ことり会議

柚緒駆

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眠り姫の言霊

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 スッタニパータとサンユッタ・ニカーヤ、それが彼女の愛読書だという。遠い昔に生きた仏教の開祖の言葉に、動けない身体で何を思っていたのだろう。ベッドの隣の小さなブックシェルフには、3冊の文庫本とぬいぐるみ、そして中学の卒業アルバム。窓のない真っ白な病室の中で、そこにだけ色があった。首から突き出ているプラスチックのパイプが痛々しい。
「呼吸が止まる可能性があるので、気道を切開しています」
 僕の視線に気づいた日和香春ひわこうしゅんが説明した。僕は香春に問いかけようとして、躊躇ちゅうちょした。ガラスの向こうの彼女が、目をさますのではないかと思ったのだ。香春は小さく微笑んだ。
「大丈夫です。鈴音は起きません。もう起きないかもしれない」
 細くやつれ、青白い顔をした彼女、白石鈴音しらいしすずねは、全身にチューブをつなぎながら、静かに眠り続けていた。


 例によって突然の襲来であった。
 秋晴れの日曜日。しかし小鳥ホテルに曜日は関係ない。定休日などないからだ。建前上は年中無休なのである。世間は行楽シーズン真っ只中、夜の闇の中にライトアップされた紅葉を観に行く人々で観光地はあふれ返っているらしいが、その中に僕が混じることはない。人々が旅行で家を空けるときこそ、僕らの稼ぎ時なのだから。理屈の上では。しかし世の中、理屈通りには行ってくれない。今日も客室は空っぽのまま。鳴くのは閑古鳥ばかり。
 午後一時頃、昼食を食べた後、玄関周りを軽く掃除しながら、ああ、あちこち草が生えてきてるな、今夜にでも抜いたほうがいいかな、などと思っていたとき、駐車場に黒塗りのセダンが入ってきた。
「よう、そろそろどうだ」
 駐車スペースにバックで停車しながら、後部座席の窓を下ろして、突き出した顔が発した最初の言葉が、これである。
「何だよ、そろそろって」
 僕は五十雀巌いそがらいわおに困惑した顔を見せつけた。車が完全に停まると、運転席から香春が降りてきた。そして後部ドアを開ける。降りてきた巌は相変わらず黒い着物姿だった。
「宇宙人の機嫌もそろそろ直ってるんじゃねえのか、ってことだよ」
「おまえ、宇宙人を何だと思ってるんだよ」
「鳥だろ。3歩あるけばすべて忘れるんじゃねえのか」
「全部聞こえてるんだぞ、馬鹿野郎」
 何で僕が冷や汗をかかなきゃいけないんだ。しかしそんな僕の気持など、巌はまったく気づかぬ振りであった。
「ま、それはいいや」
「よくないよ」
「今日は宇宙人に用があって来たんじゃねえんだ、おめえに用事があるんだよ」
「僕はおまえには何の用もない」
「知ってるぞ、最近たきおんが出入りしてるそうじゃねえか」
 こいつ、どこからそんな情報を。
「たきおんがOKなら俺もOKだろ」
「何でそうなるんだよ」
「まあいいからツラ貸せよ。1時間で済む」
「おまえなあ」
「ぐずぐず言ってねえで車に乗れ。日焼けしたくねえんだろうが」
「おい、ちょっと、待てって」
 巌は僕の襟首をつかむと、強引に車の後部座席に放り込んだ。そして直ちに、香春が車を発進させる。僕はまんまと拉致られてしまった。


 それから20分くらいは走ったろうか。もちろんその間、車の中では僕は無言を貫いた。険悪な空気になったが、それは僕の知った事ではない。やがて車は海岸通りを抜け、立体駐車場に入った。広々とした自走式の駐車場である。うちの狭苦しい駐車場とは次元が違った。しかも、その広い駐車場がほとんど満車だった。これなら1時間百円でも凄い儲けになるんじゃないのか、僕がそんなことを考えながら周りをキョロキョロ見回している中、香春は3階の一角に空きスペースを見つけ、そこに車を停めた。そして運転席から降りると外から僕の側に回り、ドアを開けた。
いただきさま、どうぞ」
 しかし、巌は降りる気配がない。
「おまえは行かないのかよ」
「俺は行かねえよ」
「何で」
「だから言ったろ。用事があるのはおめえになんだよ。俺にじゃねえ」
 意味がわからないまま車を降りる。香春にうながされ、駐車場の中を歩いていく。隣接するのは、大きな建物だ。この間のホテルもそこそこ大きな建物だったけど、二回りほど幅が広い気がする。いや、もっとか。
「ここ、何なの」
 すると先に立って歩いていた香春が驚いた顔で振り返った。
「この地域の総合医療センターです。お越しになったことはないのですか」
「幸い病気には縁がないからね。ああ、そうか。ここが総合医療センターか。そういうのがあるっていうのは聞いたことがあるけど、初めて来た」
 本当は総合医療センターという言葉も初めて聞いたのだが、まあそれくらいの嘘は許されるだろう。とにかく大きな病院だ、と僕は理解した。僕らは1階の出入り口から入ったが、受付は2階にあった。エスカレーターで2階に上がり、受付に近づくと、受付の女性は――受付嬢と呼ぶにはちょっと年季が入っていた――香春の顔を知っているのか、にっこり笑ってうなずいた。
「白石さんのお見舞いね」
「はい、いま大丈夫でしょうか」
「ちょっと待ってて、確認してみるから」
 受付の女性はどこかに電話をしている。しかしそれよりも。白石さん、その名前に引っかかるものがあった。受付の女性は電話を切ると、指でOKサインを出し、
「いまは大丈夫」
 と言った。
「ありがとうございます」
 香春は礼を言うと、エスカレーターの方向に戻った。だがエスカレーターの前を素通りする。
「エスカレーターは使わないの」
「入院病棟は8階ですので、エレベーターを使います」
「なるほど。それはそうとさ」
「はい」
「白石さんって、中学で3年3組にいた白石さん?」
 香春はものすごい勢いで振り返った。その顔には驚きとともに、ある種の畏怖さえ見て取れた。
「覚えてらっしゃったのですか」
「ああ、うん、まあね」
「なぜですか」
「いや、なぜって」
「一度も同じクラスになったことがないのに」
「……バレンタインにさ、チョコもらったんだよ。たきおん以外にもらったの、初めてだったから。ていうか、それ以外一度もないんだ。だからよく覚えてる」
「ソレハアノオンナガコトゴトクジャマヲシテイタカラ」
「え、なに」
「いえ、何でもありません。そうですか、覚えていてくださったのですね。鈴音も喜ぶと思います」
「香春こそ、白石さんと仲が良かったなんて初めて知ったよ。こう言っちゃ悪いけど、中学のときは友達作らない主義かと思ってた」
「ええ、そういう主義だったのですが」香春は再び歩き始めた。「私と鈴音は1年のときに同じクラスでした。当時私は保健委員をやらされていて、鈴音は当時から体が弱かったものですから、よく二人で保健室に行ったものです。それでいつの間にか。私にとっては唯一の友人でした」
 エレベーターのボタンを押す。来るまで少し時間がかかりそうだ。
「ちなみに、もらったチョコはどうされたのですか」
「そりゃ食べたよ。義理チョコだけど美味しかったよ」
「何故義理チョコだと思われたのですか」
「え、だって普通に市販の小さいチョコだったし、別に手紙とかもついてなかったし」
 香春は眉間を抑えると、ひとつため息をついた。
「あの子は。まったくそういう所が」
「あれ、僕なんか勘違いしてたかな」
「いえ、頂さまに問題はございません。お気になさらず」
 エレベーターが到着し、既に3人乗っている中に僕と香春は乗り込んだ。香春が8のボタンを押す。8階に到着するまでの間、しばし僕らは沈黙を守った。


 8階に着くと、香春は通い慣れた道を行くように、歩きはじめた。僕は置いて行かれぬようについて行く。廊下の真ん中あたりに、カウンターのある場所があった。どうやら看護師の詰め所らしい。その前で香春は一礼をした。中の看護師は香春を知っているのだろう、笑顔を返し、手で「どうぞ」と示した。
 その部屋は、詰所のすぐ隣の部屋だった。奥行きのない狭い部屋。中には機器類が置かれていて誰もいなかった。部屋の奥には扉があり、その横には大きなガラス窓がある。
「こちらです」
 香春はガラス窓の前に僕を誘った。そのガラスの向こうの真っ白な部屋に、彼女はいた。体に何本ものチューブをつながれて。僕は絶句した。


「大丈夫です。鈴音は起きません。もう起きないかもしれない」
「……白石さん、何の病気なの」
「簡単に言ってしまうと、太陽の紫外線に当たると死んでしまう病気です」
 そういう病気があると、聞いたことはある。名前は知らないが。だがとても稀な病気だと。
「それじゃ、中学の時は」
「完全に陽が沈んだ後の授業だけを受けていました。なのにテストの成績は、いつも私より優秀で」
 香春はガラスの向こうを見つめながら微笑んだ。
「白石さんは高校はどこへ行ったの」
「高校へは行きませんでした。中学卒業の寸前、脚に神経障害が出て歩けなくなってしまったので」
「神経障害」
「この病気は進行性の神経障害をともなうのです。まず運動機能に障害が出て、次は耳が聞こえなくなります。そして知的障害を経て、やがて言葉を失います」
 ならば今の白石さんはどのレベルなのだろう、そう思ったが聞けなかった。聞くのが怖かった。
「今日は鈴音の誕生日なんです」ふいに香春は言った。「だから頂さまに会っていただきたかった。会っていただけたら、もしかしたら奇跡が起きるんじゃないかと勝手に期待して。申し訳ございません」
 香春は深く一礼した。僕は何と言うべきだったのだろうか。
「ご迷惑をおかけしたことはお詫びいたします。ただ、できましたら、今日のこの鈴音の姿を、覚えておいてあげてくださいませんでしょうか。どうか、よろしくお願いいたします」


 駐車場に戻るまでの道すがら、僕と香春は何も話さなかった。話せなかったのかもしれない。香春が後部座席のドアを開け、僕は車に乗り込んだ。
「よう、会えたか」
 巌は当然知っていたのだろう。僕はようやく一言だけ口にした。
「ああ、会って来た」
「そうか」
 香春が運転席に乗り込んだ。これで車内には4人が乗り込んだことになる。ん、4人?
「浅い浅い、浅いのう」
 助手席の人影が声を発した。これにはさしもの巌と香春も驚いたと見え、とっさに言葉が出なかった。そのモコモコとしたムク犬のような髪の毛とニューヨークヤンキースの帽子は、僕には見覚えのあるものだった。
「君は……つぐみ」
 確か、とらかわつぐみ。捨身飼虎の虎に、かわの字がわからないが。
「虎に大河の河と書いて虎河だ。おぬしの考えていることは浅くてわかりやすい」
 僕の心の中を読んだかのように、虎河つぐみはそう言った。
「虎だけにタイガーってか」
 この期に及んでダジャレをかます巌を横目で――目元は髪で隠れて見えないのだが――にらむと、つぐみは口元に笑みを浮かべた。
「こっちのやつは存外深いな」
「へえ、おめえにわかんのか」
「まあわかる。だがその深さ、苦しくはないか」
 巌の顔が引きつったように見えた。こんな顔を見るのは初めてかもしれない。
「なんだと、このガキ」
「人は深ければ良いというものではない。分不相応な深さは己を傷つけるだけだぞ」
「てめえ、言いたいこと言わせてりゃいい気になりやがって」
「おい、ちょっと待て、待てって」
 今にもつかみかからんとする巌を、僕は慌てて止めた。
「君はいったい、何しにここに来たの。嫌味を言うためじゃないんだろ」
「別に嫌味は言うとらんと思うがな」つぐみは口元を緩めた。「わしがここに来たのは、山の香りがしたからだ。はて面妖なと思うてな」
「山の香り?ここって海の近くだよ」
 僕の答えに、つぐみは苦笑して見せた。
「だから面妖なと言うておる。まあ、ここは埋め立て地だからな。山の土砂を運んで埋め立てておるのだから山の香りもしておかしくはないのかもしれんが、いささかかんにさわる」
「んなもん、てめえの思い過ごしだ」
 吐き捨てるように言う巌に、つぐみは満足げに鼻を鳴らした。
「フン、まあそうかもしれん。そんなこんなで海の近くまで来てみたら、見知った顔があったものでな、ちょっと挨拶に寄ったまでだ。他意はない」
 嫌な挨拶の仕方だな。僕のそんな思いが顔に出ていたのだろうか。
「おぬしは本当に浅いな」
 また言われてしまった。
「浅いことが悪いことという訳ではない。だが己が浅いということを、知っておくのは重要だぞ。浅知恵では物事は解決せん。かえって混乱するだけだ。覚えておくことだな」
「んじゃあ、てめえは」
 巌がそう言いかけたとき、つぐみの姿は忽然と車中から消えた。跡にはうっすらヒノキのような香りを残して。
「何だってんだよ、いったい」
 巌のそれは悔し気で、しかしどこかホッとしたような言葉だった。


 ヨウムはコートジボワール、ケニア、タンザニアなどアフリカ中西部を原産国とする大型のインコであり、全長は30センチを超える。アフリカン・グレイ・パロットの英名通り、全身が灰色で、尾羽だけが赤い。非常に知能が高く、訓練次第では意味のある単語を組み合わせて人間と会話ができるようになることでも有名である。


「定例会議の議題に、ですか」
 ヨウムのパスタは困惑の表情を浮かべている。
「ダメ、かな」
「必ずしもダメということはありませんが、うーん、どうだろう」
 困り顔を並べるパスタと僕に、助け船を出したのは。
「構わんのではないか」
 ブルーボタンの伝蔵である。医療ドックから今朝戻ってきた。包帯でぐるぐる巻きになっていないのが不思議だが――実際、そうなっていてもおかしくないほどの重傷ではあるのだが――全身骨折程度なら1週間で動けるようになる、というのが彼らの医療技術であった。
「いま喫緊の課題がない訳ではない。だが手詰まり状態だ。議題にできる程の情報もない。ならば別の話を議題として取り上げること自体は問題ないだろう」
「それじゃ」
 笑顔が浮かんだ僕の言葉を「ただし」と遮り、
「おまえの望む通りの結果が出るとは思わんことだ」
 伝蔵はそう言った。


「第152回定例会議を始めます。議長は私、パスタが務めます。議題は菊弥さんが持ってきた、難病の女性について。異議はありますか」
「異議なし」
 伝蔵が言った。
「異議はないわ」
 モモイロインコのミヨシが不満げに言った。
「異議なし」
 セキセイインコのリリイが言った。
「異議なしやな」
 十姉妹ファミリーを代表して、トド吉が言った。
「ではまず菊弥さん、その女性をどうしてほしいのか、単刀直入に説明いただけますか」
 僕は意を決して口を開いた。
「君たちの医療技術で、彼女を助けてほしいんだ」
「はい、反対」
 一切間を置かず、ミヨシが即答した。
「どうして」
「助けてどうするつもりなの」
「どうするって」
「その女の子と結婚でもしたい訳?」
「いや、そんなつもりはない」
「じゃあ何。難病を治した奇跡の聖人として新興宗教でも興すつもりなの」
「それええな。ペットホテルより儲かるやろ」
「茶々を入れるな」
 伝蔵がトド吉をたしなめた。
「そんなにダメな事なのか、困ってる人を助けるってだけで、そんなに」
「坊やが助けたいなら、坊やの力を使いなさい。私たちの力をあてにするのなら、私たちが判断するのは当たり前でしょう」ミヨシはこんこんと説いた。「大きな力を行使するなら、その影響を考えなきゃいけないの。いいこと、坊やがあの子を助けて、病気が治ってそれではいおしまい、なら誰も反対しないわよ。でもその後も時間は続くのよ。それをどれだけ考えてるの。たとえばあの子が助かって、自分を助けたのが坊やだって知ったら、恋愛感情を抱くかもしれない。それに応えられるの。それとももてあそぶつもり」
「そんなつもりは。それにそうなるって決まってる訳じゃ」
「それだけでは終らないわよ。難病で苦しんでる人なんてこの国、いいえこの惑星中に掃いて捨てるほどいるのよ。その人たちが坊やを最後の希望とすがりついてきたとき、あんたどうする気。知り合いじゃないからって見捨てるの」
「……」
「それとも全員助けるの。でもそれだけの人たちを助けたら、その人たちから、その家族から、あんたは神と崇められるようになるのよ。それに応えられるの。それともばらす?全部宇宙人のやったことで自分は窓口になっただけでした、って言うのかしら。坊やは連盟が何故地球を仲間にするのに百年かけようとしてるかわかってる?。根回しも何もしないまま大きな力を一点に突き立てたりしたら、世界は恐怖で満ちるわよ。もしこの国がいま、核兵器を超える超破壊兵器を手にしたとしたら、世界がどうなるかを考えてみなさい。私たちがそれを行ったとしたら、それはこの惑星に対する侵略と同じなの」
「ああ!」パスタが突然声を上げた。「つまり、あの山の中の温泉宿が行っていたのはまさに侵略行為ってことですか」
「なんや、今頃気ついたんかいな」
 トド吉が鼻で笑った。パスタはムッとした。
「でも、トド吉さんだって気づいてませんでしたよね」
「気づいてました。ワイは早うから気ついてたっちゅうねん」
「じゃあいつ頃気づいたんですか」
「それは、やな。ホテルのとき」
「ついこないだじゃないですか」
「ええやないか、ワイは自分で気ついたんやで。あのホテルのデモンストレーションも、山奥の温泉も、それから甲冑の騎士の決闘も、みんなこの日本を世界から切り離すことで世界中に恐怖をまき散らすための作戦行動の一環やったんやな、て」
「何でそれを言わなかったんですか」
「う」
「自信がなかったんでしょ」
「ぬ……」
「それくらいにしておけ」
 伝蔵が割って入った。パスタとトド吉は沈黙した。しばし部屋の中に静寂が流れる。
「唯一絶対神への挑戦」僕の口からその言葉は流れ出た。「小学校の屋上で、あの男が言ったことは、つまりそういうことなんだよね」
「そういうことって、どういうこと」
 ミヨシが首をかしげる。
「つまり唯一絶対神に支配されていない日本を一度世界から切り離すことで、世界に打ち込む恐怖のくさびにする気なんだ。唯一絶対神に支配されてる世界への攻撃として」
「そんなことをして何になるの」
「それは……それは、よくわからない」僕は首をひねった。頭がいっぱいだった。「巌とたきおんの意見も聞きたい」
 そんな僕を見て、ミヨシはひとつため息をつく。
「それで、病気の女の子はもうどうでもいいの」
 その指摘に、僕は慌てた。
「あっ、いや、それはよくない。どうでもはよくない。よくはないんだけど、でも、先にこのことを片づけないと」
 そうだ、順番からすれば、まずこちらを片づけないと、安心して白石さんの病気を治すこともできない。だから仕方ないのだが、言葉が言い訳めいてしまうのはなぜだろう。



 陽の沈んだ午後7時過ぎ、僕は2人を呼び出した。いや、香春を含めて3人か。もっと早い時間に呼ぶこともできたのだが、さすがに僕にも常識というものがある。紫外線を浴びるような時間帯に他人を呼び出す訳には行かなかった。
「しかしよお」巌は言った。「鳥がこれだけ集まると気持ち悪いもんだな」
「おまえはそういう余計なことを言わなければ死ぬ体質か何かか」
 僕は早くも、こいつを鳥部屋に呼んだことを後悔していた。
「ホント、余計な事しか言わないんだったら帰れば」
 滝緒は僕のベッドに寝ころんでいる。
「何してるの」
「いいじゃない、初めてじゃないんだし」
 滝緒はポッと頬を赤らめる。
「頂さま、お許しがいただければ即座に絞め殺しますが」
 目をらんらんと輝かせる香春を、僕は無言で押しとどめた。疲れる。
「ええ加減、始めえや。そろそろ眠たい」
 そう言うトド吉を、巌は面白そうに見つめた。
「へえ、本当に十姉妹がしゃべってやがらあ」
「おーい、そろそろいいか」
 一呼吸おいて、僕は話し始めた。僕らがこれまで出会った怪異現象のうち、少なくとも草原での決闘、山奥の温泉、そして黒い馬のホテル、これらは日本という国を世界から切り離し、くさびとして世界に打ち込むための一連の行動だということ、そしてその背景には多神教である日本と、一神教が支配する世界という対比が何らかの意味を持つということを。
「でもさあ」滝緒が言った。「あのときも思ったんだけど、何で日本じゃないといけない訳。多神教の国なんて他にもあるじゃない。インドとか」
 しかし巌は不満げに鼻を鳴らした。
「ふん、インドは確かに多神教の国だが、あれは一神教と大して変わらねえんだよ」
「意味わかんない」
 そう言う滝緒を見下ろして、巌は言う。
「インドには三大神がいる、ってことになってるが、事実上は二大神だ。シヴァを信仰するシヴァ教徒と、ヴィシュヌを信仰するヴィシュヌ教徒の二つの教徒がヒンドゥー教のほとんどを占めてる。ブラフマー教徒なんて、ほとんどいねえ。そしてシヴァ教とヴィシュヌ教は相容れない。つっても敵対してる訳でもない。シヴァ教徒はヴィシュヌ神を、ヴィシュヌ教徒はシヴァ神を、一段下に見てるって事だ。とにかくヒンドゥーというくくりでは同じだが、別の神を掲げる別の信仰だ。日本ならアマテラスとスサノオが一緒の神社に居てもそう大して驚くことじゃねえが、インドでシヴァとヴィシュヌが一緒の神殿に祀られてるなんてことは、基本的にない。シヴァの神殿にシヴァの息子のガネーシャが祀られてたり、ヴィシュヌの神殿にヴィシュヌの化身のラーマやクリシュナが祀られてたりはするかもしれねえが、シヴァとヴィシュヌは別の宗教の別の神だ。ひとつの寺に三大神の三つの神殿があることはあっても、ひとつの神殿にシヴァとヴィシュヌは同居しない。要するに絶対神を掲げる一神教に限りなく近い多神教が更に複数まとまって出来上がってるのがインドの複雑な多神教だ。日本とはまるで状況が違う」
 さすがにこういうことに関しては巌は弁が立つ。いかな滝緒といえど、真向から否定はできない。
「でも、多神教はヒンドゥー教以外にもあるんでしょ」
 このくらいでせいぜいらしい。一方巌は指折り数えた。
「ブードゥー、マクンバ、サンテリア、この辺のアフリカ人奴隷から発祥したアフロアメリカン宗教は多神教だ。だがこれらの宗教は基本的にカトリックと習合してる。純粋な多神教とは言いづらいかもしれねえな。一神教が嫌いな奴なら、一神教に『毒されてる』とか言ってもおかしくねえだろう」
 なぜだろう、僕の心臓がギクリと震えた。
「仏教は。仏教は多神教とは言えないのですか」
 そう問うたのは、ヨウムのパスタ。巌はニッと歯を見せた。
「ほう、わかってるじゃねえか、灰色。仏教は厳密には多神教とは言えない。本来の仏教には神は存在しねえからな。だが民衆が実際に信仰してる仏教は間違いなく多神教だ。だから仏教国は多神教国で間違いねえ。だが仏教も結局は釈迦の教えに終始する訳だ。釈迦はてめえを唯一絶対神だなんて言わねえが、実質的に最高神の位置に居るのは間違いあるめえよ。つまりその構造はシヴァ教やヴィシュヌ教と大して変わんねえだろう。そのまんまじゃ日本人の感覚には馴染まなかったはずだ。それが一度中国に渡り、そこで変化し、更にそこから日本へ来て、最終的に神道と混淆こんこうして、ようやく広く日本人全体が受け入れられる形になった。それが日本の仏教であり、日本の多神教だ。『それ』を望む者からすりゃ、他の仏教国じゃダメなんだろうよ」
「それはつまり」ブルーボタンの伝蔵が言う。「この国は他の国に代えがたいほどに宗教的に特殊だということなのだな」
「良いか悪いかを別にすりゃ、きわめてユニークだよ、この国は」
 あまり嬉しそうではない顔で、巌は答えた。
「とにかく何らかの理由で一神教に敵意を持っとるやつが、この国をほしがってるのは間違いないっちゅうことや。誰やねん、それ」
 トド吉の言葉と共に、天井にPCの画面のようにウィンドウが開いた。そこに大写しにされたのは、僕が小学校の屋上で見た男。金髪、白い肌、40代から60代まで想定される容姿。
「顔認証でこの惑星のネット上にあるすべての顔写真に当たっていますが、いまだこれといった手がかりはありません」セキセイインコのリリイが説明する。「服装のローブは古いタイプのもので、中世ヨーロッパ辺りで見られたデザインだと思われます。でもこの足、足に履いているサンダルのデザインはもっと古くて、古代ローマにまでさかのぼるようです」
「何かわかるか」
 そう言った僕を、巌はジロリとにらんだ。
「無茶言うな。ローマ人に知り合いはいねえぞ」
 そりゃそうだ。いたら逆に怖い。僕は滝緒に目を向けた。
「何か気づいた事とかある」
「問題はなんでローブ着てるのか、ってとこよね」
「ローブが問題?」
「ていうか、着てるのが古代ローマの服装なら、間違いなくタイムスリップしてきた古代ローマ人な訳よ」
 その間違いなく、と言い切れる自信はどこから来るのだろう。
「それはおかしいです」疑問を呈したのはパスタ。「中世の人が古代ローマにタイムスリップしてから現代に来た可能性だってあります」
 タイムスリップの可能性は否定しないんだ。唖然とする僕をよそに、滝緒は反論した。
「中世からローマ時代に行った人が、わざわざサンダルだけ履く?ローブそのままで?普通見えるところから変えて行かない?」
 なるほど、言われてみればそうかもしれない。滝緒は言葉を強めた。
「ローブで見えにくい足にサンダルを履いてるってことは、サンダルを履き慣れてるってことよ。見えないから、気づかれないから、自分が履き慣れてるものを履いてるんだと思う。だとしたら、古代ローマ人よ」
 感心したような、気圧されたような、複雑な沈黙が鳥部屋を覆う。最初に口を開いたのは、伝蔵だった。
「並行世界にはローマ文化がそのまま残っている世界もあるだろう。中世が続いている世界もあるやもしれん。いや、そもそも時間の流れ方が違うのだ。すべての並行世界における『現代』はバラバラだ。時空渡航者ならば異なる時間軸の世界を行き来することも可能。ならばさながらタイムリープしているかのごとく、古代ローマ世界から中世の世界へ、そして中世から現代へと並行世界間を移動したのだとすれば」
「可能性ならあるわよね」
 うなずいたのは、モモイロインコのミヨシ。いいのか。服装だけでそんなことまで言及しちゃっていいのか。
「すごーい、私冴えてる」
 自画自賛しちゃってるけど、本当にいいのか。あ、香春の手がぷるぷる震えてる。いや、ちょと待て、早まるな。
「ただし、現段階では可能性の話。まだ判明したことは何もないと言っていいわね」
 釘を刺すミヨシに、「えー」と滝緒は不満げだが、香春の震えは治まった。と、香春は自分の胸に手を当てた。そして「失礼します」と言うと、鳥部屋を出た。キョトンとしている僕に、
「電話だ」
 巌がそう説明した。なるほど、香春は五十雀家の家政婦長だ。連絡事項も多いのだろう。そう思った瞬間だった。鳥部屋のドアが物凄い勢いで開けられた。香春が、真っ青な顔で立っている。
「巌さま」
「どうした、慌てて」
「……鈴音が、鈴音が病院から姿を消しました」



 警備員は19時に館内巡回をしているが、白石鈴音の姿は見ていないという。病院内外各所に取り付けられた監視カメラにも、白石さんの姿は映っていなかった。病室内にはプライバシー保護の観点からカメラは取り付けられていない。だがもしかしたら、監視カメラがあっても同じだったかもしれない。彼女の身体には、血圧や脈拍などの測定機器が取り付けられていたが、19時過ぎ、それらがすべて一斉にゼロを示した。ナースステーションのブザーが鳴り、看護師たちが隣の部屋に駆け付けたとき、すでに白石さんの姿はベッドの上になかった。このベッドの上から、煙のように一瞬に、ドアも開けずに彼女は姿を消したのである。病室内には夜勤担当の医師、看護師、警備員と、香春、巌、滝緒、そして僕がいた。
(空間転移の痕跡は)
 僕は頭の中で問いかけた。反応はすぐにあった。
【確認はちょっと無理。時間が経ち過ぎてるわね】
 ミヨシは残念そうである。
(連中だと思う?)
【現時点でそれ以外の可能性を考えるのは逆に不自然だと思うけど】
(目的がわからない)
【目的はわからないけど、理由ははっきりしてるんじゃない】
(理由って)
【坊やの知り合いだからよ。だから何かに使えると思ったのね。それが何かはわからないけど】
 胸が締め付けられる。僕のせいだというのか。いや、普通に見ればそうだろう。僕が病院に来なければ、白石さんがさらわれることもなかったのだ。だが、それを香春に何と言おう。香春は声もなくベッドに泣き崩れている。
 警察に連絡しましょう、警備員はそう言ったが、医師は難色を示した。病院には病院なりの立場も事情もあるのだろう。まだ誘拐と決まった訳じゃない、しばらく様子を見よう、巌のその言葉に医師はうなずいている。そうであってくれればありがたい、医師の顔はそう告げていた。
 腕が引っ張られる。滝緒がその切れ長の目で僕を見つめている。そして小さくうなずくと、病室の外に出て行った。僕はその後を追う。


 夕食の時間は終っていたが、消灯時間にはまだ1時間以上ある。各病室の扉は開け放たれ、患者の笑う声、テレビの音、その他雑多な音たちが病院の廊下にはあふれていた。その中を突っ切るように、滝緒は早足で歩く。僕はその後に、追いすがるようについて行った。そして廊下の端、階段横の消火栓の前まで行くと、滝緒はくるりと振り返った。
「また変な事考えてるでしょ」
「へ、変な事って何だよ」
 運動不足だ。僕は軽く息が上がっていた。
「自分のせいで白石さんがいなくなったとか考えてない」
「それは、事実だろ」
「またそうやって無駄に自分を追い詰める。そんなことして何か解決するとでも思ってるの」
「いや、別にそんな風には思ってないけど」
「思っていないならやめることだ。無駄に自分を責めるのは、自分を可哀想だと思いたい弱い心のなせるわざ。ただの甘えにすぎん」
 3人目の声が階段から聞こえた。僕らを見下ろす位置に座り込んでいる、オーバーオールを着て、ニューヨークヤンキースの帽子をかぶった、もじゃもじゃの長い髪の、ムク犬のような子供。
「なにこの子」
 目を丸くはしたが、滝緒はそれほど驚いてはいないようだった。虎河つぐみは歯を見せた。
「この女は肝が太い」
 僕の周りにいるのは、みな肝が太い連中ばかりらしい。いや、今はそれよりも。
「つぐみ」僕は昼間のことを思い出していた。「きみはあのとき、山の香りがするって言ってたよね。あれは白石さんと何か関係があるの」
 虎河つぐみはポリポリと鼻の頭をかいた。
「ま、結果から言えば、関係あったようだの」
「なにその言い回し。ハッキリ言いなさい」
 滝緒に叱られるような形になり、つぐみは小さくため息をついた。
「件の湯宿にいた森の魔女がな、どうやらこの辺に現れたらしい」
「間違いないの、それ」
 勢い込んでたずねた僕に、つぐみは手のひらを見せた。
「まあ落ち着け。わしも別にさらう所を見た訳ではない」
「でも他に考えられない、だから罪悪感を覚えた、で、いまここにいる、と」
「手厳しいな」
 そう滝緒に返すと、つぐみは苦笑した。滝緒は畳みかけるように言葉を重ねる。
「でもわざわざここまで来たっていうことは、他にも何か知ってるのよね。手がかり的な何か」
「そうなの?」
 滝緒と僕に見つめられて、つぐみはやれやれといった風にため息をついた。
「やりにくいのう。ま、そういうことだ。わしなりに後を追ってみたのだ。だが途中で見失った」
「どの辺?」
 間髪を入れぬ滝緒の問いに、つぐみは諦めたように答えた。
「富士の樹海のあたりだ」


 今すぐ、今夜中に助けに行きたいと言う香春を巌が説き伏せ、僕らは朝を待った。体力回復のために睡眠が必要だったことはもちろんだが、夜に樹海をさまようなど、自殺行為としか思えなかったからだ。紫外線は僕らの敵だが、樹海を行くなら可視光線は最大の味方である。
 僕は午前4時半に目覚めると朝食を採り、鳥部屋の皆の世話をし、幸か不幸か誰もいない客室を軽く掃除して、午前6時前、玄関ホールで待った。外はまだ暗い。遠くの空がほんのり明るくなったようなが気がする、そんな頃合い。肩に乗るのはモモイロインコのミヨシ。そして。
「わしが一番か」
 背後から声がした。低い位置からの声。僕は虎河つぐみを振り返った。
「来てくれたの」
「言いっぱなしは無責任であろ」
 タイヤが地面を噛む音に再び外を見る。巌の黒塗りのセダンが入ってきた。後ろに続いているのはタクシーだ。おそらく滝緒が乗っているのだろう。こんなときくらい一緒の車で来ればいいのに。駐車場にセダンが停まり、タクシーが停まった。香春が運転席から降り、後部座席のドアを開く。巌が降り立ち、ドアが閉まった少し後、ようやく支払いを済ませたのか、タクシーのドアが開き、滝緒が降りてきた。またサファリルックだ。だが今回は場所的に、一番ふさわしい恰好をしているのかもしれない。それにひきかえ巌は今日も黒の着物だ。樹海だぞ。歩けるのか。
 などと玄関の内側から見ていると、滝緒が急に走り出した。そして玄関の扉を開け、風除室の扉を開けて、一言。
「いっちばーん……あれ」つぐみを見て眉を寄せる。「何よそれ」
 その後ろでは香春が無表情に風除室の扉を開け、巌を通していた。
「おめえはガキか」
「うっさい、黙れ」
「ハイハイ、揃ったみたいね」
 一同はミヨシに注目する。
「ではこれから樹海に出発するわよ。各自、用意はいいわね」
 まるで遠足の引率だな。僕がそう思ったのと同時に。
「転移します」
 キンと甲高い音。目の前の景色が瞬時に変わる。天井もガラス扉も消え、代わりに現れたのは、立ち並ぶ樹、樹、樹。鬱蒼と生い茂る葉、地面を這う根の群れ。薄暗い。空気が冷たい。
「ここ、どの辺りになるの」
「樹海西側の遊歩道の真ん中あたりね。ちょうど人がいない場所を探したらここになったのよ」
 ミヨシは僕の問いに眠そうに答えた。
「こんな時間から人がいるのかよ」
 巌の言葉にミヨシはうなずく。
「樹海は観光地だもの。それも夜に迷い込んだら命を落としかねない観光地。紫外線防御して朝の早いうちに見て回ろうっていう考えもわかるわ」
「でもさ」滝緒は首を傾げた。「連中は隠れてるのよね。だったら見つかりやすい遊歩道の近くになんかいるはずないんじゃない」
「言っとくけど、遊歩道のある場所だけでも全部回れば3時間以上かかるわよ。迂闊に道のない場所になんか入ったら、夜までに帰れなくなることは理解しておきなさい」
 ミヨシは少し面倒くさそうに、しかし厳しく注意した。
「その広い樹海を、どうやって調べるよ」
 巌の疑問はもっともだと思えた。
「相手が隠れているのだとすれば、空間をねじ曲げている可能性があるわ。だからそれを確認するの」
「それで必ず見つかるのか」
「保証はできないわね」
 それは正直な見解なのだろう。巌もそれがわかったればこそ、突っ込むでもなく、ただ苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「ならばわしの力が役に立とう」
 楽し気なつぐみを、巌はジロリと見下ろした。
「で、おめえには何ができるんだ」
「わしは樹々の声を聴くことができる」
「樹に声なんてあるのかしら」
 ミヨシは疑わし気な声をあげる。つぐみはまた楽し気に笑った。
「あるともさ。樹々は常に会話をしている。おまえさんたちには聴こえんかもしれんがな」
「確かに宇宙には植物タイプの知的生命もいるわ。でも地球の植物に知性があるとは思えないけど」
「知性などはない。心があるだけだ」
「心ねえ」
 鳥の姿をした宇宙人と、子供の姿をした人ならぬものが、心について語っている。状況的にはシュールなのだろうが、なんとも微笑ましい。そう思うのは僕の感覚が麻痺しているからだろうか。
 列の先頭には巌が歩いていた。舗装もされていないでこぼこの遊歩道を、下駄で軽々と歩いていく。なんてやつだ。そのすぐ後ろを、凍ったような無表情で香春が歩く。その胸中は如何ばかりか。僕と肩の上のミヨシ、そしてつぐみは、その後ろに並んで歩いている。最後尾は滝緒だった。
「そう言えばさ」僕はミヨシに問うた。「確か恵海さんの所に行く前、観測機器がまったく反応してないって言ってたよね」
「ああ、そう言えばそうだったわね」
「あれって原因わかったの」
「不明よ。ただ、推測はできるわ」
「どんな推測?」
「連中は既知のシステムは使ってないってこと。おそらくは個人的な、それも魔法的な能力を使って空間をねじ曲げたりしているのだと思う。だから我々の機器では観測できなかった。曲がった空間は観測できたけど、どうやって曲げているのかのデータが集まらないのはそういうことよ」
「それって、物凄いことじゃないの」
「そりゃ物凄いわよ。いかに辺境の観測基地だとはいえ、我々連盟の技術に匹敵する力を個人で持っているのだもの。並行世界間の移動なんて簡単なんでしょうね。きっと本人にその気があれば、恒星間航行すらできかねないほどの能力よ。尋常じゃないわ」
「その尋常じゃない大魔法使いを相手にして、僕らに勝ち目はあるんだろうか」
「浅い浅い、浅いのう」
 弱気な僕の言葉に対し、つぐみは笑った。
「そんなに浅いかな」
「浅いな。浅いが故に簡単にあきらめる。事はそれほど単純ではない。そもそも簡単に勝敗がつくほどに圧倒的な力を持っているのなら、病の娘をさらったりはすまい」
「……つまり人質ってこと?」
「おぬしはバッティングセンターにいるつもりになっている。飛んでくる球の速さばかりを気にしている。だが相手は野球をしているのだ。あえて遅いボールを投げることもあるし、ど真ん中に放ってくることだってあるだろう。仮におぬしに打たれても、守備についている者がバックアップをしてくれるし、他でアウトを取ることもできる。大事なのは最終的にゲームに勝利することであって、その目的のために必要な駒を集め、随時配置している。娘をさらったのもその一環であろう。おぬしとは考えていることの次元が違う」
 ぐうの音も出なかった。
「できたらこちらも野球がしたいところだけど、情報がなさすぎるもの。いまは来た球を打ち返すしかできないんじゃないのかしら」
 見かねたのか、ミヨシが助け舟を出してくれたが、それに乗っかる気力は僕にはなかった。
「無論、いまやるべきことはそれしかない。だが自分が何をするためにバットを握っているのかを理解して振るのと理解せずに振るのとでは、いずれ天地の差ができるぞ」
 そう言ってニッと歯を見せたつぐみを、後ろの滝緒はこう評した。
「評論家のお爺ちゃんみたい」


 どれくらい時間が経ったろう。歩き出してもう1時間以上は経ったのではないだろうか。僕らはまだ早朝の遊歩道を歩いている。鳥のさえずる声が響く。人にはまだ会っていない。と言うか、本当に人などいるのだろうか。まさか。
「なに考えてんのよ」
 ミヨシがからかうように笑った。
「いや、だってさ」
「どうした。何かあったか」
 巌が立ち止まって振り返った。香春もつぐみも僕を見つめた。
「あ、いや、もしかして道に迷ったんじゃないかな、とか思って」
「そんなことはありません。ちゃんと確認してるわよ、それくらい」
 ミヨシにそう言い切られると、何だか凄く恥ずかしい事を言っている気分になる。
「それでも、さ、樹海の中は方位磁石も効かないとかよく言うじゃないか。だから、その」
「そんな都市伝説いまだに信じてるのかよ」
「え、都市伝説なのか」
 僕の言葉に巌は頭を抱えた。
「あのなあ、そりゃこんだけ広いんだから、方位磁石が不正確になる場所の一つや二つはあるだろうよ。けどな、方位磁石の狂う場所なんぞ、街中に行きゃ腐るほどあるぞ。珍しくもなんともない。下手すりゃ家の中でも狂うもんだ」
「あ、そうなの」
「おめえな、このネット全盛の時代になんで都市伝説なんぞ信じるんだよ。ちったあ調べろ」
「まあネットと都市伝説は親和性が高いという話もあるが」つぐみは楽し気に笑った。「日本人は古来より深い森に神秘性を感じてきたのだ。これだけ大きな森なら何か不可思議なことが起こると連想するのは無理もない」
「山に杉の木ばかり植えて森を滅ぼしてきたのも日本人だけどな」
 面白くなさそうに巌は吐き捨てた。
「それは事実だが、それがすべてではないよ」
 諭すように、つぐみは言う。
「とは言え、いかに大きくとも樹海はまだまだ若い森だ。いささか格が落ちるという気はするがな」
 つぐみの言葉に滝緒が返す。
「若い森って、どのくらい若いの」
「そうさな、できてせいぜい1200年というところか」
「1200年で若いの?」
 驚きの声を上げる滝緒に、つぐみは笑う。
「白神や屋久島の原生林は万年単位だ。それに比べれば若い若い」
「でも」
「考えてみるといい。例えば京に都ができた頃、まだこの樹海は存在すらしていなかったのだ」
「そう言われてもピンと来ない」
「そもそも富士には6千年前から長寿の民が住んでいたという。それと比べても最近であろ」
 いたずらっぽく笑うつぐみに、巌が突っ込んだ。
「何だよそれ。宮下文書じゃねえか」
「みやしたもんじょ?」
 僕の疑問に巌は面倒くさそうに答えた。
「ああ、なんつーか、都市伝説の親玉みたいなもんだ」
「それは竹内文書ではないか」
 と、つぐみ。
「竹内文書は都市伝説じゃねえだろ。あれはSFだ」
 僕には巌たちがいったい何を言っているのかわからなかったが、随分と楽しそうには思えた。ふと、香春に目が行く。香春は冷たい表情でじっと虚空を見つめている。何か言わないと。僕がそう思った瞬間。僕の右手が勝手に跳ね上がった。手のひらを空に向ける。僕たちの頭の上に、まるで傘が開くように炎が音を上げて広がった。
「この朝っぱらから、よくおいでだね」
 上空に人影が浮いていた。白髪をひっつめ髪にした、鼻の大きな和服の老婆。森の魔女。
「出やがったな、ババア」
 叫ぶ巌をあざけるように、魔女は笑った。
「おや、まだ生きてたのかい、この役立たずの唐変木が」
「うるせえ、白石は返してもらうぞ」
「相変わらず威勢だけはいいねえ。だが地面を這いずり回るしか能のないおまえらに何ができる」
 そのとき、つぐみが消えた。姿を現したのは、魔女の頭上。
「上を取ったぞ!」
 しかし。魔女は上を見なかった。地面の僕らを見つめながら、ニッと歯を見せる。そして魔女は地面に落ちた。雷の速度で落下した。そして地面に両手を叩きつけた。穴。僕らの足元に、巨大な真っ黒な穴が開いた。
「しもうた!」
 つぐみの声の響く中、僕たちは穴の中へと落下していった。


 闇の中に明かりが灯った。直径3センチほどのプラズマ火球。
「坊やケガはない?」
「大丈夫みたいだ。ミヨシは」
「私は飛べるもの」
 僕の肩の上でミヨシは身体を揺らした。
(つながってるかな)
 頭の中に意識を集める。しかし返答はない。
「相手も学習してるってことじゃないの」
「みたいだね。他のみんなはどうしたんだろう」
 周囲を見回す。プラズマ火球以外に光はない。天井までは3メートルほどあるのだろうか。左右の幅は十メートルくらいあるのかもしれない。大雑把に言うなら饅頭型の空間と言えばいいのか。それが延々と続いている。地面も壁面も天井も、ごつごつとした岩肌がむき出しになっている。洞窟のようだった。僕は歩きだした。どちらが奥になるのかはわからなかったが、立ち止まっていても仕方ない。
「しかし寒いね」
「気温は随分と低いわね。3℃あるかないかくらい」
「長袖着てて助かったよ」
 滝緒は半袖だったが大丈夫だろうか、と思ったとき。
「止まって。誰かいるわ」
 プラズマ火球の光の中に、足音とともに現れたのは。
「香春」
「頂さま。ご無事でしたか」
 香春は左腕を抑えていた。
「ケガしてるの」
「いえ、ただの打ち身です。それより巌さまは」
「わからない、バラバラに落ちたらしい」
「では探さないと」
「誰を探すの?」
 洞窟に響いたのは、鈴が鳴るような、とでも言うのか、少し舌足らずな、幼さの残る、楽し気で幸せそうな声。
「この声……」
 香春は左腕を抑えていた手を放し、顔を両手で覆った。
「誰だ、どこにいる」
 僕の声が洞窟にこだますると、それを待っていたかのように、洞窟の奥に光が灯った。上から照らすスポットライト。その光が照らし出したのは。白い花。白い花が絨毯のように厚く敷き詰められた、花のベッド。その真ん中には、白い服をまとった白い肌の少女が横たわっていた。少女にしか見えなかった。香春は2歩、3歩近づき、確信したように声を上げた。
「鈴音、鈴音なのね」
 花のベッドに横たわる白石鈴音は、急に耐え切れなくなったのか、顔をくしゃくしゃにして、大笑いを始めた。そしてひとしきり笑うと、跳ね上がるように身を起こし、笑顔で香春を見つめた。少し垂れ気味の眠そうな目を大きく見開いて。
「そうだよ、こうちゃん」
 香春は駆けだした。
「香春、待って」
 そんな僕の声も届かない。香春は両手を差し出した。白石さんも手を伸ばす。二人の腕は交差し、そして互いを抱きしめ合った。だが香春の力の方がいささか勝っていたのだろう。
「こうちゃん、痛いよ」
 白石さんは笑う。ころころと。香春に言葉はなく、ただ嗚咽だけが聞こえる。
「何かわかる」
 僕は小声でミヨシに問うた。
「空間の歪み、念動力反応、センサーにバリア、火器危険物その他諸々、何もなしよ」ミヨシはあっさりと答えた。「もっともバックアップのない今の私の検知がどの程度当てになるのかは不明」
 僕は白石さんたちに近づいた。罠かもしれない、と思わないでもなかったが、どのみち香春を放っておく訳にも行かない。スポットライトの作る光の輪の中に足を踏み入れた。
「白石さん」
 僕のその声に、彼女はビクリと反応した。白い顔がみるみる赤く上気して行く。
「こうちゃん、ちょっとこうちゃん」
 慌てて香春を引き離そうとするが、香春は離れない。
「白石さん、病気はもういいの」
 がくがくと、頭が抜けるんじゃないかという勢いでうなずく。
「は、はい、大丈夫、みたいです。あの、ああ、でもまだしばらく紫外線には当たらない方がいいらしいです。て、言ってました。『あの方』が」
「あの方?それは誰」
「いや、誰って言われても、私にもわかんないです、その、ただ、私をお風呂に入れてくれて、そしたら、目が覚めて、脚も動くようになって、身体も動くようになって、それで、その、私に力を与えてくれたんです」
「力?何の力のこと」
 すると白石さんは、恥ずかしそうにうつむき、はにかんだ。
「えっと、力ってほどの力じゃないんですけど、他のみんなに比べたら、ホント何もないみたいなものなんですけど、でも、『あの方』が約束してくれたんです。こうちゃんと頂くんだけは、仲間にしてくれるって」
 何だろう、僕はおどおどと話す白石さんの向こうに、言い知れぬ闇を見た気がした。彼女は言葉を切り、そして小さく息を吸い込んだ。
「バラモンを知っていますか」
 その不意の問いに、僕は虚を突かれた。バラモン、聞いたことがあるような気はするが、どこで聞いたのだろう。
「バラモンとはインドの宗教者、聖職者を意味する言葉です。カーストの最上位で、生まれながらにして高貴な選ばれた人々だとも言われます。けれど、お釈迦様はこう仰いました。生まれによっていやしい人となるのではなく、生まれによってバラモンとなるのでもありません。その行為によって賤しい人ともなり、バラモンともなるのです」
 それはそうかもしれない、僕の意識がその言葉を肯定したとき、僕の体は動かなくなった。思考は自由を保っている。だが身体の自由は奪われてしまった。
 白石さんは、香春の腕を静かにほどいた。背後に倒れそうになる香春の身を支え、静かに花のベッドに横たえる。香春も動けなくなっているのだ。
「こうちゃん、ごめんね。しばらく我慢してね」
 白石鈴音は立ち上がった。白い裸足が妙になまめかしい。
「これが私の力です。言葉で身体を縛り付ける力。こんな事しかできないけれど、でも、あの、私、こうちゃんと頂くんには、一緒に来てほしいんです。お願いです、いま考えてください。そんなに時間はないかもしれないけど、でも少しなら『あの方』も待ってくれます」
「そりゃ無理ってもんだろう」
 その声は闇の中から聞こえた。洞窟の中にカラカラと下駄の足音が響く。スポットライトの作る光の輪の中に、黒い下駄、黒い着物が入ってきた。巌。
「こいつらだって馬鹿じゃねえ、『あの方』の正体も明かさずに仲間になれったって、はいそうですかと言う訳ゃねえわな」
 この馬鹿野郎、出てきてどうするんだ、おまえも動けなくされて終わりだろう、と言ってやりたかったが、口が動かない。
「あなた、五十雀くんね」
 白石鈴音の顔は厳しくなる。まさかこんな冷たい表情ができるとは、僕には予想外だった。
「へえ、俺のことも覚えてたのか。嬉しいね」
「こうちゃんを縛りつける、悪い人」
 まるで凍らんばかりの冷たい声で言い放つ。
「お釈迦様は仰いました。生れを問うてはいけません。行いを問いなさい。火はあらゆる薪から生ずるのです」
 巌は答えない。ああダメだ、やっぱり動けなくされてしまった。僕がそう思ったとき。
「良いことは言ってるな」巌の口が動いた。「だが俺にゃ効かねえよ」
 白石さんは一瞬気圧されたような顔をした。だがすぐに冷徹な表情に戻る。
「あなたは陰陽師まがいの怪しげな商売をしているそうですね」
「呪禁道士だ」
「お釈迦様は仰いました。瑞兆・天変地異の占い、夢占いや人相手相の占いを完全にやめ、吉凶の判断を捨て去った修行者は、正しく世の中を遍歴することでしょう」
 巌は「へっ」と一つ笑った。
「残念だな、俺は占いはやらねえ。だがよ、まあ間違ったことは言っちゃいねえと思うぜ。ただ、一点気に入らねえ所がある。『正しく世の中を遍歴する』ってどういう意味だ。それにゃまず、世の中に『正しさ』ってもんが存在してることが前提になるだろう。その根拠は何だ」
 白石さんはムッとした顔で沈黙を返した。
「何だよ、答えられねえのかよ」
「お釈迦様は仰いました。勝利からは怨みが起きます。戦いに敗れた人は苦しんで倒れます。勝敗を捨ててやすらぎに落ち着いた人は、安らかに眠るでしょう」
「ただの逃避じゃねえか、つまらねえ」
 今度はカチン、という音が聞こえてきそうな顔。
「お釈迦様は仰いました。解答をあらかじめ設定し、作りあげ、偏重して、自分の中にだけ正解があると思っている人は、不確かなものによって組み上げられた平安に執著しているのです」
「そりゃおめえの事だってわかって言ってるのか」
「お釈迦様は仰いました。成果を求める人は、その人間に相応しい重荷を背負うことにより、喜びの生じる境地と賞賛される楽しさを手に入れることでしょう」
「そりゃ依存じゃねえか。仕事と称賛に対する依存だろ。依存あるところには恐怖がある。一人で、自分の力だけで立つ恐怖だ」
 白石さんの顔から一切の表情が消えた。モードが切り替わった、そんな感じだった。
「お釈迦様は仰いました。知恵であれ、戒律や道徳であれ、世間において偏見をかまえてはいけません。自分を他人と『等しい』と示さずに、他人よりも『劣っている』とか、あるいは『すぐれている』などと考えてはいけないのです」
「そう考えない自分になりたい、って思いが願望であり欲望だってわかってるか」
「お釈迦様は仰いました。世の中の人々は、欲求によって縛られています。この欲求を制御することで解脱げだつすることができます。欲求を絶つことがあらゆる束縛を断ち切ることになるのです」
「それじゃダメなんだよ、そういう何かを得るために何かをするとか何かを断ち切るなんてのは凡庸な機械みたいな心なんだって理解しろ。それじゃ何も自覚できねえぞ」
「お釈迦様は仰いました。利益が欲しくて学ぶのではありません。利益がなかったとしても、怒る必要がないのです」
「学ぶって事の意味がわかってるか。学ぶってのは愛するって事なんだぜ。利益があるかないか考えてる時点で、そこには愛はねえよ」
 巌が愛を語っている。ある意味動けなくて良かった。僕の身体が動いたなら、目玉が飛び出していたかもしれない。
「お釈迦様は仰いました。ある人は『ここだけに清浄さがある』と言い張って、他の教えは清浄ではないと言います。『自分が選び、信じているものだけが善なのだ』と言いながら、それぞれが別々の真理に固執しているのです」
「釈迦の言葉しか唱えられないおめえが言っても説得力はねえよ」
 怒っていた。白石鈴音は怒りに身を震わせていた。その目に涙を溜めながら、彼女は絶叫した。
「お釈迦様は仰いました!怒っている人に対して怒り返す人は、重ねて悪事を働いていることになるのです!怒っている人に対して怒り返さなければ、勝ち目のない戦いにも勝てるのです!」
 しかし巌はあくまでも冷静だった。
「勝ち負けじゃねえだろ。そんな事にこだわるな。殴られたからって殴り返すことは、つまんねえことなんだって気づけ」
 白石さんは何か言いそうになったが、その言葉を飲み込んだ。そして己を落ち着けるためだろう、深く息を吸い込んだ。そして静かに息を吐く。
「お釈迦様は仰いました。真理を楽しみなさい。喜び、安住し、己の定めを知りなさい。真理を傷つける言葉を口にしてはいけません」
「おめえ知ってるか。真理に至る道なんてねえんだぜ」
「お釈迦様は仰いました。真理について話し教える人は、相手を不死身にしたのと同じなのです」
「いや、真理は刻々だ。そこに永遠はねえ。だから不死に真理はねえよ」
「破滅をもたらす悪魔よ。お前は打ち負かされたのだ」
「本当に破滅的な事は何か言ってやろうか。それはな、誰かの教えに機械のように従うことだ。おめえみたいにな」
「悪しき心の者よ。おまえは、私の行く道を見ることがないであろう」
「だから道なんてねえんだよ。すべては最初からここにある」
「ブッダはこの世界の語り教える人々のうちで特にすぐれたものなのです」
「何でおめえの言葉が俺に効かねえのか教えてやろうか。それはな、おめえがブッダじゃねえからだよ。言葉を真似ただけでブッダになれると思うな、馬鹿野郎」
 その言葉が、何かを砕いたのかもしれない。
「うあああああっ!」
 白石さんは叫んだ。走った。巌の胸に拳をぶつけた。
「否定するな!私を否定するな!私を!」涙を流しながら白石さんは叩く。「私がどんな思いで、どんな苦痛に耐えながら、言葉を心に刻みつけたか、おまえなんかに、おまえなんかには絶対!」
 その拳を、巌は無言で受け続けた。そして白石さんが息を切らし、膝をつくのを待って、誰に言うでもなくこう口にした。
「俺も修行が足りねえな。いや、違うか。修行なんて言葉が出てくること自体がダメだ。ありのままの自分が見えてねえってことだからな」そして白石さんに語り掛けた。「もういいだろう。2人を自由にしてやれ」
 白石さんは顔も上げず、小さな声でつぶやいた。
さいの角のようにただ独り歩め」
 直後、僕の身体に自由が戻った。香春は咳込んだ。苦し気に体を横に向けたが、動けるようになったのは間違いない。そして。
「あー、酷い目にあったわ」
 僕の肩の上で、ミヨシがため息をついた。そうか、ミヨシも動けなかったんだ。自分のことで精一杯で、すっかり忘れてた。
「ああ、3人だっけか」
 どうやら巌も忘れていたようだ。
 香春は体を起こし、白石さんの肩に手を置いた。白石さんは香春の胸に飛び込み、声を上げて泣いた。香春はそれを再び抱きしめる。白い光の輪の中で、その姿には神々しささえ感じられた。そこに。
「空間が裂けるわ」
 ミヨシが翼で天井を指した。暗い天井に、黄金色の裂け目が生じた。裂け目は広がる。漏れ出す光。その中から降りてきたのは、4つの蹄。黒い脚、黒い体の黒い馬。その背にまたがるローブの男。
「ミヨシ」
 小さな声で問いかけた僕に、ミヨシも小さな声で答えた。
「なに」
「僕はいま、何が使える」
「プラズマ火球を一回飛ばせるわ。それで終わり」
「了解」
 心もとない、と言うより絶望的と言ったほうが良いか。
【鈴音】それは頭の中に直接響く声。【君にはやはり、荷が重かったようだね】
「そんな、ウェルギリウスさま!」
 白石さんは驚いた顔を上げた。ローブの男の下に駆け寄ろうとでも思ったのか、慌てて立ち上がろうとした。だが香春が抱きしめて離さない。
「ちょ、ちょっとこうちゃん、こうちゃんってば」
 もがく白石さんの両手をつかみ、その両手を背後に回し両手の親指を交差させたうえで強く握る。白石さんの上半身は完全にロックされてしまった。
「仰る通りです」香春はローブの男を見た。「あなたの願いはこの子には荷が重すぎます。ですから返してもらいます」
【願い。私の願いを君は知っていると言うのかね】
「ご心配なく。理解しようなどとは思っておりませんので」
 香春の言葉を聞いて苛立ちを見せたのは黒い馬。前足の蹄で地面をガンガンと叩きこう口にした。
「不遜なり」
 空気が沸き立つような感じ。床に敷き詰められた白い花々が浮き上がったかと思うと宙を舞い、虚空に輪を作った。グルグルと回る花のリング。その前に立ちはだかったのは、巌。
「言うに事欠いて、不遜たあ言ってくれるじゃねえか、この馬っころが」
「なに」
「てめえらごときに敬意を示さなきゃならねえ理由が、俺らにあるとでも思ってるやがるのか。それこそ不遜だ、この馬鹿野郎が」
 馬に向かって馬鹿野郎と言うのがどれほどの意味を持つのかを僕は知らない。だが放たれる怒りのオーラは宙に舞う白い花を黒々と染めた。
「口は災いの元という言葉を知っていますか」
「知ってるぜ。意味を考えたことはないけどな」
「でしょうね」
 馬が歯を見せた。グルグルと回る花の輪が速度を速める。唸りを上げる。花びらがバラバラになり、輪は己の尾を噛んだ蛇の如く、ぬめぬめとした姿に変わる。その輪が、途切れた。その途切れた片端が、雷の速度で水平に走り、巌の顔を叩いた。破裂音。大きな身体が一瞬宙に浮く。しかし、巌の下駄は地面を噛んだ。倒れない。
「巌さま!」
 香春が悲鳴にも似た声を上げる。だが白石さんの腕は放さない。巌は大丈夫、と言うかのように、小さく手を上げた。
「痛ってえな、このクソ馬が」
 輪は再び輪となり、唸りを上げて回転している。黒馬は笑った。
「おや、意外と丈夫なのですね。しかしどこまで耐えられますか」
「グラント、もうやめてください」その声を上げたのは、白石鈴音。「ウェルギリウスさま、もうこんな事やめさせてください」
【そうは行かない。彼はグラントの逆鱗に触れたのだから。それにここを知られた以上、君たちを生きて外に出す訳にも行かない】
 ウェルギリウスと呼ばれたローブの男は、僕らの頭の中にそう伝えた。しかし巌は性懲りもなくこう返した。
「何が逆鱗だ。上等だ、かかって来いよ馬刺し野郎」
 黒馬の頭上で回転する輪は速度を上げた。そのとき。
「今だ、逃げろ青帽子!」
 巌が叫ぶと同時に、ぞわり、洞窟の中に気配が動いた。
「何だ」
 黒馬の視線が一瞬、正面から離れる。その隙を巌は逃さなかった。駆けた。黒馬の口のくつわに手を伸ばす。しかし。巌の身体が、見えない壁に突き当たったかのように動けなくなった。ウェルギリウスの眼が怪しく輝く。だがそれは、僕の待ち望んでいた瞬間。
「飛べ!」
 超音速で飛ぶプラズマ火球。狙いはウェルギリウスの額。けれど火球は宙に止まった。そこにあったのは、ウェルギリウスの右手人差し指、その指先。
【終わりだ】
 冷徹なその声が僕らの脳裏に響いたとき。プラズマ火球が光を増したかと思うと、突如爆発した。炎が広がる。最初は揺らめく旗のように、やがてうねる龍のように。龍は身を二つに分け、四つに分け、一度四方に大きく広がると、伸びたゴムが縮むかの如く一瞬で中央に向かった。そして、人型となった。人の姿をした炎。いや、巌より二回りほど大きなその姿は、人型と言うよりも。
「……鬼だ」
 思わず僕の口を突いて出た言葉。それは確かに鬼に思えた。これもウェルギリウスの力なのか。いや、待て。ならば何故、ウェルギリウスは驚いているのか。炎の鬼は唸り声を上げると、ウェルギリウスに拳を打ち下ろした。ウェルギリウスは手をかざし、受け止める。だが、黒馬グラントは衝撃に足をよろめかせた。上から左右から、拳を打ちつける炎の鬼。徐々に後退するグラントの背中でウェルギリウスは、攻撃を受け止めるので精一杯に見えた。けれど。突如グラントは大きく飛び退った。炎の鬼がそれを追おうと一歩踏み出す。その身体が持ち上げられる。下から轟音と共にせり上がったのは巨大な氷柱。炎の鬼は、一瞬で天井に叩きつけられ潰された。その衝撃が天井に亀裂を生む。同時に何かが割れた。目には見えない何かが、割れて砕けた気配がした。
「何とか間に合うたようだな」
 僕の目の前には小さな人影が立っていた。ニューヨークヤンキースの帽子をかぶったムク犬のような子供が。
「つぐみ」
【……えますか、聞こえますか、菊弥きくやさん】
 僕の頭の中に響く、その泣きそうになっている懐かしい声は。
「リリイ。繋がってる?」
【いま繋がりました。無事ですね、良かった】
 肩の上でミヨシがつぶやく。
「座標確認。亜空縮滅砲起動」
 僕の両手が勝手に跳ね上がり、手のひらがウェルギリウスに向けられる。
「え、何その凶悪な名前」
「普通は生命体相手に使うものじゃないけどね、場合が場合だから。いいわね」
「ちょっと、僕はどうすればいいの」
「集中しなさい。効果3パーセント、発射!」
 手のひらにわずかな振動。光もなく音もなく、ただウェルギリウスを中心とした半径十メートル程の球形の空間が、消滅した。地面も天井も丸くえぐれている。唖然とする僕にミヨシの声が飛ぶ。
「ぼんやりしない!」
 ミヨシが羽ばたくと、数十の光の玉が宙を舞う。プラズマ火球だ。火球は洞窟の隅々に飛び、その場を照らした。丸くえぐれた地面の底に、ウェルギリウスとグラントの姿があった。灰色のローブはズタズタに破れ、グラントも傷ついている。
「第2撃行くわよ」
「は、はいっ」
 慌ててミヨシに返事をすると、僕はウェルギリウスに意識を向けた。
【神を知らぬ大地】
 これは、ウェルギリウスの声か……いや、違う。
【そこは神様がいないわけじゃない。でも、いないようなものなんだ。だってどんな神様でも受け入れちゃうんだから】
 この声は間違いない、僕の声だ。
【教会で結婚式をして、クリスマスを祝って、でも初詣は神社に行き、死んだら仏式で葬式をあげる。これってどの宗教もまともに相手してないってことだよね。だったら、その国は少なくとも、唯一絶対神に支配されてはいない。そういう意味では神を知らぬ大地といっても間違いはないんじゃないかな】
 でも僕がいつこんな事を言ったのだろう。記憶にない。捏造か。いや、けれど。
「坊や!」
 ミヨシの声に我に返る。意識が飛びかけていた。そこに。
「こちらを向きな、小僧!」
 突然頭上に人影が現れる。魔女だ。その口がすぼめられた。火炎が来る。しかし僕が身構えるよりも早く、頭上にもう一つの影が。つぐみ。
「しつこいのう」
 つぐみは魔女に左手を伸ばす。その手のひらが、つぐみの身体を覆い隠さんばかりに大きく膨れた、ように見えた。天井からのスポットライトを反射する透明なそれは、巨大な氷の手。魔女が火を噴く。一瞬立ち上る蒸気。だが氷の手は炎ごと魔女を包み、ギュッと握り締めた。悲鳴を上げる魔女。つぐみは一瞬うるさそうに眉を寄せると、ウェルギリウスに向かって魔女を放り投げた。
「さあ、まとめてやってしまえ」
 つぐみの声が響く。重なるミヨシの声。
「効果4パーセント、発射」
 僕の手のひらが振動した。その瞬間、ウェルギリウスの周りに輝く光。あれ、光も音もなく消滅するんじゃないのか。そう思ったとき。
「何あの光」
 ミヨシの声は焦っていた。
【高エネルギー反応。何か出ます】
 脳内に響くリリイの声と共に、光の中から何本も稲妻が飛び出し、まるで触手のように天井を床を薙いで行った。
「空間干渉壁!」
 ミヨシが叫ぶ。荒れ狂う稲妻が、僕らを守る見えない壁に当たって弾け、輝く。しかし、しばらく壁を叩いてあきらめたのかの如く、あるいは光の中に引き戻されたかのように、稲妻は小さくなっていった。そしてすべての稲妻が消え、一瞬の静寂が広がる。いつの間にかウェルギリウスを包む光は、その大きさを倍加していた。その光が歪んだ。いや違う。光の中から別の輝く巨大なものが出てきたのだ。それは。
 獅子の頭とたてがみ、獅子の前足、背には山羊の頭、そして山羊の後ろ足、尾は蛇で先端に蛇の頭がついている。
「キマイラじゃねえか」
 巌が声を漏らす。
「ほほう、聖獣か。これが力の源という訳だな、面白い」
 本当に面白そうにつぐみは言うと、巨大な氷の左手をかざした。
「後鬼」
 氷の巨大な手は一度クシャッと丸まると、つぐみから離れた。そして空中でモゾモゾと動き、やがて人の形となった。いや、これも鬼か。
「前鬼」
 つぐみの右隣にポッと小さな火が浮かんだかと思うと、それは一瞬で巨大な火柱となり、そしてさらに一瞬後、あの炎の鬼へと姿を変えた
【なるほど】少し弱々しいウェルギリウスの声。【やはりただの子供ではなかったか】
 つぐみは笑った。
「ただの子供さね。この地球に比べたら、わしもおまえさんも世間知らずの鼻たれ小僧だ」
【それは手厳しいな】
 そのウェルギリウスの言葉を待っていたかのように、キマイラの獅子の頭が咆えた。洞窟が震える。天井に、壁面に、無数の亀裂が走った。
「わしらを生き埋めにする気か」
【それが理想だが、そうなってはくれまい】
「まあな」
 そして洞窟は崩れ落ちた。


 割れて降り注ぐ岩石の雨あられ、と思った次の瞬間には、僕らの目の前には薄茶色いガラス扉があった。小鳥ホテルに帰還したのだ。
「もう、遅い。心配したんだから」
 僕らを出迎えたのは、滝緒たきおのその一言だった。
「あれ、たきおん、何で」
 僕の疑問に答えたのは、つぐみ。
「あのとき、つまりおぬしらが穴に落ちたとき、わしとこやつだけが落ちなかったのだ。だから先に戻しておいた」
「そう、地面が崩れるだろうから危ないって言って、ここに戻されたのよ。失礼よね、それじゃ役立たずって事じゃない」
 ん、ちょっと待て。僕は思った。それって、洞窟が崩れることを予知してたんじゃないのか。思わずつぐみを見つめる。つぐみはそれを知ってか知らずか、いたずらっぽく笑った。
「ちょっと菊弥、私の話聞いてる?」
「あ、ああ、聞いてる聞いてる」
「それはまあともかくとして」
「へ」
 滝緒は不意にしゃがんだ。香春と白石さんは、まだしっかりと抱き合ったまま、へたり込んでいる。
「あなた、白石さん、よね」
 白石さんは少しオドオドしながら、滝緒を見た。
「あ……吉備きびさん」
「やっぱり白石さんだ。うわー、全然変わってない。うらやましい。可愛いー」
「あれ、たきおん何で白石さんと知り合いなの」
「なに、覚えてないの?あんた中3のときに白石さんからバレンタインのチョコもらったじゃない」
「いや、それは覚えてる。ちゃんと覚えてるけど」
「でもそういう事はやめておけ、って私が白石さんに言ったのよ」
「……それは、なんで」
「だって菊弥は私からチョコもらうじゃない」
「確かにもらったけど」
「じゃ、他のチョコは要らないでしょ。だから無駄になるからやめといたら、って白石さんに言ったの」
「え、いや、いやいや」
「でもどうしても菊弥にチョコあげるんだ、って聞かないのよ、白石さん。私に言われてもチョコを渡そうとした子なんて、後にも先にも白石さん一人だったから、私はよく覚えてるの。でも白石さんも私のこと覚えててくれたみたいね。何で?」
「いやいやいや、いやいやいや」
 僕はねじ切れんばかりに首を振った。
 と、そのとき、鳥部屋のドアが開いた。中からみんなが飛び出して来る。差し出した右手にリリイが乗った。右腕に伝蔵が、右肩にパスタが、頭の上にトド吉ファミリーが乗った。小鳥ホテルの玄関は、しばしにぎやかな声で満ちた。


 時刻はちょうど昼頃である。僕たちは鳥部屋に集まっている。白石さんをいったん病院に戻さねばならないが、夜になるまで外には出られない。秋晴れの太陽がじりじりと紫外線を放っているからだ。転移すれば簡単ではあるが、なるべくなら病院にはちゃんと玄関から入ったほうが良いだろう。後々余計な質問をされずに済むように。
「疑問はいくつもあるけど」僕は巌を見た。「とりあえず、青帽子って何だ」
 巌はガクッと前のめりになった。えらい古いリアクションである。
「普通最初にそれ聞くか」
 今だ、逃げろ青帽子。確かにあのとき、巌はそう言った。
「青帽子がいたの?」
 滝緒はまた僕のベッドで横になっている。僕は諦めてキッチンから自分の椅子を持ってきて座り、白石さんには玄関の丸椅子を持って来て座ってもらっていた。つぐみはいつの間にかいなくなっていた。
「洞窟だからな。そりゃ青帽子はいる」巌と香春は立っている。「青帽子ってのは、洞窟や坑道に住み着く精霊のことだ。海の波消しブロックに行きゃフナムシがうじゃうじゃいるだろ。あんな感じだ。洞窟に行きゃ青帽子はいる。特にあの洞窟には多かった。おまえらの居場所がわかったのも、青帽子のおかげだ。感謝はしとけよ」
「青帽子に僕らのことを聞いたのか」
「まあそういう事だ。青帽子はよほど物好きな奴しか人間には近づかねえ。その青帽子が洞窟の奥の方から俺がいた場所に向かってわらわら出てきやがったからな。ああ、奥に誰かいるんだな、って思った訳だ」
「逃げろっていうのは」
「そう言えば逃げるだろうよ。1匹ずつなら誰も気づかねえほどの気配だが、集団で逃げ出せば気配も大きくなる。そうなりゃあの馬でも気づく。注意を逸らせられればよかった。それだけだ」
「青帽子は日本語わかるのか」
「言葉の通じねえ精霊になんぞ会ったことがねえけどな」
「精霊妖精妖怪の類は嫌いだから避けてたくせに」
 からかうように滝緒が言った。
「役立たずは黙りなさい」
 香春の冷たい言葉に、白石さんは思わず怯えた眼でその顔を振り仰いだ。
「そういや、さ」僕は苦笑しながらモモイロインコのミヨシにたずねた。「白石さんのあの力って、何だったの」
「強制催眠ね」
 ミヨシはケージの上でそう答えた。
「自分の言葉を聞かせて、相手がそれに納得や同意してしまうと、身体が動かなくなるのよ。その気になれば、私たちを自由に操れたはず」
「何で操らなかったの」
 何の気ない僕の質問だったが、白石さんには唐突だったらしい。
「え、あの、なんでって、その、えっと、他人を力づくで操るなんて、傲慢っていうか何て言うか。それに、その」
「説得したかったのよね」助け船を出したのは、滝緒。「無理やりに引きずって行くんじゃなしに、納得して一緒に来て欲しかったんでしょ」
 白石さんはほんのり顔を赤らめると、大きくうなずいた。
「なるほど。でも巌には通じなかった。何でなんだろ」
 水を向けた僕に、巌は鼻を鳴らした。
「ふん、理由なんか簡単だ。俺がひねくれてるからだよ」
「ひねくれてるのには全面的に同意する。でもひねくれてると何で強制催眠が効かないんだ」
「俺はブッダの言葉を聞いても同意しねえ。納得しねえ。感心しねえ。それをひっくり返す事しか考えねえからさ」
 これにはさすがの僕もちょっと引いた。ブッダの言葉をひっくり返すって。
「ひっくり返すって、おまえ。いや、確かに反論はしてたけど」
「じゃあ逆に聞こう。何故ひっくり返せないと思う」
「何故って、ブッダだろ、お釈迦様だろ、仏教を作った。凄いじゃん。対するおまえはただのへっぽこ陰陽師だし」
「呪禁道士だ」巌は小さくため息をついた。「おめえよ、ブッダが入滅してから何年時間が経ってると思う。2千5百年だぞ。そのあいだ人類が寝てたとでも思ってやがるのか。ブッダの言葉はひっくり返せるよ。いまの俺にそれができるかどうかは別の話だがな」
「結局できないんじゃん」
「そこを目指してるんだってことくらい理解しろ」
「でも呪禁道士って言葉は本当はないんだろ」
 もののついでである。僕は思い切って聞いてみた。
「何だ知ってたのかよ」巌の答えはあっさりとしたものだった。「確かに呪禁道士って言葉はねえよ。俺のジジイが作った言葉だからな。いま呪禁道士なんて使ってるのは、この世界中に俺ひとりのはずだ」
「巌のお祖父さんか」
「ブッダの言葉をひっくり返せっつったのも、そのジジイだよ」
「あ、あのっ」割って入ってきたのは、ヨウムのパスタ。「私も質問、いいですか」
 その勢いに気圧されて、僕は無言でうなずいた。パスタがにらむように白石さんを見つめると、白石さんはちょっと泣きそうな顔で香春を見上げた。
「ああ、大丈夫です、噛みつきませんから」
 パスタは少し表情を和らげ――と、僕には見えたが、白石さんにはどう見えただろう――天井を見上げた。天井にPC画面のようにウィンドウが開き、ローブをまとった金髪の男の画像が浮かんだ。
「彼の名前を教えてくれますか」
 白石さんは戸惑いながら、その名を口にした。
「あの……ウェルギリウスさま」
「それは間違いありませんか」
 こくり、白石さんはうなずいた。
「素性について、何か知っていますか」
 今度は首を横に振る。
「この世界の人間ではないと聞いていますが、どういう意味なのかは」
「並行世界のウェルギリウス」
 パスタはため息をついた。
「その名は以前にも聞いたな。ローマの詩人だったか」
 ブルーボタンの伝蔵がたずねた。パスタはうなずく。
「はい、この世界では2千年以上前に死んだ伝説の詩人です。大魔導士との噂のあった」
「それが単なる噂やのうて、ホンマに大魔導士になってる並行世界があった、っちゅう訳か」
 十姉妹のトド吉がうなるようにそう言った。首をかしげたのは、セキセイインコのリリイ。
「確か敵は中世ヨーロッパの伝承に詳しいってパスタは言ってましたよね。でもウェルギリウスは古代ローマの人です。時代のずれはどう解釈すれば」
「それは私が言ったじゃない」滝緒は寝ころびながら片手を上げた。「ローマ人が中世にタイムスリップしたのよ」
 パスタがそれを引き継ぐ。
「つまり中世のヨーロッパが継続しているか、それとも時間軸の関係で現代が中世であるか、どちらかの並行世界を訪れた経験があるのでしょう。中世ヨーロッパはキリスト教の絶対支配が行われていた時代です。そこで何かがあったのだと思います。一神教を否定したくなる何かが」
 いったい何があったというのだろう。世界を敵に回すほどの事が起きたというのだろうか。しかし、その疑問に答えられる者はここにはいなかった。
「ひとつ、よろしいですか」広がった沈黙に、さざ波を立てたのは、香春。「ローマと中世、この2つのワードが鍵となるのだと思うのですが、その2つに、仏教は関係していませんよね。なぜ鈴音が選ばれたのでしょう」
 皆、虚を突かれたような顔をした。言われてみればそうだ。だが白石さんを選んだ理由はなくはないだろう。
「それは、僕の」
 僕の知り合いだったから、そう言おうとした言葉をさえぎったのは、巌。
「無関係かどうかは、はっきり言えねえな。まあ宮下文書とか竹内文書と大して変わんねえレベルかもしれねえが、仏教が古代ローマにまで到達してたって説もない訳じゃねえんだ」
 パスタが顔を上げた。
「聞いたことがあります。ローマに広がったミトラ教の正体が仏教だったのではないかという説ですね。でも実際には」
「そうだな、ミトラ教が仏教に影響を与えて弥勒信仰や大乗仏教ができた、って話の方が主流だ。まあ俺もそう思うがよ、だが時代的に考えて、ローマ人が仏教の存在を知ってても、そんなに不思議って訳でもねえだろ」
「ウェルギリウスの時代、ミトラ教はローマの東側にあったキリキアの海賊たちが信仰していたと記録に残っています。仏教も同じくらいローマに近づいていたという可能性もなくはない……?」
 パスタは首をひねった。ひねり過ぎて頭がさかさまになるほどひねった。伝蔵は呆れたように笑った。
「まあただの詩人ならともかく、大魔導士ならばその程度の距離、無いに等しかったのではあるまいか」
「その大魔導士が並行世界の間を流れ流れて、ここにたどり着いたってことね」
 と、リリイが応える。しかしミヨシは。
「それはどうかしらね」
 そう言って僕を見た。確かにそうだ。僕はうなずいた。
「僕が呼んだのかもしれない」
「何か思い出したんですか」
 目を丸くするパスタに首を振ると、僕は天井のウェルギリウスを見上げた。
「思い出しはしないよ。しないけど、そう考えると辻褄が合うと思うんだ。僕はたぶん、どこかでウェルギリウスに会ってる。そしてこの国のことを教えた。だからウェルギリウスはここにやって来た。僕のいる、この時代のこの国に来たんだ」
「おいおめえ、まさかたあ思うが」
 眉をひそめる巌に、僕はニッと歯を見せてやった。
「責任は感じてないよ。覚えていないんだから感じようがない。だけどさ」天井から見下ろすウェルギリウスは、何だかとても寂しそうに思えた。「彼を止めなきゃいけないなら、僕もやれることはしたいな。できることがあるんならね」
 僕のその言葉を聞いて、伝蔵は言った。
「できることはある。いや、してもらわねばならん。だが今日のところは休め。幸い仕事も入っておらんのだろう」
「あんまり幸いじゃないけどね」
 僕は苦笑した。今日はとりあえず、白石さんを病院まで送ったら任務完了だ。いや、僕が病院まで行くのはおかしいか。香春と巌に任せてもいいのかもしれない。何にせよ、今日はくたびれた。伝蔵に言われた通り、休むとしよう。


 香春から聞いたよ。白石さん、おまえん家で働くことになったんだって?まあおまえんとこくらいデカい家なら陽に当たらない仕事もあるんだろうし……言い方が悪い?おまえに言われたくないよ。でも知らなかったな。白石さんの治療費、おまえが出してたって。いや、おまえの親父さんの稼いだ金でもおまえの使える金なんだろ。だったらおまえが出したってことで別にいいじゃないか。何でそんなとこにこだわるかね。しかし、白石さんももう身寄りがなかったんだな。そういう話が身近にありすぎて、僕は鈍感になってるのかもしれない……ああ、確かにそうだな。どんな形でも、生きて行けりゃそれでOKなのかも……うん、うん。どうでもいいけど、おまえ白石さんのことになると饒舌だよな。あ、おまえまさか白石さんのこと……浅い?うるさいよ。つぐみみたいなこと言うな。文句言うなら帰れ。今日は仕事がある日なんだから、僕も忙しいんだ。あ、ほら、たきおん来ちゃったじゃないかよ、もう。今日は本当に忙しいんだって。頼むよ。
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