引き出した。トップには青い宝石が光っている。それを強く引いた。チェーンがちぎれる。そして僕の隣にしゃがみ込むと、その青い宝石を伝蔵の上に垂らした。
「私は命を2つ持ってきました」そう言って、ふっと笑った。「もちろん冗談です」
 すると青い宝石が輝きだした。見つめると目が痛くなるほどの閃光を発したかと思うと、その光が伝蔵の体に吸い込まれてしまった。
 しばしの沈黙。そして。
「う……」
 伝蔵がうめき声を上げた。滝緒が僕の手を強く握った。僕は握り返した。滝緒の眼からは涙がこぼれ落ちていた。そして多分、僕の眼からも。
「ミヨシ隊員」大峰さんが呼び掛けた。「医療ドックの準備をしてください。命は助かったけど全身が骨折しています。緊急処置が必要です」
【り、了解】
 あのミヨシが驚いて圧倒されていた。
「トド吉隊員」
【は、はいっ】
「そういう訳ですから、伝蔵団長を直ちに医療ドックに転移して。静かに、確実にね」
【了解しましたーッ!】
 弾みまくった声でトド吉が答えると、伝蔵の姿は一瞬で見えなくなった。
【転移完了しましたです】
「はいご苦労様。では次にホテルの中にいる人たちを全員屋上に集めてください」
【え、全員ですか】
「そう、全員。今すぐ、早く!」
 それから2秒と経たなかったろう、キンと甲高い音が聞こえたかと思うと、僕らは屋上に立っていた。上空には自衛隊のものと思われるヘリがホバリングしている。周囲にはホテルの中に囚われていたのだろう人々が呆然と立っていた。突然屋上に連れてこられた人々は訳がわからないという顔で、互いを見つめている。あの中に、加津氏もいるのだろう。
【全員、転移、完了しました】
 トド吉の息が上がっている。何をどうしたのかは知らないが、大変な作業をしたようだ。
「はいご苦労様。なんとか間に合いましたね」
 大峰さんが微笑んだのと、どん、という振動が起きたのは同時だった。屋上の端に居た者たちが、下を指さし叫んだ。
「燃えてるぞ!」
 人々は、わっと屋上の周辺部に集まった。それを見ながら、僕は黒馬の残した言葉――もうすぐ、火事が起きますよ――を思い出していた。
「あいつ、これを知ってて」
「それはそうです。彼らが4階に焼夷弾を設置していったのですから」
 大峰さんは平然と言った。
「焼夷弾って」
 普通上から降って来るものじゃないのか。しかし滝緒が僕の言葉をさえぎった。
「早く避難させないと。このままここに居たらみんな焼け死ぬわよ」
 しかし大峰さんは動じない。
「ここにはいま、自衛隊員を合わせて70名ほどの人間がいます。そしていまこの近隣は堤防が決壊して水没しているのです。70名の人間を収容できる安全な場所は、ここから直線距離で5キロほど離れた場所にしかありません」
「だから?」
「空間転移で移動させるには、70人分の質量は大きすぎます。この屋上に連れてくるくらいがせいぜいなのです」
「じゃ、ひとりずつ運べば」
「それならば、ほとんどの人を運べるでしょう。でも何人かは間に合わず焼け死ぬことになると思いますが。誰を残しますか」
 滝緒は打ちのめされたような顔で大峰さんを見つめた。
「……じゃあ、もうどうしようもないってことなの」
「そんなことは一言も言っていません」
 小さく笑うと、大峰さんは僕に向き直った。
「重力制御フィールドを真下に向けて展開してください」
「真下に?」
 どういう感じで展開すればいいのか、僕が戸惑っていると、大峰さんは耳元で囁いた。
「細く、まっすぐ、糸のように下におろすのです。フィールドの展開には物理的干渉は受けません。まっすぐまっすぐ、下へと下へと伸ばしてください」
 僕は右手をすぼめて、言われた通りにフィールドを伸ばした。と言っても、フィールドが見える訳ではない。あくまでも感覚でしかないので、本当に伸びているのかはわからない。しかしこれまで重力制御フィールドのコントロールはこうしてきた以上、今回もこうするしかないのだ。
「伸ばして伸ばして、水面の下にまで伸ばしてください。そう。そろそろですね。では今度は一気に、フィールドの先端を水平方向に展開してください。先端だけですよ」
 画鋲をさかさまにしたようなイメージか。僕は頭の中でフィールドの先端を広げていった。
「どのくらい広げるの」
「限界ギリギリまで。直径2百メートルくらいは広がるはずです」
 先端を広げて、広げて、広がった。もうこれ以上は広がらない、はずだ。
「火が6階くらいまで来てる、急がないと!」
 滝緒の声に振り返りかける僕の耳元で、大峰さんはささやいた。
「集中を切らさないで。あと少し、もう少しだけ広がるはずです」
 あと少し、もう少しだけ……広がった。
「今です、ホテルの周囲の重力をゼロに」
「重力をゼロ」
 その瞬間、地鳴りと共に水柱が上がった。いや、違う。このホテルを中心として、半径百メートル域内の水が、宙に浮き上がったのだ。その水の塊が十階近くまで持ち上がったとき。
「ホテルの真下に重力を集めて」
「ホテルの真下」
 画鋲で言うなら針と頭の継ぎ目の部分、そこに重力を集めた。水の塊は落下を始めた。ホテルの真下方向に向かって。水圧がホテルのガラスを割り、内側に侵入する。部屋を、廊下を、階段を、激流が走った。激流は4階の焼夷弾をも飲み込み、そして割れた窓から排出した。焼夷弾は水に浮かび、燃焼を続けたが、ホテルの中の火災はすべて鎮火した。そして僕は重力制御を解除した。


 あとは自衛隊、警察、消防のヘリが入れ代わり立ち代わり屋上から避難者を救出して、無事終了である。火災について、ましてや大量の水が持ち上がったことについて報道するマスコミはなかった。ただ避難者の中に、カモミールスーパーマーケットのメンバーがいたということで、芸能マスコミが避難所に押し寄せ、新たな問題を生み出したりしたが、それはまた別の話であった。


 スコットランド王の鳥刺とりさしという短い伝承があります。昔スコットランド王ウィリアムに仕えていた鳥刺、つまり鳥専門の猟師ですが、彼は一切道具を使わず、その言葉だけで鳥を落としたそうです。


「で、結局のところ」僕はたずねた。「あなたはいったい何者なんです」
 小鳥ホテルの鳥部屋には、伝蔵以外のメンバーがそろっていた。滝緒もいた。深夜に雨の降る中、一人で家に帰すのも気が引けたし、かといってタクシーで送るにも、僕は疲れ果てていたし、仕方がないので泊まってもらったのだ。ベッドは滝緒に貸して、僕はキッチンのソファで寝た。おかげで身体があちこち痛いのだが、滝緒はベッドを返してくれなかった。いまだにベッドに寝ころんだまま、鳥部屋のドアの前に立つ大峰さんをにらむように見つめていた。朝の8時、大峰さんはいつものように、青いセダンでやってきた。青いワンピースを着て。ワンピースといっても昨日のとはデザインが違うのだな、と気づいたが、それより先に問うべきことがあるので、置いておいた。
「結局のところ、と言いますか」大峰さんは答えた。「結論から申し上げますね。私はキルヤガリヤレ=フィレステハスト星間宇宙連盟、時空移民局の特別監査官です。監査対象は第341銀河境界監視団、つまりあなた方です。簡単に言えばあなた方の仕事ぶりを覆面調査して本局へ報告するのが私の仕事です」
 みな呆気に取られていた。
「覆面調査て」
 トド吉がつぶやいた。
「私たちに正体明かしちゃったら、もう調査できないんじゃないですか」
 リリイの問いに、大峰さんは答えた。
「そうですね、覆面調査に関しては、今回は失敗だったと報告しておきます。ただ私はそれ以外にもうひとつ、仕事をおおせつかっていますので、この惑星には滞在を続けます」
「もうひとつ?それは」
 と、たずねたのはパスタ。
「政治的な話かしら」
「そういうことです」大峰さんはミヨシに微笑んだ。「現在ここはこの国の政府に対しては秘密の観測基地ですが、いずれ連盟と修好条約を結んだあかつきには正規の観測基地を設置する運びになると思います。私はそれまでの間、アドバイザリースタッフとしてこの国に常駐します」
「この国と修好条約?アメリカでもロシアでも中国でもなくて」
 僕の疑問はこの国に暮らす者なら当然のものではなかったろうか。しかし大峰さんは首を横に振った。
「たとえば連盟が最初にアメリカと修好条約を結んだとしましょう。するとどうなりますか。自動的にロシアと中国は連盟に敵愾心てきがいしんを持つでしょう。それでは意味がないのです。我々としては、将来的にこの惑星全体を一体として連盟に加盟させる方向で考えています。そのための第一歩としては、このくらいの国がちょうどいいのですよ」
「将来的って、どのくらいのスパンで考えてるんだろう」
 僕は首をひねった。
「目算ではこの惑星の周期で百年はかからないだろうと言われています」
「そりゃ気の長い話だ」
「宇宙規模では一瞬ですよ」
 まあ光年単位の世界で生きている者にとってはそうなのかもしれないが、イマイチ実感が湧かない。百年は宇宙でも百年じゃないかと思うのだ。あ、でも相対性理論がどうのこうので、時間の流れがうんぬんかんぬん、ダメだ、僕は理系の話には向いてない。
「私に対する質問はこれくらいでしょうか」
 大峰さんの問いかけに、ミヨシが片翼を上げた。
「あとひとつ。あなたが伝蔵を助けられたのはなぜ。あの青い石は何だったの」
 そうだ、あの光る青い石。あれはいったい何だったのか。
「あれはヌシアの民に伝わる護り石です。失った生命エネルギーをわずかですが取り戻すことができます」
 ああ、そういうことか、という空気が鳥部屋に広がった。
「え、何。今のでみんなわかったの」
 キョトンとしている僕に、リリイが説明してくれた。
「ヌシアっていうのは伝蔵さんの出身民族なんですよ。つまり大峰さんは、伝蔵さんと同じ民族の出身だということです」
「へえ……あれ、てことはもしかして、みんな別々の民族だったりするの」
「そうやで。みんな生まれた星はバラバラや。気ついてなかったんか」
「はい、まったく」
 呆れて開いた口が塞がらないトド吉。大峰さんにもクスクス笑われてしまった。
「これくらいでしょうか。今日も政府側の人間と会わなければなりません。他に質問があれば、また別の機会を設けましょう」
 ミヨシがうなずく。トド吉が、パスタが、リリイがうなずく。
「そうですね、じゃ、今日はこれで」
「それでは、また」
 大峰さんは僕に向かって一礼をすると、鳥部屋を後にした。僕は玄関まで送り、大峰さんは玄関先でもう一度礼をして、青いセダンへと乗り込んだ。そして車が駐車場を出て行くまで見送って、鳥部屋に戻った。
 ドアを開けると斜め下に、滝緒のふくれっ面があった。
「何。何を怒ってるの」
「一回も話振らなかったでしょ」
 正直、忘れてた。
「質問があるなら、言えばよかったじゃないか」
「難しい話よくわかんないもん」
「いや、それは」
 それは僕のせいではないと思う。僕が軽く頭を抱えたとき、電話が鳴った。


 加津氏はまず、自分が芸能人である事実を黙っていたことを謝った。そのうえで、クウちゃんの宿泊日程を2日ほど伸ばせるかと言ってきた。今は都内の病院にいるそうである。預かった餌にもまだ余裕はあるし、期間の延長に問題はないので、そう伝えたところ、たいそう喜んでいた。電話の向こうで頭を下げていたのではなかろうか。何にせよ、芸能人も大変だ。そして最後に、加津氏は言いにくそうに、こう言った。
「あのときホテルの屋上にいませんでした?……いませんでした、よね」
 あいにくここ何日かうちからは出ていないと伝えると、何やらホッとしたようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...