ことり会議

柚緒駆

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巨龍咆えるとき

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 秋深き隣は何をする人ぞ

 秋深し、で覚えられている事の多いこの句は、松尾芭蕉の逝去の2週間ほど前の作と言われている。最後の句が『旅に病んで夢は枯野をかけ巡る』だから、芭蕉の最後から2番目の句と言える。別に隣の人の事は気にならないが、季節は秋真っ盛り。朝晩は冷え込むようになり、長袖が快適になって来た。夜がどんどん長くなり、陽が落ちるのが早くなる。当然それだけ人々の活動開始時間も早くなり、企業によってはサマータイムならぬウインタータイムを設けるところもあるらしい。日中に動けなくなったことにより、イロイロ悪化したこともあるが、中には良くなったこともある。たとえばサラリーマンの平均労働時間は6時間台にまで減少した。もっとも、最近では電車が24時間運行を始めたことによって、また労働時間が伸び始めているという話もあるけれど。
 午後6時。空はすでに暗い。さすがにもう紫外線を気にする時刻ではない。僕は小鳥ホテルの玄関を開けて外に出た。空には星が輝いていた。どこかからカレーの匂いがする。なんだか不思議な気がした。みんなこれから仕事なのだ。つまり現在の夕食は、昔なら朝食にあたる。だが夕食をトーストとコーヒーだけで済ませる家はあまりない。紫外線の脅威にさらされ、昼間は身動きができなくなった現在でさえ、みな朝に起き、朝食にトーストや目玉焼きを食べている。そしてカレーは夕食だ。習慣――というか社会に染み付いた癖のようなもの――はそう滅多なことでは変わらないのだな、と思う。
 僕は歩き出した。駐車場にゴミでも落ちていないか見回ろうと思ったのだ。今日はオカメインコのお客様の予約が入っている。開店まではあと2時間ほど。掃除が必要なら、いまのうちにやっておかなければ。その僕の足が、駐車場入り口に近づいたとき。
【警報!】
 頭の中にリリイの声が響いた。次の瞬間、僕の右手が跳ね上がり、駐車場の外の闇に向かって手のひらを向けた。
【重力制御フィールド展開】
 それはミヨシの声。突然視界が白くなる。強烈な投光器の光が僕を照らしていると理解するのに数秒を要した。
「確保!」
 どこからかそんな声がした。光の向こうの闇の中で気配がうごめいた。次いで地鳴りのような足音。白い光の中から十数人の屈強な連中が僕に飛びかかってきた。しかし。伸ばした手が僕に触れる寸前、まるで突風に飛ばされる木の葉の如く、真上へと飛ばされた。1人、2人、3人と飛ばされたのを見て、さすがに4人目以降は異変に気付いた。だが後ろからの圧力が止まらない。足を止められず倒れ込むように僕に近づいた制服姿の集団――そこでやっと僕は気づいた。警官なのだと――は残らず真上に飛ばされた。そして重たいものがドサリと落ちる音。1つ、2つ、3つ、いっぱい。言葉にならない苦悶の声が上がった。
「お、おい貴様、抵抗はやめろ!抵抗すれば撃つぞ!」
 と言われても、おそらく拳銃の弾くらいでは重力制御フィールドを超えて僕まで届くまい。ライフルだとどうなるんだろう。
【ライフルなんてとてもとても。戦車でも持ってこなきゃ無理ね】
 頭の中でミヨシの声が笑った。
「いいか、抵抗はするな、わかったら両手を上げろ」
 光の向こうから聞こえる声に、僕は困惑する。
「あのう、すみませんけど」
「な、何だ」
「手を上げろって言うんなら、せめてどんな理由で僕がこんな目にあってるのかくらい説明してくれませんか」
「何ぃ、ふざけるな!自分の胸に手を当ててよく考えてみろ!」
「いや、ホントにわかんないんで、その辺なんとかしていただけませんかね」
 しばしの沈黙。相手も困惑しているらしい。そして。
「政府に対する脅迫、および破壊活動防止法違反容疑だ。これで充分だろう」
「全然充分じゃないですよ。そんなことした覚えは毛の先ほどもないんですが」
「だまれ、調べればわかることだ」
「だったら調べてから来てくださいよ。どうせ調べてないんでしょ」
 再び沈黙。図星だったようだ。
「あのう、すみませんけど、今日は僕仕事があるんで、申し訳ないんですが、また今度にしてもらえませんでしょうか」
「ふ、ふざけるな!いいから手を上げろ、本当に撃つぞ」
「撃ってもいいですよ。困るのはそっちですから」
 いい加減、僕もイライラしてきた。もうすぐオカメインコがやって来るのだ。とっとと帰ってくれ、そう思うとちょっと言い方が乱暴になる。そのとき。
【飛行物体接近。これはヘリやな】
 頭の中にトド吉の声が聞こえた。
「向こうの援軍?」
【こんな時間にヘリで飛ぶ友達おるんか】
「いないね」
 増援だとしたら厄介だ。面倒なことになる前に、目の前の連中を力ずくで排除してしまおうか。そう考えていた僕の耳に、気の抜けた打ち上げ花火のような発射音。光の中に、こぶし大の塊が2つ飛び込んでくると、僕の足元に落ちて転がった。煙の尾を引きながら。
【催涙弾です】
 リリイの声が聞こえるより早く、2つの催涙弾は煙ごと吸い上げられるように上昇し、頭上数メートルの所から光の向こう側に再び飛んで行った。僕の所までは匂いすら届かない。一瞬遅れて、向こう側から慌てふためく気配が伝わって来る。今だ。僕は重力制御フィールドを右手の先から伸ばした。それが投光器を屋根に乗せた車に届くと同時に重力をカット、持ち上げる。そして5メートルほど浮き上がったところで逆さまにし、地面に落とした。悲鳴が上がり、光が消えた。
「何だ、何が起きた」
 闇の向こうでうろたえる声。僕は声の主を探した。集団を相手にするには頭を潰すに限る。闇の中に目を凝らす。宇宙人に与えられた超視覚が発動する。捉えた。2メートル近い巨躯。捕まえてやる。そちらに向けて重力制御フィールドを伸ばそうとした、そのとき。僕の視界はまた真っ白になった。上空から照らされる白い光。くそ、先にこちらから落としてやろうか。そんな僕の耳に届いた声。
「こちらは国家公安委員会です。双方行動を停止してください。繰り返します……」
 それはどこかで聞いた覚えのある声。どこで聞いたのだったか。僕が思い出そうとしていると、夜に響く携帯電話の着信音。
「はい架州かけす……あ、署長?どういう事です……は?本庁の指示を無視しろって、何ですかそりゃ……公安委員会?」
「こちらは国家公安委員会です。双方行動を停止してください」
 そう拡声器で叫びながら、ヘリは降りてくる。強烈な風が吹き下ろし、警官たちはよろめくが、僕は重力制御フィールドのおかげで風を受けない。
 と、ヘリを見上げる僕の背中をつつく手がある。驚いて振り返ると、そこには青いワンピースを着た大峰瑠璃羽おおみねるりはの姿があった。ああ、そうだ、あの声は。
 僕が視線を外すと同時にヘリは急上昇し、そして飛び去って行った。後には静寂だけが残った。大峰さんは笑顔で僕の横を通り過ぎると、警官隊に向かい合った。
「架州警部ですね」
 2メートル近い大きな身体が近づいて来る。小鳥ホテルの明かりにぼんやり照らされて、架州警部と呼ばれた男は幽霊のように立っていた。
「あんたが公安委員会の人間なのか」
「私自身は公安委員会の者ではありませんが、公安委員会の使いとして参りました。署長さんからお話は聞かれましたよね」
 大峰さんの言葉に、架州警部は納得の行かない顔を見せた。
「俺たちは本庁からの指示で、この男を緊急逮捕するように言われて出動したんだ。それがいきなり無かったことになるってのは、どういうことだ」
「どうもこうも、そういうことです。現場はいつも振り回されて大変ですね。ですが今夜のところは引き揚げてください」
「引き揚げろって言われてもな」
 架州警部は恨めしそうに僕を一瞬見つめると、ひっくり返った車を見やった。大峰さんもそれを見ると、僕を振り返った。
「結構無茶なことするんですね」
 そう小声で言うと、微笑んだ。


「3泊で4千5百円になります」
 オカメインコのマルコの飼い主さんは5千円札を出し、僕は5百円玉を一つ返した。
「引き取りは同じくらいの時間になりますので、よろしくお願いします」
うけたまわりました。ではお預かりします。行ってらっしゃいませ」
 飼い主さんは何度かこちらを振り返りながら、駐車場に待たせていたタクシーに乗り込み、そして夜の中に走り去っていった。
 オカメのマルコはまだ落ち着かないようだ。飼い主を呼ぶ『呼び鳴き』をしている。客室には常夜灯がついているので、照明を落としても真っ暗にはならないが、今すぐ明かりを消すのは少し性急すぎるだろう。何せオカメインコである。パニックを起こすのが怖い。僕は客室の照明はそのままに、玄関ホールの照明だけを消した。ガラス越しに外を見やる。もう警官たちは誰もいない。ただ静かに夜が広がっていた。そして玄関を施錠すると、鳥部屋に向かった。


 鳥部屋を開けると丸椅子に座った大峰さんの背が見えた。
「まあ電撃は重力制御フィールドを通り抜けますから、空間干渉壁を使うのが正解です」
 何の話をしているのだろうか。セキセイインコのリリイが僕に顔を向けた。
「お疲れ様。終わりましたか」
「うん、仕事はとりあえず終了。話はどこまで進んでるの」
「まだですよ。菊弥きくやさんにも聞いてもらわなきゃいけないですから」
「そろそろ始めましょうか?」
 大峰さんが振り返った。
「あ、ちょっと待って」
 僕は大峰さんの横をすり抜けるとキッチンに入り、自分の椅子を持ってきて座った。
「よし、始めよう」
 大峰さんはうなずくと、一度全員を見回し、話し始めた。
「事の起こりは数か月前にさかのぼります。ある国会議員がいました。名を麻賀茂一まがしげかず。彼は豊かな資産家であり、かつては政権与党内にあってキングメーカーと呼ばれたこともあります。しかし、我々は彼のことをあまり重要視していませんでした。現在の政権は首相の国民的人気に支えられていますし、与党内でも首相の在籍する派閥が本流です。首相から距離を置く派閥の領袖りょうしゅうには意識が向かなかったのです。しかし結論から言うと、それは間違いでした。せめて彼の身体が病に侵されていたことに気づくべきだったのです」
 病と聞いて、僕は先の展開が読めた気がした。病を治す山奥の温泉宿。それが存在した理由こそ、きっといま大峰さんが話していることなのだろう。
「私は現在、内閣のアドバイザリースタッフとして仕事をしていますが、我々連盟のことを知っているのは、内閣でも首相を始めとする数人だけです。極めて機密性の高い事項として取り扱われています。ですから私に対し、その技術力で体を蝕む病をなんとかできないかという要請は、来ることがありませんでした。向こうにしても、それは想定外のことだったのでしょう。やがて麻賀茂一は、ふいっと、国会に姿を見せなくなりました。どこに行っていたか、それはもうおわかりですね。そう、あの山の中の温泉宿を見つけたのです。偶然見つけたのか、向こうから接触があったのかは不明です。3日ほど国会を欠席した後、彼は突然戻ってきました。病から解き放たれただけでなく、十年ほど若返った姿をもって。しかしその時点では我々は温泉宿のことをつかんでいません。その隙に彼は自派閥はもちろん、他派閥の幹部議員に声をかけ、温泉宿を紹介したのです。それはガン細胞のように急速に与党内に広がって行きました。病を癒し、若さを取り戻した者たちは派閥を横断し、強靭な結束力を持った一大勢力として台頭することになります。それでも頭数では首相の派閥にかないませんが、しかし下手に取り扱うと党を割るほどの人数が集まりました。その意向は首相と言えど無視できません。そんなときです。政府を脅迫するメッセージが届いたのは」
 あの滝緒が言っていた、日本の国を引き渡せというメッセージか。
「当初、首相は断固たる態度を示そうとしていました。けれど、麻賀茂一を筆頭とするグループが、それに反対しました。彼らは正体不明の相手と交渉をすべきだと主張したのです。その声に、閣僚の何人かも同意しました。麻賀茂一の影響はすでに内閣にまで及んでいたということです。結局、首相は折れました。脅迫された事実を公表せず、水面下で交渉する方向で調整しました。もっともその裏で民間伝承対策室を始めいくつかの組織を動かすよう指示もしましたが。それ以降、麻賀グループの活動は活発になって行きました。その一環として、今回の警察の動きがあります。誰かが警察庁を動かし、菊弥さん、あなたの行動を封じようとした訳です。それを止めるには、警察庁の上、国家公安委員会を動かすしかありませんでした」
「ならばすなわち」ブルーボタンの伝蔵が言った。「その麻賀グループはウェルギリウスから指示を受けて動いていると見て良いのだな」
 大峰さんはうなずく。
「そう考えるのが自然だと思います。直接的か間接的かは不明ですが、何らかの指示を受けてのことなのでしょう」
「そらまた厄介やな」十姉妹のトド吉は頭を抱えた。「相手の手駒がこっちの陣内に入ってるいうことやろ。守りを固めることすらでけへんがな」
「それどころかキングの首を落とされてハイおしまい、なんてことに、いつなってもおかしくない状態でしょ」
 暗い顔でそう言ったのは、モモイロインコのミヨシ。ヨウムのパスタは天を仰いだ。
「話が政治的に過ぎます。正直、我々の手には余るのでは」
「そうですね、観測部隊の職務からは著しく逸脱していると思います。ただ、連盟には諜報部隊の派遣を申請していますが、いまだ派遣指令は出ていません。ならば当面は我々が最前線に立つしかないでしょう」
 大峰さんのその言葉に、皆はいささかうんざりしたような顔を浮かべた。
「という訳で」大峰さんが立ち上がった。「代表者と事務方1名来てください。面を通しておきます」
 すると伝蔵が言った。
「菊弥、行ってこい」
「えー、代表者は伝蔵じゃないか」
「我はまだ体が充分に動かん。それに向こうも鳥相手では話しにくかろう」
 さすがにそう言われると反論しづらい。
「事務方は、パスタ。行ってくれるか」
「はい」
 パスタは伝蔵の指名を快諾した。こうなると僕が一人駄々をこねているような恰好になってしまう。
「仕方ないなあ」
「バックアップしますから」
 いつものように、リリイが言う。
「でも面を通すって、いったい誰に通すの」
 僕の疑問に、大峰さんは当たり前といった顔で答えた。
「もちろん最高責任者ですよ。総理大臣です」


 何故か最初に目についたのは、ワインセラーだった。その隣には扉付きの本棚が並んでいる。デザインを合わせてあるので違和感がない。どちらかが――もしかしたら両方――特注品なのだろう。部屋の中央は四角く切り取られ、一段低くなっている。そこにソファが四角くはめ込まれている。中央にあるのは飾り気のないガラステーブル。いや、この部屋全体が飾り気がない。窓すらない。まるでうちの小鳥ホテルの客室だ。ただ、その代わりではないのだろうけれど、四方の壁すべてにドアがある。空間転移で僕たちが飛んできたのは、そんな奇妙な部屋だった。
 大峰さんは僕らをソファに案内すると、壁のインターホンを手にした。
「大峰瑠璃羽です。ただいま戻りました」
 そう短く告げると、自らもソファに座った。
「ここって首相官邸、じゃなくて、何て言うか」
 こういうときに名詞がでてこない。なぜド忘れするんだろう。酸素不足の金魚のように口をパクパクさせる僕を、大峰さんは不思議そうに見つめた。
「首相公邸ですか」
「そうそう、それ」
「違いますよ。ここは夏浦なつうら首相の自宅です」
「あ、自宅なんだ」
「首相は公邸を使わずに自宅から官邸に出勤してるんです。それをマスコミや野党に批判されたこともありましたが、今この状況においてはそれが功を奏しました。公邸ではどこに盗聴器があるのか知れたものではないですからね」
「はあ、なるほど」僕は自分の服をちょっと引っ張った。「こんな格好で来ちゃったんだけど、良かったのかな」
「首相は気にされないと思いますよ」
 大峰さんが笑顔でうなずいたそのとき、向かって左側のドアが開くと、大柄な黒スーツ姿の男が2人、入って来た。その後ろに、少し小柄な、白いバスローブ姿の男性。テレビで何度も見た事のある顔だった。そしてさらにその背後に2人の黒服を従えて、首相はまっすぐワインセラーに向かった。そしてワインらしきものを抜き出すと、ようやくこちらに向かってきた。立ち上がって迎える僕に座るように手で合図すると、首相は僕の向かいのソファに深く腰を下ろした。
「あー、風呂にゆっくり浸かる時間もありませんね」
「申し訳ありません。急いだほうが良いかと思いまして」
 大峰さんはあまり申し訳なさそうでもない風にそう言った。
「いえ、いいんですよ、実際急いでもらわなきゃ困る訳ですから」
 首相は笑った。湯上りで髪がぼさぼさのその顔は、テレビで見るより少し若く見えた。いや、実際若いのだ。夏浦久満ひさみつ内閣総理大臣が誕生したとき、彼はまだ45歳だった。そのカリスマ性による国民的な人気を受けて、以後3年間安定政権を運営している。
「彼が、例の」
 首相は僕を横目で見ながら、顔を大峰さんに向けた。
「はい、代表代行です」
「あ、あの、僕は」
 立ち上がろうとした僕を、首相は手を上げて抑えた。
いただき菊弥くんですね。お名前はかねがね」
 そしてワインをテーブルに置いた。いや、ワインだと見えていたのは、巻いた紙だった。それをテーブルの上に広げる。
「早速で悪いのですが、これを見てもらえますか」
 それは地図だった。4か所に黄色い印が張り付けてある。それを指さしながら首相は説明した。
「自宅、国会、党本部、貸事務所」
「これは?」
「この1カ月で麻賀議員が訪れたところです。どう思いますか」
「政治家の方の生活には詳しくないのですが、少ないですね」
 間の抜けたことを言ってるのかな、と僕は内心思っていたのだが、
「少ないですね。少な過ぎます」
 と首相は肯定した。
「1日の移動ならともかく、1カ月ですから。普通、月に1度くらいは選挙区に帰るものです。後援会と接触を持つ必要がありますし、地元の情報にうとくなれば、次の選挙で困ります。なのにそれがない。他にもおかしいところはあります。彼は派閥のトップです。勉強会という名の派閥の集会は行われてしかるべきです。しかしそれもない。政治家は付き合いが多い。月に1度や2度は外食をしたり酒を飲みに行ったりもするでしょう。それすらない。ここまで行動半径の狭い政治家を私は見たことがありません」
「性格や思想信条の問題ではないとおっしゃりたいのですね」
 大峰さんの言葉に、首相はうなずいた。
「狭い行動半径から出ないのではなく、出られないのでは。平たく言えば、それどころではない、という状況なのではないかと考えています」
「それだけ頻繁に指示を受けていると」
「一国の政府に向かって『国を譲れ』と言う勢力と繋がっているのです。譲ったあとの社会においてそれなりの地位を約束されていると考えるべきでしょう。ならば必死になるのもわかる。権力の座というのは、それだけの魅力がありますからね」
 国の最高権力者がそれを口にしていいのかと思わなくもないが、正直な意見なのかもしれない。
「ただ問題は、どこでその指示を受けているのか、ということです」
「場所、ですか」
 言い方に引っかかったのか、首相は僕を探るように見た。
「何か」
「あ、いえ。敵は空間転移ができます。テレパシーも使えます。場所にはこだわらないのでは、と思うんですが」
「なるほど」首相は腕を組んだ。「しかし侵略行為を行おうとしているのです、どこかに足場は築くのではないですか」
「いわゆる橋頭堡きょうとうほですね」
「そうです」
 橋頭堡、最近聞いた言葉である。
「……異界」
「イカイ?」
 眉を寄せる首相。僕は記憶の中からあのときの会話を呼び出していた。
「異なる世界の異界です。確かグラントは、異界に橋頭堡を築いたと言っていたはずです」
「グラント、人の言葉を話す馬でしたね。異界とは並行世界のことでいいのですか」
 それはどうなのだろう。僕は思わず左肩の上のパスタに目をやる。パスタは口を開いた。
「異界の定義は様々です。並行世界のことを指す場合もありますが、今回の場合に限るなら、並行世界ではなく、空間のねじれによって生じた限定的な閉鎖空間であると言って良いでしょう。つまりこの世界に泡のように付随する小さな世界と言えます」
 少し早口のパスタの言葉を聞いて、首相はしばし呆気に取られていたが、やがて小さなため息をついた。
「大変失礼しました。君の名前は」
「パスタです」
「把握しました。ではパスタ、よろしくお願いします」
 それに対し、パスタは照れ臭そうに頭を下げた。
「話を戻します。敵の橋頭堡が異界にあるとして、我々はどうすればそこを攻撃できますか」
 その首相の断固たる言い様に、僕は目を丸くした。
「攻撃するんですか」
「してはいけませんか」
「いえ、でも水面下で交渉すると聞いていたのですが」
「軍事力を用いるのも、交渉のうちです。敵もデモンストレーションをやったじゃないですか。ならばこちらも大人しくしている理由はないでしょう」
「普通、異界の出入り口は固定されています」と、大峰さんが。「その場所さえ、その空間のねじれの座標さえわかれば、我々がお手伝いできますが」
「どうやってそのねじれを探すの」
 本当なら首相がたずねるべき質問だったのだろうが、うっかり僕が聞いてしまった。大峰さんは微笑むと、地図を指さした。
「テレパシーにも空間転移にも、物理法則は働きます。距離があるだけエネルギーが減衰するのです。言い換えれば、この地図上の4地点およびその間の移動中に関しては、間違いなく連絡が取れるということです」
「なるほど。4地点を道路で結んだ領域の内側ですか」
 首相がうなずき、大峰さんもうなずく。
「絶対ではありませんが、可能性は高いかと」
 僕は右耳を押さえて問いかける。
「調べられる?」
 返事は早かった。
【スキャンはできるで。時間はかかるけどな】
 トド吉の答を僕が首相に伝える。
「時間さえあれば可能だそうです」
【ちょっとええように言い換えんなや】
 これは無視しておこう。
「どうします。正式に連盟に要請しますか」
 大峰さんの口調は慎重だった。しかし首相は即断した。
「正式に要請します」
「ですが国会の承認は要らないのですか」
「いま急迫不正の主権侵害が行われています。これは非常事態と判断しました。全責任は私が取りますので要請を受理していただきたい」
「では書面へのサインをもって正式な要請とみなします」大峰さんはパスタを見た。「パスタ隊員、様式99‐0号の書面を日本語変換で用意してください」
「了解」
 パスタは僕の肩からテーブルの上にぴょんと飛び降りると、コンコン、と2回テーブルを叩いた。するとまるでFAXのように、何もない空間からA4サイズの書類が二枚流れ出てきた。延々と文字が書かれた下の余白に、2本のアンダーラインが引かれている。
「記入欄の上の段に総理のお名前をお願いします」
 首相は黒服――SPなのだろう――からボールペンを借りると、2枚の書類にサインした。そしてその下の段には大峰さんがサインする。
「作戦行動はすぐに起こしますが、書面の提出は24時間後とします。書面の内容に不服がある場合には24時間以内にご連絡ください」
「把握しました。よろしくお願いします」
 首相は深々と頭を下げた。


「ただの面通しじゃなかったの」
 鳥部屋に戻って来た僕は、つい不満を口にした。
「そのつもりだったのですが、なにぶん首相は決断の速い人なので」
 大峰さんは、まるで他人事である。
「あんな大事な話、あんなに簡単に決めちゃって良かったのかな」
「ええんやないか。まあおかげでワイらは明日から忙しなるのは決定やけどな」
 トド吉が少々嫌味ったらしくそう言った。だが。
「何を言っているのですか。作戦行動はすぐに起こすと申しましたでしょう」
 大峰さんの言葉に、一同は絶句した。
「……え、まさか今から」
「はい、すぐにです」
 そう言われたトド吉は僕の方を見たが、ごめん、僕にはどうしようもない。


 午前4時半、鳥部屋に明かりが点く。僕も目を覚ました。いつもならあと1時間半眠るところだが、今日はさすがにそうは行かない。ベッドの端から顔をのぞかせて上を見る。天井には地図が映し出され、その上にグラフやメーターが表示されている。
「なんや、起きたんか」
 トド吉が眠そうな声をかけてきた。
「もしかして徹夜?」
「まあな。スキャンするんは機械やけど、誰かが見とかないかんから」
「えらい時間かかるんだね」
「2次元スキャンやったら一瞬やけどな。今回は3次元やから。いくらエリアが限定されてるから言うても、下は地下街から上は成層圏まで全スキャンなんか、そら一晩では終わらんわ」
 やや自虐気味にも聞こえるその言葉が、涙声に思えるのは気のせいか。
「情けないのう」僕の頭の後ろから聞こえたのは伝蔵の声。「一晩徹夜したくらいで泣き言とは、観測員の風上にも置けん」
「そういうあんたはグーグー寝とったでしょうが」
「我の若い頃なら3日や4日の徹夜など屁でもなかった」
「あんたらの世代がそんなことやっとったから、観測員が左遷部署になってもうたんでしょうに」
「え、観測員て左遷部署なの」
 僕は思わず口を挟んでしまった。それは初耳だ。
「そうやで。言うたら追い出し部屋みたいなもんや。ワイらは要らん子扱いやねんで」
「それは卑下しすぎなんじゃない」
 伝蔵の手前からミヨシの声が。
「そうですよ。少なくとも私は追い出される覚えはありません」
 伝蔵の向かいからはパスタが。
「優秀すぎて煙たがられる人もいますからねえ」
 最後にリリイの声が聞こえて、全員起床である。
「で、あと何時間くらいかかりそうなの」
 ミヨシの問いに、トド吉はこう答えた。
「スキャンにあと8時間、解析に2時間いうとこやないかな」
「つまりティータイムには結果がわかるってことですね」
 リリイの声はワクワクしている。僕はベッドから出て立ち上がった。
「ティータイムより、まずは朝食だ」
 パスタが目を丸くしている。
「今日は2度寝しないんですか」
「さすがにね」
 僕はそう答えると、キッチンへと向かった。


 珍しくニュース番組を見ながら早めの朝食をゆっくりと採って、いつもより早めに鳥部屋のみんなの世話をして、ちょっと早めに客室のオカメインコの餌と水と敷き紙を替えて、それでもまだ6時にならない。真っ暗な外の様子を見ながら、今日は一日長いだろうな、と僕は覚悟した。


 午前7時。ゲートが開く。ゲートは鳥部屋にあるが、普通目には見えない。この小鳥ホテルの外部にも様々な観測機器があり、そことの間を往復するのに、このゲートを使うのだ。しかし今日はトド吉は行けない。
「代わりに行ってくるわね」
 ミヨシはそう言うと、パスタのケージの上に飛び乗った。鳥部屋の入り口から向かって右側の棚、トド吉ファミリーとパスタのケージに並んで、ぽっかり空いた空間がある。そこがゲートだった。
「ティータイムには戻ってきてくださいね」
 リリイの声に、「はいはい」と答えると、ミヨシの姿がふいに消えた。ゲートに入ったのだ。
「我も行くとするか」
 今度は伝蔵がパスタのケージの上に乗る。
「まだ無理はしないでくださいね」
「うむ」
 そうリリイに言い残すと、伝蔵の姿も消えた。
「パスタは24時間経過するまで待機よね」
「今日に限っては仕事してる方が楽な気がしますけど」
 パスタはチラリと横目で見る。トド吉はうんうん唸りながら、天井を見つめていた。6羽のファミリーたちはパタパタと羽ばたいて、トド吉に風を送っている。
「まあ、午後までの辛抱だから」
「ああ、一日が長そう」
 トド吉もえらい言われようである。しかし本人には聞こえていないようなのが救いか。
「菊弥さんはどうするんです?」
 不意にリリイがこちらを向いた。どうするって言われてもなあ。
「別にやることはないし、午後まで客室で本でも読んでるよ」
「オカメさんですもんね、目が離せませんよね」
「あ、でもその前に買い物だけ済ませとこうかな。もう小松菜が切れる」
「それは大変」
 小松菜はみんなのおやつである。小鳥ホテルのティータイムにお茶を飲むメンバーなどいない。小松菜や青梗菜やブロッコリーを齧るのが日課であった。僕はキッチンに入り、PCの前に座った。買い物と言っても出かける訳ではない。ネットスーパーで注文するのだ。値段は少々割高になるが、お客様を放ったらかしにしなくて済むのは有り難い。ネットスーパーのサイトで『野菜』をクリック、伸びたツリーから『葉物野菜』をクリックした。小松菜は1束230円だった。高い。先般の台風の影響だろう。それに比べると青梗菜は1袋180円、地場ものらしい。こっちにしておくか。宇宙人に経済的な援助を受けているからといって、予算は無限ではないのだから。僕が青梗菜をカートに入れた、そのとき。電話が鳴った。ディスプレイには五十雀巌いそがらいわおの文字。なんだ、こんな朝っぱらから。無視してやろうかと一瞬思ったが、そういう訳にも行くまい。僕は3度目のコールで出た。
「はい、もしもし」
「今すぐテレビ消せ!」
 何言ってるんだ、こいつ。反射的に電話を切りそうになったが、何とか自分を押さえた。
「おまえ、何言ってるんだよ」
「テレビはついてるのか、消えてるのか、どっちだ」
「ついてないよ。何だよ朝っぱらから。酔っぱらってるのか」
「いいか、テレビは絶対につけるなよ、いいな、今からそっち行くからな、絶対につけるんじゃねえぞ」
 電話は切れた。電話口の向こうの巌が、焦っていた。珍しいこともあるものだ。とはいえ、無視もできない。僕はキッチンから鳥部屋に戻った。
「リリイ、いまテレビってどうなってる」
 リリイはキョトンとした顔を向けた。
「テレビですか、ちょっと待ってください」
 そして首をかしげると、記憶の中を探るかのようにしばらく虚空を見つめた。
「各局通常通りの放送を続けていますね。おかしな様子は見受けられませんが」
「とりあえず全局録画しておいて」
「わかりました」
 何が起こっているのかは不明だが、記録だけは取っておこう。テレビをつけてみたい、そんな気持ちも脳裏をよぎったものの、やめておいた。いまは石橋を叩いた方がいい。
(伝蔵、聞こえる)
 僕は心の中に念を集めた。頭の中に返事があった。
【何かあったか】
(まだわからない。けど何か起きているかもしれない。わかり次第また連絡する)
【了解した。ミヨシにはこちらから連絡しておこう。次報を待つ】
 伝蔵との通信は終了した。あとは、巌が来てからだ。さて、何が起きているのか。


 巌の家から小鳥ホテルまでは、車で15分ほどの距離だ。しかし巌の車が姿を表したのは、30分以上経ってからのことだった。タイヤの悲鳴と共に、後輪をスライドさせて駐車場に停めた。狭い駐車場で無茶なことをする。車が停まると同時に、巌と香春こうしゅんが飛び出してきた。そして全速力で玄関に向けて走って来る。僕は思わず外に出た。このままでは玄関が破壊されそうな気がしたからだ。
「お、おいちょっと待て、落ち着け」
 しかしそんな僕の言葉など聞くこともなく、巌と香春は駆け寄ってくると両脇から僕の左右の腕をつかみ、身体を持ち上げ、再び車へと走った。
「こらー!またこの展開か!」
 有無を言わさず僕を後部座席に放り込むと、車はスキル音と共に発進した。
「何なんだよもう、いったい」
「おめえ、たきおんに連絡したか」
「はあ?テレビの話じゃなかったのかよ」
「したのかしてねえのか」
「してないよ。てか、たきおんがどうしたの」
「10分以上携帯鳴らし続けたのに出やがらねえ」
「……これ、今たきおんの家に向かってるのか」
「やられちまってる可能性が高いが、確認だけはしとかにゃなるめえよ」
「やられるって、誰に」
「テレビにだよ」
 ここまで来て、ようやく話が繋がりかけた。
「テレビがいったい何をしたんだ」
「俺んちには住み込みの家政婦が常時10人ほどいることは知ってるな」
「そりゃまあ知ってはいるけど」
「家政婦にもシフトがあって、早番は午前4時から仕事、遅番は9時から仕事だ」
「それは知らない」
「遅番の家政婦は部屋で朝食を採ることになってる。食事は早番の家政婦が食堂に取りに行って部屋まで持って行く。今朝もそうだった。早番の家政婦の一人が食事を受け取って部屋に持って行った。だがいつものように部屋をノックしても誰も出てこない。おかしいと思ってドアを開けてみたら、遅番の家政婦が全員、テレビの前でマネキンみたいに固まってやがった」
「マネキン」
 巌はひとつ、うなずいた。
「その家政婦は一旦部屋を離れ、香春に報告した。そして香春が俺に知らせている間に、自分は部屋に戻って動かなくなった連中を何とか助けようとしたらしい。俺が部屋に着いたときには、そいつもマネキンになっちまってた」
「それが、テレビの仕業だと」
「俺の勘だ。だがあの何もかもが止まっちまってた部屋の中で、テレビの中だけが動いてた。他の理由なんか考えられるか」
「その動かなくなった家政婦たちは、その、あれか」
「死んじゃいねえよ。息もしてるし心臓も動いてる。だが身体は動かせねえんだ」
「つまり、たきおんも同じ状態にあるんじゃないかって事なんだな」
「そういうこった」
「急ごう」
 香春がアクセルを踏んだ。エンジンが唸りを上げる。


 滝緒のマンションはオートロック式だった。インターホンパネルで呼び出す。
「503だっけ」
「俺に聞くな」
「503で合っています」
 香春が言うのだから間違いないだろう。5、0、3、と押し、最後にコールボタンを押した。だが出ない。出る気配がない。僕はインターホンパネルの上に手をかざした。
「リリイ」
 その声と共に、僕の指先から小さな火花が発した。すると玄関のドアが開いた。僕たち三人は中に入る。
 エレベーターで5階に上がり、廊下に出る。廊下は密閉型とでも言うのだろうか、外から各部屋の扉が見えないタイプである。ほどなく僕らは503号室の前に立った。ドアをノックしてみようかとも思ったが、もはや時間の無駄だろう。僕はドアノブを握った。
「リリイ」
 ガチャリと音を立てて鍵は開いた。しかしチェーンがかかっている。チェーンに指を当てると、その部分がドロリと溶け落ちた。ドアを開けて僕らは中に入った。キッチンには誰もいない。奥の部屋からテレビの音声らしきものが聞こえる。僕がドアを開けたとき。黒い風が走った。40型くらいはあろうかというその大画面テレビに、巌がドロップキックをかましていた。画面の真ん中を割られ、火花を上げて吹き飛ぶテレビ。後でたきおんに怒られるな、とも思ったが、今はそれどころではない。滝緒たきおは立っていた。まるでマネキンのように。全裸にタオル一枚巻き付けて。口元に手をやる。確かに呼吸はしている。僕は滝緒の見開かれた目を手で閉じさせた。これで眼球が乾くこともないだろう。
「香春、悪いけど何か着せてやってくれる」
「わかりました」
 僕と巌は隣のキッチンで待った。
「さて、これがテレビの仕業だとして」僕は腕を組んだ。「他の家でも同じことが起こってると考えるべきなんだろうな」
「何人マネキンになってる、なんてのはさすがにわかんねえか」
【推測はできます】脳内に聞こえるそれはパスタの声【朝7時台の平均視聴率は公共放送と民放を合わせると30パーセント程度だと言われています。ざっくり計算すると、視聴率1パーセントで百万人以上ですから、この時間テレビを見ていたのは日本全国で3千万人ほどとなります】
「日本全体で3千万人の可能性があるってさ」
「こんなことが日本中で起きてるってか。可能性としちゃなくはねえかもしれねえが、ピンと来ねえな」
「理論値だからね。同じ時間帯にすべてのテレビ局が電波ジャックされた、と考えた場合にあり得る最大値が3千万」
「全部のテレビ局ってこたあねえだろう……あるか。魔法使い相手だからな」
「ミヨシ」僕はその可能性を考えた。「これって強制催眠じゃないのかな」
【かもしれないわね。今度はブッダの言葉を聞かせた訳じゃないみたいだけど】
 では何をどうしたのだろうか。一つ明らかなのは、ここで考えていても埒が明かないということだ。
「とにかく僕らだけじゃ手に負えない。一旦戻ろう。」
「また宇宙人の手を借りるのか」
「もう充分借りてるだろ」
「ま、それもそうだな」
 僕らは香春にここに残ってもらい、2人で小鳥ホテルに戻ることにした。
「不本意ですが、ご指示とあらば」
 不満げな香春から車の鍵を預かると、僕と巌はマンションを後にした。


「巌……おまえ、運転下手だろ」
「うるっせい、舌噛んで死にたくなかったら黙ってろ」
「いや、自動運転の車にどんどん追い越されてるんですけど」
 巌の運転する黒塗りのセダンは、トロトロと小鳥ホテルに向かっていた。何やってる、運転を替われ、と言いたいところをぐっと抑えた。僕は免許を持っていないのだ。まだ文句は言い足りなかったが時間が惜しい。
(リリイ)
 僕は頭の中に念を込めた。返事はすぐにあった。
【聞こえています】
(大峰さんには連絡取れた?)
【現状を確認次第こちらに来るそうです】
(伝蔵とミヨシは)
【菊弥さんよりは先に戻ってこれそうです】
(了解、こっちもなるべく急ぐ)
 とは言ったものの、車は相変わらずトロトロとしか進まない。
「僕はどうすればいい。応援すればいいのか。励ませばいいのか」
「いいからおとなしく座ってろ。頼むから」
 さて、到着するのはいつになるやら。


 帰路30分を費やし、ようやく僕らは小鳥ホテルに着いた。
「お早い到着だな」
 伝蔵が迎えてくれた。巌は小さく「うっせい」とつぶやいた。
「見てくれた?」
 僕が滝緒の部屋で見たものをモニタリングしたか、という意味である。
「うむ、厄介なことだ」
 ミヨシも戻っていた。大峰さんはまだらしい。どうする、先に始めるか。そう考えたとき。ふいに目の前に青い光が浮かんだ、と思った次の瞬間、その光は人の形になった。ふわり。大峰さんが静かに鳥部屋に降り立った。なるほど、大峰さんの転移を外から見るとこんな感じなのか。
「遅くなりました」
「今からですよ。始めましょうか」
 僕はキッチンのドアを開けた。いま天井のモニターはエリアスキャンで使用中だ。ならば僕のPCのモニターを使うしかない。狭いキッチンは満員御礼となった。モニターの上にはリリイがとまっている。僕が起動ボタンに触れるまでもなく、PCは勝手に立ち上がった。
「では録画してあったテレビの映像を流してみます」
 リリイの説明に合わせて、モニター上にウィンドウが開いた。が、次の瞬間、ウィンドウは赤く点滅した。映像が始まる様子はない。
「あれ?」リリイが首をかしげる。「おかしいな。別の局の映像でもう一度やってみますね」
 一度ウィンドウを閉じ、再度開く。また赤の点滅。
「まただ」
「これは防壁が作動しているのではありませんか」
 大峰さんの言葉に、皆が注目した。
「防壁ですか」
「データにセキュリティ上の問題があるということでしょう。それがシステムに対する問題なのか、使用者に対する問題なのか。普通ならエラーメッセージが出るはずなのですが」
 大峰さんも首をかしげた。ミヨシが一つ、ため息をつく。
「しょうがないわねえ。トド吉。ちょっとトド吉」
「なんやねんな、うるさいなあもう!」
 トド吉とファミリーは、すごい勢いで飛んでくると、リリイの隣にとまった。
「ワイはワイで仕事しとるでしょうが」
「そう言わずにちょっと見てよ。お願いだから」
「ああ、もう」
 トド吉は腹立たし気に、しかし案外素直にモニターをつついた。PCが再起動される。
「どうするの」
 リリイの問いに、トド吉は困った顔をしてみせた。
「防壁が作動したときはセーフモードで再起動するんよ、これ常識」
 一人を除いて誰も知らない常識ってどんな常識だよ、と思わないでもなかったが、それを口にできる状況ではない。などと考えているうちにPCがセーフモードで再起動された。
「録画したファイルを開く」
 画面いっぱいにウィンドウが開き、そこには数十のフォルダが並んでいた。
「で、映像信号と、音声信号と、その他制御信号のフォルダを選んで」
 トド吉は当たり前のようにフォルダをチョイスしていった。
「あとは防壁の管理ソフトでセキュリティスキャンするだけやな」
 そう言って一秒と経たなかっただろう、一つのフォルダからエラーメッセージのポップアップが浮かび上がった。しかしメッセージは空白。
「制御信号に細工しとるな、これは」
 トド吉がまたモニターをつつくと、フォルダの隣にカクカクとした、それでいて複雑な形の波形が現れた。
「これが細工の正体や。この信号を制御信号に混ぜ込ませてテレビから発信させた訳やな」
「これ、何の波形だかわかる?」
 僕の問いかけに、またトド吉は困った顔をしてみせた。
「そんなもん、波形だけ見てすぐに判断出来たら苦労はないわな」
「まあ、そりゃそうか」
「そやけど」トド吉はモニターを凝視している。「この信号、なんかおかしいやろ。何でエラーメッセージが出えへんねん。エラーを吐けへんちゅうことは想定外の問題が発生しとるいうことか。ちょっと待てよ」
 トド吉は画面をつついて新しいウィンドウを開いた。一瞬遅れて、そこに映し出されたのは、先ほどの波形と同じもの。
「なんじゃこれ」
 愕然としているトド吉に、僕はたずねた。
「どうかした?」
「どうもこうもあるか、これ見てみい」
「さっきの信号だよね」
「違うわ!これはさっきの信号やのうて、さっきの信号をアナログ変換した信号や」
「……でもデジタル信号だよ」
 そう、それはカクカクとした階段型の信号。
「そやからおかしい言うてんねん。こんな事はありえへん。これはデジタル信号やない、最初からデジタル信号の波形をしたアナログ信号やいうことや」
 僕の頭はこんがらがった。
「え、ごめん、言ってる意味がよくわからない」
「そらそうやろ、言うてるワイかてわかれへんねんから。ただわかれへん所を無理やりに想像するとや、デジタルの知識がないヤツがデジタル回路に強引に信号を流し込もうとした結果やないか、これは」
「そんなことできるの」
「できる訳ないやろ、普通は。アナログ信号をデジタル回路に流すんやったらアナデジ変換するのが当たり前や。けどその当たり前とか普通とかを超越した、とんでもないヤツがおるんやとしたら」
 僕の脳裏にその顔が浮かんだ。
「古代ローマの大魔導士」
「見た目は人格者然としとったけど、実際には結構短気で強引な性格しとるんやろな、あいつ」
「性格判断は結構です」大峰さんが割り込んできた。「結局のところ、その信号が人間に害を及ぼすのですか」
「そこまではワイの領分やないですわ。とりあえず一番怪しいのがこの信号やいうだけで」
 トド吉の言葉をミヨシが受けた。
「影響を調べるのなら人体実験しかないけど、そんな時間ないんじゃありません」
「そうですね、さすがにそこまでは」
 大峰さんは残念そうにそう漏らした。
「この件の被害者は北海道から沖縄まで全国にいることが既に判明しています。早急に対策しなければなりません」
「とにかく、いま重要なのは、敵がこの信号で人間をマネキン化することで、果たして何を企んでいるかということだ」
 伝蔵がつぶやいた。それを聞いて「へっ」と笑ったのは、巌。
「目的なんて決まってるだろ。人質だよ、人質。国を寄越さなきゃ、こいつらがどうなっても知らないぞ、てな」
 しかしリリイは反論した。
「どうなっても、って、具体的にどうするんです。もうマネキン化しちゃってるのに、これ以上何を」
「いや、そこまでは考えちゃいねえが」
「国を譲らなければマネキン化した人々は死ぬまでこのまま、国を譲れば元に戻してやる、みたいな感じではないですかね。被害者が本当に3千万人いるのだとしたら、全員を医療機関に収容するのは無理でしょうし」
 そのパスタの意見に、けれど同意する声はなかった。
「ちょっとのんびりし過ぎてる気はするわね」
 ミヨシがそう言って笑った、そのとき。
「あ!」リリイが叫ぶかのように声を上げた。「テレビに、テレビに魔女が!」
 思わずテレビのリモコンを探した僕を、伝蔵が制する。
「待たんか。リリイ、録画は」
「やってます」
 虚空を見つめながら、そう答えた。
 携帯の着信音が鳴る。大峰さんにだ。
「はい大峰です。はい、テレビの件は存じ上げております。映像はまだ見ておりませんが。はい、そのようにされた方がよろしいかと。はい、では後ほどご自宅に伺います」
 電話を切り、大峰さんは小さくため息をついた。
「さしもの首相もいささか慌てておられます」
 そりゃそうだろう。こんな異常な状況になって慌てない方がどうかしている。
「首相はテレビを観ていないのですね」
 大峰さんはパスタにうなずいた。
「首相は朝は新聞を読まれますから。テレビのチェックは秘書官の仕事です」
「じゃあ秘書官が」
 そして僕にうなずいた。それ以上は何も言わなかったが、語るまでもないだろう。
「魔女は姿を消しました」
 リリイがホッとしたように息をついた。
「録画した分を観たい。観れるか」
 伝蔵も少々焦っているようだ。
「その前にPCを通常モードで再起動させんと」
 トド吉がモニター画面をつつくと、再起動が始まった。起動するまでの間、キッチンはしばしの沈黙に包まれた。そして、起動が完了する。
「では始めますね。映像的に公共放送のが一番綺麗だったので、それ使います」
 リリイがそう言うと、モニター画面に大きなウィンドウが開き、そこにあの森の魔女の鼻の大きな顔が大写しになった。しかし、今度は防壁は作動しない。マネキン化させるあの信号は、この映像には含まれていないらしい。僕らは刮目した。


 親愛なる首相閣下を始めとする日本の皆様へ、我らが大魔導士ウェルギリウスからの挨拶をお伝えする。いまこの世界には、ただひとつの神が溢れている。多くの国の人々は一神教の神の名の下に暮らし、生き、死んでゆく。それに疑問を持つこともなく。だが、この日本においてはそうではない。物に霊が宿り、生き物に魂が宿ることを受け入れられる社会があり、自然に精霊が満ち、あまねく場所に神が立つことを信じられる人々が住む、最新の科学文明の隣に、太古の闇を見つけられる、そんな国。それがあなたたちの生きる国だ。何と素晴らしきかな。我らがウェルギリウスは、この国に心を奪われた。そして決めた。この国を、ただひとつの神を殲滅するための、最強の魔法国家へと変えることに。そこでその第一歩として、ご承知の通り、人質を取らせてもらった。その数、3千万。目的は一つ、日本という国家を解体し、我々に譲ること。それが叶わぬ場合、3千万人の人質は、一斉に死すことになる。3時間の猶予を与える。その間に降伏文書の文面と、自らの身の振り方を考えよ。一秒でも過ぎれば人質全員の死が待つことを忘れるな。吉報を待っている。


 魔女の姿が消えた瞬間、画面の時刻表示が8時ジャストになった。ここから3時間、すなわち11時までが猶予である。
「どうやって人質一斉に殺すねん」沈黙を破ったのはトド吉。「人質が一か所に集まってるんやったらわかるで、けど全国に分散してるもんをいっぺんに殺せるんか」
「それこそ大魔導士様の魔法の力じゃねえのか」
 巌が応える。しかしトド吉は納得しない。
「それやったらマネキン化させる意味がないやろ。いつでも3千万人殺せるんやったら、人質取るんは要らん手間や。何でそんな手間をかけたんや」
「魔法の力にも限界があるってことか」
「得手不得手はあるはずや。魔法使いやからってホンマに何でもできるんやったら、そもそも日本の国を欲しがること自体おかしい。自分の力だけで世界を変えたら済む話やないか」
「なるほどねえ」
 巌の心底感心した声を聞くのは久しぶりのような気がした。
「方法はともかく、今は相手の言うことを真に受けておいた方がいいでしょう。3千万人に命の危機が迫っています。なすべきことを決めねばなりません」
 大峰さんの表情にも、さすがに余裕はなかった。パスタが片翼を上げた。
「降伏した振りをしてみては。そして向こうを誘い出して、一網打尽に」
「一網打尽のチャンスなら、富士の樹海でありましたよね。でも失敗しました。相手も馬鹿ではありません。そう何度もチャンスはくれないのではありませんか」
 普段穏やかなだけに、シビアになった大峰さんの言葉は、ズバズバと切りつけてくる。パスタは涙目で黙り込むしかなかった。いや、パスタだけではない。他の皆も口を閉ざしている。いま声を上げるのは、ちょっと勇気がいる。だが、悠長なことを言っていられる状況でもない。
「思うんだけど」皆の視線が僕に集まる。「エリアスキャンは止められないのかな」
 一瞬、間があった。伝蔵は不審げな顔でこうたずねた。
「どういうことだ。スキャンを止めてどうする」
「スキャンを止めて、現時点でスキャンし終わってる部分だけを解析に回せば、タイムリミットまでに空間のゆがみを見つけられるかもしれない」
 自信がある訳ではない。だから言葉も弱々しくなる。だが他に方法があるとは思えなかった。
「スキャンできなかった部分に空間のゆがみがあったら、アウトよね」
 ミヨシが言い放つ。しかし。
「そもそもあのエリアに空間のゆがみがあることは、百パーセント確実って訳じゃない。全部スキャンしても見つからないかもしれない」
「そりゃそうだけど」
「だったら、いま解析できる部分だけでも解析してみたら、可能性はあるんじゃないのか」
「仮に空間のゆがみが見つかったとして」リリイが僕に問うた。「そこを攻撃しても、人質が助かる保証はないですよね」
「それは……確かにない」
「もの凄く分の悪い博打だと思います」
「そう、だね、やっぱ無理……」
「私は乗ります」
「え」
「どんなに分の悪い博打でも、今できることをやらなきゃ、確実に負けてしまいます。挑むべきだと思います」
 リリイは大峰さんに向かってそう言った。しばしの沈黙。そして。
「そうかもしれませんね」
 大峰さんは微笑んだ。トド吉は頭を抱えた。
「マジか」
「とにかくその方向で首相と相談してみましょう。トド吉隊員はそのつもりで」
「はあ……わかりました」
 トド吉はがっくり肩を落とした。なんかちょっと申し訳ない。
「リリイ隊員は菊弥さんと一緒に来てください」
「了解です」
 リリイは僕の肩へと飛び移る。大峰さんは僕の腕を取ると、こう言った。
「他のみなさんはしばらく待機していてください」
 そして耳元にキンと甲高い音。景色が見慣れた鳥部屋から、四方にドアのある、首相の自宅のあの部屋へと変わった。


 それから、ゆうに30分は待った。時間がないのに、と思わないでもなかったが、向こうだって忙しいのだ。いや、向こうの方がもっと忙しいのかもしれない。とにかく今は待つしかない。そしてさらに10分が経とうとしたとき、ようやく部屋のドアが開いた。前回と同様、黒服のSP4人に囲まれながら、首相が姿を現した。
「いやあ、申し訳ない。緊急対策本部を立ち上げてすぐ自宅に戻るというのも、なかなか難しいものですからね」
 首相はうんざりした顔でソファに腰を下ろすと、リリイを見つめた。
「おや、今日の小鳥さんはまた違う方ですね」
「はじめまして、リリイと申します」
「把握しました。リリイ、よろしく」
 一瞬笑顔を見せたものの、その顔はすぐに厳しくなった。
「麻賀が来ていました。緊急対策本部の前に陣取ってね。全権大使を気取っているのでしょう」
「麻賀議員以外に敵からの接触は」
 大峰さんの問いに、首相は首を振った。
「ありません。敵の考えが今一つわかりませんね。本当に麻賀を全権大使にするつもりなのでしょうか。彼は年齢は私よりも随分と上ですが、老獪さなど身についていない、ただの老人ですよ」
「それはまず敵の言い分を聞いてから考えましょう」
 大峰さんはリリイに目配せをした。リリイがうなずくと同時に、部屋の隅にあった大型のテレビに電源が入った。そしてアップになる魔女の顔。その『挨拶』が終わると、首相は不愉快そうに眉間に皺を寄せたまま、こちらに向き直った。
「3千万人の人質ですか。これは政権が吹っ飛ぶくらいでは済みませんね」
「この国が消えてなくなる瀬戸際だと思います」
「政権が吹っ飛ぶことは否定しないのですね」首相は大峰さんに苦笑を返した。「まあ、文字通りの危急存亡のときですからね。政権の心配をしていられる段階ではないですか」
「仰る通りです」
「まだ政治家としてやり残していることも沢山あるんですけどね。これも運というやつなのでしょうか……それで、何か手はあるのですか」
 首相が切り替わった。哀愁漂う顔から指揮官の表情へ。空気が張り詰める。大峰さんはエリアスキャンの中止とそのデータの解析に時間を費やすことを進言した。すべてスキャンした場合でもデータの解析は2時間ほどで終わる。それなら今スキャンを中止して解析を始めれば、タイムリミットまで2、30分を残して空間のゆがみを捉えることができるかもしれない、と。
「空間のゆがみを捉えられる保証はあるのですか」
 首相の問いに、大峰さんは即答した。
「ありません」
「とんだギャンブルですね」
 首相は目を閉じた。口元に手をやる。沈黙。しかし長く感じたそれも、実際には30秒ほどだったのかもしれない。そして。
「空挺部隊を待機させます」首相の眼が開いた。「ただちに解析を開始してください。足掻けるだけは足掻いてみましょう」
 大峰さんが僕を見る。僕は脳内に念を込めた。
(トド吉)
【聞こえとるで。了解了解、スキャン中止、解析開始、ああもうヤケクソや】
「解析、開始しました」
 僕の言葉に、首相がうなずいた。大峰さんが僕を手で示した。
「なお、空間のゆがみが見つかった場合、現場には彼に赴いてもらいます」
「へ」
「我々の現有最大戦力です。必ずやお役に立てると思います」
「私たちがバックアップします。ご安心ください」
 リリイが大峰さんの尻馬に乗った。
「それはありがたい、期待しています」
 首相が右手を僕に向かって差し出す。
「あ、はい、どうも」
 とても嫌だと言える空気ではない。僕は引きつった笑顔で首相の右手を握った。


「ドンパチやんのか」
 鳥部屋に戻った僕と大峰さんに、真っ先に巌が向けた一言である。
「おまえ、本当にデリカシーってもんがないよな」
「うっせえ、細けえこと言うんじゃねえよ。俺も行くぞ」
「はあ?」
「いいだろ、俺も連れてけ」
「馬鹿か。そんなことしたら、僕が香春に怒られるだろ」
「馬鹿はおめえだ。何で香春の許可が要る。俺がいいつったらいいんだよ」
 巌は僕の椅子に座ってクルクル回った。巌の考えていることはわかる。さすがにそれがわからないほど頭は悪くない。ありがたいと思う。だが、いくら何でも危険すぎる。僕は仕方ない。何故なら僕は宇宙人に生かされている立場だからだ。彼らが望めば戦場にも行かざるを得ない。だが巌はそうではない。ならば。
「ならば、坊やが守ってあげればいいじゃない。あんたは難しく考えすぎなのよ」
 ミヨシがおそらく僕の頭の中をのぞいた上で、そう言った。巌は手を叩いた。
「いいこと言うじゃねえか、ピンク。そうだよ、おめえが俺を守れば問題ねえだろ」
 久しぶりにぶん殴りたくなった。何を言ってるのかわかってるのか、こいつは。
「おまえな、そんな上手く行く訳ないだろ」
「努力目標だよ、努力目標。ノルマじゃねえ。だったら簡単だろ」
 そんな簡単な話じゃない。そんな簡単であるはずがない。
「最初は努力目標のつもりでも、どうせ結局ノルマになっちゃうだろうが」
「それがおめえの良いところだよ。直す必要はねえぜ」
 巌がニッと歯を見せる。僕は目を逸らした。その逸らした目の先に、大峰さんの笑顔があった。
「私は行っていただけたらありがたいと思っています。異界では彼の力が役に立つでしょうし」
「おう、任しとけ」
 スポンサーの御意向は無視できない。そのスポンサーの大本締めが、巌を連れて行けと言っているのである。これはもう、僕一人ではいかんともし難い状況である。この時点において、巌が僕について来ることは決定事項となった。僕は一つ、大きなため息をついた。


 テレビはすべての局が通常の番組を取りやめ、官邸の緊急対策本部の前にカメラを貼り付けた。今回のテロとも言える攻撃にテレビの電波が使われたことは既に判明していると思うのだが、それを理由に放送をやめる局はなかった。けれど今、いったい誰がテレビを観ているのだろう。僕たちはテレビをつけてはいなかった。ただ時折リリイの状況報告を聞いていただけである。
「あ、緊急対策本部の前で揉み合いが始まりました」リリイが淡々と話す。「どうやら麻賀一派が本部に押し入ろうとしたのを、他の与党議員が阻止した模様です。『人質を見捨てるつもりか、この国賊が』と叫んでいる人がいます。どうやらこれが麻賀議員のようですね」
「どっちが国賊なんだか」僕の椅子に座っている巌が吐き捨てた。「しかし待ってるだけってのも退屈だな。先に現地に行っちまわねえか」
「行ったってやることがないのは同じよ」
 ミヨシは少々呆れ顔だ。
「けどよ、樹海のときは現場に行けば空間の歪みがわかるって言ってたじゃねえか。今度も近くまで行けばわかるんじゃねえの」
「そら無理やで」トド吉が首を振る。「今はスキャンの解析に演算装置フルパワー使てるからな、とてもやないけど空間のゆがみ検知まで並行でけへん」
「なんだよ、宇宙人の技術も肝心なときに使えねえな」
「おまえ、ちょっとは空気ってもんを読め」
 巌のせいで、僕は丸椅子に座っている。だが僕の苦言に巌はぬけぬけとこう答えた。
「そんなクソの役にも立たねえもんを読んでどうするよ」
「いや役に立つだろ。おまえの場合特に。協調性ゼロがプラスに働くだろうが」
「馬鹿野郎、人間には得手不得手があるんだぞ。苦手なことを克服するなんてのは無駄な努力だ。得意な事だけ伸ばしていく方が正しい生き方ってもんなんだよ」
「この世に正しさなんかないって白石さんに言ってなかったか」
「それはそれ、これはこれだ」
 またああ言えばこう言う。こいつだけは。僕は声を荒げそうになった。が、そのとき不意に脳裏をある顔がよぎった。何故その顔を思い出したのかはわからない。ただ。ああ、そうか。そうなのか。僕は気づいた。できるじゃないか。3千万人の人質を一度に殺すことが。ならばそれを防ぐことはできないか。敵の橋頭堡が叩ければそれに越したことはない。だがそれに間に合わなかったら……いや、防げるぞ。
「なるほどね、その手はあるわね」
 僕の頭の中を読んだのであろう、ミヨシは大きくうなずいた。
「伝蔵、大峰さん、これってできるかな」
 僕は自分のアイデアを披露した。時刻は間もなく10時になろうとしている。あと1時間。


 星が瞬かない。大気の層を通過しない無数の光源は、すべてが停止したかのようにただそこにあり続ける。凍り付いた星空を背に、僕は足元に広がる巨大な群青に心奪われていた。
「良い眺めであろ」
 声は聞こえない。けれど僕の心の中にその言葉は響いた。
「これを見てしまうとな、人と人との争い事など、いかに卑小で愚かしいことかと思えてならん。だがあの男も、これを見ているであろうに」
 さも残念そうにつぐみは言った。僕の目の前にはニューヨークヤンキースの帽子をかぶった、モコモコとした髪の毛がムク犬のような、虎河つぐみの姿があった。
「つぐみ……君が僕をここに連れてきたの」
「いいや」つぐみは苦笑と思しき笑みを浮かべた。「おぬしは己の力でここに来た。己の力でここに立ち、この光景を見ているのだ。このまだ今は選ばれし者にしか見ることの許されぬ光景をな」
「選ばれし者」
「かつては山の頂から下界を見下ろすことが、選ばれし者の特権であった。そして長らく雲の上の世界もまた。いずれはこの光景も、誰しもが見ることができるものとなるだろう。しかしそれはまだまだ先の話。この星に住む者たちが、次の段階に進んだ後のことだ」
「僕は夢を見ているのか」
「夢ではない。だがおぬしにとっては夢のようなものかもしれん。いまのおぬしは肉体を持たぬ意識体だけの存在だからな」
「夢なら早く起きないと。みんなに怒られる」
「気にするな。ここでたっぷりと語り明かしたとしても、肉体に経過する時間は1秒とありはせんのだから」
 つぐみは宙に浮きながら、胡坐をかいた。
「なあ菊弥よ、聞こえんか」両ひざに手を置き、全身の力を抜いたのがわかった。「大きな何かが流れる音が」
「音?」
「それは地球の中にも流れている。やれマナだ龍脈だと呼ばれる力の流れだ。しかしそれは地球の中だけで完結している訳ではない。すべては宇宙の大きな流れの一部に過ぎない」
 僕は困惑した。つぐみは何を言いたいのだろう。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」
 つぐみはニッと歯を見せた。
「人の世も星の世界も、すべては流れの中にある。流れに逆らったり棹をさしたりすれば流れは乱れ、心は乱れ、世は乱れる。流れに身をまかせ、ありのままを受け入れる事こそ、智慧ある命の取るべき道よ」
 つまり、それは。
「あの男は流れを乱し過ぎた。乱れた流れは正さねばならん。これは人の意志にあらず。地球の意志である。良いか、おぬしらは地球の意志の代行者なのだ。それを忘れるな」
 そして、ふと、つぐみは悲し気な顔を浮かべた。
「うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。何事も腹八分が良いということよな。それが怒りや憎しみであったとしても」
 そのとき。ぐん、僕の足が下に引っ張られた。体が地表に向かって急降下して行く。僕は叫び声を上げた。この星の世界から戻りたくないというかの如く。
「良いか、忘れるなよ!」
 つぐみの声が遠くに聞こえた。


 僕は目を開けた。いま寝てたか?
「落ちかけてたわよ」
 ミヨシが笑った。


 そして時刻は10時半。そろそろ解析終了の予定時間である。が。
「解析はまだ終わらんのか」
 伝蔵はイライラしている。トド吉は困り顔だ。
「割合的には99パーセント以上終わってるはずなんやけど、最後がなかなか」
「ああ、ダウンロード終了まで残りゼロ秒なのにダウンロードが終わってない、みたいな感じか」
 巌がへらへらと笑った。
「そんなショボいもんと一緒にすな」
 そう言うトド吉の声も弱々しい。
「既に空挺部隊は現場近辺に待機しているはずです。首相も解析結果を心待ちにしていることでしょう」
 大峰さんは冷静に淡々と話す。それが逆にトド吉にプレッシャーをかけていた。そんないじめなくても。僕がそう言おうとしたとき、リリイが悲鳴にも似た声を上げた。
「魔女が!テレビに出ています」
「何で」
 と、パスタが。
「まだ30分あるのではないのか」
 と、伝蔵が動揺した。
 キッチンのPCの隣のテレビに電源が入る。リリイの仕業だ。テレビをつけるのはまだリスクがある。だがこの場合は仕方ないか。
「気に入らないねえ」
 テレビに映った魔女は最初にそう言った。
「もう2時間半だよ。あと30分しか残ってないんだよ。なぜ何も言ってこない。なぜ接触して来ようとしない。ルートは用意してあるだろう。それをなぜ使わない。徹底抗戦のつもりかい。話し合いなど必要ないとお思いかい。なめられたもんだね」
 しまった。大峰さんの顔にはそう書いてあった。ここは嘘でも麻賀議員を使って交渉をしておくべきだったのかもしれない。魔女は続けた。
「こちらがおまえたちと同じ次元に立っているとでも思ってるのなら、大きな間違いだよ。その証拠を見せてやろう。もう人質は要らない。3千万人を一度に処分だ。やっておしまい」
 魔女がそう言うと同時にカメラは切り替わり、緊張感でガチガチになった、一人の少女を映し出した。大輪心。死の叫びを上げるバンシーの少女である。大輪心は緊張をほぐすように、静かに息を吸い込んだ。そして、その髪が緑色に輝く。
「いまだトド吉!」
「ほいな!」
 僕の声にトド吉が応えた瞬間、天井に映っていた解析画面は消えた。それに替わって映し出されたのは日本地図。その都市部に輝く光点。
「強制終了!」
 画面の向こうで少女が口を開いた瞬間、テレビは消えた。いや、正確にはテレビは消えていない。だがそこに映し出されているのは漆黒。
「……成功した?」
「多分。間に合うたと思うけど」
 3千万人を一度に殺す方法。いま日本全国の家庭のテレビの前には、マネキン化した人々が固まり動けなくなっている。テレビもつけっ放しになっているだろう。ならばそこにバンシーの死を告げる絶叫を流せば、すべては終わりである。
 それを阻止するにはどうすれば良いか。敵の発信元を叩ければベストである。だがそれが難しいときは。僕が考えついたただ一つの方法。それは、すべてのテレビ局を一斉に停電させること。敵がどんな経路で通信を送っているのかわからない以上、キー局だけを落としてもダメだ。テレビに電波を送るすべての――ケーブルや衛星放送を含めたすべての――局をシャットダウンしなければならない。そんなこと、日本政府にも無理だろう。この地球上で唯一それが可能なのは、この小鳥ホテルに集う宇宙人の超技術だけ。もちろんそのためには、演算装置のパワーをそちらに振り向ける必要がある。だから解析が終わるまで待っていてくれれば良かったのだが、なかなかそう思った通りには事は運ばない。
「解析を再開せよ、復旧すれば再度攻撃があるぞ」
 伝蔵の声が飛ぶ。天井の画面は再び解析画面となった。そしてその直後。
「解析、完了」
 トド吉が興奮した声を上げた。
「空間のゆがみは」
 大峰さんの声も少し上ずっている。僕も、巌も、ミヨシもパスタもリリイも、一斉に天井を見上げた。3次元表示されたエリアマップ。そこに建つビルの一室に、光点が輝いていた。
「あった」
 その呻くような声は誰のものだったろう。大峰さんは携帯を取り出していた。そして一言。
「見つけました」


 ビルの廊下。床はリノリウムと言うのだろうか、石材のような柄で、天井の照明をぼんやり映している。人影はない。僕らは音もなく転移した。後ろに巌を連れて、肩にはトド吉と6羽のファミリーが乗っている。
「ワイは寝てないっちゅうのに何でや。ブラックや。ブラック職場や」
 ブツブツつぶやくトド吉には触れず、僕は黙って目的の部屋に向かった。廊下の端から数えて3つ目のドア。金属のプレートには『小会議室A』と書かれ、ドアには鍵がかかっていた。
「トド吉」
「はいよ、ちょっと待てや」
 トド吉が欠伸をした。カチャリ、ドアの鍵が音を立てて開いたとき。廊下の反対側に人影が動いた。わらわらと増えて行くその影が、こちらに向かって駆け足で近づいてきた。迷彩服にヘルメット、手に手に自動小銃を携えて。廊下の両側に整列していく者たちの真ん中を抜けてきたのは他よりも少し小さな体格。僕らに向かって軽く敬礼をして見せた。
「第1空挺団、普通科小隊の田地たじ2尉です」
「え、女か」
 その瞬間、僕の右手の裏拳が巌の顔面を捉えた。巌の崩れ落ちる気配を背に、僕は引きつった笑顔を浮かべた。
「あははは、こいつは無視してください、ただの馬鹿ですから」
「はあ」
 田地2尉はちょっと引いたように見えたが、すぐに鋭い視線をドアに向けた。
「このドアの向こうですか」
「そうですね。入ったらすぐ飛ばされると思います」
「では我々が先に入ります。あなたは後から来てください」
 そう言ってドアノブを握った田地2尉の腕を、僕は慌ててつかんだ。
「ちょっと待って。それじゃ僕が来た意味がないです」
「国民の命を守るのが我々の職務ですので」
「だからって無闇に突入すればいいってもんじゃないでしょう」
「ご心配なく。第1空挺団に無駄死にする者はおりません」
「でもどうせなら、誰も死なない方がいいはずです」
 田地2尉の冷徹な表情が、一瞬和らいだ。
「どうにも強情な方ですね」
「異界に飛ばされる経験だけなら、僕の方が豊富ですから」
「……わかりました。では一緒に参りましょう」
 小さくため息をつきながら、田地2尉はドアノブから手を放した。僕は巌をかかとで蹴った。
「ほれ、さっさと起きろ」
「おめえなあ、鼻はねえだろ、鼻はよお」
 情けない声を上げながら、涙目で巌は立ち上がった。
「第1班は私に続け、第2班、第3班は1分間隔で突入!」
 田地2尉の指示が飛ぶ。僕はドアノブを引いた。


 静寂の中を吹き抜ける風の音。垂れ込める鉛色の空の下、延々と続く緑色の草の海。同じだ。恵海えみ老人の所で初めて見た異界。それとそっくりな景色が僕らの前に広がっていた。ただ少し違うのは、ここには道があった。草原の中を蛇行する土の道。道は彼方まで草原を突っ切ると途中で分岐し、その別れた道は丘をかけ上り、ひとつの建物へと至っていた。それは城に見えた。だが西洋風の城ではない。かといって、瓦屋根もないので東洋風とも言い難かった。様々な形の岩石を積み重ねた、国籍不明の城塞。
「あれが橋頭堡なのかな」
 丈の長い草の中に身を隠しながら、僕らはしばし城塞を観察していた。だが見ているだけでは何ともならない。
「トド吉、何かわかる」
「何もわからんな」
 周囲の隊員がギョッとした顔を見せたが、それは見ない振りをした。
「何でわからないの」
「強烈な精神波動がバリアを張っとる。中がまったく見えへん状態や」
「じゃ、どうやって攻略する」
「総転移ウィンドウでバリアを無効化してから亜空縮滅砲で城塞を破壊したらええやろ」
「何かちょっと投げやりだな」
「当たり前じゃ、こっちは徹夜明けやねんぞ」
 僕は苦笑を返してから、巌を見た。巌は横目でにらみ返す。
「何だよ」
「何だよじゃないだろ。何かわかった事とか感じた事とかないのかよ」
「あるよ。とにかくうるせえうるせえ」
「うるさいってどういうことだよ」
「おめえがじゃねえよ、馬鹿野郎。この空間がうるさいつってんだ」
「空間がうるさい?」
「悲鳴、絶叫、阿鼻叫喚。怨嗟の声に満ち満ちてるんだよ、この空間が」
 僕は耳をすませた。だが風の音しか聞こえない。
「まあ妖精の声だからな。おめえらには聞こえねえわな」
「その妖精の声は」田地2尉が話に入って来た。「他に何か言っていますか」
「言ってるよ。恨みを晴らしてくれ、仇を取ってくれ、その為になら俺らに味方するってな」
「恨みとは」
「あの城だよ」
 巌は顎で城塞を示した。
「あの城を建てるのに、魔導士が触媒として妖精の血を大量に使ったんだとよ。ああ、けったくそ悪い」
 本当に気分が悪そうに、眉を寄せている。何でも見えたり聞こえたりすれば良いというものではないらしい。ただ。
「妖精の声って、どこまで信じられるんだ」
「んなこたあ知らねえよ」
 僕の問いに、巌は思わず噴き出した。
「けどまあ、信じるしかねえんじゃねえの。にらめっこしてたら解決するって問題じゃあるめえし、いまやるこたあ1つしかないんだろ」
 トド吉も同意した。
「奇遇やな。ワイも同意見や。ぐだぐだ時間潰しとっても意味ないやろ。それこそ神様のお導きやとでも思たらええがな」
――地球の意志――
 僕の脳裏にその言葉が浮かんだ。何だろう、何かを思い出したような感覚。
「いまは一刻を争う事態です。賭けてみましょう」
 田地2尉もそう言う。ならば。
「それじゃ、行きますか」
 僕は立ち上がった。
「全員、突撃用意!」
 田地2尉の命令が響き渡る。僕の右手は真下に向かって開いた。
「重力制御フィールド展開」
 トド吉の声と共に、僕の身体はふわり、真上へと浮き上がった。
「おおっ、飛んだ」
 思わず声が出る。
「ええ加減、飛ぶくらいはできんとな」
「伝蔵に怒られないかな」
「かめへんかめへん」
 手首の微妙な角度の変化で、僕の身体は前に進み始めた。
「ほな、お先やで」
「あ、てめえら」
 巌の声を後に残し、僕は空を駆けた。城に向かって真っすぐに。そして今度は左手が前に突き出される。
「空間干渉壁」
 と、トド吉。
「両方使うのか」
 これまでは重力制御フィールドと空間干渉壁、たいていどちらかで足りていた。両方一度に使うのは初めてかもしれない。
「死人は出したないんやろ。ほんなら万全を期さんとな」
「そうやそうや」
「お父ちゃんの言う通り」
 トド吉のファミリーがはしゃいだ。
「ああ、そうだね」
 僕の頬が緩んだそのとき、視界の端に動くものがあった。城の周りを囲む外壁。その上に立つ人影。いや、人影と言って良いのか。確かに体は人間のものだった。だがその首から上は、馬。馬の頭を持った屈強な人型の存在が、手に槍を持って立っている。馬頭人は身体をしならせ、槍を僕に向かって投げつけた。だが僕の前には空間干渉壁がある。銃弾ですらびくともしない見えない壁が。たかが投げ槍ごときでは。
 ガンッ!聞き慣れぬ音に僕は空中で停止した。僕の目の前の空間に、槍が止まっている。空間干渉壁に行く手を阻まれて。そう、確かに阻まれてはいる。だがその先端が、空間干渉壁のこちらに届いていた。
「んなアホな」
 トド吉は絶句した。壁の上の馬頭人は2本目の槍を取り出し構えた。そのとき。
 ホーッ!ホーッ!空に響き渡る雄叫び。城塞の壁の手前の草原から、槍を構えた数十人の馬頭人が姿を現す。そして走る。巌たちの方に向かって。
「トド吉、いったん下がって」
「ああもう、しゃあない!」
 急速後退。僕の身体はまっすぐ後ろに下がった。そこに追い打ちをかけるように城壁の上から馬頭人の槍が届いた。しかしさすがに今度は空間干渉壁が弾く。
「いっぺん降りるぞ」
 トド吉の声にも焦りがある。
「どうするの」
「仕組みはわからんけど、空間干渉壁では防ぎきれん可能性がある。重力制御フィールド一本に絞る」
「了解。やってみよう」
 自由落下。僕は真下に落ちた。だが足先が地面に届く寸前、落下速度は低下し、僕はふわりと降り立った。怒涛の如く押し寄せる馬頭人の群れの前に。右手を突き出す。そしてイメージ、水平方向に、広く、広く、広く、さらに垂直方向に高く。ごうっ、音を立てて風が吹いた。横一線で迫り来た馬頭人たちは、一斉にその身体を浮かせた。あたかも風に舞う木の葉の如く、高く高く吹き上げられる。そして落下。泥の詰まった袋を叩きつけたような音。いかに草の上だからといって、この高さから落とされてはただでは済むまい。
「菊弥ー、無事かー」
 後ろから巌の声が聞こえる。振り返って手でも振ってやるか。しかし、それは叶わなかった。
 むくり。むくり。むくり。倒れていた馬頭人たちが、その身を起こし始めたのだ。
「菊弥、もう一回や」
「了解!」
 重力制御フィールド展開、水平に広く広く伸ばし、垂直に高く。一陣の風が吹く。けれど。馬頭人たちは飛ばなかった。槍を口に咥え、四つん這いで地面にしがみつきながら、じわり、じわり、迫ってくる。
「菊弥、重力ゼロや」
「もうやってる」
「アホ言え、重力ゼロで飛ばされへん訳があるか。あり得へんにも程があるやろ」
「それは相手に言ってくれ」
 馬頭人たちの速度が上がった。ゴキブリのように駆け寄ってくる。
【重力制御、解除】
 突然脳内に聞こえたのは、ミヨシの声。同時に草原に響く乾いた連射音。自動小銃の一斉掃射。馬頭人たちは蜂の巣となり、倒れた。
「無事ですか」
 田地2尉が駆け寄って来た。僕とトド吉は引きつった笑顔を浮かべるしかなかった。
「はは、まあ何とか」
「それは……」
 言いかけた田地2尉の眼が見開かれる。まさか。振り返ると、馬頭人たちがまた起き上がろうとしている。だが田地2尉は慌てず、一人の馬頭人の頭を撃った。馬頭人は今度こそ倒れた。
「頭を狙え!」
 田地2尉の指示に従い、隊員たちは馬頭人の頭を狙う。馬頭人たちは次々に倒れ、やがて立てる者は誰もいなくなった。銃声が止み、静寂が訪れる。誰もがほっと一息をつきかけたとき。
「小隊長、あれを!」
 隊員の一人が指をさす。その先にあるのは城塞。その周りを囲む城壁の上に、槍を手にずらりと並ぶ無数の馬頭人たち。
「こら物量では勝てんわ」
 思わずトド吉が本音を漏らす。
「ではどうします」
 田地2尉の問いかけは純粋な疑問だった。
「一撃必殺しかないやろな」
「亜空縮滅砲か」
 僕の肩の上でトド吉がうなずく。
「効果7パーセントくらいやったらギリギリ地表でも使えるはずや。ただ問題はエネルギーの充填に時間がかかるんと、射程距離の短さやな。敵にはバリアもあるし、よっぽど近づかんことには無駄撃ちになってしまう」
「徒歩で近づきながらエネルギーを溜めて、って無理かな」
「上から槍の雨が降ってくるわな。重力制御フィールド使いながらエネルギーの充填なんかでけへんぞ」
「テレポートが可能だと聞いておりますが、まずエネルギーを充填してからテレポートしてはどうでしょう」
 と、田地2尉が。しかしトド吉は否定的だ。
「そら無理や。亜空縮滅砲のエネルギー安定させたままで空間転移とか難しすぎる。下手したら暴発するで」
 何か静かだな、と思ったら、巌が明後日の方向を見つめたまま、険しい顔をしている。不愉快な顔と言っても良いかもしれない。
「おい、どうかしたか」
 僕の声に振り返ると、巌は嫌々そうに口を開いた。
「協力できるって言ってるがよ、妖精どもが」
「協力?どんな」
 一呼吸おいて、巌は話し始めた。


「3班は城壁の上の敵を狙撃、1班2班は私と共に突撃する。派手に行くぞ、作戦開始」
 田地2尉の命令と共に、作戦は開始された。隊員たちが叫び声を上げながら城塞に向かって走り出す。それを僕と巌とトド吉は、草むらの中に身を隠しながら見届けていた。
「本当に大丈夫なのかな」
 僕のつぶやきに、トド吉が突っ込んだ。
「しゃあないがな。陽動が要るのは確かやねんから。任せろ言われたら任せるしかないやろ」
「そりゃそうだけど」
 銃声が散発的に響く。バリアがあるのだから、狙撃は本来意味をなさない。本当に目を引き付けるだけの役にしか立たない。僕が悪い訳ではないのだが、何だか気の毒になる。そもそも自動小銃は狙撃に向いているのだろうか。そんな事が気になった。
「よーし、そろそろ終わるぞ」
 巌がそう言ったが、何がどう終わるのかは僕にはさっぱりわからない。見る限り、何も変わった所はない。
「……ま、こんなもんだろ。終了だ」
 巌はうなずいた。
「終了って。本当にこれでいいのか」
「何か不満か」
「いや不満とかじゃなくて、これ本当に敵から見えなくなってるのか」
 そう、妖精の協力とは、僕らの姿を敵から見えなくすることができるということだった。だが僕の目には何かが変わったようには見えない。自分の手足は見えているし、トド吉の姿だって見えている。
「普通の人間の目にゃ消えたようには見えねえだろうな。だが敵さんの目からは消えてるはずだ。少なくとも妖精どもはそう言ってる」
 その妖精の言ってることがどこまで信じられるのか、その判断基準が僕にはないのだ。だから今この状況で敵のいる近くまで走って行くのは正直怖い。だがもうここまで来たら、信じるしかない。
「おっしゃ、ほんなら行くか」
 トド吉の言葉が僕の背を押す。
「エネルギーの充填はどのくらい」
「目標数値の7割っちゅうとこかな」
「了解」
 僕は立ち上がった。そして巌を置いて駆け出した。田地2尉たちは城塞正面で敵の目を集めている。だから僕らは側面に回り込む。草むらの中を、ひたすらに駆ける。城門の開く音がした。横目で見やると、城塞の中から馬頭人がなだれ出てくるのが見えた。響く銃声の数が増える。急がなければ。城壁の上の馬頭人がこちらを見たような気がした。だが槍は飛んでこない。ならば行ける。スピードを上げた。
「もうすぐバリアの縁やぞ」
「了解」
 バリアの縁まで達したら、総転移ウィンドウでバリアを中和し、亜空縮滅砲を撃つ。そういう手筈である。だが。
 草むらの中で、黒い影が動いた気がした。その途端、足に痛みが走る。
「痛っ」
 僕は思わず倒れ込んだ。そして痛む足を見る。そこには。蟻がいた。シルエット的には確かに蟻の姿である。ただ大きさがコーギー犬ほどもあり、その口には犬の牙が生えていたが。周囲の草むらがザワザワと揺れる。犬の口をした巨大蟻の群れが姿を現した。
「ミルミドン蟻は妖精の匂いに敏感なのさ」
 その声に振り仰げば、上空から僕を見下ろしているのは、魔女。
「妖精の力を借りて姿を消すとはよく考えた。あたしも見逃すところだったよ。だがあの方にはお見通しだったようだねえ」
 万事休すか。しかしそのとき、僕の耳元でささやく声が。
「菊弥、満タンやぞ」
「でもバリアが」
「かまへん、そのまま行ったれ」
「行ったれー!」
「行ったれー!」
 矢のように飛んだトド吉のファミリ―たちが、足のミルミドン蟻を跳ね飛ばした。僕はその勢いのまま身を起こし、城塞に両手のひらを向ける。
「八つ裂きにしな!」
 魔女の声が飛び、蟻たちは一斉にジャンプした。けれど十姉妹ファミリーの高速ガードがそれを寄せ付けない。
「効果7パーセント、発射」
 僕の両手がビリリとしびれた。その瞬間、城塞は上半分が音も光もなく消え去った。城壁の馬頭人たちと共に。
「くそ、やっぱり根こそぎっちゅう訳には行かんかったか」
 トド吉は悔しがったが、魔女の顔の色を失わせるには充分だったようだ。あんぐりと口を開け、愕然と城塞の廃墟を見つめている。
「お父ちゃーん……」
「そろそろ限界……」
 十姉妹ファミリーもこれ以上はミルミドン蟻を防ぎきれないようだ。
「重力制御フィールド展開」
 僕は右手のひらを蟻たちに向けた。フィールドを水平に、そして垂直に伸ばす。ミルミドン蟻の群れは宙に浮かんだ。僕は手をすぼめ、フィールドをすり鉢状に変形させる。蟻はその底に溜まった。そして僕は左手で中空を四角く切った。
「総転移ウィンドウ」
 重力制御を解く。虚空に四角く開かれた窓に、蟻たちは落ちて行った。
 トド吉のファミリーが、僕の肩に戻って来た。僕は魔女を見上げた。宙に浮きながら、いまだ呆然と城塞を見つめている。
「もう終わりだ」
「かもしれないね」
「あんたも自分の世界に戻ったらどうだ」
 魔女は小さく鼻を鳴らした。
「おや、見逃してくれるのかい。優しい子だこと。だが、浅いね」どこかで聞いたセリフだ。「浅くて薄っぺらい優しさだ。あたしにはね、最初から戻る世界なんてないんだよ。おまえに力を貸した妖精たちと同じさ」
 僕にはその言葉の意味するところがわからなかった。
「何だい、知らなかったのかい。妖精はね、本来小さなものしか隠せないんだよ。自分の体とか、人間の赤ん坊とかね。じゃあ大人の人間のような大きなものを隠すにはどうしたらいいと思う。自分をすりつぶすのさ。すりつぶして、血と肉で覆い隠す。おまえには見えないんだね、妖精の血と肉で覆いつくされた、血みどろの自分の姿が」
 魔女はあざ笑うかのようにそう言った。だが僕は不思議なほど冷静だった。そのとき僕の脳裏にあったのは、あのときの巌の険しい顔。あいつ、知ってやがったな。
「自分をすりつぶした妖精はどうなる」
「風になり、音になる。ただの自然現象になり、もう二度と妖精の姿には戻れない」
「あんたも自分をすりつぶしたのか」
「自分の体、自分の心、それと同じか、それ以上だと思っていたものを、みんなすりつぶしたよ。そうまでして、生きたかった。そうまでして、新しい世界を見たかった。おまえにはわからないだろうね」
 確かにわからない。どう同情していいのかすら思いつかない。
「その浅い自分を大事にしておあげ」
 魔女の顔に微笑が浮かんだとき。上半分を消し飛ばされた城塞の真ん中から、天に向かって雷が走った。それは樹海の地下で見たものを思い起こさせた。
「トド吉、亜空縮滅砲は」
「いますぐやと、効果3パーセントがせいぜいやな」
 城塞の壁を突き破って、獅子の前脚が現れた。デカい。この時点でデカさがわかる。樹海で見たときよりも何倍もデカい。次に現れたのは獅子の頭部。そして山羊の頭、山羊の後脚、蛇の頭部がついた尾が姿を現す。巨大なキマイラは全身から稲妻を発しながら、城塞の上に全身を見せた。その背中に僕の目は止まった。キマイラの背中から生えている山羊の頭につかまり立っているのは、ウェルギリウス。その隣にいるのは、大輪心だろう。そして背後には黒馬グラントがいる。
 僕は飛んだ。右手のひらを斜め後ろに向けて。重力制御フィールドは僕の体を風に舞う木の葉の如く持ち上げた。一気に城塞の門――もやは門の姿は留めていないが――の前に達する。このままでは田地2尉たちが皆殺しにされるだろう。僕が守らなければ。だがその思いが勝ち過ぎたのか、僕はバランスを崩してしまった。
――飛ぶのは簡単だが、安全に降りるのは難しい――
 伝蔵の言葉を頭によぎらせながら、僕は草むらに墜落した。


 人狼は満月の夜、狼に変身する。ただそれだけだ。悪魔の下僕でも吸血鬼の眷属でもなく、ましてや不死身などではない。銀の弾丸を使わずとも死する。その証拠に、魔女狩りの嵐が吹き荒れたヨーロッパ中世の頃、時を同じくして人狼狩りも猛威を振るい、おびただしい数の『人狼』が殺されている。

――そうだ、人狼狩りに遭った者たちのほとんどはただの人間だったが、本物の罪なき人狼たちも虐殺された。ただ人狼であったというだけの理由で、老人も、女も、子供も、神の名のもとに皆殺しにされたのだ。だから私は――

 神を呪ったのか。

――そうだ、呪った。呪ったとも。私が時を超え、世界を超え、ようやく巡り会った、私の愛したすべてを奪った、神という存在を呪った。だが気づいたのだ、いくら神を呪っても、それは復讐にはならないと。神を信じる世界そのものを消し去らねば、神の存在は揺るがないのであると。だから私は――

 神の支配しない世界を創ろうとしたのか。

――そうだ、だから神の支配せぬ地を探した。だが、ただ単に神が支配せぬ地では意味がなかった。なぜなら神のいない地とは、人のいない地であったからだ。それでは世界を変えられない。世界を変えるには、多くの人が暮らし、そして叶うことなら、ただ一つの神の存在を知りながら、なおかつその支配を受けていない地であれば理想的だった。そして見つけた。時を超え、世界を超え、ようやくここにたどり着いたのだ。だから私は――

 神と同じことをしたのか。

――そうだ、戦いは勝たねば意味がない。勝利のためには情愛はいらない。勝利のためなら神ともなろう、悪魔ともなろう。世界のすべてを敵に回しても構わない。求めるのはただ勝利のみ。だから私は――

 勝利のみを望んでは、神に勝利することは叶わぬ。

――黙れ――

 ただ己を神の位置に置き換えるだけ。それは神への敗北。

――黙れ、黙れ、黙れ――

 神は一にして全。全にして一。あまねく場所に立つ神々と、ただ一つの神との間に、差も違いもない。それは人の目には見えぬことわり。見る必要のない理。見えぬが不幸なのではない。見えると思う傲慢さが不幸である。

――おまえは、神なのか――

 神には非ず。神は存在であり非存在である。ここにあり、どこにもない。神は常におまえと共にあり、同時におまえは永遠に神に触れることはない。神はおまえを見つめ、同時におまえなど気にも留めない。おまえは神を憎み、しかしおまえは神を知らぬ。神を知らぬ大地を探す必要などなかった。おまえこそが神を知らぬ大地である。

――では、おまえは誰だ――

 我が名は……地球。

【菊弥さん!】
 右手を顔の前に出す。重力制御フィールドは、頭から落下する僕の身体を支え、地面への激突を食い止めた。
「リリイ、ありがとう。助かった」
【どういたしまして】
「おまえ、ええ加減にせえよ、ワイらまで死ぬとこやったやんけ」
「悪い。でももう大丈夫」
 トド吉に謝りながら地面に降り立つと、同時に重力制御を解除、左手のひらをキマイラに向けた。
「空間干渉壁」
 これで稲妻は防げるはずだ。だが次の手がない。どうする。
「頂さん」
 田地2尉が駆け寄ってくる。
「すぐ全員僕の後ろに回ってください。稲妻が来ます」
 田地2尉はうなずき、号令をかけた。
「撤収!」
 しかしその時点で立って歩けるものは10人といなかった。累々と横たわる死体は馬頭人のものだけではない。だが感傷に浸る余裕などない。キマイラが大きく輝いた。次いで衝撃。フルパワーの空間干渉壁を震わす幾条もの雷。そして轟音。鼓膜を破壊せんが如き強烈な音圧。雷鳴は空を裂き、地を薙ぎ、横たわるむくろを敵味方の区別なく、情け容赦なく粉砕して行く。圧倒的な音と光の激流に、僕らは防戦一方となった。3秒あれば。キマイラの攻撃に3秒の空白があれば、全員を転移させられるのに。その僕の痛切な願いが、天に聞き届けられたのか。
 それは落ちてきた。球だ。巨大な鋼鉄の玉。僕らとキマイラのちょうど真ん中に、まるで通せんぼをするように、大空から地響きをたてて落下した。キマイラの雷がさえぎられる。今だ、僕らは後方に転移した。巌たちと合流する。歓声に迎えられた僕らを、しかしキマイラの放つ電撃の音が心胆寒からしめた。
 稲妻は巨大な玉に集中攻撃をかけているようであり、それは同時に玉に吸い取られているようにも見える。玉はしばらく無反応だったが、やがてその表面に亀裂が走った。いや、違う。開いている。玉の中に閉じられた何かが、解放されているのだ。最初に見えたのは、四角い柱のようなもの。玉から突き出るように持ち上がると、内側に折りたたまれていた6本の脚が開かれた。そして柱は位置を下げ、6本のやや短い脚が地面に着くと、逆に玉を持ち上げた。玉は変形し、あたかも人の上半身であるかの如き形へと姿を変えた。その巨大な姿はまるで、短い6本脚を持った、太っちょのケンタウロス。
【やっと来ましたね】唖然とする僕の頭に、大峰さんの声が届いた。【諜報部直属の機甲部隊です。味方ですよ】
「味方だそうです」
 僕の言葉に、小隊の一同は湧いた。けれど僕の気持ちは晴れなかった。
 ケンタウロスは攻めた。唸りを上げて拳を振るった。だがそれはキマイラに届かず空を切る。見えない壁があるようだった。キマイラの稲妻。しかしまったく通じない。ケンタウロスの目からビーム。敵を貫くはずだった緑色の光線は、曲線を描き地面をえぐった。沸騰し溶岩化する大地、湧き立つ炎。赤々としたそれはキマイラとケンタウロスを下から照らした。
「リリイ」
【はい】
 リリイは不思議そうな声で応じた。
「あの馬、もう一度出せる」
 あの馬、それはあのとき恵海老人を助けた、あの白馬。
【出せますけど、どうするんですか】
「トド吉」僕は答えず、肩の上の十姉妹に語りかけた。「亜空縮滅砲にエネルギー充填」
「……マジか」
 その心底嫌そうな顔。だが驚いてはいない。予想はしていたのだろう。
「マジだよ」
「マジかあ、ワイ寝てないのに、マジなんか」
「おい馬鹿野郎、何考えてやがる」
 巌が僕の前に立ちはだかるように立った。爆発音が響く。ケンタウロスが背中のミサイルポッドからミサイルの雨を降らせていた。
「保険だよ」
「保険だあ?」
 爆炎に包まれるキマイラ。しかしその炎は渦を巻き、やがて地面の炎と合流し、そしてキマイラの背中に生えた山羊の口へと吸いこまれてしまった。
「あのウェルギリウスが、このままやられるとは限らない。だから保険をかけなきゃいけない」
「だからって、おめえが行くこたあねえだろう。宇宙人の総本山が動き出してるんだろうが」
 ケンタウロスが両手を開いてキマイラに向けた。城塞の残骸が跳ねるように上空に舞い上がった。重力制御フィールドだ。
「僕にしかできないことがあるなら、僕が行くしかない」
「ふざけんな、調子に乗るんじゃねえぞ、このボンクラが」巌が腕をつかむ。「てめえにできる事より、できねえ事の方が多いってことを理解しやがれ。まして、おめえ如きが動いたところで、大勢に影響なんざねえんだよ」
 キマイラの身体が持ち上がって行く。馬頭人すら持ち上がらなかった僕のフィールドとは別物のようだ。出力が違うのだろうか。
「影響が無いのなら無いで構わないよ。保険なんだから」
「おめえな」
 高く持ち上げられたキマイラが、突然地面に叩きつけられる。重力を急激に増加させたのだ。衝撃が振動となって地面を伝わり、風となって空気を伝わって来た。
「薄っぺらい義侠心さ。笑っていいぞ」
「うるせえよ、面白くもねえもんを笑えるか。せっかく助かった命だぞ、なんですがりつかねえ」
「縋りつくさ。死にたくはないからな。ただ縋りつき方が、おまえとは違うだけだ」
 そのとき、僕と巌の前に、白馬がその輝く姿を現した。中空から予告もなく。
「行くのか」
「ああ、ちょっと行ってくる」
 巌は僕の腕を放した。白馬が膝を折る。その鞍もない背中に僕は乗った。
 ケンタウロスは再び背中からミサイルを放つ。同時に目からビーム。キマイラは灼熱の業火に包まれた。
 白馬は走り出した。赤く燃える城塞跡に向かって。
「トド吉、亜空縮滅砲は」
「今やと効果5パーセントいうとこかな」
「悪いな、道連れにしちゃって」
「ワイはこれが終わったら、今日はもう何も仕事せんからな。言うとくぞ、何もせんから」
「了解」
 草原の上を吹き荒れる熱風。その只中を突っ切って走る白い馬。馬の持つ力か、炎の熱は僕にまで届かない。
【菊弥さん】
 リリイの声が頭に響くと同時に、白馬は足を緩めた。ケンタウロスのミサイルとビームの攻撃はまだ続いている。その紅蓮の炎を背に、一つの影がこちらに近づいていた。それは黒い影。黒い馬。グラントだ。
「グラントが出て来れるってことは」僕は噴き上がる炎を見つめた。「あの中でウェルギリウスはまだ無事だってことだよな」
【気をつけなさい】とミヨシの声。【グラントの背中に騎士が乗ってるわ】
「騎士の中身は」
【中身は……あるわね】
「やっぱり」
 僕は舌打ちをした。いまグラントの背中に騎士が乗り、その中身が空洞ではないとするならば、解答は1つ。そこにいるのは大輪心だ。
 白馬は右に曲がった。グラントを回り込もうとしたのである。しかし当然の如く、グラントはついてきた。黒馬は白馬と並走する。仮面をかぶり鎖帷子をまとった、小柄な馬上の騎士が剣を抜いた。
「もうやめろ!勝負はついているだろう!」
【笑止。本当に勝負がついているのなら、何故あなたがここにいるのです。それこそがまだ何も終わっていないことの証】
 グラントのテレパシー。さすがにミサイルの爆撃音が間断なく響くこの場所で、音声による会話は無理のようだ。いや、だがそれならば。
(大輪心は死の絶叫を使えない)
【よくお気づきで。けれどそれに気づいたあなたはどう戦います。気づかなければ私ごと吹き飛ばせていたでしょうに】
 確かに亜空縮滅砲を使えば、一瞬で片が付く。けれどそれはできなかった。
 そのとき、僕の周囲に淡い光がまとわりついた。1つ、2つ、3つ、そしてたくさん。一瞬僕の全体は光に包まれた。その光がすべて消えたとき、僕は真っ黒な甲冑をまとっていた。右手に太刀を握って。
【おのれ、妖精ごときが余計な真似を】
 しかしこれで互角の立場、とは行かない。何せ僕は剣を振るったことなど一度もないのだから。一方相手は、中身が大輪心だとはいえ、実際に騎士を動かしているのはグラントの念動力だ。そしてグラントは、少なくとも恵海老人と戦った経験を持つ。経験値では向こうが上だ。
【それがわかっているのなら】騎士は剣を振り上げた。【もう諦めなさい!】
 振り下ろされたその剣を、僕の左手の太刀が受けた。左手でも抜けるものなのだな、と僕は他人事のように感心した。いや、実際他人事だった。いま僕の身体を動かしているのは僕の意志ではない。
【体、しばし借りるぞ】
 それは伝蔵の声。グラントは反応した。
【あのときの鳥さんですか。とどめを刺しておくべきでしたね】
 騎士の剣がひるがえる。僕の太刀がきらめく。ミサイルの巨大な爆炎を背に、僕らの周囲に小さな火花が散り乱れる。均衡状態が続く。だが運動不足の僕の細腕、そう長くはもつまい。早々に決着をつけなければならない。しかし僕は決断できずにいた。いま僕の双肩には一億人超の人々の命と人生がかかっている。その前にあっては、小さな犠牲はやむを得ない。そのはずだ。けれど、大輪心の命を奪うことにまだ躊躇ためらいがあった。浅い。薄っぺらい優しさだ。つぐみや魔女にならそう言われることだろう。それでも。
【不愉快なのですよ、この偽善者が】
 グラントは怒りに任せ、大きく踏み込んできた。騎士は剣を振りかぶり、一撃必殺を狙う。いまだ。
「騎士を狙って!」
 伝蔵に操られる僕の腕は、馬上の騎士めがけて突きを入れた。その瞬間、グラントは身体をよじる。僕の太刀は大輪心をかばったグラントの首を深々と貫いた。グラントは首に太刀を残したまま、数歩ヨロヨロと後ずさる。そして頭を下げ、口を開けると、大量の血を吐き出した。大輪心は背中を飛び降り、兜をかなぐり捨てると、グラントに顔を近づけた。何かをつぶやいているが、爆撃音で聞こえない。
【……やってくれましたね】
 頭に響くテレパシーも弱々しくなっている。
【私が心を読んでいることを……逆手にとって……まさかこんな安易な手に】
「僕に子供を殺せる訳がないだろ。それはあんたも同じじゃないか」
【確か……に】
 グラントは歯を剥いた。血にまみれた赤い歯を。そして、どさりと重い音を立てて、横向けに倒れた。グラントの視線は虚空をさまよう。
【あとは……頼……む】
 冷たくなって行くグラントの体にすがりつき泣く大輪心の隣に影が立った。森の魔女。それを見て、僕は馬を走らせた。もはや欠片も残っていないであろう城塞跡に向かって。


 ケンタウロスのミサイル爆撃は続いている。いったい何発のミサイルが積まれているのだろう。
【積まれてはいませんよ】と、大峰さんの声。【あのミサイルポッドは転移装置ですから、母艦の格納庫にあるだけのミサイルが撃てます】
 それにしたって撃ち過ぎだろう、と思わなくもないが、言い換えればまだそこに敵がいるから撃つのをやめられないのだ。この爆炎の向こうにまだ、キマイラが生きている。それはすなわち、ウェルギリウスが生きているということだ。
「エネルギー!充填完了!撃てるぞ!」
 ミサイルの爆裂音と爆風に負けじとトド吉が耳元で怒鳴る。僕はうなずいた。返事をしても聞こえる状態ではない。僕は左手のひらを前に突き出した。
「空間干渉壁」
 見えない壁を展開させると、僕は白馬を前進させた。壁の高さは4メートル程に設定してある。熱風はそれより上を通り過ぎて行くから火傷はしないが、気温の上昇はどうしようもない。汗をだらだら滴らせながら、僕たちは爆炎に近づいた。
【何をしている!】聞き慣れない厳しい声が脳内に響く。どうやらケンタウロスの乗組員らしい。【ここは危険だ、とっとと下がれ】
「あ、いや、お気遣いなく」
【そんな訳に行くか!】
 そりゃまあそうかもしれないな、と思いながら、たずねてみた。
「敵は今どうなってるんですか」
【……わからん】
「わからない?」
【そこにいることは間違いない。生体反応も消えていない。いや、生体反応が大きくなっている】
「それ攻撃しちゃダメなやつじゃ」
【だ、だが敵に反撃の隙を与える訳には行かん】
「充分な距離を取って、一度攻撃を止めてみては」
 しばしの沈黙。相談でもしているのだろうか。そして。
【いいだろう】
 案外素直だった。
 ケンタウロスはミサイルを放ちながら後方にジャンプした。1跳びで百メートルほど下がる。もう1跳び。2百メートルほど下がってケンタウロスは両手を前に突き出した。重力制御フィールド展開、ミサイル発射を停止。草原に静寂が戻った。風の音が聞こえる。炎は消え去り、煙の向こうにはキマイラの姿が……なかった。そこにあったのは赤い塊。巨大で、炎の色の光を放つ、卵のような、いや違う、真ん中が少しくびれた、ゆるやかな数字の8のようなその形は。
まゆだ」
 その炎で編まれたような紅蓮の色の大きな繭は、もはや城塞の跡形も残らない窪んだ大地に直立していた。
「トド吉、いける?」
 亜空縮滅砲が通じるのか、一瞬不安にかられたのだ。それに対しトド吉は。
「いける……はずやけど、何とも言えん。構成物質が特定でけへん」
 より一層不安を掻き立てるような返事をしてくれた。そのとき。
 音もなく、ひびが入った。繭の頂点から底部へと、稲妻の速度でひびが入ったのだ。黄金色の輝くひびが。そしてホウセンカの種が弾けるが如く、繭は勢いよく開いた。
 翼が開いた。巨大なコウモリのような翼が。体を伸ばした。長い蛇のような体を。二本の腕があり、脚はない。全身がウロコに包まれ、頭上には棘がある。頭部は蛇のようで、しかし両眼は立体視を可能とすべく、前に向かってついていた。その姿はもう、誰が見ても。
【ドラゴン】それはパスタの悲鳴にも似た声。【キマイラをドラゴンに変貌させるなんて】
 ドラゴンの口が開いた。赤い炎が吐き出される。炎は一直線にケンタウロスに向かった。だがケンタウロスは重力制御フィールドを展開している。炎は届かない、はずだった。しかしはためく赤い帯は、そこにいかなる障壁も存在しないかの如く、ケンタウロスの体を焼いた。けれどケンタウロスは動揺しなかった。分厚い超金属の装甲は、ちょっとやそっと火で焼かれたくらいではびくともしない。目からビームを発する。それはドラゴンを貫く、かに見えた。ビームはドラゴンの胸に穴をあけた。だが背中に抜けはしなかった。ビームが止まると、瞬時に穴は塞がった。そしてドラゴンは、少し大きくなった気がした。ドラゴンの吐く炎の勢いが上がった。炎の色が黄色くなる。ケンタウロスはミサイルを放った。全弾命中。爆炎が広がる。しかしあたかもフィルムの逆回転を見るかのように、爆炎は小さくなった。それがドラゴンのウロコの隙間に吸い取られたように見えたのは、僕の目の錯覚ではない。その証拠に、今度は明らかにドラゴンは大きくなった。
「あかん、熱エネルギーを喰っとるんや」
 トド吉の声が震えている。どうやらそれほどの状況らしい。ドラゴンの吐く炎の色がまた変わった。黄色から青白い色へ。それは、鉄を溶断するガスバーナーの炎の色。
「ねえトド吉、思うんだけど」
「何や」
「あのケンタウロスは亜空縮滅砲は持ってないの」
「当たり前やろ。亜空縮滅砲は本来小惑星の破壊とか鉱山の掘削とかに使う、言わば建設機械や。それより破壊力の強い兵器はナンボでもある。まあ破壊力が強すぎて、惑星表面では使えんことが多いけど……あ、そうか!」
「亜空縮滅砲は熱を出さないよね」
「そうやった。コロッと忘れとったわ」
「という訳で、そこのデカブツに乗ってる人、聞こえますか」
 一瞬遅れて反応があった。
【何だ、こっちはそれどころじゃ】
「亜空縮滅砲を使います。ドラゴンの動きを押さえてください」
【か、簡単に言うな】
「ミサイルもビームも効きませんけど、いいんですか」
【……一度だけだぞ】
 素直である。
 ケンタウロスは地響きをたてて走った。ドラゴンの青い炎に焼かれる胸板が赤く変化して行く。ケンタウロスは両手を伸ばす。けれどその腕の間を、するりとドラゴンは潜り抜け、上空にその身を逃した。刹那、その長い尾がケンタウロスに伸びる。鞭のようにしなったそれは、ケンタウロスの赤くなった胸を打った。強度の落ちた装甲は変形し、へこんだ。そして青い炎をケンタウロスの頭部に叩きつける。胸部に比較して装甲の薄い頭部は瞬時に赤く輝き、目が爆発した。だが同時に、ケンタウロスの腰の部分から煙が噴き上がった。ケンタウロスの腰から上、人の形をした上半身が空に舞い上がる。ドラゴンの吐く炎を切り裂き上昇すると、頭部をパージ、すると中から無数のワイヤーが飛び出し、ドラゴンに絡みついた。ドラゴンはもがき、ワイヤーを焼き切ろうとする。しかし数本を切ったところでケンタウロスの上半身に組みつかれてしまった。ドラゴンは羽ばたこうとしたものの、絡みついたワイヤーが邪魔をする。さしものドラゴンも耐え切れず、地面へ向かって降下した。
「一発勝負やからな!」
「了解!」
 落ちてくるドラゴンを見ながら、僕は白馬を走らせる。そのとき。ドラゴンと目が合った。ドラゴンが口を開くより、僕が左手で宙に四角形を書く方が早かった。
「総転移ウィンドウ!」
 僕に向けられたドラゴンの炎は、四角い窓に吸い込まれた。重力制御を振り切った魔性の炎も、この窓を突き破ることはできなかったようである。
 ドラゴンとケンタウロスの上半身は回転しながら落下した。そして落雷の如き轟音と共にその身を地面に叩きつけた。その瞬間、ドラゴンの全身は青白い輝きに満ちた。
「あかん、全身から熱放射してワイヤーを一気にぶち切るつもりや」
「そうはさせるか」
 もうドラゴンまで目と鼻の先。馬の速度を上げる。
「頭を狙え」
「効果は」
「7パーセントいける、満タンや」
 ドラゴンは僕をにらみ、叫び声を一つ上げた。白馬は急停止、僕の両手は跳ね上がった。手のひらをドラゴンに向ける。
「発射!」
 両手がビリリと痺れた。音も光もなく、ドラゴンの胸から上、そしてケンタウロスの腕と胸の一部が丸くえぐられ、消滅した。
 そのとき、僕は引っ張られた。上に。僕はそこにいて、けれどももう、そこにはいなかった。


 そこは星の世界。延々広大なる光と闇の海を僕は漂っていた。頭の上に星が流れる。僕は知っていた。その流れる星のことを。長い尾をき、いつまでもいつまでも流れ続ける星のことを、僕は知っている。そう思った瞬間、僕はそこにいた。流れる星の傍らに。黄金色の光を放つ流れ星。その核にいる者は、人の姿をしていた。いや、違う。姿は人に似ているが、首から上は人ではない。狼だ。その狼の顔が、こちらを向いた。

 こんなところまで追いかけてくるのか。君もしつこいな。

 どこに行くつもりなのか。どこまで行くつもりなのか。

 世界は必ず分岐する。君と出会った世界があるなら、君と出会わなかった世界もあるはずだ。そんな世界を探すとするよ。

 そしてまた神と戦うのか。

 そうだ。

 それは無駄だ。地球が、宇宙が、この世界が、あなたを受け入れない。

 世界は必ず分岐する。私を受け入れない世界があるなら、私を受け入れる世界もあるはずだ。必ずあるはずなのだ。

 それを見つけるまで、苦難の旅を続けるというのか。

 そうだ。

 心がひび割れ、すり減り、朽ち果ててもか。

 世界は必ず分岐する。そして世界の数は無限だ。私のいるべき世界はどこかに必ずある。いつか必ず見つける。それが私にとって、生きるということだ。では君にとって、生きるとはどういうことだ。

 僕にとって。生きるとは。生きるとは。

 君は今しばらく、地球と共にありたまえ。星の海を旅するには、君はまだ浅い。いつかまた、君がその資格を手にしたなら、どこかで巡り会うこともあるだろう。その日を楽しみにしているよ。

 最後に一つ、聞きたい。

 何かね。

 ワンドレビリア、ポッツォーリの浴場、ノート城の岩、バンシー、グラント、スコットランド王の鳥刺し、なぜ中世の伝承をなぞった。

 この期に及んで何を聞くかと思えば、そんなことか。それは中世が憎かったからさ。憎いからこそ、いまだ中世の空気の残る君の国に、私の知る中世を復活させたかったのだよ。死者を復活させ、その上で御する。どこの世界にもある呪術の基本的な考え方だ。さあ、もうこのくらいでいいかな。それでは。

 流星は速度を上げた。あっという間に僕の視界から遠ざかってしまった。僕はひとり、星の海に漂う。ただ一人。そうだ、一人ぼっちだ。僕はどうすればいいのだろう。戻らなければ、と思う。だがどこへ。どうやって。僕の思考は拡散する。深淵が僕の内側に入り込もうとする。怖い。寒い。寂しい。だがそう考える僕は存在するのか。果たして僕は本当にここにいるのか。それとも。

「ああもう、いい加減にせんか」闇の中から声がした。「まったくおぬしは毎回毎回、戻れもせんのに飛び出すだけ飛び出しおって、少しは後先のことも考えろ。これで何度目だと思っている。経験を記憶に残す努力をせい。と言うても無駄なのだろうな。おそらくおぬしは目が覚めると、このことを綺麗さっぱり忘れてしまうのだろう。厄介なことよ。あやつの言うた通りだ。おぬしは星の海を行くにはまだまだ浅い。当分は地べたを這いずり回っておれ」
 僕の視界に一瞬映ったのは、ムク犬の如き子供。


「菊弥!」
 耳元の声に顔を向けると、肩の上でトド吉と6羽のファミリーたちが、目を丸くして僕を見つめていた。
「どないしたんや、ぼうっとして」
「ああ、いや。僕は何時間くらいぼうっとしてた」
「何言うてんねん。1、2秒呆けとっただけやがな。大丈夫か」
 頭が疲れている。まるで一晩徹夜したかのような疲れ方だ。
「て言うか、見てみい、ドラゴン倒したで。ウェルギリウス倒したんやで。一件落着やねんで」
 そうだ思い出した、僕らはドラゴンを倒した。ウェルギリウスに勝ったのだ。巌が、田地2尉が、他の隊員たちが、笑顔で駆け寄ってくる。でも何故だろう、僕は素直に喜ぶ気にはならなかった。

◆◆◆◆

 6枚切りのトーストを2枚食べ終わって、ぬるくなったコーヒーを飲みほして、時刻はそろそろ午前6時半。さて、鳥部屋のみんなの世話だ。
 いつもなら賑やかな鳥部屋だが、今日は静かである。トド吉がまだ眠っているからだ。一昨日から寝ずに働き詰めだったのだから、今日くらいは朝寝させてあげよう。みんなそういう気持ちだった。僕もみんなに声をかけず、無言で餌と水を替えて行く。でもそれが何だか無性に可笑しい。僕はニヤニヤ笑ってしまい、それはみんなへも伝染した。最後に伝蔵のケージの餌と水を替えているとき、僕たちは笑い声を漏らさないよう、こらえるのに必死だった。


 客室に向かうと、オカメインコのマルコはまだ少し不安げに、けれど元気な顔を見せてくれた。昨夜はパニックも起こさず、静かに寝ていてくれた。餌も減っているし、糞も出ている。特に心配な様子はない。
 客室には小型のテレビが置いてある。マルコはそうではないが、人間の声など生活音がないと餌を食べない鳥もいる。そのためもあって日中はFMラジオを鳴らしているのだが、それではお気に召さない鳥もいるのだ。
 普段はしない事だが、テレビをつけてみた。各局通常通りの放送をしているようで、しかし内容はどの局も昨日起きたことばかり。自分たちの商売道具が3千万人の人間をマネキン化させたことをどう思っているのかは、特に読み取れなかった。まあ、今回テレビ局は被害者である。その立場に甘んじていても、それはそれで良いのかもしれない。
 マネキン化された3千万人にかけられた強制催眠は、早ければ昼頃には、遅くとも夕方までには解けたとみられる。滝緒は昼過ぎに動けるようになったと、香春に聞いた。新聞からの情報によれば、昼から夕方にかけて救急車の出動要請で、全国の消防署の電話回線はパンクしたらしい。医療機関も全国的に満員となり、被害者の大半は自宅療養を余儀なくされた。特に目のトラブルが多いとのこと。何時間も目を見開いたままで固定されていたのだから、さもありなん。夜になっても催眠が解けないという事例もわずかだが報告されているようだ。
 政府の緊急対策本部は懸命に頑張っているとは思うのだが、やはり被害者の数が多すぎて手が回っていない。テレビは被害者の怒りの声ばかりを拾っている。野党はここぞとばかりに政権叩きに必死だ。あのとき首相が言っていたように、今の政権は吹っ飛ばされてしまうのだろう。その流れはもう変えられない様に思える。しかしあの会話が昨日なのだということに気づいて驚く。もう何か月も前のことの様だ。
 昨日異界から戻ってからは首相とは会っていないが、大峰さんがメッセージを受け取って来てくれた。それによると、事件の詳細は公表しないつもりらしい。電波ジャックをしたテロリストを自衛隊の特殊部隊が殲滅した、そのような内容の発表になるだろうということだった。確かに、時空渡航者の大魔導士を宇宙人の超技術で撃退した、なんて話をして、いったい誰が信じてくれるのか。今はまだその時ではない気がする。夏浦首相はまだ若い。第2次政権もあるだろう。その時まで、僕らはまた静かに日々を過ごそう。
 不意にマルコが歌い出した。機嫌の良さそうな、口笛のような歌声。マルコはテレビが好きなのだろうか。カルテに書いておこう。


 時刻はそろそろ12時になる。外は強い雨だ。雨だれが裏のペンキ缶を叩く音がしている。FMラジオはヒットチャートを流していたが、どれも知らない曲ばかり。
「あ、ほら、この曲ですよ」リリイが言った。「カモミールスーパーマーケットの新曲」
「ああ、これか」
 確か加津氏からダウンロード用の無料クーポンをもらったはずなのだが、どうしたっけかな、あれ。
「菊弥さん、それは酷いですよ」
 パスタに叱られてしまった。しかしそうは言われても興味がないものは仕方ないよなあ。そう思ったとき、ポーン、とチャイムが鳴った。
 鳥部屋から顔を出すと、玄関の風除室にレインコート姿の滝緒が立っていた。珍しくサングラスをかけている。僕が風除室のロックを開けて招き入れると、滝緒は急に不機嫌になった。
「午前中から診察してくれる眼科があるのよ」滝緒はむくれながらそう言った。「雨の中、日焼け止め塗りたくって8時前に病院に着いて、目薬もらうだけで今までかかったの。満員御礼もいいとこ。信じられない」
 そりゃまあ3千万人だからねえ、と言いたかったが、言えなかった。滝緒が僕の首に両腕を回してきたからだ。そして滝緒は僕の頭を胸に抱きしめた。
「ありがとう」
 それだけを言って。中腰で滝緒の胸に顔を埋めて、僕は困った。顔が動かせない。
「礼を言われるようなことは何もしてないよ。僕はただの端末だし」
「知ってるよ。それでも、ありがとう。何よりここに帰って来てくれて」
 滝緒は僕の頭のてっぺんに頬を乗せた。ますます動けない。
「よう、元気そうじゃねえか!」どこから湧いたのか、巌が立っていた。「何だ、またたきおんかよ」
 あからさまに残念そうな顔の巌だったが、僕としては助かった。驚いた滝緒が放してくれたからだ。ちょっともったいない気持ちもなくはないが。
「何だとは何よ。あんた何しに来たの」
「助けてもらっておきながら、その言い草。聞き捨てなりませんね」
 巌の後ろには当然のように香春が立っていた。しかし滝緒は目も向けない。
「助けてもらったお礼は菊弥に言いました」
「そんな当たり前のことは自慢になりません」
「だったら何、ついでに巌にも感謝しろって言うの」
「違います。ついでではなく、心から感謝なさい」
「はいはいアリガトウゴザイマシタ、これでいいんでしょ」
「このクソ女ァ!」
 掴みかからんとする香春を巌と僕が食い止めた。そしてもう一人、香春を止めようとする3人目の姿が。
「こうちゃん、危ないよ」
 黒いメイド服に黒いアームカバー、黒の手袋、黒のストッキングを身にまとい、黒いフルフェイスのヘルメットをかぶった小柄な見慣れぬ人影の、しかし声には聞き覚えがあった。
「あれ、白石さん?」
「ええっ、何でわかったんですか」
 巌に負けず劣らずの、全身黒づくめの白石さんは、あたふたと手を動かした。
「いや、そりゃあわかる」
 いかに僕とて苦笑する。
「白石さん、外に出てきて大丈夫なの」
 覗き込む滝緒に、白石さんは何度もうなずいた。
「は、はい、紫外線さえカットすれば。外にも慣れなきゃいけないので」
「へえ。白石さんにも黒着せるんだ」
 滝緒の切れ長の目で見つめられて、巌は眉を寄せた。
「うちの家政婦は基本的に黒だ。仕方ないだろ」
「白石さんなら白が似合うと思うんだけどなあ」
「おめえは何が言いたいんだよ」
「べーっつにい」
 香春は手指をワキワキと動かす。
「巌さま、お放しいただければ即行でこの女の息の根を止めますが」
「いいから、おめえは黙ってろ」
「て言うか、そもそもたきおんも巌も、何しに来たの」
 その僕の問いに、滝緒は驚いたような顔を見せた。
「あら大変、すっかり忘れてたわ。ねえ菊弥、最近この近くの山に天狗が出るって話知ってる?」
「何だ、おめえもかよ」巌の方は本当に驚いているようだった。「鼻はでかくないっていう話だ」
「そう、すっごいイケメンだって」
 二人が僕を見つめる。何を言いたいのかはだいたいわかった。
「了解。話してみるから詳しいこと聞かせて」
 まったく昨日の今日で。僕は一つ、ため息をついた。


 午後4時半、傾いた陽が影を伸ばし、人々がそろそろ動き出そうかとする頃合い。バイオカラスの声が聞こえる。まだねぐらに帰るには早いか。タイマーは客室を消灯した。常夜灯が灯っていることを確認して、僕は客室の扉を閉めた。今日は来客の予定はない。玄関も閉めてしまっていいだろう。玄関ドアの鍵を閉め、風除室も施錠し、玄関ホールの照明を落とした。そして僕は鳥部屋のドアを開けた。
「よし、揃ったな」ブルーボタンの伝蔵がうなずいた。「では第155回定例会議を始める。議長は我、伝蔵が務める。議題は件の二人が持ち込んだ、天狗について。異議ある者は申し述べよ」
「異議なし」
 セキセイインコのリリイが言った。
「異議なしです」
 ヨウムのパスタが言った。
「特に異議なし」
 モモイロインコのミヨシが言った。
「異議ないで」
 十姉妹ファミリーを代表してトド吉が言った。
「では菊弥、現時点において知り得るだけの情報を」
 伝蔵にうながされ、僕は口を開いた。滝緒と巌に聞いた天狗の情報を語る。別に僕が話さなくても、みんなもう知っているはずなのに、とは思うけれど、会議というのはこういうものらしい。なら仕方ない。とりあえず明日の夜にはオカメインコのマルコを飼い主さんに返さねばならない。そのスケジュールにだけは影響がないようにして欲しいなあ、と思いながら、僕は語り続けた。それが次の冒険の始まりになるとは意識せずに。
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